小説【まだ嗅いだことのない花の香り】28
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精密な回路基板のように入り組んだ新浦安の路地を、洋介はしらみつぶしに歩き続けていた。学校周辺では教師たちが手分けして探していたが、「見つかった」という報せはまだない。瑠美からも晴美からも連絡はなく、子どもたちが自宅に戻った様子もなかった。
ふと見上げると、空は薄く雲に覆われ、ビルの隙間から夕陽が鈍く差し込んでいた。街路樹の影が、のびきったゴム紐みたいにだらりと路面を這っている。
弁天公園のベンチにたどり着いた洋介は、荒い呼吸を抑えるように胸に手を当てた。
──俺は父親として、一体何をしてきたんだ?
快斗がどこに寄り道するかも、何一つ思い浮かばない。いや、思おうとすらしてこなかった。仕事を理由に、ただただ子どもから目を逸らしてきた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、あの“写真”を開く。
錦糸町のホテルに位置する晴美のスマートフォンの位置情報──無言で送られてきたあの一枚。添えられたメッセージはなくとも、そこに込められた快斗の意図がにじんでいた。
スマートフォンを欲しがった理由も、この“真実”にたどり着くためだったかもしれない。そこ知れぬ我が子の執着に、いつまでも子どもだと思い込んでいた幻想が音もなく崩れていく。同じ屋根の下に暮らしていても、心の底をのぞくことなどできない。自分の無関心が息子を追い詰めていたことに、取り返しがつかないことをしたという絶望感が襲ってくる。
職員室を出るとき、瑠美が言った。
「余計なことだけど、お子さんと奥さん、ちゃんと話をしてあげて。快斗くんには、すず香のような寂しい思いをしてほしくないかな……」
腹の底を見据えるような彼女の真顔が胸に刺さった。
ふいに、いつも朝の食卓で快斗が向けてきたあの寂しげな視線が蘇る。
今にして思えば、あれは「話を聞いてほしい」という静かなサインだったのかもしれない。それに応えることができていなかったことが、今さらになって悔やまれる。
誰かの気持ちがわかるなんて、所詮は幻想だ。正しくやっているつもりでも、相手はそう感じていないかもしれない。
晴美も、快斗も、三木にだって──自分は、誰一人として、正しく向き合ってこれなかったのではないだろうか。
三木の蔑むような目が思い出される。
「彼が『メールアドレスが欲しい』って言ったんだ。でも、晴美さんやあんたには相談しても無理だって。だから俺が作ってあげることにしたんです」
たかがメールアドレス一つを作る相談すら、快斗は親にも言えず、赤の他人を頼った。
「何のために……?」
──快斗は、なぜメールアドレスが必要だった?
あの夜、快斗の部屋で見つけた英数字の羅列。ログインしてみたが受信履歴は少なく、誰かと頻繁にやり取りしている様子はなかった。メールアドレスに執着したのは、もしかしたら、それでやり取りするとは別に、何か目的があったのではないか。
小さく呟いた三木の言葉の余韻が、胸の内で波紋のように広がっていく。何かを送るためではないとすれば、何かに登録するため? どこかに入るため……?
ふと洋介は、スマートフォンを取り出し、しばらく放置していた匿名アカウント『中受パパのボヤキ』を開く。
気まぐれに開いた通知欄、そこに大量に来ている、見過ごしてしまうような返信の中には、明らかに子どもからのものと思しき文章が並んでいる。
『塾のせいで、学校がつまらない』
『身長はいつ伸びましたか?』
『いい子にしていれば、サンタさんは来ますか?』
『クリスマスはお仕事ですか?』
──『植物ハカセ』
その名を見た瞬間、時が止まった。そのアカウントのアイコンは、青空に舞う白い凧だ。凧は英語で kite(カイト)。
スマホを握る手に思わず力が入った。快斗はこのアカウントで、何度も話しかけていたのではないか。たわいもない、見過ごしてしまうような無垢な問いかけに、洋介は自分は何一つ答えてあげられ無かったのではないか。
悔しくて涙が溢れてきた。
その時だった、一つの投稿が更新された。
『中学受験、辞めたいです』
視界がにじむ。
彼はずっと、これを伝えたかったのだ。洋介は震えるでで一文字ずつ言葉を打つ、「届いてくれ」と強く願いながら。
〜つづく
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