ニッポンの世界史#50 「脱欧脱亜」する世界史:川勝平太『文明の海洋史観』
川勝平太(1948〜 )は、いまでは静岡県知事(2009〜2024)としての姿を思い浮かべる人が多いだろう。
だが本来の出発点は、経済史や文明史を専門とする研究者であり、なおかつ世界史を新たな視点から大胆に再構成し、文明論を提言した人物でもある。
特に『文明の海洋史観』(中央公論新社、1997年)は「ニッポンの世界史」にも無視することのできない影響を与えた。
その特徴は大きく三つに整理できる。
第一に、近代化を単なる西洋の追随やアジアへの従属としてではなく、自立的な文明の形成として描く「脱亜」の視点である。
第二に、陸上中心の文明史を乗り越え、海を舞台にした交易と文化交流に光を当てる「海洋史観」である。
第三に、こうした学術的構想を政治や地域社会に応用しようとする「文明論的提言」である。
今回は、彼の研究史と代表作『文明の海洋史観』(1997年)のみならず、著作全体を見渡しながら、ニッポンの世界史に与えた影響を検討してみよう。
アジア間交易の実態解明
川勝が注目を集めたのは1970年代から80年代にかけての若手時代である。
当時の歴史学界では、日本の近代化はイギリス産業革命による綿布輸入の圧力に屈して進んだとする「外圧」論が通説であった。しかし、川勝は綿布の消費構造に着目し、イギリスの長繊維綿花から作られる薄地布と、日本や中国の短繊維綿花から作られる厚地布の品質差を強調し、「内外綿布は基本的に競争関係にはなく、在来綿布は綿織物に代替して輸入された」と主張した。
彼は輸入綿布の圧力を一概に「破壊」と捉えるのではなく、地域社会が衣生活や美意識に応じて厚さや保温性、模様を調整しながら独自の価値を示したことを強調し、日本の工業化は西洋への対抗ではなく、アジア間での競争を通じて達成されたと論じた。
この視点は、日本の近代化を「西洋の単なる後追い」とする見方に疑問を投げかけた。後の研究からは、川勝のモデルが単純化されすぎているとの批判や、イギリス製厚地綿布・太糸の輸入状況などの検討が必要だと指摘されている。
しかし、消費文化の差異に着目し、東アジアの地域経済の中で日本を位置づけた彼の研究は、当時の議論に新風を吹き込んだ。
「海洋史観」による世界史の新視点
梅棹『文明の生態史観』への批判
川勝の関心はやがて経済史を超え、文明史的な構想へと向かった。彼が批判的に受け止めたのは、京都学派の梅棹忠夫が提唱した「文明の生態史観」である。
梅棹の着想をいちおうおさらいしておこう。

楕円はユーラシア大陸を表し、乾燥地帯(ステップと呼ばれる短草草原や砂漠)を、左下から右上の方向に向けて斜めに走らせる。この領域が「縦の斜線」として表される。
最後に、楕円に×印を書き入れ、Ⅰ~Ⅳの4ブロックに分割すれば完成だ。
模式図の語るように、ユーラシア大陸には乾燥エリアの騎馬遊牧民と直接向き合うことのない「第一地域」と、乾燥エリアの騎馬遊牧民と接する「第二地域」があり、第二地域はⅠ~Ⅳまでの4つの文明に分かれる。
地図中の「Ⅰ」は東アジア、「Ⅱ」は南アジア、「Ⅲ」は北アジア(ロシア)、「Ⅳ」は西アジアの各文明に対応し、いずれも乾燥地帯に接するエリアでは水(雨)が少なく、短草草原(ステップ)や砂漠が広がっている点で共通している。
梅棹によれば、「第一地域」では、乾燥エリアの騎馬遊牧民の侵入にさらされ続けたため、それに立ち向かうために強大な権力をもつ専制帝国ができては滅んでいく運命にある。
反対に、東西両端の「第二地域」に位置する西ヨーロッパと日本は、騎馬遊牧民の影響をこうむることが少なかったため、比較的安定した社会が続くことになる。すなわち、外部からの影響を極力受けることなく、内側から内生的に変革が生じ、まるで自然の植物群落のように封建制→絶対主義→資本主義と移り変わってきた。先進工業国へと発展できたのも、その延長にある、ということになる。
東西の端っこの「第二地域」に位置する西ヨーロッパと日本は、騎馬遊牧民の影響をこうむることがなく、比較的安定した社会が続いた。したがって外からの影響を極力受けずに文明の内側から変革が起き、革命によって封建制→絶対主義→資本主義のようにステップアップし、工業化していったのだというわけである。
このように梅棹が「乾燥地帯の遊牧民文明」と「湿潤地帯の農耕民文明」を対置し、陸上の生態条件から文明を説明したのに対し、川勝は、梅棹には「「時間」認識が弱い」と批判する。
梅棹は自分の立場を「機能論」と表現し、諸地域における文明を構成する諸要素の全体の連関に関心があるのであって、個々の要素の歴史的由来をあれこれいう「系譜論」には関心がない、と言っているが、実際、梅棹文明論はそれぞれの地域の文明のパターンを説明し、それらを比較するものではあっても、諸帝国の興亡なり近代化なりが、なぜ特定の時期にあらわれたのか、という歴史を説明するものではない。
もうすこしわかりやすい言い方としては、「ヨーロッパと日本とがどうして近代化したのか、皆目わからない。自成的、つまり自然にそうなった、というだけなのだ」という批判がある(川勝『近代文明の誕生』日経ビジネス人文庫、2011年、p.49)。また、のちの伊東俊太郎との対談では、文明圏が、それぞれ孤立的・固定的に描かれているのではないか、文明間の接触が「暴力」的なものに偏っているのではとの注文もある(川勝『文化力』ウェッジ、2006年、p.398ほか)。
ではどうすればいいか。
川勝は「陸地史観」の梅棹の世界史に「海」を梅棹が捨象していた海域を模式図に加えるべきだとする。そうすれば、海を介した交流から、各地の文明に独自のダイナミズムが見え、近代化の謎が解き明かされる。
つまり川勝の言い方を引けば、梅棹が非-時間的な「機能論」の立場によったのに対し、川勝は時間認識を導入し「系譜論」を展開しようとしたわけである。
「海洋史観」の導入
川勝は「系譜論」を展開するために、「海洋史観」を導入する。
これをざっくり説明すると、以下のようになる。
近代以前には東南アジアこそが世界経済の代表的センターだった(注)。
そこからの文物の刺激が、ユーラシアの西方では海洋イスラムを経由し、英国(イギリス)の生活革命を刺激した。インドの綿織物キャラコが英国で大ヒットし、これを国産化しようとする過程で工業化が始まることとなる。
他方、ユーラシアの東方に対しては、東南アジアが海洋中国を経由し日本を刺激する。前近代における日本と東南アジアの結びつきは、近世における日本町の分布を見れば明らかであろう。日本においても英国同様、大陸からの各種工業製品(絹織物、綿織物、陶磁器など)の国産化が試みられることになる(下図の「近代以前」を参照。『文明の海洋史観』より抜粋)。
川勝はいう。
…ヨーロッパや日本に「豊穣のアジア」を知らしめたのが、インド洋とシナ海の中間に位置する東南アジアを中心とする海洋アジアである。多くの民族がそれぞれの物産を携えて集まり、交易し、散っていく。そのセンターが東南アジアであり、ヨーロッパと日本に出現した経済社会は、アジアの物産に対する防衛、海洋アジアのレスポンスとして誕生したといえる。同時に、世界の多くの民族が同じ時空間を共有したときから世界史がはじまるとしたらば、まさに東南アジアにおいて近代世界史が始まったといっても過言ではない。
このように川勝は梅棹の取り逃した海洋の動きを、陸域の動きに加えて描き出した。

近代に入るとベクトルは変化する。主に海域から輸入していた商品の国産化と生産増を達成した英国と日本が、こんどは逆に大陸・海域の両者に、その生産物を流通させていくのである(上記の下の図「近代以後」を参照)。
なお梅棹は、のちに川勝の対談のなかで「わたしは海の影響ということは『文明の生態史観』のなかではほとんど書いてません。ぬけているんです。実際、それをいれなければならないんです」とし、概念図も以下のように修正を試みている(川勝『文化力』ウェッジ、2006年、p.286)。

B図への修正はこの対談以前から梅棹が提案していたもの。
***
川勝の発想は、前回扱ったイマニュエル・ウォーラーステインの「近代世界システム論」とも対比されよう。
ウォーラーステインは『近代世界システム』以来、世界を「中心—半周辺—周辺」というヒエラルキー構造で描き、ヨーロッパをコアに据えた。しかし川勝はそれをヨーロッパ中心史観と批判し、次のように問いかける。
「…資本制的生産様式は、外部、なかんずくインド世界からの外圧 challenge に対する反応 response と言えます。わたしはあなたの著書に啓発されましたし、その内容はよく理解しているつもりですが、近代世界システムと外部世界との間にあった一種のダイナミズムを見落とされているのではないか、という印象をもっています。たとえば、あなたは『インドではなぜ資本主義は発展しなかったのか』という問題の立て方をされていますが、より重要なのは、『インドとの接触を抜きにして、果たしてイギリスに近代資本主義は出現しえたのか』ということではないでしょうか…」(1992年の対談、420–421頁)
ウォーラーステインが海域世界の自律的ネットワークやアジア的ダイナミズムを軽視しているのではないかというわけだ。
川勝の議論はまた、同時代に濱下武志が提示した「朝貢システム論」とも呼応していた。

濱下は明清期中国を中心とした「東アジア世界経済」を前近代的システムとして描き出し、西欧世界システム論への対抗軸を築いた。
冷戦後に「儒教資本主義論」や「儒教ルネサンス」が注目を集める中で、海域ネットワークとしてのアジア像が共鳴を呼んだことも背景にあろう。
このように1990年代において、川勝は「文明史」のスケールで、濱下は「前近代システム」の枠組みで、西欧中心史観を超える新たな視点を提示した。
政治提言としての文明史論
川勝の「文明史」のポイントは、経済史を単なる「交換」としてとらえるのではなく、文明ごとに根づいてきた「価値観」の体系と、「物」の相互作用に着目することにあった。
「交換」価値から「使用」価値へ。
その観点からみると、海を通した「物」の集積、組み合わせの変化から、「物産複合」と呼ばれる、ある一定の「物」群の型が発達していくことがみえてくる。物産複合の変容や、それにともなう生活様式の変化、それこそが「経済発展」であるとの見方だ(川勝『海から見た歴史』藤原書店、1996年、ff.21-22)。
ここに文明の独自性を見いだす視点こそ、川勝の海洋史観の核心であった。
そのような「総体的」な視点は、川勝の関心を「日本文明」のさらなる発展に向けた「国土デザイン」へと向かわせていくことになった。
1998年、全国総合開発計画『21世紀の国土のグランドデザイン』が策定された。ここで川勝が提示したのが「ガーデンアイランズ(庭園の島々)」構想である。
これは日本列島を「地球生態系の縮図」と見立て、多様な気候と生態系を「庭園」として調和的に配置し、美しい景観と文化を融合させた国土像を描こうとするもの。
ここで「悪」とされているのは、近代化とは都市化だとする近代の社会科学における姿勢や、環境を破壊する西洋文明である(川勝『「美の文明」をつくる—「力の文明」を超えて』ちくま新書、2002年、p.27。川勝『富国有徳論』中公文庫、2000年、p.47)。「庭園」の美が、「都市」の悪に対置される。ここには1995年の阪神大震災の衝撃も、影を落としている(『富国有徳論』p.60)。
そこでは「美の文明」を継承する日本を「世界文明の生きた博物館」ととらえ、東西両文明を受容し、共存させてきた歴史、が国土像に重ね合わせられ、古くから海の交流の最前線であった西太平洋と「西大西洋津々浦々連合」を結成し、日本がその軸となるべきだ。
——お気づきの通り、議論自体は二項対立的な見方と言わざるをえないし、京都学派における議論の呼び戻しとも言え、問題性がないことはない。だが、ここで注目しておきたいのは、戦後日本で発足した「世界史」がかつて京都学派が「世界史」を開陳したのとおなじように、またしても周辺地域を含めた大きな文明論としての「世界史」として表現された点にある。
周知の通り政治家としての川勝に対する評価は芳しくない。
2009年には静岡県知事に就任し、川勝は「富国有徳」をスローガンに掲げた。「富国強兵」をもじり、富士(英訳すればprosperous and civilized=豊かにかつ廉直に生きること)経済的繁栄(富国)と文化的・道徳的価値(有徳)の両立を訴えるものである(川勝『富国有徳論』中公文庫、2000年、p.19)。
その後、自身の不適切発言への責任やリニア中央新幹線問題に区切りがついたとして2024年4月に辞任するまで4期の長きにわたり知事の地位にあった。
専門家としての壮大なヴィジョンを政策に落とし込む際の実現可能性や運営能力には限界があり、長期政権の弊害も指摘された。そのため一般には、ときに物議を醸す自治体首長としての印象が強いだろう。
とはいえ、世界史を大きく描く「文明史」に立脚し政策提言を展開した姿勢は、「ニッポンの世界史」の系譜上、特筆に値する。
「ニッポンの世界史」の中の川勝平太
以上を踏まえると、川勝平太の仕事は三つの広がりをもって理解できる。
第一に、日本を「西欧の模倣」や「アジアへの従属」としてではなく、自立した一個の文明として描き出した点である。
ここでいう自立は、本人もおりにふれて強調するように排他的なナショナリズムではない。文明を「外部からも魅力を認められる価値体系」としてとらえる姿勢に根ざすものであった。
とはいえ「ニッポンの世界史」における系譜からみれば、川勝の議論は「脱亜」の系譜(世界史のなかの日本をアジア(とりわけ中国)から引き離して位置付けようとするナラティブ)に連なるものといえる。
たとえば川勝は2003年の著作で次のように述べている。
こうした過程[注:開国から20世紀初頭にいたる日本の工業化]から導き出されるのは、日本の近代化が決して西洋の模倣ではなかったということである。もちろん鎖国も決してヨーロッパの攻勢からの防衛ではなかった。むしろ広大で豊穣なアジア世界というものがまずあって、大陸文明から見れば文化果つる辺境の地にあった日本の近代化は、その豊穣のアジア大陸文明からの自立、すなわち「脱亜」の過程として記述されるべきであろう。日本にとってのアジアは中国であった。それは同時にヨーロッパの近代化、いわゆる「近代世界システム」の成立の過程でもあった。産業革命はヨーロッパがアジアに憧れ、インドを中心とするアジアからの自立、「脱亜」をめざすことによって達成されたのではないかと考えられる。
第二に、世界史を見る視点を「陸から海へ」と転換し、世界史の同時性、すなわちグローバル・ヒストリーにいち早く着目した点にある。
川勝は述べる。
21世紀の歴史の枠組みは、西洋中心のワールド・ヒストリー(世界史)の枠を越えて、グローバル・ヒストリー(地球史)になるのは確実だ。
日本史、東洋史、西洋史といったタコ壷的併存はもはや許される状況ではない。タコ壺的・鎖国的発想の限界を知り、多島海の世界ないしグローバルなネットワークという観点から歴史を見直すために、発想の思いきった転換をはからねばならない。日本史に世界をとりこみ、世界史に日本をとりこむことが課題である。
「西洋化ではない形の国際化」がありうる。
これが主張の主眼であろう。
川勝は、グローバル・ヒストリー的世界史をもって、ワールド・ヒストリー的世界史を追い払おうとしている。
また川勝は、かつて日本がそうしたように、21世紀初頭においては東南アジアも独自の国家意識を強め「脱亜」(脱中国)を目指すようになると見通しを立てている(川勝平太・濱下武志編『海と資本主義』東洋経済新報社、2003年、p.19)。
そのような見方は、西洋中心主義的な「世界史」からは見えてこない。
東洋対西洋という軸でも、国ごとに分断された歴史でもなく、世界の多くの民族が同じ時空間を共有するものとして、一般の読者にもアウトリーチしえる言葉でグローバルな歴史を描いてみせた。
第三に、大きな「文明史」を描いた点だ。
国土デザインや「富国有徳」といった理念は、その成否を措くとすれば、歴史の再解釈にともなう日本像の前向きな再定義を視野に入れる野心的な試みであったと言える。
これからは文化競争の時代である。文化は相手に強制するものではない。暴力と威嚇ではなく、魅力と感動が文化の勝負どころである。人に憧れられる美しい島国ガーデンアイランズの創造、これこそが美しい地球(グローブ)のもつ固有の力(パワー)、すなわち真のグローバル・パワーなのではあるまいか。富国強兵の「力の文明」の時代は、冷戦の終結とともに、終焉した。21世紀の日本の立てるべきグローバル・ストラテジー(地球戦略)ははっきりしているのである。それは「美の文明」への創造である。
川勝は、日本文明を西洋文明の対抗馬とみなし、「豊饒の海の三日月」たる西太平洋の島々の要に位置する日本こそが、西太平洋地域に西洋文明に対置しうる新たな価値観を、武力を持って「強制」ではなく、魅力をもって「提示」しようと論じる(この議論には同時期の安田喜憲の議論と似たところがある)。
だは、なぜ西太平洋なのか?
「脱欧」を叫ぶなら、「入亜」、つまり大陸中国との交流を重んじようという提言なのかというと、そういう話ではない。
「亜」を、大陸アジアと海洋アジアにまたがるものとみるならば、一般にいう中国や朝鮮半島との付き合いは前者にかたよっている。
むしろ日本は歴史的に海洋アジアとの交流を密接に行ってきたのであるが、近世以降の「脱亜」の過程で関係を断ち切ってしまった。たしかにそのおかげで日本は工業化できたが、その中にある西洋文明的なものを見つめ直し、「近世」的な秩序を再設定してはどうか、というわけだ。
その意味で、川勝の文明史が「脱亜」的だというときの「亜」は「大陸アジア」であって、「海洋アジア」へのシフトだ。川勝の構想における説明によれば、ミクロネシアなどの西太平洋の島嶼と、オーストラリアなどの「オセアニア」も含むから、「海洋アジア+α」という新しい地域設定を提示するものと言える。
その動きを、ここでは伝統的な地域区分としてのアジアからの脱却という意味をもって、「脱亜」と表現してみたい。
***
かつてトインビーに刺激された梅棹忠夫は、陸地の動向に着目し、独自の「生態史観」を描いてみせた。だがそれは「脱亜」であったとしても「脱欧」というわけではなかった。

しかるに川勝は、「脱亜」かつ「脱欧」の文明論を描いてみせたわけである。
試みではあるが、そのように「ニッポンの世界史」の系譜のなかに位置付けてみたい。

他方で、冷戦終結後、歴史学は分野の細分化や実証主義の深化に向かうとともに、政治的な左右対立は歴史言説を主戦場に変えていくこととなった。
それとともに世界史を大きく描く議論を展開するという姿勢も、異なる姿へと変わっていくこととなる。
脱「西洋中心史観」というベースは、左派右派ともに変わらない。
川勝の議論は、一方では国境を越えるグローバル・ヒストリーの可能性をひらくものだった(注2)。と同時に、意図せざる帰結とはいえ、世界史の中の「日本文明」の特権化というもう一つのナラティブに対しても、ある意味でトリガーを引く役割を果たしたのではないか。川勝の国際化批判(たとえば川勝『日本文明と近代西洋—「鎖国」再考』NHKブックス、1993年、p.247)は、反グローバル化志向も含みもつ。
1990年代半ば以降、「日本文明」を独立させようとする ”欲望” が、それ自体離陸し、これに沿うかたちでの世界史ナラティブが提案されていくことになる。
(注1)川勝の東南アジア論は、梅棹忠夫に連なる今西錦司を代表とする戦後の「京都学派」の論者からの影響もある。川勝は今西学派の文明論のうち「関心をひいたもの」として、飯沼二郎『農業革命論』(未来者、1967年)、中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書、1966年)、上山春平『照葉樹林文化』(中央公論社、1969年)、川喜田二郎『素朴と文明』(講談社、1987年)、矢野暢編『講座 東南アジア』(全10巻、弘文堂、1990〜92年)、河野健二・飯沼二郎編『世界資本主義の形成』(岩波書店、1967年)、ほかに梅原猛のアイヌ、横山俊夫の「礼譲の体系」などを挙げており、特に上山春平の『受容と創造の軌跡』(『日本文明史』第1巻、KADOKAWA、1991年)をはじめとする一連の仕事は「京都学派の最後の道案内」としている(川勝平太「戦後の京都学派」『岩波講座社会科学の方法3 日本社会科学の思想』岩波書店、1993年所収、p.271-272)。
(注2)前回紹介したウォーラーステインのUnthinking Social Scienceにおける川勝の議論を参照。
後注
なお、政治家に転身した川勝の議論は、学会において特定の学派を築いたわけではない。
それでも1990年代の学界において、「西欧中心の進歩史観を超えて歴史を語る」潮流の中で重要な方向を指し示したことは間違いない。濱下武志、松井透、杉原薫、水島司、島田竜登といった研究者がそれぞれ独自に進めた仕事と共鳴しつつ、非西欧の主体性や多様な近代化を考える新しい知的環境を生み出した。
さらに海外に目を向ければ、ジャネット・L・アブー=ルゴド(Janet L. Abu-Lughod, 1928–2013)が『Before European Hegemony』(1989年)において「13世紀世界システム」を描き出し、
カイラス・チョウドリ(K.N. Chaudhuri, 1933– )がインド洋交易の長期的構造を解明し、ケネス・ポメランツ(Kenneth Pomeranz, 1958– )が『The Great Divergence』(2000年)で「大分岐」論を提起した。
これらはいずれも、西欧中心の近代起源論に揺さぶりをかける試みであり、川勝の『文明の海洋史観』はこうした国際的な議論と共鳴しつつ、国内外に刺激を与えた。
なお、個人的には川勝の議論をつかむにはこちらの書籍がもっともわかりやすい。
参考文献
・川勝平太「戦後の京都学派」『岩波講座社会科学の方法3 日本社会科学の思想』岩波書店、1993年所収。
・川勝平太編『海から見た歴史—ブローデル『地中海』を読む』藤原書店、1996年。
・川勝平太編『文明の生態史観はいま』中公叢書、2001年。
・川勝平太編著『世界経済は危機を乗り越えるか—グローバル資本主義からの脱却』2001年、ウェッジ。
・川勝平太『海洋連邦論—地球をガーデンアイランズに』PHP研究所、2001年。
・川勝平太・伊東俊太郎「特別対談 比較文明学の現在、そして未来へ—新しい知の希望を語る」『比較文明』18、比較文明学会、2002年所収。
・川勝平太『「美の文明」をつくる—「力の文明」を超えて』ちくま新書、2002年。
・川勝平太編『グローバル・ヒストリーに向けて』藤原書店、2002年。
・川勝平太・濱下武志編『海と資本主義』東洋経済新報社、2003年。
・川勝平太『文化力—日本の底力』ウェッジ、2006年。
・川勝平太『近代文明の誕生—通説に挑む知の冒険』日本経済新聞出版社、2011年(『世紀末経済 歴史家の意見!1994—96』ダイヤモンド社を加稿・再編集・文庫化)。
・高村直助「綿業史研究の成果と課題」『技術と文明』12(1)、2000年、p. 61-69、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshit/12/1/12_61/_article/-char/ja
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