小説【まだ嗅いだことのない花の香り】18
6-2
洋介は、気づけば浦安にいた。
放心したまま定期を取り出し、いつものように電車に乗って、無意識のうちにこの場所を選んでいた。
一度は自宅の近くまで行ったが、手前で足が止まった。まだ日は高く、通りに響く子どもたちの笑い声が洋介を思わず後ずさりさせた。どんな顔で晴美や快斗と向き合えばいいのか、分からなかった。
そして、今は『さんはい』の前に立っている。無意識に“帰る場所”ではなく、“逃げ込める場所”を選んでいたのだった。
ためらいがちに扉を開けると、瑠美が営業の準備をしていた。
「あら、鮫ちゃん」
彼女は、何事もなかったように洋介を迎え入れた。
「早いわね」
「いろいろあってさ……」
「何か食べる?」
洋介は、黙って頷いた。
瑠美はキッチンに入り、手早く料理を作りはじめた。すると、奥にいた水帆が、そそくさと洋介の前に出てきた。
「ひどいじゃないですか……」
彼女は唇をつんと突き出して、ふてくされた表情をしている。
「なんで、教えてくれなかったんですか? テレビ局のプロデューサーさんだって」
「ごめん。隠してたつもりはないんだけど」
「でも、鮫島さんがすごいプロデューサーさんなら、水帆にもチャンス出てきたかも。早く疑いが晴れるといいですね、鮫島さんのことは水帆が一番知ってますから」
そう伝えると、「ママ、サンタに着替えてきますね」と言って奥に引っ込んだ。彼女なりの慰めだったのかもしれない。
瑠美が焼きうどんを差し出しながら、「大変だったの?」と訊いた。その声には、すべてを知っている人だけが持つ、やわらかさがあった。
洋介は少し顔を上げ、瑠美を見た。その眼差しには、詮索も責めもなかった。あったのは、理解と静かな同情だった。
顔を寄せた彼女の首筋からふわりと漂ったのは、どこか懐かしく、柔らかく、甘い誘惑の香りだった。
衝動に任せて、言葉が先に口をついた。
「……キスしていい?」
自分でも意外だった。まさか声に出るとは思わなかった。
瑠美は、ただ笑顔を返した。拒むでもなく、静かにその場にとどまり、洋介の視線を受け止めた。肩を掴み引き寄せると、彼女は逃げなかった。唇を重ねた瞬間、淡い光の中で時が溶けていく心地がした。彼女のキスは、短くも余韻を残す大人の口づけだった。
「いけない人」
「……ごめん」
我に返った洋介は、反射的に深く頭を下げた。
「このくらいで大騒ぎするほど、若くないわ」
彼女はそのまま洋介を自分の胸に引き寄せて、背中をトントンと優しく叩いてくれた。
──ライラック
昔、高校の校舎裏に咲いていた花の香り。初めてキスをしたあの日、隣にいた子と一緒に嗅いだ、あの香りに似ていた。
洋介が焼きうどんを無心にすすっていると、「自分の家に帰った方がいいわ」と、瑠美は駄々をこねる子どもを諭すように優しく言った。
「家族に合わせる、顔がない……」
「そうかしら? 晴美さん、待ってるようだったわよ」
その名が出た瞬間、洋介の周囲の時がぴたりと止まる。
瑠美はにこにこと笑いながら、洋介の反応をじっと見ていた。
「なんで知ってるの……?」
「なにが?」
「名前。うちの妻の」
「ごめんね。実は私、昔から知ってるの、鮫ちゃんの奥様のこと」
飄々とした声に、含み笑いが混じっている。
「……」
「娘がね、快斗くんの同級生なの」
何がなんだか、頭がついていかない。静かに、足元の現実が揺らぐ。
洋介が黙っていると、彼女はコースターをひっくり返して見せた。
「私の苗字はこれ……」
そこには、『さんはい』と書かれた店のロゴが印刷されている。
「別に隠してたわけじゃないのよ。聞かれなかったから言わなかっただけ。ほんと、男の人って鈍いのよね」
いたずらっぽく笑う瑠美。
「え……」
「すごくくだらないから、ずっこけないでね」
洋介が飲み込めずにいると、瑠美は切れ長の細い目で、彼を見つめて言った。
「さんはい。サンハイ。Sun High。まだわからない? Sunは太陽で、Highは高いでしょ、だから──」
瑠美は、本気で頭をひねる洋介を見て、少女のように笑っている。
「奥様には内緒にしてあげる」
そう言って、瑠美は洋介の唇に人差し指を押し当てた。
〜つづき
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