見出し画像

1985年8月12日JAL123の記憶──「社長になんてなるもんじゃない」と誓った子供が、経営者になった理由

1985年8月12日。

当時10歳、小学5年生だった私は、中学受験の過酷な夏期講習に追われていました。「勉強して、いい学校へ行き、いい会社に入りなさい」という大人の期待を背負わされ、毎日のように塾へ通っていた猛暑の夏でした。

その夕刻、突然鳴り響いた一本の電話が我が家の空気を一変させました。当時JALの社員だった父からの、短く緊迫した連絡でした。

「123便がレーダーから消えた。今日は帰れない」

10歳の私には、その言葉の意味も重大さも分かりませんでした。

「なんで飛行機が映らないだけで、お父さんは帰ってこれないの?」と尋ねる私に、母は硬い表情で「大変な事なのよ」とだけ答えました。

夕食の準備もそこそこに、電話を切った母が慌ててテレビを点けると、母も祖父母も画面に釘付けになり、大人たちは一言もしゃべらなくなりました。

異様な空気を幼心に察した私は、それ以上何も言えなくなりました。

画面を見つめて待っていると、やがて番組がニュース特番に切り替わり、「JAL123」「ボーイング747」という暗号のような言葉と巨大な機体の写真が大きく映し出されました。

その夜は現場の状況も分からぬまま、ただ不気味な時間が過ぎていきました。


 一.  今も選ぶ後部座席 ──身体に刻まれた記憶

翌朝になり、テレビ画面に映し出されたのは、なぎ倒された山肌と煙を上げる凄惨な現場の光景でした。

乗客乗員524名のうち救出されたのは機体後部にいたわずか4名という現実。

そして、揺れる機内で手帳やメモに書き残された「恐い 恐い 恐い」という悲痛な叫びや、「子供よろしく」「仲よく暮らしなさい」といった残される家族へ宛てた最期の願いは、10歳の私の胸を強く締め付け、涙が止まりませんでした。

40年近くが経つ今でも、あの「JAL123」や「ボーイング747」という言葉は、当時の音と数字のまま鮮明に脳裏に浮かびます。

飛行機に乗る際、無意識に後部座席を選んでしまう自分の習性に触れるたび、あの謎の記号と数字は、単なる思い出というより身体感覚として私の中に残り続けているのだと思い知らされます。


二. 崩れ落ちた母と、誰も答えてくれない疑問

連日のように「JALの整備不良ではないか」というニュースが飛び交っていたある日、テレビ画面に高木養根社長の辞任会見が映し出されました。

その瞬間、画面を見つめていた母が崩れ落ちるようにその場に泣き伏しました。

「高木さんは……本当にいい社長だったのに……」
絞り出すように泣く母の声を、私は今も忘れることができません。

母は結婚を機に退職していましたが、かつてJALで専務の秘書を務めていました。

大人になり、自分自身も経営顧問として組織の裏側を見るようになった今なら分かります。

社外はもちろん他部門にすら見せない普段の立ち振る舞いや、従業員・顧客への向き合い方。秘書という最も近い場所で、そのすべての根底にある社長の人柄を見届けていたからこその涙だったのだと。

当時、連日報道されていた事故の原因は「整備不良」でした。

泣き崩れる母の傍らで、10歳の私は大人の顔を見上げて尋ねました。

「整備士が悪いのなら、なんで社長が辞めなきゃいけないの?しかも、そんないい人なのに」

しかし、周りの大人たちはただ黙り込み、誰も何の反応も返してくれませんでした。


三. 「社長になんて、なるもんじゃない」──冷めた悟り

大人たちは「勉強して良い大学に行き、良い会社に入れ」と口を揃えて言います。

そして、私は望まぬ中学受験を強いられました。
週4日の塾に週2日の家庭教師、日曜日は四谷大塚のテスト。

夏期講習や冬期講習、正月特訓に至るまで休みはなく、「人が休んでいる間に勉強しろ」と過酷な日々を過ごすのも、すべては「良い会社」に入るためだ、そう言い聞かされていたのです。

しかし、大人が示してくれるのは良い会社に入るところまでで、入社したあとのルートまでは誰も教えてくれません。

それでも、人生は会社に入ってからの方が圧倒的に長い。

だから幼い私は、その長い会社生活の中で課長、部長、そして社長へと登り詰めることこそが、人生の苦しみから解放される唯一の道なのだと考えていました。

今どんなに苦しく、何をしても認められなくても、社長になれば解放される。周りの評価に縛られ、成果を求められ続ける苦しみから、ようやく逃れられるのだと。

しかし、それほどまでして築き上げた地位が、他人のミスひとつで一夜にして消し去られてしまうものだったと見せつけられてしまった。

社長が不良品を作るよう指示したわけではない。

学校で生徒が悪いことをしたら、廊下に立たされるのは生徒であり、先生が代わりに全校生徒に謝って学校を辞めたりはしない。

それなのに、社長はどんなにいい人であっても、他人のミスで事故が起きたら、カメラの前に晒され、辞める。

──あの辞任会見は、10歳の私にとってあまりにも強烈な原体験でした。

「なんで社長が辞めなきゃいけないの?」

その問いに対して、ただ黙り込む大人たちの姿を見たとき、私の心の中に広がっていたのは冷めた虚無感でした。

「社長になんて、なるもんじゃない」

それが、あの10歳の夏に私が固く心に刻んだ、あまりにも冷めた悟りでした。


四. レールの先で見つけた、自分の意思と「仕組みづくり」

10歳の夏に抱いた疑問を胸に抱えたまま月日は流れ、私は大学卒業と同時に就職氷河期真っただ中の荒波へと放り出されました。

自分は、何のために働くのか──。

業界や職種へのこだわりを持てずに始めた就職活動の中で、私の心に唯一残ったのは「世の人の生活を便利にする側となり、喜んでもらえる製品を作りたい」という素直な衝動でした。

そんな折、親戚から教えてもらったのが「SE(システムエンジニア)」という職業。縁あって入社したソフトメーカーで、私のITエンジニアとしてのキャリアが始まりました。

入社直後から大手グローバル企業の新規製品受託開発プロジェクトに参画し、プログラマー、SE、開発リーダー、PM、そしてPMOへと立場を変えながら、約20年にわたり現場を駆け抜けることになります。

転機が訪れたのは、発注元の企業へ常駐し、事業会社の全製品の技術推進を担う部門のPMの下で、PMOを任されたときでした。

その部門のPMは、現場で何か問題が起きた時や報告が上がってきた時に、決して個人を責めませんでした。代わりに、必ずこう問うのです。

「それを解決し、二度と起こさないためには、どんな仕組みが必要?」

会社員時代、数百人規模の大型プロジェクトで揉まれる中で私の中に徹底的に叩き込まれたのは、「人を責めるのではなく、仕組みで解決する」という思考であり、「人がスムーズに仕事を進めるためにはどんな仕組みが必要で、何が不要なのか」を見極める確かな技術でした。

10歳の夏、現場にすらいなかった社長がカメラの前に晒され、頭を下げさせられていたあの光景。

「なぜ、直接問題を起こした訳ではない人が辞めなきゃいけないの?」という幼い日の解けない問いに対し、「人を責めるのではなく、仕組みで解決する」という明確な答えが、ついに手の中に残った瞬間でした。


五. 「絶対になりたくなかった場所」で、人を守る器をつくる

やがて、会社で仕組みづくりを突き詰めることに限界を覚え始めた頃、声をかけられる形で、個人事業主として独立しました。

フリーランスPMOとして飛び込んだのは、平日休日問わず、連日の怒号と徹夜が蔓延する大炎上プロジェクト。

決定権も実行権もない私にできたのは、ルールを整え、スケジュールを可視化し、冷徹なまでに機能する「仕組み」で現場を支えることだけでした。

ようやく見通しが立ったある日、カメラオフの真っ黒な画面の向こうで、開発ベンダーのエンジニアが声を震わせて泣き出しました。

「……本っっっっっ当に、助かっているんです。他のエンジニアとも話していたんです。俺たち、守られるんだって。大塚さんは、俺たちと上との板挟みになっているのに.…」

その体温に触れた瞬間、私の心は決まりました。

理念なき技術は凶器になり、人間不在のマネジメントは現場を壊す。 人を責めるのではなく、仕組みで現場を守り抜くこと──それこそが自分の使命なのだと。

しかし同時に、大きな壁にぶつかりました。
「個人の活動の限界」です。

個人事業主という立場のままでは、契約の壁や組織の構造に阻まれ、現場で追いつめられる人々を本当の意味で守り切ることができません。

「守りたいものを、守れる仕組みそのもの(器)を自分がつくるしかない」

2023年5月29日、私は株式会社SEED Genesisを設立しました。

あの日「社長になんて、なるもんじゃない」と固く心に刻んだ、あの「社長」という場所に、私は自らの意思で立ったのです。

自分自身の手で、その定義を塗り替えるために。

社長とは、他人のミスを被って謝罪し、ただ辞めていくだけの存在ではない。誰もが安心して力を発揮する組織を形成する「守護の仕組み」を社会に実装し、現場で戦う人々やPMを守り抜くための場所であるのだと。

あの日、冷えた目で大人たちを見つめ、虚無感に怯えていた10歳の私へ、いま胸を張って答えます。

「あなたが思っているような社長ばかりじゃない。あの勉強も、あの痛みも、あの理不尽への疑問も、誰かを守れる仕組みをつくるための大切な力になっている。何ひとつ無駄じゃなかったよ」と。


六. 8月12日の祈り──受け継がれるフィロソフィ

今日、8月12日。
あの夏から、41年の月日が流れました。

10歳の私の目には「いい社長が一人で責任を被って辞めて終わった」ように見えていたあの事故ですが、大人になった今は知っています。

残されたJALの社員の方々が、あの日を安全の原点として深く心に刻み、40年以上が経つ今なお御巣鷹山への慰霊登山を絶やさず、組織全体で命と向き合い続けていることを。

そして、その祈りが単なる精神論ではなく、強固な「仕組み」として今の組織に根付いていることは、2024年1月2日の羽田空港での衝突炎上事故が証明しました。

あの極限状態の中、パニックに陥ることなく乗客乗員379名全員の命を守り抜いたあの脱出劇。

驚くべきことに、現場で誘導にあたったCAの約半数は、前年に入社したばかりの新人だったといいます。

それが奇跡ではなく現実となった背景には、「尊い命をお預かりする仕事」という理念の下、過去の事故の教訓から絶えず学び続け、いざという時に誰もが確実に機能する「冷徹なまでの仕組み」と訓練を組織に浸透させてきた歴史がありました。

一人の社長が責任を被って辞めて終わったのではなく、その教訓が「フィロソフィ」として組織に脈々と受け継がれていたこと。 トップが代わっても、人が入れ替わっても、誰もが命を守り抜ける「仕組み」と「文化」として、組織に血を通わせ遺していったこと。

それこそが、本当に命や仕事に報いるということなのだと、今なお安全への歩みを止めず、命と向き合い続けるJALの皆様の真摯な姿に、心からの敬意を表します。

自分も、そうありたい。

私が個人事業主のままでなく、「会社」という器を創った本当の理由は、まさにここにあります。

自分がいつかこの世を去った後も、あるいは社長を退任しても、決して消えることなく社会に残り続け、現場で戦う人々を守り抜く「魂」と「仕組み」を遺したかったからです。


七. 同じように現場で苦しむあなたへ

私たちがITの現場で作る「仕組み」は、飛行機のように直接人の命を乗せているわけではないかもしれません。

それでも、現場で働く人々、そしてその家族の「人生」という、かけがえのない命の時間を預かっています。

もし今、この文章を読んでくださっているあなたが、かつての私や現場のエンジニアたちのように、理不尽な構造の中で自分をすり減らし、苦しんでいるのだとしたら。

どうか、自分自身を責めることだけはしないでください。

悪いのはあなたではなく、問題を起こすようになっている仕組みです。 そして仕組みは、人が意志を持てば必ず変えていくことができます。

しかし、一人で社会の構造を変えることはできません。

だからこそ私は、同じように「もっと良くしたい」と願い、賛同してくれる仲間たちと共に、この「守護の仕組み」を社会に実装していくための器を創りました。

もう、理不尽に一人で耐え続ける必要はありません。
自分を責める代わりに、私たちと一緒にこう問いかけてみませんか。

「解決し、二度と起こさないためには、どんな仕組みが必要?」と。

最後になりましたが、改めて、JAL123便の事故で亡くなられた520名の皆様の御霊に深く哀悼の意を表しますとともに、深い悲しみを抱え続けてこられたご遺族の皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。

2026年8月12日

「なぜ個人事業主ではなく、会社という器をつくったのか」── 創業日(5月29日)に込めた想いと、現場を守るロジックの原点については、こちらの記事に詳しく綴っています。


いいなと思ったら応援しよう!

大塚麻織|SEEDGenesis株式会社 代表取締役社長CEO 「現場の夜明け」を創る、持続可能な活動のために。 いただいた支援は、SEED Genesisの公式プラットフォーム運営費や、知見を体系化するための研究費として大切に活用しております。