見出し画像

小説【まだ嗅いだことのない花の香り】21

7-2

 すず香と別れてしばらく歩くと、『弁天公園』の前にたどり着いた。この場所に来ると、快斗にはいつも決まって思い出すことがある。
 一年前の夏の日──焼けつくアスファルトの匂い、風にまぎれる子どもたちの声、胸に残ったざらついた感情。すべてが、心の奥に沈んでいる。 
 その日は、小学校の創立記念日で、午前中だけの授業だった。体育館での全校式典が終わり、午前十時には下校となった。校門を出たところで、亮太を見つけ、一緒に帰ることになった。
「今日、遊ばない? 弁天公園にザリガニがいるんだって」 
 亮太が目を輝かせて言った。兄が獲ったことがあるらしく、興味を持ったのだ。
「帰ったら、ママに聞いてみるよ」
 快斗はそう返した。
 亮太の家は共働きで、親が日中いないので自由に出かけられる。一方で、快斗の家では何をするにも母親の許可が要った。ただ、この日は塾が休みで、晴美の許可がもらえるかもしれなかった。
「じゃあ、荷物置いたら出かけようぜ」
 そう言って、亮太は自宅へと入っていった。
 快斗も自宅の玄関のドアノブを引いた。だが鍵がかかっており、扉は開かなかった。何度かガチャガチャと試してみたが、開かない。こんなことは、これまでになかった。仕方なくランドセルから合鍵を取り出し、ドアを開けた。
「ママ……」
 確かめるように、小声で呼びかけたが返事はなかった。家の中はひんやりと静まり返っている。買い物にでも出かけたのだろうかと思いながら、とりあえずランドセルを置こうと自分の部屋に上がった。
 自室に入った瞬間、ある可能性が頭をよぎった。あわてて机の引き出しを開け、プリントを引っぱり出す。それは、創立記念日で午前授業になることを保護者に知らせるものだった。
「……忘れてた」
 プリントを晴美に渡しそびれていた。
 知らずに、どこかに出かけてしまったのだろう。頭の中が真っ白になった。こういうことを、晴美は一番嫌う。プリントを手に、どうにかしなきゃという焦りが込み上げる。
「おい、快斗、行くぞー!」
 外から亮太の声が聞こえた。
 玄関を開けると、バケツと網を持った亮太が自転車にまたがり、手を振っていた。
「ママがいないんだ。勝手に出かけると、心配するかも……」
「マジかよ。お前、ママがいないと何もできねぇのか。弁天公園なんてすぐそこだぜ。『公園で遊んでくる』って手紙でも書いときゃいいだろ?」
 亮太はあきれたように笑った。
「でも……」
「もういいわ。ずっと、ママのいいなりでやってくれよ」
 そう言って、亮太は自転車のスタンドを跳ね上げ、くるっと背を向けて走りかけた。
「ちょっと待って! ……行くよ。手紙書くから、待ってて」
 『ママのいいなり』だとを認めることに、納得がいかなかった。
 結局、『リョウタと弁天公園に行ってきます』と書き置きをして、家を出た。
 焼けつくような陽射しが、肌に刺さる。快斗は自転車のギアを初めて六段にまで上げて、全力で漕いだ。風が心地よく、汗ばむ額を拭う亮太の仕草が夏の空気がよく似合っていた。こんなふうに誰かと並んで走るのは、これが初めてだった。
 プリントのことも、塾のことも、この瞬間だけは全て忘れられた。
「快斗、お昼は?」
 亮太が声を上げて聞いた。彼はお弁当を持っている。快斗は給食を食べて帰って来ると思われているから、昼ごはんがない。
「これ食べな」と、亮太はアルミホイルに包まれたおにぎりをひとつ、快斗の自転車のカゴに入れてくれた。
 二人は並んで自転車をこぎながら、おにぎりを包むアルミホイルを外して、かじる。そんな行儀の悪さが、快斗にはたまらなく自由に思えた。
 弁天公園の水路では、すでに数人の小学生が遊んでいる。亮太が裸足になり、水路に入って網を入れる。快斗は網を持っていなかったので、亮太がザリガニを探す様子をただ眺めた。でも、それだけで楽しかった。
 知らない子どもたちが歓声を上げ、水遊びをしている。靴を脱いで駆けまわる子。水面をじっとのぞきこむ子。その風景の片隅にいるだけで、快斗の肌に、夏が染みこんでくる気がした。
「いないなぁ、あいつらが全部捕まえちゃったのかな」
 何度か水をすくってみるが、ザリガニは影も形も見えない。
 しばらくすると、背後から声がした。
「なにやってるの?」
 振り返ると、そこにすず香が立っていた。腕まくりしたTシャツにデニムのショートパンツという姿で、素足にビーチサンダルを履いている。いつも外で遊んでいるのだろうか、彼女は健康的に日焼けしている。
「ザリガニ獲ってるんだよ」
 亮太が答える。すず香もザリガニに興味を持ったのか、亮太が網を入れるのをしばらく一緒に見ていた。
「やる?」と亮太がアミを差し出す。
 快斗はうなずき、スニーカーを脱いでズボンの裾をまくり、水路に足を踏み入れた。ひんやりとした水が気持ちよかった。
 すず香もサンダルのまま、水の中に入ってくる。
「ちょっと奥の方に行こう」とすず香が言う。
 彼女はずかずかと水路の奥に進んでいく。快斗はそれについて行った。
「かして」
 すず香が網を受け取り、腰をかがめてゆさゆさと動かし始める。そのとき、快斗は彼女の汗に目を奪われた。額に玉のように浮かんだ汗が、首筋を伝い、背中へと落ちていく。
 快斗は思わず息を呑んだ。
「どうしたの?」と、すず香が振り返る。
「なんでもない……」
 そう言うのが精一杯だった。その時、すず香が大きな声で叫んだ。
「きゃ! なんかいた!」
 振り返ると、赤いザリガニが足元を這っていた。
「すず香、動かないで」と、快斗は網を受け取って、必死にザリガニに向かって網を突き出した。 
 跳ね上がる泥が快斗のTシャツを汚すが、必死だ。
 網を上げると、動く赤い物体が泥の中から現れた。
「やった! 捕まえた!」
 快斗は叫んだ。
「うわ、大きい!」
 すず香が目を丸くする。それは、大人の親指ほどもある、立派なザリガニだった。
「すげえ。やったじゃん」
 亮太も水に入ってきて、快斗の背中を叩く。
 周囲でザリガニを狙っていた見ず知らずの子どもたちが、快斗に羨望の目を向ける。
 その瞬間、なんでもなかった夏の午後が、快斗にとって一生忘れられない景色へと変わった。
 亮太は手際よくバケツに水を汲み、網からザリガニをつまみ上げた。大きなハサミを掲げて威嚇してくる真っ赤なその生き物は、やけに堂々としていて、ちょっと怖いぐらいだった。

 三人は公園を離れ、快斗の家の前へ移動した。
 バケツを囲み、水中でもぞもぞと動く赤い生き物に、三人とも目を奪われる。
「かっこいい」
 すず香がザリガニをじっと見つめながらつぶやいた。その声に、快斗の胸の奥がふわりと温かくなった。
 これまでは、「受験の成功は、人生の成功」と教えられてきた。でも、テストでどんなにいい点を取っても、これほどに心が躍ったことはなかった。
快斗は小さな勝利の証を、大切な宝物でも見るように、じっと見つめた。   
 そのとき、藤堂風雅が小学校から帰ってきた。
「何してるの?」
 風雅の問いかけに、亮太が自慢げに答える。
「ザリガニ、捕まえたんだ」
 風雅はバケツを覗きこみ、しばらく無言で眺めたあと、難しそうな顔で言った。
「アメリカザリガニだね。どこで捕まえたの?」
「弁天公園だよ。快斗が獲ったんだ」
 亮太が得意げに言うと、風雅は眉をひそめた。
「外来種だから、飼うか殺すかしないとだめだよ」
「えっ……」
 何も知らなかった快斗と亮太、そしてすず香は、顔を見合わせて困惑した表情を浮かべる。
「勝手に放したら、警察に捕まるかもね」
その言葉に、隣ですず香の顔がこわばった。
「捕ってすぐに逃がすならいいけど、いったん持ち帰ると、もう放しちゃだめなんだよ」
 風雅はそう言い残して、自宅へと戻っていった。
 沈黙が落ちた。
「どうする? うちじゃ飼えないよ……」亮太がつぶやく。
「うちもマンションだから、無理だよ」すず香も声を落とす。
 さっきまで浮かんでいた笑顔が、二人の顔からすっと消えていた。
「じゃあ、殺すしか……」亮太の声は、最後のほうでかすれて消えた。
「かわいそう。そんなの、できない」すず香が震える声で言った。
 その言葉を聞いた瞬間、快斗の胸がぎゅっと縮まった。自分が捕まえた責任が、ずしりと重くのしかかる。
 バケツの中でうごめく赤い影を見つめながら、快斗は心を決めた。
「うちで飼えないか、ママに相談してみるよ」
 そう言うと、すず香はほっとしたように、安堵の笑みを浮かべた。
 その後は三人で、幼稚園の頃に戻ったように、家の前の私道で遊んだ。じゃれあったり、水をかけ合ったり、ただそれだけの時間が、何よりも楽しかった。
 そんな時だった──
「快くん……」
 声の主は、晴美だった。まるで新種の生き物でも見るような目で、快斗たちをじっと見つめ、立ち尽くしていた。その表情には、焦りが滲んでいた。結婚式にでも参列していたかのような、肩を出したブルーのワンピースを着て、唇の色はいつもよりはっきりとした赤色で、別人のように見えた。
「おじゃましてます」
 すず香が明るく挨拶した。
「すず香ちゃん、久しぶりね。それより、どうして……」
 快斗は慌てて晴美に説明をする。
「ごめんなさい。今日は創立記念日で……プリントを渡すの、忘れてて」
「そう。お腹空いたでしょ。ごはん、すぐ作るから……」
 そう言って、慌てて家の中へ入ろうとした。
「亮太におにぎりをもらったんだ」
「そう。亮太くん、ありがとね」
 晴美は亮太とすず香に笑顔でそう言うと、その場から逃げるように玄関へと向かった。
 そのすれ違いざまだった、快斗があの香りを嗅いだのは。
 言葉にするのは難しい。
 それは花のように甘く、傷口のように生々しい、体の奥から滲み出すような、危うさをはらんだ生き物の匂いだった。
 脳裏に浮かんだのは、図鑑で見た『ラフレシア』。熟れたザクロのように、果肉のめくれた赤い花。臭気で虫を誘き寄せ、煮詰めたベリーのように粘る花弁で絡めとる、世界一大きな花だ。晴美の身体から漂っていたのは、鼻を覆って避けたくなるのに、なぜか背伸びして近づきたくなる──そんな、まだ嗅いだことのない花の香りだった。
「……ママ、だよね?」
 快斗は、思わずそう口にしていた。
「何言ってるの。あたり前じゃない」
 快斗を見つめる母の目は、焦点が合っていなかった。塗りすぎた口紅は輪郭からにじみ、まるで他人の顔がそこにあるようだった。
 直後、家の中から晴美の悲鳴が聞こえた。快斗は声がしたリビングに急いで向かった。晴美はダッシュボードの上にある水槽の前に、しゃがみこんでいた。中では、堂々と両前足を突き上げたザリガニが、絶命した熱帯魚をハサミで持ち上げている。
 粉雪のような白い肉片が、水中を漂い、水槽全体を白く濁らせている。
「どうしたのこれ!」
 晴美はパニックになっている。快斗はザリガニを生かしておくために、一時的に水槽に入れておいたのだ。
「どうするのよ、これ!」
 そのとき、水槽の中でザリガニがまたひとつ、熱帯魚に襲いかかった。赤いハサミが身に食い込み、腹を裂く。
「なんなのこれ! パパに怒られるわよ!」
 発狂する晴美。
 快斗は咄嗟に水槽に手を突っ込んだ。ザリガニのハサミが快斗の指を挟み、鋭い痛みが走る。でも、構っていられない。
 そのまま水槽から掴み出し、外へと駆け出すと、玄関の先のコンクリートの上に叩きつけた。
「きゃーっ!」
 すず香の悲鳴が、住宅街に響いた。
 快斗はスニーカーのかかとを振り上げ、一息にそれを踏みつけた。
 クシャっと、落花生を潰したような音がした。黒い液体が、靴の縁からじわじわと滲み出る。
 すず香は顔を手で覆い、道路にへたり込んだ。
 晴美は部屋の中で、まだ何かを叫んでいた。けれど、快斗にはもうその声は遠かった。ただ、胸の中にじわりと温かい、得体の知れない達成感がが広がっていくのがわかった。
 その後、すず香と亮太とは静かに解散した。
 魚の死骸は、晴美が手際よく片づけた。結局、水槽には無数の魚がいたことと、洋介が仕事に忙殺されていたことで、気づかれることは無かった。
 後日、晴美は快斗に低い声で言った。
「このことはパパには内緒にしておいてあげる。そのかわり──」
 その目は、すでに“母”ではなかった。
「ママがお出かけしていたことは、絶対に内緒にして」
 脅しているのか、怯えているのか、判別のできない声だった。その駆け引きは、ザリガニを踏みつけたときの異様な感触と、母が放った未知の花の香りとともに、快斗の記憶に深く刻まれた。

~つづく

★続きは↓こちら★


★ 1話からは↓こちら★

いいなと思ったら応援しよう!

サヤマサスケ よろしければサポートお願いします。いただいたサポートは今後の制作資金に使わせていただきます。