小説【まだ嗅いだことのない花の香り】27
8-5
*
浦安のある千葉県と東京都との県境を流れる旧江戸川には、『浦安橋』という橋がかかっている。その袂から海を見ると、彼方には不定期に煙を噴き上げるプロメテウス火山が霞んで見えた。
何そうもの釣り船が係留された川辺で、快斗は膝を抱えて座っていた。川面を渡る風がつくる小さな波のかたちを、ひとつ、ふたつと数えながら無言で見つめていた。
「やっぱり、いた」
声に反応すると、そこにすず香が立っていた。
「ここだと思ったんだよね。昔さ、パパにディズニー連れてってもらえないって話したよね、ここで」
すず香は快斗の隣にそっと腰を下ろした。
「なんで、あんなことしたの?」
「……」
「話したくないなら、別にいいけど」
ユリカモメの群れが川面のすれすれを滑るように飛び抜けていく。海風が、近隣の金属加工場で打ち下ろされるハンマーの乾いた音と塩の香りを運ぶ。快斗は息をひとつ吐き、膝に置いた手に力を入れた。
「うちはね……ママがなんでも勝手に決めちゃうんだ」
すず香は隣で黙ったまま、次の言葉を待っている。
「着る服も、靴も、友だちも、なんでも決める。ぼくは、自分でなんにも決められない。受験だって、本当はやりたくないけど、やめるなんて絶対に許してくれない。だから、ママを困らせたら、ぼくの言うこと、ちょっとは聞くかもって」
「そうなんだ……」
「うちのママはとにかく厳しくて、ゲームも買ってもらえない。パパが作ったテレビだって見せてもらえないんだよ。パパに会えるのは朝ごはんの時だけで、ママがいるから、パパとは何も話せない」
「……そう」
「パパはいつもお仕事で、朝ごはんの時以外、家では会えないんだ」
快斗は、初めて心のうちを誰かに話せた気がした。
彼女は、ごまかしの慰めも言わない。ただ、黙って相槌を打ってくれた。
「ママがいないときにね、こっそりパパのパソコンを使ったんだ。そしたら、パパが書いてるSNSを見つけて……。ここでなら、ママに知られずにパパと話せるかもって思ったんだ。でも、書き込むには自分のアカウントを作る必要があって。それには自分の電話番号かメールアドレスが必要だったんだ」
快斗の声が震えた。
「パパの友達のおじさんにね、『メールアドレスが欲しい』って頼んだんだ。そしたら、作ってくれて。でも、そのことで、パパに迷惑をかけちゃったんだ」
快斗は膝に額を押しつけ、震える肩を両腕で抱え込むようにして丸くなった。
「あの日、おじさんはパパのパソコンを使って、何かメールを送ってた。そのときはよく分からなかったけど、なにか悪いことをしてるんじゃないかって、ちょっとだけ思ったんだ。そしたら、ネットでパパの悪いニュースを見つけて、そこに、あの時おじさんが送っていたメールが載っていた」
快斗は、洋介のパソコンで週刊新報のスキャンダル記事を見つけていた。そして、洋介が世間から批判され、苦しい立場にあることも気がついていた。
「でも……」
「でも?」
「もし、パパが会社辞めることになったら、もう塾に行かなくていいんじゃないかって、そんなふうに思っちゃったんだ」
喉の奥で声が途切れた。
息がうまくできず、胸の奥にたまった重たい何かが、涙にもならずにせり上がってくる。
話を聞いたすず香の表情には、慰めや戸惑いはなく、祈るような静かなまなざしがあった。
しばらくの沈黙のあと、すず香が言った。
「快斗は、悪くないと思う。でもさ、思ってることがあるなら……ちゃんと話したほうがいいよ。パパとも、ママとも」
すず香が自分のポケットをごそごそと探り、スマートフォンを取り出して、電源を入れた。
「あっ、それ、学校に持ってっちゃいけない……」
「君が言う? それ」
すず香は唇を尖らせてスマホに視線を戻し、慣れた手つきでスマホを操作しながら言った。
「みんなさ、少しぐらい悪いことしてるよ、きっと。私もさ、ママには悪いと思うけど、できればパパと一緒にいたいとか思っちゃうからさ。だから、カイトがそう思っちゃったのだって、仕方がないって思うんだよね。で、なんて名前?」
と、洋介のSNSのアカウント名を聞いてきた。
「中受パパのぼやき……」
「だっさ」
鼻で笑いながらそう言うと、洋介のSNSのページを開き、投稿を読み上げる。
「『ツリーを出せ、と妻にブチ切れられた』、はは、何これ。ほらね。別に大したこと書いてないじゃん。直接言うのが怖いならさ、これでパパに言っちゃいなよ。受験やめたいんでしょ」
快斗は、小さくうなずいた。
〜9章につづく
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