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小説【まだ嗅いだことのない花の香り】29

9-2

『二人で話がしたいです。今、どこにいますか?』


 そんな短いメッセージに、しばらくして返信があった。

『ディズニーが見える橋の下です』

 洋介は、地図アプリで周辺の地形を調べた。
「浦安橋だ!」
 そう呟いた途端、体が勝手に動いていた。
 無我夢中で走り出す。
 心の中で息子に対する謝罪を繰り返していた。
 通行人を避けながら夢中で駆ける。
「待っててくれ、俺に話をさせてくれ」と心の中で願いながら。
 洋介が橋にたどり着いたとき、薄暗いその袂に二つの小さな影が並んで座っているのが見えた。
 快斗と、初めて顔を見る少女だった。
 目が合うと、快斗はばつが悪そうに視線をそらした。
 すず香がすくっと立ち上がり、小さく会釈した。どこか瑠美の面影がある、品のある大人びた子だった。彼女は海風に長い髪を揺らしながら、河岸の階段を駆け上がってきた。
「私、帰ります。ママのお店に行きます」
 そう言って、自分の役目を果たしたというように颯爽と去っていった。二人でその姿に見惚れていた。
 なんと切り出すか、言葉を準備していなかったが、小さく咳払いをして洋介は口を開いた。
「かわいい子だな。すず香ちゃん」
「パパ、そういうこといきなりいう人?」
 二人で目があって、吹き出した。
「まあな。そうじゃなきゃ、面白いテレビなんか作れないんだ」
「はは。告白タイームだもんね」
 息子がこんなふうに軽やかな会話ができる男だったことに、洋介は初めて気づいた。
「ごめんな快斗。今までちゃんと話せてなかった」
 快斗は黙ったまま、靴の先で砂利を蹴る。
「身長、俺は中学に入って一気に伸びたかな。SNSに書いてただろ?」
 快斗は目を丸くして、洋介を見た。
「そうなんだ。じゃあ、僕も伸びる可能性あるかな?」
「あるよ。全然ある」
 何を怯えていたのだろう。なぜ、壁を作っていたのだろう。息子と話をすることに、遠慮なんていらなかったのだ。180センチ近くある体躯を小さく丸めるように息子に目線を合わせながら、洋介は一つ一つ言葉をつなぐ。
「スマホ、学校にもっていったんだって?」
 快斗は黙って頷く。
「受験、辞めたいのか?」
 快斗は、目も見ないで頷いた。
「塾の勉強が嫌いか? 勉強が辛いか?」
 快斗は首を横に振った。
「そうじゃない。勉強はきらいじゃないよ。パパ、僕さ……」
 快斗が震える声を押し出す。
「ママに嫌われるのが怖いんだよ。だから、ママの言う通りにずっとやってきたんだ。でも」
 洋介はその表情を見逃すまいと、静かに見守る。
「すず香と、同じ中学に行きたい」
 瞳に曇りはなかった。息子は信じて、そのことを打ち明けてくれたのだろう。
「ありがとう話してくれて。大事なことだ、それは本当に大事なことだ」
「ぼくはね、パパもママも嫌いじゃないんだ。だから……ママの言う通りに、他の子みたいに受験に集中できないのが辛い──」
 洋介が強く快斗の腕を握る。すべての思いを言葉に変えた息子を、心から誇らしく思いながら。
「まずは、ちゃんとママに謝ろう」
 冷たい海風が少しだけ緩んだように感じた。洋介は快斗の肩を軽く叩き、「帰ろう」と声をかけた。 

「ごめんね、ほんと簡単なご飯しかなくて。でも、お昼も食べてないでしょ? お腹空いてるよね?」
 自宅に帰ると、晴美は二人の顔を見るなり、言葉を次々に重ねた。まるで感情の隙間を埋めるように、早口で言葉を押し出した。
 リビングの方からは、コンソメと野菜のやさしい香りが静かに漂っている。快斗の居場所が見つかったと連絡をしたとき、晴美も一人で近所を探し回っていたが、すぐに家に戻り、ご飯を炊いて手早くポトフを仕込んだようだ。
「ママ、ごめんなさい」
 快斗は一言そう謝ると、晴美は特に責めることもなく、「冷めないうちに食べちゃって」と、話題を変えるように促した。
 三人は特に会話を交わすこともなく、黙々と食べた。食事を済ませると、疲れた様子の快斗はそのまま倒れるように床に着いた。
 リビングに残された洋介と晴美は何かを話さなくてはいけないと思いながらも、言葉を探し続けた。
 アクアリウムのポンプの音だけが、重苦しい沈黙に空気を差し込んでくれる頼りの綱のように感じた。
「快斗を追い込んだのは、俺たちだな」
 洋介が絞り出すように切り出した。
「俺は、あいつが受験をやめたがっていることに、気づいてあげられなかった。放っておけば君がやってくれるものだと勝手に思って、向き合うことから目を逸らしていた」
 晴美は黙っているが、洋介がいうひとつひとつの言葉が響いていることは、顔を見ればわかった。
「真剣にやめたがっているようなんだ。だから、彼の意思を尊重してあげたいと、俺は思う」
「……私は、母親失格です。快斗に余計な詮索までさせてしまって」
 黙っていることに耐えきれなくなったかのように、晴美がかすれるような声で絞り出した。
「もう気づいてるんでしょう? 私はあなたを裏切った。快斗の受験のことに何かを言う資格なんて、私にはありません。……これから私がどうすべきかは、あなたが決めてください」
 頭を抱えて、晴美は小さくなっていた。母でもない、妻でもない、ただひとりの弱者として、崩れるように肩を震わせていた。
 次にかける言葉を探し、洋介は素直な思いを静かに口にした。
「……なんとなく、気づいてたよ」
 突きつけられた問いに対する明確な回答を持ち合わせてはいなかったが、駆け引きをするつもりはない。
「前に、クローゼットにあった君のバッグの中に、タバコが入ってるのを偶然見つけたんだ。その瞬間、何か大事なものが崩れた気がした」
 洋介は、その先に答えがあるのかもわからずに、一年程前に自分が感じた晴美の不貞に対する疑念について話し出した。
「もちろんそれだけで、何か確かなことを感じたわけじゃない。ただ、一緒に暮らしていれば、言葉とか、態度とか、君の表情だって……何となくそうかなって」
 晴美は両手で顔を覆い、震えている。
「でも、俺は向き合うのが怖かった。何か言えば、今の生活が壊れてしまう気がして、俺は見て見ぬふりをした。向き合うことから逃げたんだ」
 そう絞り出した洋介には、これ以上、紡げる言葉はなかった。
 昼間、どこぞの男と過ごしていた目の前にいる妻を、許せるのか? そこに明確な答えは出せなかった。事実を追及すれば、自分の気が晴れるのか。すべてを暴いたところで、報われるのだろうか。それを快斗にどう説明すればいい?
 夫婦の破綻を、どんな言葉で伝えれば……と、晴美に預けられた問いに、明確な答えを出せずに、苦悩するしかなかった。
「やめられるのか?」
 洋介は、晴美の目をまっすぐに見た。
「……やめたい。できることなら、いい母親になりたいです」
 晴美の目からひとすじの涙が滑り落ちた。その姿に、確かな覚悟を感じ取った。
「君の変化に、いや、家族の変化に、もっと早く気づくべきだった。見ないふりは、もう終わりにしたい」
 洋介の胸には、快斗が「すず香と、同じ中学に行きたい」と伝えたまっすぐな目が焼きついている。
「快斗を、育ててくれてありがとう。あいつ、俺が思ってたより、ずっと芯のあるやつだよ。今は、君を許すとか、許さないとか、そういう線引きは俺にはできない。ただ……」
 洋介は目を閉じた。
「晴美」
 途切れていた家族の時間を繋いでくれると信じ、久しぶりに妻を名前で呼んだ。
 晴美がゆっくり顔を上げる。涙に濡れた瞳に、やわらかな光がかすかに揺れた。
 洋介はもう一度、言葉を選ぶように口を開いた。
「ディズニーランドに行かないか。快斗を連れて」 
 それが和解なのか、先送りなのかわからなかった。けれど今は、確かな結論より、三人で過ごす明日を信じてみようと思った。

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