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母の嘲笑

僕の記憶の中でかなり古い記憶のベスト・テンに入る記憶は次のようなもの。

「あれ? あの子泣いてるよ。なんで? 
 あっはっは!」

これは僕の母の言葉。


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エピソード

今から、五十年以上昔のこと。
僕が幼稚園の頃、テレビで
「魔法使いサリー」
というアニメを放送していた。
その日、僕と母は「魔法使いサリー」の最終回を見ていた。
サリーちゃんと友達が通っている小学校が火事になってしまうお話だった。
燃え盛る炎!
サリーちゃんは、魔法を使えば火を消すことが出来る。
けれど周囲に人がいる。

魔法を使ったら私が魔法使いだということがバレてしまう。

サリーちゃんがためらっている間にも、小学校はどんどん燃えていった。
魔法使いであることがバレても構わない!
サリーちゃんは決断した。
「雨よ~! 降れ~!」
サリーちゃんは、みんなが見ている前で魔法を使った。
そして、サリーちゃんが魔法使いであることがみんなにバレてしまった。
それを見ていた幼い僕は、思わず涙。
その時!
一緒にテレビを見ていた母が、
「あれ? あの子泣いてるよ。なんで? 
 あっはっは!」
と嘲笑した。
五十年以上経った今でもよく覚えている。

どうして、感動して泣いてはいけないのだろう?

僕はそう思ったが、咄嗟に照れ笑い。

「あれ? あの子泣いてるよ。なんで? 
 あっはっは!」
と、母に嘲笑された日から、僕は「涙」というものを封じ込めた。
泣いてはイケナイのだなと思っていた。
ところが、「泣かない」ということは色々なことを封じ込めてしまう。
 例えば、「感動の涙」。
何かを努力して達成して感動の涙を流す。
その涙を封じ込めてしまったから、泣かない為には、「感動の涙」に至る「努力」も封じ込める必要がある。
僕は「努力して達成する」ということをしない人間になった。
「そこそこの努力」はするが、
「達成して感動の涙を流す」ほどの
大きな努力はしなくなった。
努力して思うようにいかなくて
「悔し涙を流す」ということも
無くなった。
 例えば「人に尽くす」。
人に尽くして感謝されて喜びの涙を流す。
また、人に尽くして裏切られて悔し涙を流す。
こういったこともしなくなった。
涙というものを封じ込めてしまったから。
「そこそこの努力」
「そこそこの感動」
「そこそこの悔しさ」
全部「そこそこの」程度。
「大きな努力」
「大きな感動」
「大きな悔しさ」
は、ない。

「あれ? あの子泣いてるよ。なんで? 
 あっはっは!」
と、母に嘲笑された幼稚園の日から、時が止まっている。
今でも知っている人の前で、涙を流すことができない。
感動的な映画を一緒に観たりしても、
素直に涙が出ない。
 きっと母も「感情を露わにする」ことについて、何かトラウマがあったのかも知れない。
「感情を表現すること」が下手だったのかも知れない。
きっと、僕がサリーちゃんを観てポロリと泣いたことで、どのように接して良いか、咄嗟にわからなかったのだろう。
「火事が消えて良かったねぇ」とか
「サリーちゃん、ばれちゃったねぇ」とか、もっと普通に僕の涙に合わせて言葉をかけてくれれば良かったと思う。
これだけのストーリーを理解して感動して涙を流せるだけの豊かな心を持った幼児の心。
そんな素敵なものを、その後何十年にもわたって封じ込めてしまったのが
「母の嘲笑」だった。



魔法使いサリー/最終回


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