小説【まだ嗅いだことのない花の香り】16
5-3
「どうして、こうなっちゃったのかな」
心の声が、知らぬ間に口から漏れていた。
PTAの総会が終わり、晴美は机に突っ伏すように座り込んだまま、顔を上げられなかった。資料を片づける気力もなく、かすれた呼吸だけが胸の内で響いている。
人は輪を外れた者に対して、驚くほど残酷だ──そんな被害妄想と片づけられてしまいそうな思いに打ちひしがれていたとき、声をかけられた。
「あの、鮫島さん……」
顔を上げると、日髙すず香の母親が立っていた。他の保護者は既に誰もおらず、彼女だけがそこに残っていた。
「このね、下校の付き添い当番、水曜に変更してもらえないかしら。私、仕事があって、どうしてもその時間が空けられなくて」
日髙は穏やかに伝える。
「いいですよ。水曜日は息子の塾がないので、私が変われますよ」
「助かる。ありがとう」
にこっと笑ったその表情には、相手に気を使わせない、自然な優しさがあった。
「すず香ちゃん、元気ですか?」
「ええ。あの子、妙に達観してて。親の私のが心配されてる感じかも」
日髙とは、子どもが幼稚園の頃からの顔見知りだ。
が、まともに言葉を交わした記憶はほとんどない。行事で挨拶を交わす程度の、いわば『知っているけど知らない人』だ。
晴美は、一瞬迷った末に口を開いた。
「日髙さん。うちの夫のこと、知らないの?」
唐突な問いだったが、日髙はほんの少し視線を外して言った。
「まあ。なんとなくは……」
晴美は、それ以上何を言うでもなく、うつむいた。
「でもね、夫がいるだけマシじゃない? うちは、いないから、騒がれることもないわ」
日髙の言いぶりに、晴美は口を開けて固まった。
「ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」
「いいのいいの。うちはさ、すず香が年中のときに離婚したじゃない。最初は大変だったけど、今は全然気にしてない。ただ、あの頃は周りの視線が痛かったかな。『あの人、ひとり親らしいよ』って、声には出さないけど、距離を取られるじゃない。はっきりは言われないけど、空気で感じるってやつね」
晴美は、まるで自分の気持ちを見透かされているように感じた。
けれど、不快ではなかった。むしろ、その言葉の一つ一つが、真正面から差し出された贈り物のように感じられた。
「結構、自分はそういうことに強いタイプだって思ってたけど、孤立するってこたえるのよね」
まさに自分の状況を言い当てられていると感じながら、晴美は黙ってうなずいた。
「気にしちゃだめ。私が言えることじゃないけど。時間が、きっと解決してくれるから」
「なんか、救われる気がします」
日髙は晴美の隣の椅子に腰を下ろし、少し遠くを見つめるような眼差しで言った。
「鮫島さん、強いじゃない。逃げないでちゃんと出てきたんだから。ご主人のことはご主人のこと、あなたはあなた。自分を責めちゃだめだと思うな」
日髙の言葉は晴美の心に優しく刺さった。喉の奥から、熱いものがせり上がる。
「なんだか、少し楽になった気がします」
「子どもは見てるよ。親が逃げてるか、ちゃんと向き合ってるか。今の鮫島さんなら大丈夫じゃないかな」
日髙は微笑みながら、そっと晴美の背中に手を添えた。その手のひらの温かさが、言葉以上に胸に沁みた。
「ご主人は? お元気なの?」
「記事が出てから、帰ってないんです」
「あら。駄目なご主人ね。でも、信じてあげたら? 周りが騒いでるほど、悪い人じゃないでしょ?」
「まだ、わかりません。仕事の虫ではありますけど」
「そうかぁ。でも、家族は裏切ってないんじゃない? だったら、待ってあげたら。引導を渡すのは、自分が裏切られてからでも遅くないと思うな。私は、前の夫が許せなかったけどね」
そう言った日髙は、遠い目をしていた。晴美はふりかえれば、むしろ自分の方が家族に対しては裏切りをしているのではないか、という気づきすらあった。
「そうですね。ありがとう。なんだか、初めて人の本音を聞いた気がします」
「はは。私、本音が出ちゃうのよ。だから、こうなっちゃったのかな。でも、早く、落ち着いて戻られるといいわね、ご主人。快斗くんのためにも」
「……はい」
「今日はメリークリスマスよ。これを乗り越えれば、きっといいことがあるわ」
日髙はにこにこしながら部屋を出て行った。
晴美の胸の奥には、小さな灯のようなものが、確かにともった。
午後五時前、 鮫島家の台所にはオーブンの熱気が立ちこめている。キッチンカウンターには、色鮮やかな温野菜が添えられたローストチキンがのっている。鍋にはとろとろとのコーンスープが煮え、ボウルのポテトサラダは最後の仕上げを待っている。晴美は冷蔵庫からイチゴを取り出すと、焼き上げたスポンジケーキに並べていく。ケーキの表面には白いホイップクリームがふわふわと塗られており、その上に赤い実が乗るたびに、どこか胸が温かくなった。
日髙の言葉が、まだ耳の奥で柔らかく響いていた。「あなた、強いじゃない。ちゃんと逃げないで出てきたんだから」
自分がぐらついていたら快斗も不安になる。手をかけて料理を作ることで、少しでも前を向こうと、晴美はクリスマスの支度に没頭した。
ケーキのトッピングを終えた晴美は、手を洗いながら、ふとリビングのほうに目をやった。外はもうすっかり暗くなり、窓の向こうには隣家のクリスマスイルミネーションがまたたいていた。
スマホの画面を確認すると、洋介からは依然として連絡がない。
通知欄には「既読」の文字もなく、見慣れた沈黙がそこにあった。
階段を降りてくる音がして、快斗が姿を見せた。
「ママ、宿題終わったから、後で見ておいて」
晴美は衝動的に快斗を抱き寄せた。
彼の顔を確認すると、笑顔を返してくれた。
「ママ、痛いよ。離して」
「ごめん、ごめん」
この子がいてくれる。それだけで、生きていける。
「パパ、帰って来るかな?」
快斗は心配そうに洋介の帰りを口にした。
「わかんない。まだ、お仕事忙しいのかな」
晴美は快斗に余計なことを悟らせないように、誤魔化した。
「また、幼稚園の頃にやったみたいなクリスマスパーティーがしたいな」
快斗がいてくれれば、自分はやっていけると、心から思った。
「そうね。できるといいね。でも、ママ安心した。快斗がまた、勉強に集中してくれるようになって」
「だって、いい子にしてないとプレゼントもらえないでしょ?」
その時は、彼の言葉の真意が晴美には理解ができなかった。
~6章につづく
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