小説【まだ嗅いだことのない花の香り】19
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『さんはい』を出ると、夜の冷気が頬をなでた。群青色に染まり始めた空には、窓明かりがぼんやりと滲んでいる。人通りはまばらで、コンビニ袋を提げた男や、子連れの母子が、それぞれの家へと急ぐ。
瑠美の苗字は日髙で、娘の名はすず香と言うそうだ。だが、洋介にはその名前にまるで覚えがなかった。仕事の多忙を理由に、子どものことには無関心だった。同級生の名前すら知らない。幼稚園の送り迎えも、運動会に顔を出したこともなかった。晴美が報告してくる行事の話も、いつも上の空で聞き流していた。そんな自分が、どれだけ家庭から遠ざかっていたかを思い知らされる。
家を守るのは妻、外で稼ぐのが夫、それが当然だと信じ込んでいた。
仕事こそが自分の居場所であり、支えだった。だが、その立場を失いかけたいま、家族とどう向き合えばいいのかすら分からない。
道沿いの家々の窓には、それぞれの“夜”がまたたいている。中から漏れる笑い声が、自分とは無縁のものに思えた。それでも、自宅の窓から他所と変わらぬ灯りがこぼれているのを見つけた瞬間、ほんのわずかに胸の奥があたたかくなるのを感じた。
洋介は玄関の前に立ち、そっとインターホンのボタンを押した。すぐに軽い足音が近づき、「はいっ」と返事があった。
快斗の声だった。
「……ただいま」
そのひと言に、すべての謝罪を込めた。
「あっ、パパ! ねえママ、パパ帰ってきたよ!」
その声は、拍子抜けするほど明るかった。まるで何事もなかったかのような反応が、うれしかった。
ドタドタと足音がして、扉が開く。家の中からあたたかな空気がふわりと流れ、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
快斗の後ろに、晴美がいた。洋介は目を伏せ、声に出さずにそっと頭を下げた。
「寒いから、早く入って」
つんとした口ぶりの奥には、照れ隠しのような安堵が見え隠れした気がした。
リビングのテーブルには、オーブンでこんがりと焼かれたチキンに湯気を立てるコーンポタージュ、焼きたてのマカロニグラタンが並んでいる。テーブルの真ん中には、小さなロウソクが灯されていた。
「帰ってくるって言わないから。料理、足りるかしら」
晴美がそう言って目をそらす。
まさか、洋介が帰ってくるとは思っていなかったのだろう。
それでも、完璧な準備を整えていた妻の姿に、胸が詰まった。
洋介は黙って席についた。
「いただきます!」
快斗の声が弾けるように響いた。洋介はその様子を見て、胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。
「パパがいるクリスマス、うれしいな」
そう言って快斗はチキンに手を伸ばしながら、どこか照れくさそうに笑った。その笑顔に、洋介は何も言えず、ただ黙ってチキンにナイフを入れた。口に入れると香ばしいチキンの味が身に沁みた。
思えば、こうして家族で夕食を囲むのは、快斗が幼稚園の頃にささやかなクリスマスパーティーを開いて以来だった。テレビの仕事は、年末が一年で一番忙しい。大型特番の準備や各方面の忘年会に追われ、家で過ごすクリスマスなど、望まないようにすることが当たり前だった。皮肉なことに、今回の騒動がなければ、この夜もどこかの現場にいたはずだ。
久々に家族三人で囲む食卓は、驚くほど普通の時間だった。
「ねえ、パパ。クリスマスツリー出してよ」
スプーンでグラタンを頬張りながら、快斗が言った。
「ごめんな、遅くなっちゃって。ご飯を食べたら出すよ」
食後にケーキを食べ終えると、洋介は天井裏の収納を開けた。
乾いた埃の匂いがふっと鼻をついた。
懐中電灯をかざしながら手探りでクリスマスツリーの段ボールを引っ張り出す姿を、梯子の下で晴美と快斗が不安げに見上げている。
晴美が洗い物をする傍で、快斗と洋介の二人でツリーを組み立てる。リビングの隅にツリーを立て、二人でオーナメントを吊るす。鈴のついた赤いリボンや星形の飾りを下げていくと、快斗は満足げだった。
風呂から上がり、洋介が二階の寝室に入ると、晴美はすでにベッドに入っていた。背を向けて、毛布を首元まで引き上げて眠っている。声をかけるのもためらわれるような静けさだった。洋介も黙って、反対側にあるベッドに腰を下ろす。パジャマの袖口を直しながら、間を持て余すようにベッドの隅を撫でた。
やがて、背中越しに晴美の声がした。
「連絡くらいしてよね。何度もメッセージ送ったのに……」
「本当に申し訳なかった。あまりのことで、どう説明していいかわからなくて」
ここ数日、押し寄せるように起きた出来事すべてを詫びるように、洋介は深く頭を下げた。何から話すべきかすら定まらない。けれど、どうしても伝えなければならないことがあった。
「今回の件、俺は不正には一切関わっていない」
「そう」
晴美は背を向けたまま、感情を出さずに応じた。
気まずい沈黙が少しあって、「私、クリスマスツリーを……」と、彼女の方から言葉を切り出した。
「出すつもりだったの。でも、屋根裏には上がれなかった」
言葉の端々に、体温がにじんでいた。怒っているわけでも、責めているわけでもない。ただ、ぽつりぽつりと空白を埋めるようだった。
「いろいろ。本当に申し訳なかった」
そう言うと、晴美は少しだけ肩をすくめた。
「私、もう寝るから。クローゼットの奥にあるプレゼント、あなたが置いてきて」
それきり、晴美は言葉を継がなかった。しかし、晴美のそのひと言は、冷えきった寝室の空気にふわりと溶け、かすかな熱となり洋介の胸に染み込んだ。
時刻は深夜一時を回っていた。洋介は寝室を出て、廊下をそっと歩く。
快斗の部屋のドアは閉じられていたが、ノブに手をかけると、すっと開いた。オレンジ色の電球がひとつ灯るだけの部屋で、快斗が静かに眠っている。呼吸は穏やかで、毛布が少しだけ丸まっていた。
快斗の顔を見たとき、初めて「人並みのクリスマスイブ」に立ち会えているような気がした。洋介は静かに膝をつき、快斗の寝顔を眺めると、紙袋を机の上に置こうとした。
そのとき、ふと目に留まるものがあった。
快斗の机に置かれた植物図鑑。分厚いその本の中からはみ出した画用紙。
洋介は、吸い込まれるようにそれに手を伸ばす。
二つ折りにされたその画用紙を開くと、快斗が幼い頃に描いた植物の絵が描かれており、その紙の中から小さなメモ用紙がひらりと落ちた。
洋介は、それを拾うと、快斗の字で書かれたメモが目に入った。
kai-samejima@tmail.xx.xx.xx
nK7!lp32zaR
その英語の文字列が、メールアドレスとパスワードであることに気がつくまでに、少し時間がかかった。寝息を立てる息子と冷たい暗号めいた文字列に共通項が見当たらず、心の奥が静かにざわついた。
「……まさか」
洋介はプレゼントを机に置き、二人を起こさぬよう静かに書斎へ向かった。部屋に入ると、スリープ状態のパソコンの前に座る。
キーボードを適当に叩く。
立ち上がるまでの十数秒が、異様に長く感じられる。画面が明るくなり、ログインをすると、快斗のメモにあったインターネットメールのサイトを開き、アドレスとパスワードを慎重に入力していく。
この先を覗くことが、自分や家族にとって、本当に正しいことなのかは分からなかった。しかし、もはや後戻りはできない。
震える薬指で、エンターキーを押す。数秒の沈黙ののち、ログインが完了する。
そのメールアカウントの受信トレイには、未読の一通だけがぽつんと異物のように浮かんでいる。
洋介は、ためらいながらもそのメールを開いた。
Date: 2025年12月24日(木) 18:36
>>快斗くん
>>メリークリスマス。
>>君の希望はきっとかなうよ。
それだけの、短いメッセージ。
送り主の名は──『クリスマスのパパ』
洋介は、思わずモニターに顔を近づけた。
優しいメッセージの奥には、顔の見えない送り主の“悪意”が、じっと潜んでいるような気がした。
~7章につづく
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