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小説【まだ嗅いだことのない花の香り】3

1-3

 人魚が奏でるハープのような、夢見ごごちな優しい音色。それがスマートフォンのアラームだと理解するには、しばらく時間がかかった。洋介が書斎の椅子に座ったまま眠っていたことに気がついたとき、目に映ったのは『07:13』という画面表示だった。
「やばっ」
 慌てて階段を駆け降りる。いつもは七時に起きているが、深酒がたたり目覚ましのアラームに気がつかなかった。朝食を一緒に食べることは、鮫島家の絶対のルールだ。仕事がら帰りが遅い洋介が、息子のしつけのために、せめて朝だけでも顔をそろえる時間を確保しようと約束したのだ。
 リビングに駆け込むと、二人は朝食を終えようとしていた。洋介の席には、目玉焼きとサラダ、すでに焼き上がったトーストが綺麗に並んでいる。洋介の存在に気がつくと、晴美が顔も見ずに言った。
「快くん、わかったでしょ。パパは約束を守れない人なの。昨日、パパは快くんに嘘をついたの。だから、サンタさんはちゃんとあなたの希望通りのプレゼントを持ってきてくれるわ」
 一方的な宣言、に洋介には返す言葉が見当たらない。
「ママ──」
 快斗が突然口を開いた。
 洋介は息を呑み、晴美もわずかに眉を寄せた。
「牛乳、おかわり」
 と、コップを突き出す。
「あぁ、ちょっと待ってて」
 晴美は冷蔵庫の方へ注ぎに行く。
「パパ」
「……なんだ」
「お酒くさい」
「ごめん。ちょっと飲みすぎちゃったな」
 言い訳をするしかない。
「快斗。ママのいう事をちゃんと聞いて、受験勉強を頑張りなさい」
 話題を変えるようにそう言うと、洋介は自分の席に座り、小声で「いただきます」と呟いて、固くなったトーストをかじる。快斗は牛乳を一気に飲み干し、まっすぐに晴美を見据えた。
「ぼく、塾がんばるよ」
 そう言うと、花が咲いたような満開の笑顔を晴美は浮かべた。
「えらいよぉ、快くん。ママ、嬉しい! そうだ、今日はマラソン大会でしょ。この前買った、ナイキのスニーカーを履いていくといいよ。コートはさ、オレンジ色のダウンがいいんじゃないかな」
 服ぐらい自分で選ばせろよ──と言いたくもなったが、今は何を言っても無駄だろう。洋介は本当はバターかジャムを塗りたいところだったが、味気ないトーストを黙ってそのまま口に押し込む。
 食事を終えた晴美と快斗の二人は、“日課”を始めた。朝食後の十分間は、前日の宿題の添削タイムとなる。
「ここの計算、約分が抜けてるでしょ」
「途中式は絶対書く癖をつけなさい」
 晴美は赤ペンを片手に淡々とチェックを入れていく。息子の回答を否応なく査定するペン先の硬い音が、食卓の空気を冷やす。なるべくそちらを見ないようにしながら、洋介はもぐもぐと朝食を噛みしめる。
 添削タイムが終わると、快斗は自分の食器をシンクへと運ぶ。
 ふと、洋介が視線を感じて顔を上げると、快斗がじっと見つめていた。
「どうした?」
「パパ。クリスマスイブは早く帰れるの?」
「ああ、今年こそは、そうできるといいんだけどな」
「一緒にご飯、食べれるといいね」
「そうだな。がんばって仕事を切り上げるよ。お前も、塾がんばれよ」
 快斗は返事の代わりにコップを静かに戻し、ランドセルを背負って出て行った。
 洋介は晴美を呼び止める。
「……昨日は言い過ぎた。ごめん」
「別に」
 晴美は忙しそうにテーブルを拭きながら、目も合わせようとしない。
「それと、仕事の話だけど……」
 洋介が言いよどむと、晴美のため息が返ってきた。
「あなたさぁ。まだそんなこと言ってるの? 無理に決まってるでしょ」
「今じゃなくていいんだ。どこかでちゃんと話を……」
「ちゃんと話せないのはさ、あなたがいつも家にいないからよ。もういい?」
 そう言うと、快斗を送りに行った。
 ふう、とため息をついた洋介は、ぱちっと頬を叩き、朝の支度のペースを上げる。シャワーを浴びて、勢いよく歯を磨き、昨夜の酒を抜く。そして出勤用のスラックスとワイシャツに着替え、そそくさと家を出た。
 家の前では、晴美と数人の近所の母親たちが立ち話をしていた。
 向かいの家の奥さんが、「あら、ご主人。いってらっしゃーい」と愛想よく手を振ってきた。洋介は口元に笑みを浮かべ、軽く会釈で応える。
 朝の住宅街は、駅へと急ぐ人々で活気づく。雲一つない青空の下、スーツや制服に身を包む人々はどこか自信に満ち、浦安市民であることが誇らし気に見える。洋介もまた背筋を伸ばし、人の波に溶け込んだ。
 都心方面行きの電車は単語帳をめくる高校生やスマホを眺めるサラリーマンで混み合っている。車窓にはパッチワークのようにカラフルな屋敷の屋根並みが流れ、遠くの海面では陽光がきらめいていた。
 京葉線はかつて東京湾と川崎の工業地帯を結ぶ貨物線だった名残で、沿線には金属加工工場や物流倉庫が点在するが、舞浜駅に差し掛かると景色は一変し、海側の窓に『東京ディズニーリゾート』が見えてくる。
 十五年前──晴美と初めてデートをしたのがここだった。
「行きたいところはある?」  
 そう尋ねた洋介に、晴美は田舎娘のような曇りのない笑顔で、「ディズニーランドに行きたい」と答えた。形のいいおでこに不安がにじむ困り顔が、可愛らしかった。
 こんな女と家庭を作れたらいい──心からそう思ったことを洋介は覚えている。当時、彼女は22歳で、洋介は28歳だった。
 一緒にスペースマウンテンに並び、イッツ・ア・スモールワールドに乗り、パレードに感動したその日の夜に、初めて体を重ねた。晴美は、この場所に憧れ、「いつか浦安に住みたい」と言った。その夢を叶えることを約束し、二人は一緒になったのだ。
 舞浜の駅で、ミッキーのカチューシャをつけた外国人の女の子と家族が乗ってきた。そばかすが印象的な色白な子。その無邪気な姿に、かつての晴美の笑顔が重なって見えた。
 最後にここに来たのは、いつだったか──ディズニーリゾートの景色が遠ざかると、電車は無機質にそびえる都心のビル群へと吸い込まれていった。

~つづく

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