【小説】 KUROGO 第10章 二回目の報告
第10章 二回目の報告
依頼人に対する二回目の報告。僕は黒衣の姿で報告へ向かうことにした。特に意図がある訳ではないが、最近は外出するのに、黒衣の姿をしている方が気楽だからだ。世間が黒衣を許容していることに起因しているのかもしれない。田舎出身の男が感じる疎外感を味わうことがないからだろうか。疎外感自体は自分が生み出したのかもしれないが、それを解消できずにいた。その疎外感が嘘のように消え去っている。黒衣の衣装は僕の精神を安定させる作用も発揮しているようだ。頭巾の下には撮影用ゴーグルを装着。このゴーグルも手放せない要素となってきたようだ。さすがにアクションカメラは小型軽量の物に切り替えてある。撮影をする訳ではないので、クリアな視界が確保できれば問題がない。納品物を納めた鞄は、黒の帆布製のショルダーバッグ。そして、背中には黒のバックパックを背負っている。バックパックの中には、依頼人の事務所ビルに着いてから使用する物が詰め込んである。黒衣の衣装に合わせて、身に着けるものはすべて黒で統一し、素材も合わせている。詰まらない拘りに感じるかもしれないが、この拘りもまた、僕の精神作用にとっては重要な意味を持っているようだ。
納品用のビデオはメモリカードにコピーしロックを掛けてある。ケースには納品タイトル、納品番号、納品日、そして納品者を印刷したラベルを張り付けてある。そして納品書も署名捺印付きで用意してある。個人客とはいえ、報酬を受け取る以上は、納品物も正式な形式で渡すことが肝心だ。何かトラブルがあった時の証跡となるように受取証も用意してある。普段以上に気を使っているのは、依頼人に対する心象の表れなのだろう。依頼人の落ち窪んでよどんだ眼が、僕の警戒心を強くしている。相変わらず理由は分からないが、自分が不利にならない準備は怠らないようにするつもりだ。
依頼人の事務所に向かう途中に、裏路地があることに気が付いた。何度も通った道なのに、今まで意識したことがなかった。こんなところに路地があったのだ。驚きを感じた。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。しかし、初めて意識したにも関わらず、以前から知っているような路地に思えた。何度も通り過ぎているから、無意識のうちに眺めていたのだろう。だから、この路地が見覚えあるように感じるのかもしれない。急に意識を向けたせいかもしれないが、路地の様子が気にかかった。自分が呼ばれているような感覚。何が気になっているのか分からない。ちょっと寄ってみようかとも思ったが、約束の時間が迫っているので、またの機会にするしかない。なんだか、忘れ物をしたような気持ちを引きずったまま、依頼人の事務所へ向かう。
事務所があるビルに到着すると、僕はレストルームへ直行した。鏡に映る黒衣を一瞥する。その姿が自分とは認識できない。中身は自分であるはずなのに、見知らぬ他人のように映し出されている。奇妙な感覚を持ちながら個室へ入る。依頼人の事務所へは、本来の自分の姿に戻ってから訪問するのだ。バックパックの中には着替えが詰め込んである。なぜ、そんな面倒なことをするのかといえば、依頼人へは、黒衣のことはまだ知らせたくないからだ。手の内は極力明かさないようにしたい。これもまた、依頼人への個人的な思いが強いのだが、黒衣による作用は、いずれ報告するとしても、その期間を引き延ばしていたい。それは、自分の優位性を確保しておきたいという気持ちが強いのだろう。あるいは、自己防衛反応的なものだろうか。依頼人に危険を感じている訳ではないが、自分を何かから保護しておきたいという気持ちが潜んでいるような気がする。被写体は、そんな気持ちになることはないのだろうか。依頼人に会うたびに、被写体がなぜ、あの依頼人との関係を続けているのか理解できなくなる。金銭だけで割り切れるのだろうか。被写体だって、あの依頼人に好意を持っている訳ではないだろう。割り切れない感情が、わだかまりとなって居座っている。自分だって、金銭だけの理由で、この仕事を請け負っているというのに、被写体に対しては、その割り切りを、納得できない眼で見ている。個室から出ると、鏡には普段の僕が映し出されている。なんだか、少し顔色が悪く見える。レストルームの照明のせいだろうか。自宅を出るときには気が付かなかった。事務所へ向かう足取りが重くなる。被写体のことを考え始めたからなのか、それとも、黒衣の衣装を脱いだからなのか、僕の精神に小波が立ち始めた。
依頼人が黒衣の撮影した映像に興味を示し始めた。カメラを意識しない被写体の振る舞いが気に入ったようだ。あまりの自然さに、きっと覗きをしているような気分になってしまうのだろう。額に汗が滲み出したようだ。その汗には油分が人一倍含まれているのだろう。普段でも脂ぎって見える顔が、ますます、濃厚なてかり具合になっている。体温が上昇しているのかもしれない。常温では固まってしまう動物性の油。体温が正常に戻れば、滲み出した油分が固まって、濁った白い斑点になってしまいそうだ。
「これは、隠しカメラで撮ったんじゃないだろうね」
「違いますよ、ほら、カメラで追っているのがわかるでしょう。カメラを固定して取っているような映像じゃあありませんよ」
「そのようだね。それにしても、全くカメラの存在を意識していないじゃないか」
「それがお望みではなかったんですか」
「その通りだよ。素晴らしい映像だ。ここまでできるとは思っていなかったんだよ。今までにも、何度か失敗しているんでね……」
どうやら、僕以外にも、この仕事を依頼されたカメラマンがいたようだ。依頼人の満足を得たのは僕が初めてだったようだ。これは黒衣の成果だろう。しかし優越感を持ちながらも、満足感を得られないのはなぜだろう。
「この映像をどう利用するのですか?」
「それは、君には関係のないことだよ。君は、撮影を続けていればいいのだよ」
僕の気がかりは、この映像を依頼人がどう利用するのかということだ。どうせ、人には言えない利用の仕方をするのだろう。まあ、どう利用するかは、依頼人の自由なのだが、眼の前の依頼人に対しては、どうも寛大になることができない。どこかに反発を感じてしまう。そんな僕の気持ちを知っているのか、いないのか分からないが、依頼人は僕の感情を無視して、自分の興味をぶつけてくる。
「いったい、どうやって撮影しているんだい。彼女に何を吹き込んだのかな」
「彼女から、何も聞いていないのですか?」
「特別なことなどないというんだ。しかし、この映像を見たら、今までとは何かが違うと思わざるを得ないだろう。君はいったい何をしたんだい」
「それは、企業秘密というものでして……」
「それは、そうだろうね。ここまでの撮影をするからには、よっぽどのテクニックでもあるんだろうね。気になるなあ。教えてもらえないかね」
「そうですね、検討してみましょう……」
「報酬は少し弾ませてもらうから。もちろん、君の同業者に漏らしたりすることはしないよ。そこは約束しよう」
「考えておきましょう……」
僕は、お茶を濁したような返事をしておいた。依頼人には、黒衣のことはできるだけ伏せておきたいところだが、いずれは被写体から漏れてしまうだろう。そうなると、追加報酬はもらえなくなる訳だ。それならば、自分から教えた方が得だ。どうせなら、次回の報告時には、黒衣の格好で報告してみようか。いったいどんな反応を示すのだろう。もしかして僕の存在に気が付かないかもしれない。それとも撮影現場でも見学させた方がいいのだろうか。それでも彼女がただいるだけで、僕の存在は認識できないかもしれないが……。
依頼人の目的はどこにあるのか……。僕は仮説を立てている。それは、この仕事を受ける前に依頼人の事務所を訪ねた時に見た器具から連想したものだ。医療器具と思われるものが、依頼人の応接室の脇にある別部屋へ運ばれるのを見た。透明な袋がかぶせられた状態で運ばれていたのだが、束ねられたケーブルの先に、電極と思われる端子が付いていた。きっと治療に使われるのだろうと、その時は単純に考えていた。無断ではあるが、反射的に、その医療器具をカメラに収めていた。シャッターは消音しているので、気が付かれることはなかった。あの時の写真を、知り合いの医療関係者に見せた。
「セックスの快感は、大脳で感じることは知っているかい」
「詳しくは知らないが、そうだということは、知識としては知っているよ。それがどうかしたのかい」
「性的不能者でも、脳で快感を覚えることが出来るということだよ」
「はあ……、それは、どういうことだい。」
「分からないかな……。つまり、脳を刺激することで、セックスする以上の快感を持つことが出来るのだよ。ドーパミンを発生させればいいんだ」
「この医療器具は、そのための物だというのかい……」
「そういうことだ。最近注目を集めているんだ。不能者にとっては、画期的な治療なのだよ。勃起しなくても、快感を得られるのだからね……」
依頼人の目的は、やはり性機能に係わるものなのだろう。うすうす気が付いていたのだが、依頼人はやはり何らかの病で、性機能に問題があるのだ。あの事務所の脇の部屋で、個人的な治療でもしているのだろう。電極を付けて大脳に刺激を送ればいいのだが、それでは、物足りないのだろう。被写体の映像は、きっと、治療の時に利用するものなのだろう。自分の気に入った被写体を眺めながらでなければ、同じ快感でも味気ないのかもしれない。性に悩む者には、それなりの拘りというものがあるのだろう。まあ、趣味の世界だから、他人がとやかく言う類のものではない。と、言いたいところではあるが……。このビデオで、どうしようというのか……。脳を刺激する時の材料として、彼女のビデオを撮影しているってこと……。彼女の自然な魅力を引き出してほしということ……。アダルトビデオのような、あざとい映像ではなく。彼女の普段の自然な振舞いを、そして淫らな姿を取ってほしいということ……。自分は横になっているだけ……。それじゃあ、ますます太っていくって訳だ……。快感を覚えているうちに、心臓発作でも起こしてしまうのではないだろうか……。やっぱり、節制した方が……。かってに依頼人の死に際を想像する。落ち窪んだ眼を見開き、顔には固まった脂肪の汗、半開きの口からは舌がはみ出している。もはや電極からの刺激には反応しない、ビデオは観る者がいなくなったままでも再生が続く。僕の収入源の一つが消えた……。
「君には期待できそうだ。このまま撮影を続けてくれたまえ」
息を吹き返した依頼人が退出の合図を送ってきた。僕は次回の約束を取り付けてから事務所を退出した。黒衣になって撮影した映像を見て、依頼人はかなりの興味を示した。盗撮とは違う。カメラが追っているのに、カメラを意識することのない自然な姿。依頼人の示す興味の方向に嫌悪を感じる。胃のあたりに発生する不快感。事務所から離れていくのに、沈静化しない。レストルームで鏡を見ると、顔色がさらに悪くなったように感じる。依頼人に生気まで吸い取られたようだ。依頼人の事務所は僕にとって鬼門なのだろうか……。この仕事を打ち切った方がいいのだろうか……。いや、僕は黒衣としての撮影に興味を魅かれている。撮影はこのまま続けたいのだ。撮影している間は、精神的には満足しているのだ。依頼人への報告だけ我慢をすればいいのだ。そう言い聞かせて、黒衣に戻った僕は、街を歩いた。
マユミは、入浴を済ませた後、ストレッチを始める。見事に足が開ききる。僕は感心しながらカメラに手を伸ばす。『こんなところまで撮影するの。趣味が悪いわね……』僕は身体が硬くで、前屈や開脚が苦手だ。スポーツも嫌いではないが、上達しない。『毎日少しずつ繰り返していけば、できるようになるわよ……』繰り返すことが難しい。ダイエットだって同じこと。ダイエットが必要な人間は、決してダイエットを続けることができない。できないからダイエットが必要な身体になる。『あなたって、何もしなくてもスリムでいいわね。私は意識的に身体を動かさなくちゃ……』そんな必要はないのに。君はいつも動き回っているから太らないのさ。それが苦にならないのだろう。『悪いんだけど、背中を掻いてくれないかしら、血行が良くなって痒くなってきちゃった……』いつもの僕の仕事。撮影はここで終了だ。
モグラの世界とは全く異なる世界。僕は、マユミのことを考えているうちに、爽快な気分に戻っていった。
三回目の報告に向けて、被写体の撮影を継続していた。しばらくすると、被写体に変化の兆しが表れた。どうやら男が出入りしているようだ。以前彼女から、平手打ちを食らった男が舞い戻ってきたのだろうか。しかし、なぜその男性が舞い戻って来たのか分からない。僕が黒衣として彼女に同伴している時には、彼女は、その男と接触しない。僕が黒衣の役目をしていない時に限って、男と会っているようだ。何か、意図的なものでもあるのだろうか。僕には知られたくないということなのだろうか。僕から報告をしていないのに、依頼人からは、その男の様子を報告するように連絡が入った。
「君は、彼女に係わっている男が、何をしているか知らないかね?」
「はっきりとはわかりませんね。僕がいない時に会っているようですから」
「本当に知らないのかね」
依頼主は、いつものように疑いの眼つきだ。この濁った眼は何を見ているのだろう。僕とは見える世界が違うのかもしれない。疑うべきはすべて僕のせいなのだ。額には固まった脂肪が白く斑点になっている。また、あの治療器具を使っていたのだろう。血管にたまった脂肪を絞り出しているかのようだ。これで、少しは血の流れが良くなったのだろうが、頭脳が明晰になる訳ではない。僕には、いかんともしがたい。被写体の生活態度の管理まで任されている訳ではないし、そんなことはまっぴらだ。僕はカメラマンとしての仕事しか引き受ける気はない。そんなに気になるなら、被写体に直接聞けばいいではないか。僕の役目は被写体を撮影することのはずだ。被写体の男性関係を調べることではない。そんなことは、興信所にでも任せればいいではないか。依頼人の要求がますます過度になっていくようだ。そんな被写体が気になるなら、自分で付いて廻ればいいだろう。それにしても、なぜ依頼人は被写体の新しい男に気が付いたのだろう。監視でもしているのだろうか。それなら、ますます、自分で調べることができるだろう。またしても依頼人に対する嫌悪感。
<次章へ続く>
第11章 見慣れない世界
