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【小説】 KUROGO 第11章 見慣れない世界

第11章 見慣れない世界

 黒衣というのは面白い職業だと思う。初めは苦肉の策だった。黒衣になる前は、盗撮者に間違えられて、警察に捕まりそうになった。被写体とは合意が取れているにもかかわらず、世間がそれを許してはくれなかったからだ。なぜなのだろう。カメラを向けて被写体を追い回す姿に、嫉妬でも感じていたのだろうか。なぜ自分が被写体になれないのか、僕が何故彼女だけを被写体として追っているのか、そのことに嫉妬を感じていたのだろうか。それとも、自分も撮影者になりたいのに、それができないことを羨んで、僕を告発しようとしたのだろうか。世間が僕に嫉妬したのか、僕が世間に対して排他的な態度をとっていたのか分からない。理由はとにかく、世間と僕との確執を取り除こうと、なんとか考え出したのが黒衣だったということだ……。このアイディアは思いの外うまくいったと思う。世間は僕が黒衣であることを許してくれたのだから。カメラを回して被写体を追いかけていても、黒衣だということで黙認してくれるようになった。それは、自己主張をしなくなったことに由来するのだろうか。黒衣でなかった頃は、自分自身のアイデンティティを明確にしていた。それが世間の気に障ったってことなのかもしれない。黒衣になることで自分自身の個性を消し去った。黒衣という役割が個人としての存在を消し去る。世間ってやつは、個人的な主張に過敏に反応するものらしい。自分の意にそぐわない個人や、嫉妬を感じる相手に対しては、攻撃的に振る舞うものらしい。それが役割という存在に変化した途端、個人という存在を消し去った途端、攻撃性が消えてしまったのさ。そして、この黒衣という存在は、世間から新たな職業として受け入れられた。そうだ、これは職業なのだ……。

 黒衣を始めた時には想像すらできなかったが、僕が生み出した黒衣という存在を模倣するものが現れた。今にして思えば、この黒衣という職業を、ビジネスモデルとして登録しておけばよかったと後悔しているよ。登録しておけば僕にはライセンス料が支払われることになったのだからね。全く新しいビジネスとして、黒衣業を斡旋するということも可能だったかもしれない。それぐらい世の中には黒衣が増えているのだから。今の世の中、自分の個性を隠して、匿名で行動したがっている人間が増えているようだ。ネットの世界だけでは物足りなくなった者たちが、現実の世界で、匿名で行動したがっているのだろう。ちょっと考えてみれば、そんな世界が求められることは、容易に想像がつくじゃないか。僕はその最先端をいったまでなのさ。ただし、ビジネスに結びつけることはできなかったのだけれどね……。

 黒衣を職業として意識し始める前に、僕は黒衣という存在を理解するために試行錯誤していた。黒衣になる前と後で、ファインダーから得られる映像が異なって見えることに気が付いた。それは、被写体が撮影されていることを意識しているか、意識していないかということも影響している。しかし、それだけではないようだ。それは黒衣である自分自身の精神的な変化も影響しているらしい。被写体だけでなく、背景自体も黒衣になる前と後では異なって見えるのだ。理由はまだ分からない。精神的な変化に対する、単なる思い込みかもしれない。錯覚にすぎないのかもしれない。それが事実だとしても、僕はその変化を確実に感じている。僕は被写体だけでは飽き足らず、他の物にも黒衣としての撮影を試してみることにした。黒衣として街を徘徊し、その風景をファインダー越しに観察していった。肉眼で見ていた世界と、ファインダー越しの世界は、初めは同じ風景として見えていた。それが、何度も観察を繰り返しているうち、二つの世界が分離を始めた。撮影用ゴーグルを装着して見える世界と、装着しないで見ている世界を交互に眺めてみる。分かりにくいが微かにずれがあることを感じた。これは並行世界を感じているということなのか。まるでサイエンス・フィクションのような感覚。しかし、その微妙なずれは、はっきりと認識できる訳ではなかった。きっと二つの映像を重ねてみなければ、そのずれを確認することは難しいことだろう。僕の目的は、そのずれを観測して証明することではない。それは、どなたか興味のある研究者に任せることにしよう。僕はカメラマンとしての興味を追求したいだけだ……。

 ふと、マユミを黒衣で撮影したら、どんなふうに映るのだろう。僕と過ごしている間は、僕のことを意識しているだろうが、僕の存在を感じなくなった時に、どんな振る舞いをするのだろう。そんなことに興味を感じた。ああ、依頼人の気持ちは、こんなところにあったのかもしれない。すこし依頼人の気持ちが分かりかけてきたようだ。被写体の振る舞いが変化したように、マユミの振る舞いも変化するのだろうか。そこには僕の知らないマユミが現れるのだろうか。僕の存在を意識していない時のマユミが、どう振る舞うのか気になり始めた。ちょっとした思い付きに過ぎない考えが、大きく膨らみ始めている。僕のことなど忘れて振る舞っているマユミを想像すると、なんだか嫉妬のような感情が湧いてくる。僕以外の男がいるという訳でもないのに、なぜか存在しない相手に嫉妬を感じている自分が情けない。今まで考えてもいなかった感情が、カオスの中から生み出される。存在しない原因が、意識した途端に現れる。いや、存在していなかったのではなく、意識を向けなかったから、その存在に気が付かなかっただけなのか。単に次元が異なっていただけなのだろうか。スーパーストリングの様なものなのか。被写体の統一理論。頭がおかしくなりそうだ。理屈は物理学者に任せるとしよう。僕は眼の前の興味にしがみつく。揺れる被写体から振り落とされないように……。

 マユミが寝入っているときに、ふとカメラのファインダー越しに彼女の姿を覗いてみたくなった。商売道具のカメラで眺めたマユミは、特に普段と変わるところはなかった。変化がないことに、がっかりしている自分を感じた。何を期待していたのだろう。マユミが違った姿に見えるのではないかと考えていたのだろうか。被写体と比較でもしようと思ったのだろうか。ふとした気まぐれではないか。そもそも、変化を期待すること自体が可笑しなことだと思う。被写体の場合は、僕に撮影されることを意識しすぎて、本来の姿が見えなくなっていただけだ。僕の存在を意識しなくて済むようになったから、カメラを向けても、以前のようなぎこちなさがなくなっただけではないか。しかし、マユミの場合は、僕自身が見慣れていることもあるだろう。僕にカメラを向けられても意識することなどないはずだ。現実のマユミもファインダー越しのマユミも同じで当たり前だ。しかも、マユミは寝ているため、僕が撮影していることを知らないのだ。最初から僕を意識していない状態ではないか。これでは、実験の意味がないかもしれない。自分を納得させようとしているのか、意味もないのに、カメラのファインダーから眼が離せない。マユミに変化が起きないことを眼に焼き付けようとしている。僕の気配に気が付いたのか、マユミの眼がこちらを見返していることに気が付いた。起こしてしまったようだ。マユミは横になったまま、カメラを覗いている僕を見つめている。意識がはっきりしていない状態が続いている。ぼんやりと、僕を見つめている視線が虚ろだ。覚醒し始めたように視線が定まっていく。その時、レンズから見える世界に変化が起き始めた。見慣れたはずのマユミの姿がレンズの中で消えていく。そして、その代わりに、見知らぬ女がこちらを見返している。見知らぬ女が現れた。驚いて肉眼でマユミを見返すと、そこにはいつものマユミが存在している。確かめるため、もう一度、カメラ越しに眺めると、見知らぬ女は消えていた。そこには、いつものマユミが見えた。やっぱり気のせいだったのだろう。カメラから眼を話すと、マユミは再び睡眠状態へと戻っていく。覚醒は一瞬だったのだ。ただの錯覚だろうか。寝起きの表情を見知らぬ女と勘違いしたのかもしれない。背筋に寒気を感じた。僕はカメラをバッグに仕舞い込み、マユミの隣に滑り込んだ……。

 翌日、黒衣の衣装で外出した。どうも、夕べのことが心に引っかかっていた。一瞬だが、マユミが見知らぬ女に変化したと感じたのは、本当に錯覚だったのだろうか。気がかりを抱えた状態で歩いていたせいか、いつもの通りまで変化したように感じ始めた。見慣れた街並みが、遠い昔に置き忘れてきた記憶のように感じる。置き忘れてきたのか、そもそも知らない風景なのか、夢の中で見知らぬ街に放り出されて不安を感じているような心持。ちょっとした心の迷いが、大きなうねりとなり、自分の記憶を揺さぶっているのだろうか。揺さぶられた記憶は、分解しながら、こぼれ落ちていくのか……。

 もう一度マユミを撮影してみようと考えた。それも黒衣として撮影したらどうなるのだろう。なぜ、こんなことが気に係るのだろうか。僕は何を期待しているのだろう。マユミが泊まりに来るのを待ち受け、僕は黒衣の衣装に着替えた。驚かせる気はないのだが、初めてこの衣装で登場した時には、案の定マユミは驚きの表情を現わした。

「何をする気なの、そんな恰好をして。サプライズを用意でもしているの。あなたらしくないわね……」
「驚かせるつもりはないんだ。今この衣装で撮影をしているんだ。ちょっとした実験だ。君にも協力してほしい」
「撮影の実験? 私を撮影するの? なんだかいつものあなたと違うみたい……」

 戸惑いを隠せないマユミを説得して撮影を始めた。初めのうちは、黒衣の衣装を気にしていたが、黒衣の効果だろうか、マユミからは、すぐに黒衣への意識が薄れていった。
 黒衣の前には、見知らぬ女がいた。やはりそうなのか。黒衣を前にした時、そこにいるのは、自分が知っている女ではなく、僕の前にいない時の女が存在する。それは、僕が見たことのない女だ。自分が存在しない時の姿だから、自分は決して見たことがない。そして黒衣は、僕ではなくなっているのだから。黒衣の前にいるのは、僕が見たことのない女だ。僕の知らない、マユミという女。僕には決して見せたことのない表情をしているではないか。どちらが、本来のマユミなのだろう。これでは、ほかの男の前に立った時のマユミも、僕が知らない表情を見せるのだろうか。僕の知らないマユミは、どれだけの数存在するのだろう。自分は愚弄されているのだろうか。マユミは、僕の前では演技をしているのだろうか。それとも、ほかの男の前で、演技をしているのだろうか。どちらにしろ、複数の顔を持った存在だ。

 恋人を、黒衣で撮影した時の驚きとは何か? 普段よく知っている女とは別の顔が浮かび上がる。ファインダーを通して見た、よく知っている女は、全く知らない女に変貌していた。一体どういうことなのだろう。自分はいったい今まで何を見ていたのだろう。現実の世界で見てきたものは、真実の姿だったのだろうか。真実を見ているつもりで、幻想を見ていたのだろうか。現実で見る姿は、演技をしている姿なのか? レンズを通して見たものが真実の姿なのだろうか。レンズを通して見ることで、本質を理解することができるのかもしれない。身体に触れ、お互いの肉体を求め合う行為は、何をもたらしているのだろう。相手を理解するつもりで、本質とは異なるものを感じていたのか。人とのコミュニケーションは、幻想の構築なのだろうか。

 僕は嫉妬を感じている。いったい誰に。黒衣という存在に。自分の見たことのない表情を引き出す黒衣という存在に。しかし、黒衣もまた、僕自身ではないのか。もう一つの自分に嫉妬する自分とは、いったい誰なのか。分離することのできない存在に嫉妬してどうなるというのか。嫉妬する自分を蔑む自分。並行世界のもう一人の自分に嫉妬しているようなものだろうか。存在しているが、存在していない相手。マユミもまた同じように並行世界に存在している。僕はどちらのマユミに惹かれているのだろう。マユミも僕の変化に気が付いたのかもしれない。

「いつもと違うみたいね。あなたはいったい誰なの?」
「君が望んでいる者」
「強引な言い方ね。やっぱり、いつものあなたとは違うのね」
「それを望んでいるのだろう……」

 黒衣は、僕とは違って、いささか、暴力的になっているようだ。マユミに強引に触れてみる。黒衣に触れられたマユミは、いつもと異なる反応を示しているように感じる。最初は硬さを感じさせたが、気持ちを切り替えたのか、しだいに硬さがほぐれ、やがて包み込むような柔らかさに変化する。僕とは異なる存在に身を任せようとしていることによる影響だろうか。それでも黒衣は、マユミを強引に押さえつける。そして無理な格好で行為を開始しようとする。マユミは、少し抵抗する素振りを見せる。黒衣はますます強引になる。マユミは、抵抗しながら、ゆっくりと受け入れる。そしていつもより、激しく身体をくゆらせる。抵抗しながら誘っているような仕草。それは、僕の知っているマユミではなかった。黒衣に犯されているのは、僕の知らない女だった。そして黒衣もまた、興奮しているようだ。見知らぬ女をものにしたことに歓喜を覚えているらしい。頭脳は冷静に、そして身体は情熱的に。マユミはいったいどうなったのだろう。マユミの姿を確かめることができない。僕は黒衣の衣装を解く勇気が出ない。いつの間にか、見知らぬ女に囚われたのか。マユミの姿を失ったまま、見知らぬ女と黒衣は、僕を置き去りにして、別の世界へと突き進んでいった。その世界の入り口で、囁く声が聞こえたような気がした。

 今のままでは飽き足りなくて、新しい関係を作ろうとしているの……。君もそれを望んでいるんじゃないのかい……。あなたが別の男を演じたいのなら、私はそれでもかまわないわよ。でも、別のあなたを好きになってしまったら、あなたはどうするの? もとには戻れなくなるかもね……。これは、ただの実験さ……。

 言葉が途切れた後、二人は別の世界へと浮遊するように落ちていった……。

<次章へ続く>
第12章 実験

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