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小説【まだ嗅いだことのない花の香り】20

7-1

 エケベリア、アガベ、チタノプシス、コノフィツム──
 愛してやまない多肉植物の名前。快斗はまるで妖魔界の呪文のように、その名を呟いては記憶に刻み込んでいく。埃をかぶった植物図鑑をそっとめくる。隅が日焼けして変色した紙に、中世の銅版画のような精緻なイラストが描かれていた。
 アストロフィツムという名のずんぐりとしたそのサボテンは、バフンウニのように、ごつごつとした質感を持ち合わせている。肉厚の葉には無数の小さなイボが生え、先から白い綿毛がふわりと伸びている。
 秋には、淡い桃色の睡蓮のような花を咲かせると書いてある。不格好な見た目に似合わず、その花は驚くほど可憐だ。
 図書室の奥の奥、百科事典や植物図鑑がひしめく棚の隙間にある、幅50センチほどの空間は、快斗が見つけた『秘密基地』だ。分厚い専門書が並ぶこの場所には、他に誰も足を踏み入れることはない。昼休みになると、その隙間にすっぽりと体を収め、植物図鑑をめくりながら一人の時間を楽しむのがお決まりだった
 あの香り── 鼻腔に焼ついて離れない、忘れられない強烈な匂い。その正体を、今も探している。こんな風に奇妙な植物が放った香りかもしれないと、図鑑と照らし合わせながら。
「ねえねえ! クリスマス、何もらうの?」
 甲高い声が静寂を破った。
 声の主は、同じクラスの山本ミク。どうやら隣の保健室のベッドのそばで、ミクと仲良しグループがおしゃべりをしているらしい。図書室と保健室は壁一枚を隔てて並んでおり、快斗の場所はちょうどその境界に位置するため、時おりこうした話し声が聞こえてきた。
 快斗にとっては、正直、迷惑だった。せっかくの静かな時間が侵されるばかりか、万が一ここに居ることを知られたら、「女子の話を盗み聞きしたキモいやつ」とのレッテルを貼られかねない。
 図鑑を閉じて、そっと立ち去ろうとしたときだった。
「なんでもいい。もらえるものをもらう……」
 それが、日髙すず香の声であることはすぐに分かった。
「えー、つまんない! リクエストしないの?」
「うーん……まあ、別に欲しいものないし」
 すず香の声は少しこもっていて、聞き取りづらい。
「私はね、シャーペン。拓馬くんとおそろいのをお願いしたんだ」
 ミクの声が一段と高くなった。
「それって、もう好きって言ってるのと同じじゃん!」
 誰かがそう言って、取り巻きの女子がキャッキャとミクをはやしたてる。
「いいじゃん。拓馬くんと一緒に受験頑張るんだもん。それよりさ、そろそろ教えてよ、すず香の好きな人──」
 快斗は喉をゴクリと鳴らす。
「え、いないよ、そんな人」
 恥ずかしそうに反応するすず香の声。
 その声音に、胸がきゅっと締めつけられる。
 これ以上ここにいては、空気を入れ過ぎた風船のように、心臓が破裂してしまうのではないかと感じ、快斗はたまらず図書室を飛び出した。
 その後の算数の授業中では、窓辺の席で集中しているすず香の手元が気になってしまう。自分と同じえんぴつを……まさか、使ってはいないよな。そんなことを気にしてしまう自分が、可笑しかった。
 立体の展開図について、深町先生が熱っぽく説明する。
「みんなの集中力がきれてるから、ここで面白い問題をだします」
 そう言って、先生は教科書を閉じ、黒板にチョークで四角い図形を描き始めた。
「ある立体を正面からみると、こんな上が少しへこんだ正方形に見えます」
 そう言うと、深町先生は漢字の『凹』のような図形を描いた。
「上からみると、正方形の中に小さな正方形がすっぽり入っているように見えます」と、言いながら、漢字の"回"のような図形を描いた。
「さて、問題です。この立体を横から見た時、その平面図はどんな形になるでしょうか?」
 先生は、いたずらっぽく問いかけた。
 クラスが一斉に静まりかえる。
「頭を柔らかくして考えてみて。分かった人は手を挙げてください」
 深町先生は挑戦的にそう言うと、浅井拓馬が手を挙げた。
「横からみても、凹の形になると思います」
 続けて山本ミクも、「私も、拓馬さんと同じで、凹の形になると思います」と発言を被せた。
 二人の発言を受けて、深町先生はにんまりしながら答えた。
「残念。他、誰かいますか?」
 挑戦的な問題が児童たちのやる気に火をつけた。すず香も手元のノートに何やら描きながら、必死で考えている。
 快斗が黒板に目を向ける。様々な図形を頭の中で転がしながら、この意地悪な問題の本質を見抜くように。
 教室全体が静まり変える中、快斗がすっと手を挙げた。
「鮫島さん」
 深町は快斗の名前を呼んだ。快斗がおずおずと立ち上がる。
「楕円でしょうか……」
 快斗が恐る恐る発言すると、先生は目を輝かせ、「正解です」と言った。
 教室に小さなどよめきが起こる。
「発想が柔らかいですね。そうです、上が丸みがある形だと見抜けることが大事ですね」
 先生は嬉しそうに言った。快斗がすず香をちらっと見ると、驚いた顔で指先で小さく拍手している。
 その時、「どうせ、塾でやったんだろ」と、拓馬が悔しそうに言った。
「カイトは勉強ばっかりやってるからね」
 ミクが続けて被せる。
 快斗は反論せずに、ただ静かに席についた。

 授業が終わり、とぼとぼと帰路につく。
「受験勉強なんて、何ひとついいことはない」
 そんな思いを胸の奥に秘めながら。
 すると、快斗の肩を、誰かがそっと叩いた。
「一緒に帰ろ」
 振り返ると、すず香が立っていた。
「え……」
 目の前で起きていることに、理解が追いつかなかった。
「え、じゃないよ。一緒に帰ろ。どうせ、一人でしょ?」
 よく日焼けをした顔に柔らかな笑みを浮かべながら、快斗の目をまっすぐに見つめてきた。
「いつも、ミクと帰ってるだろ?」
「ミクちゃん、今日は家族でご飯だから、ママが迎えに来るんだって」
「へえ……」
「もう。前は一緒に帰ったじゃん。ダメなの?」
 不満そうに見つめて来るすず香とは、彼女も帰る方向は途中まで一緒だ。
「いいけど……」
 快斗の返事に、すず香はぱっと顔を輝かせ、隣に並んで歩き出した。
 いつもの道が、急に空気が薄く感じられるようになった。
 快斗は頭ひとつ背が高いすず香の横顔を見上げる。風に揺れる髪が午後の日差しに照らされて、やわらかく光って見えた。快斗は何か話さなきゃと思うが、昔のように自然に話ができないのがもどかしい。スニーカーがアスファルトを擦る音だけが、乾いた冬の空気に響いていた。
「プレゼント、何をもらうの?」
 何を言えばいいのか分からずに、会話を繋ぐためにすず香に質問した。
「わかんない。私は何が欲しいって言ったことないの。毎年、もらえるものをもらうだけ」
 淡々と答えたすず香の声には、どこか影が差していた。その表情を見てすず香の言葉の奥にある寂しさに気づいた。
「うちはね、パパがいないしさ。ママはいつもお仕事だから、クリスマスって、楽しい思い出がないんだよね」
 すず香は、しっかりと事情を説明してくれた。そんな話題をふってしまった自分を、快斗は少し悔いた。空気が沈みかけたのを察したのか、すず香は明るく調子を変えて、「カイトは何をもらうの?」と聞いてきた。
「スマホ。まだ、もらえるか分からないけど……」
「そうなんだ。じゃあ、今度LINE交換しようよ」
 明るく話すその言葉に、快斗は少しだけ救われた気がした。
「なんか、快斗には気にせず話せるんだよね」
「そう?」
「他の子には、パパの話なんかしないよ。快斗はさ、あんまり驚かないから、普通に話せる」
 喜ぶべきかはわからなかったが、なんだか嬉しかった。
 すず香は何かを思い出したように、突然笑い出した。
「昔さ、パパと一緒に遊んでないって話、したよね」
「したね」
 快斗も思い出して、少し恥ずかしくなる。
「私のパパがいなくなる前、最後にディズニーに行ったの年長の時だって言ったら、快斗も一緒でさ」
「まあ、うちもパパはいつもいないからね」
「快斗はさ、仲間って感じなんだよね」
 楽しそうにそう話す彼女の横顔を、快斗は複雑な気持ちで受け止める。
 やがて、通学路の途中にある地元の中学校の前に来たときだった。すず香が立ち止まり、校門の方を見つめる。その視線の先には、ジャージ姿の男女がいる。テニスのラケットを肩に担いだ背の高い男子生徒と、寄り添うように歩く女子生徒。壁もなく、自然に会話をしている姿が眩しく映る。
 すず香がポツリとつぶやいた。
「ねえ、なんで受験するの?」
 何気ない問いかけには真剣な響きがあった。
「わからない」
 正直な答えだった。
 親に言われるままに塾に通い、気づけばそれが当たり前になっていた。でも、理由なんて考えたこともなかった。
「みんな受験するからさ。ちょっと、寂しいなって」
 すず香の声は、日暮の空のようにかげっていた。幼稚園から一緒なのは、快斗、すず香、山本ミク、浅井拓馬の四人。その中で、中学受験しないのはすず香だけだ。
「すず香」
 昔みたいに名前を呼んでみる。口にしてしまえば、意外と簡単だった。
「なに?」
「受験……もしかしたら、やらないかも知れない」
 声が震えていた。自分でも気づくほどに。
「本当……?」
 確かめるように、すず香が快斗の瞳を覗きこんだ。
「まだわからないんだ。パパとママは受験しろって言うから。だけど、ぼくは……」
 流石にその先の言葉は、口にはできなかった。
 風が吹いて、すず香の前髪が頬にかかる。彼女は小さく微笑んだ。
「そうしたら、また一緒に通えるね」
 快斗は小さく頷いた。
 わざと落ちることを考えたこともあった。
 しかし、それでは藤堂風雅や他のライバルたちと比較される人生がその後も続くことになる。挑戦して負けることになれば、小学校受験の失敗のように、ずっと惨めな気持ちを引きずることになる。受験自体を辞めなければ、快斗の希望が叶うことはない。それには、晴美を説得する必要がある。
「じゃあね」
 すず香のランドセルが小さく揺れて、やがて夕暮れの光の中へと溶けていった。快斗は、しばらくその背中を見送った。
 もう後戻りはできない。快斗は、自分にそう誓った。

~つづく

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