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小説【まだ嗅いだことのない花の香り】2

1-2

 洋介が職場から帰宅すると、晴美はソファでテレビを見ていた。家事を終えて、息子が寝床に入ると、専業主婦である彼女の一日が終わる。その後は、深夜ドラマを見ながら缶ビールを一本空けるのがお決まりだった。
 長い髪をほどき、ヘアピンでおでこをすっきりと出している。彼女は普段から実年齢よりも若く見えるが、風呂上がりに寝酒をする姿にはどこか貫禄が漂っていた。
 テーブルには、伏せられた空の茶碗とラップをかぶった油淋鶏が、捨て猫のように寂しく置かれている。
「ごめん。急に誘われちゃってさ」
 連絡を忘れていたことを、言い訳を添えて謝った。
「そう」
 素っ気なく返す彼女の表情から、感情は読み取れない。
 土砂降りの中で不倫カップルが抱き合うシーンが映し出される。洋介はそそくさと脱衣所に移動し、スウェットに着替えると、逃げるように寝室へ向かおうとした。そのとき、晴美がすっと人差し指をテーブルに向けた。
「それ、読んどいて」
 テーブルには小さな封筒が置かれている。
 洋介が封を切ると、中には快斗が書いた手紙が丁寧に折りたたまれて入っていた。

 サンタさんへ
 アイフォンをください


 可愛げのない願いだ──、と思った。
「あいつ、スマホが欲しいのか?」
「そうみたい」
「早すぎるだろ? 小学五年生だぞ」
「古いわね。今どき小学生がスマホを持つなんて普通だし、お向かいの亮太くんだって持ってるわ」
 残ったビールを一気にあおると、未練のかけらもなくリモコンでテレビの電源を落とした。
「それと、ツリーを出してって、前に言ったよね」
 声に、棘が混じった。
「……ごめん。最近忙しくて、忘れてたよ」
「快斗に何度もいわれてるの。余計なことであの子の気を散らせないで」
 そう言い切ると、部屋を出て行こうとする。
「ちょっと待って──」洋介が引き止める。
「この前、SNSで知り合った相手に小学生が殺された事件があっただろ。心配じゃないのか?」
「みんな持ってるし、快斗も欲しがってるんだから、いいじゃない。明日、契約してくるから」
「他が持ってるかは関係ないだろ。俺は快斗のことを思って言っている」
 晴美の素っ気ない態度は今に始まったことではなかったが、スマートフォンを与えることに前向きなのには違和感があった。
 これまで快斗はゲーム機だって欲しがったことがなかった。去年のクリスマスにねだったのは、『植物図鑑』だった。そのときの晴美は、まるで自分の教育の成果だとでも言うように、保守的に育った息子に対して誇らしげだった。そんな晴美がスマートフォンをプレゼントすることに積極的なのが不可解だった。
「なんでスマホにこだわるんだよ? 反対したいだけだろ?」
 自分だけが家庭の外に追いやられている気がして、思わず感情的に食い下る。
「馬鹿じゃない。寝るわよ」
「なんでも勝手に決めるなよ。とにかく俺は反対だ」
「今はね、小学生もLINEでバンバンやりとりしてるわけ。そういう輪から快斗が弾かれてもいいの!?」
「そんなことは言ってない」
「塾だって忙しくなるんだし、何かと必要なのよ」
「中学に合格してからでも十分だ。受験にだってマイナスだと思うよ」
 受験の話題が出た瞬間、晴美に氷のような冷たさが宿った。
「あんた家のことなんか何にもしないんだから、黙ってよ!」
「なんだと。そんなに契約したいなら、その分自分で稼いできたらどうだ?」
 洋介が嫌味を交えて言うと、晴美は激昂した。
「なによ偉そうに! 外で働いてるのがそんなに偉いの?」
 激しい口論になった。
「塾代だってばかにならないんだぞ。その上、スマホまで持たせて。一体、あいつにいくら掛ければ気が済むんだよ」
「最低。お金のことを言い出すなんて」
「大事なことだろ。俺だって受験は必要だと思ってるよ。でもさ、こないだも勝手に塾のコマ数増やしてさ。そういうのを辞めろって言ってるの!」
「塾のことは、私に任せるって言ったじゃない!」
「事前に相談をしろって言ってるんだよ! それにさ、サンタが携帯ショップで契約をするわけないんだから、渡すにしても、親がちゃんと危険性を説明してから渡すべきだよ」
「あー、イラつく! あんたに子育ての何がわかるのよ!」
「だいたい、いつまで信じさせる気だ! もう五年生だぞ。いつまでも子ども扱いしてたら、まともな大人になれないよ! この際、サンタなんて居ないって、はっきり伝えた方があいつのためだ──」
 この言葉を投げつけたとき、背後に快斗が立っていた。

 トランペットの優しい音色が、沈黙の隙間を心地よく埋めてくれる。洋介がロックグラスをゆっくり捻ると、ダウンライトが万華鏡のようにきらめいた。
「結婚して何年になるの?」と、瑠美が訊いた。
「もう十二、三年かな」
「それだけ一緒にいれば、そりゃそうなるわよ」
 その言葉には、妙な重みがあった。
「ねえ、この店って儲かってるの?」
「え……なんでそんなこと聞くの?」
「経営するって、どうなのかなって。常連さんも結構いるんでしょ?」
「真面目な話なの? まあ、食べてくには困らないよ」
 彼女はピンク色の『ピアニッシモ』の箱から一本取り出し、火をつけた。口をすぼめて煙を吹き出しながら、天井を見つめる。
「でも、客商売って……、見た目よりは楽じゃないわよ」
 そう話す瑠美の横顔には、達観した静けさがある。
 相手がこんな女なら、夫婦の関係は少しは違っていたのだろうか、あるいは時が経てば同じ結果を招くのか。長く一緒に暮らすほど、晴美との隔たりがじわじわ広がるのが苦々しい。
「あのさ……」
 話しかけようとした瞬間、扉が開いた。
「ママ、やってるー?」
 すでに酒が入ったサラリーマン風の二人組が入ってきた。瑠美は「ごめんね」とウインクし、煙草をもみ消して駆け寄った。二人は奥のソファーに通されると、「カラオケしよっ!」と瑠美の手を引き、座らせた。
「水帆ちゃん、おねがい」
 瑠美が声をかけると、キッチンにいたバイトの子が瓶ビールとグラスを届ける。店内に流れていたジャズの調べは、賑やかな話し声にかき消された。
 印象的なイントロが流れる。
 瑠美がマイクを手に立ち上がり、『聖母たちのララバイ』を歌い始めた。その艶のある声には、鳥肌が立つほどの魅力が宿る。
 会話の相手を失った洋介は、スマートフォンを取り出して、文章を打つ。 

『深夜の一人反省会。
 ヨメと受験の方針噛み合わず。
 #中受パパのボヤキ


 洋介は『中受パパのボヤキ』というアカウント名のSNSで呟くのが日課になっている。フォロワーは5000人近い。正直、受験のことはすべて妻に任せていたが、のめり込む彼女への不満は毎晩のように溜まり続けていた。そんな、妻には言えない本音を、世間にこっそりと打ち明けることで、ストレスを発散していたのだ。
 投稿を済ませ、席を立とうとしたとき、「おかわり、要りますよね?」とアルバイトの女の子に声をかけられた。太ももに張りつくようなミニスカートから覗く素足に目を奪われる。豊かな胸元には『みずほ』と書かれたお手製のネームプレートが下がっていた。
「ごめんね、水帆ちゃん。そろそろ……」
「要りますよね?」
 さりげなく手を重ねて引き止めてきた。その柔らかい掌のぬくもりに、一瞬の後ろめたさを感じたが、求められるのは悪くない。結局、空いたグラスを差し出しておかわりを頼んだ。
 水帆は、マドラーでくるくると酒を混ぜながら、「いただいていいですか?」と上目使いでねだってきた。洋介が軽く頷くと、「やった」と言って、冷蔵庫から瓶入りの出来合いのカクテルを取り出す。「いただきます」と言いながら、洋介のグラスにちょこんとぶつけてきた。
「なに話してたんですかぁ? ママと」
「秘密だよ」
「えー、教えてくださいよぉ」
 それからは、家でのいざこざは封印し、洋介は聞き役になった。水帆は大学を出てから小さな芸能事務所に籍を置き、女優を目指しているという。
「どう思います?」
「どうって?」
「もう、真剣に考えてくれてます? 私、売れますかね?」
「考えてるよ。とにかく、やりたい事は諦めない方がいいんじゃないかな」
「本気で思ってますぅ?」
 それは何度か聞かされた身の上話だった。誰かに背中を押されたいのだろう。もちろん芸能の仕事には、何千人という希望者がいる。そんな博打のような生き方に、田舎の両親は反対し、帰郷を勧めているという。洋介には判断する術はないが、まったく脈がないとも思っていなかった。金色のラメのワンピースに真っ赤なハイヒール。かなり攻めた衣装だが、それに負けないメリハリのある身体は、街中ですれ違えば思わず振り返ってしまうだろう。顔は愛嬌のある丸顔で、美人というより「可愛い」という表現がしっくりくる。
「鮫島さんって、どんなお仕事されてるんですか?」
「普通のサラリーマンだよ。至って普通」
「教えてくださいよぉ」
「聞いても面白くないからさ」
「じゃあ、当てていいですか?」
「別に隠してるわけじゃないから、当たっていたら、当たりって言うよ」
 洋介は、この店で自分の職業の話しをしたことはない。元々、会社の看板を肴に酒を飲むのが好きではないからだ。
「結構、大手ではあるとおもうんですよねぇ」
「へぇ、そう見える?」
「なんか余裕ありますもん。でも、金融とかメーカーとか、硬い仕事には見えないんですよね。公務員にも見えないし。なんか、適度に遊びを知ってるっていうか、影があるって言うか……」
「何それ」
「背も高いし、割と男前なのに、猫背で自身が無さそうというか」
 男前かどうかはともかく、自信がないのは当たっていると、洋介は思った。
「目立たないように生きている──」
「そうかもね。それは当たってる」
「スパイとか?」
「はずれ」
「もう、ヒント下さいよぉ」
 いつしか家での喧嘩の事など忘れ、水帆に乗せられるままに、酒がすすんだ。瑠美は客と『ロンリー・チャップリン』をデュエットしていた。

~つづく

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