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ニッポンの世界史#47 「縄文」を語る世界史 :安田喜憲の環境考古学

「森の文明」「縄文」「アニミズム・ルネサンス」――こうした言葉に心を動かされた読者は少なくないだろう。近年、これらのフレーズはテレビや書籍、講演などで頻繁に登場し、すでに人口に膾炙している。

 もっとも、この語り口にはそれなりの変遷がある。1970年代には岡本太郎(1911〜96)、吉本隆明(1924〜2012)、太田竜(1930〜2009)ら左派が熱心に論じていたものが、1980年代には梅原猛(1925〜2019)らを経て右派に軸足を移し、エコロジー思想との接点を強めた。この時期までの経緯については、中島岳志の近刊『縄文—革命とナショナリズム』(太田出版、2025年)に詳しい。

 1990年代に入ってからは、西尾幹二(1935〜2024)ら保守派が歴史教科書記述において縄文時代を大きく取り上げ、2000年代には中沢新一『アースダイバー』(講談社、2005年)が「縄文地図」片手の東京散策を提案し話題を呼ぶなど、縄文への関心は継続。
 中島も指摘するように、1990年代以降はナショナリズムに接近した縄文論が主流となっている。

 ここではさらに、そうした日本における縄文論の変遷の背後にある世界史構成の変化に迫ってみたい。
 その変化を読み解く鍵となる人物こそ、安田喜憲(やすだよしのり、1946〜)である。

 安田喜憲は、「環境考古学」や「環境文明論」といった独自のフィールドを切り拓いてきた研究者であり、最近まで静岡県ふじのくに自然史ミュージアムの初代館長を務めていた。

 当初、地理学を足場とした安田は、世界各地における考古学的な気候調査をおこなう中で、「縄文」を世界の文明に伍する「文明」としてとらえる世界史構成を提起するにいたる。

 安田がなぜ人類史や文明論にまで大胆に踏み込み、独特の視点から世界史を語ろうとするに至ったのか。
 それは「ニッポンの世界史」の系譜に、どう位置付けることができるのか。

 今回は、その点を中心に論じていきたい。



環境史研究の展開

 まずは大きな流れから確認しておこう。環境と歴史の関係に注目する「環境史(Environmental History)」という分野は、1970年代以降、英語圏を中心に展開してきた。

 ひとつの契機となったのが、1962年に出版されたレイチェル・カーソン(1907〜64)の『沈黙の春』だった。農薬による自然破壊を鋭く告発したこの書は、当時のアメリカ社会に衝撃を与え、やがて「環境革命」とも呼ばれる1970年代の潮流へとつながっていく。

 大学の場でも変化はあった。1970年代初頭、フロリダ大学では「歴史生態学プロジェクト」が始動し、1979年にはカンザス大学のドナルド・オースター(1941〜)が「環境歴史学」という枠組みを提唱する。このとき環境は、単なる背景ではなく、歴史における「能動的な要素」として再評価されはじめたのだ。
 他方ヨーロッパでは先んじること1930年代のドイツで林業の歴史的研究が行われており、1940年代にはフランスのアナール派が自然環境を含めた長期構造に注目していた点は以前紹介したとおり。こうした潮流は、やがて「歴史地理学」の講座として欧州の大学に根づいていく。

 このように、1970年代以降、「自然と人間の関係」を軸に歴史を語ろうとする動きが、世界各地で芽生えていたのである。


安田喜憲と環境考古学

 一方、日本では事情が異なっていた。

 戦後アカデミズムにおいて、環境、すなわち地理的条件が人間に影響を与えるという見方は、戦前の「地政学」が時局に与したことに対する反省や警戒から下火となっていた。

 安田自身、こう語っている。

「私が学生時代だった1960年代、日本では環境決定論はタブーでした。どちらかというと『人類の歴史は人類が作るもの』という考えが強かった。背景にはやはり、マルクス主義史観の影響があると思います。」

石弘之・安田喜憲・湯浅赳男『環境と文明の世界史』2001年、22–23頁。この対談に加わった湯浅については、すでに以前#37 湯浅赳男の世界史的想像力:ブローデル・梅棹忠夫・ウィットフォーゲル」で論じている。湯浅も「マルクス主義を脱ぎ捨て」、1980年に『経済人類学序説』を出したときに「無我夢中でしたが、学界や同学の人たちからは「あいつはもう駄目だ」といわれた(笑)」と述べている(同、26頁)

 

 確かにマルクス主義史観では、「生産力と生産関係の矛盾」や「階級闘争」が歴史を動かす原動力とされ、自然環境はあくまで“静的な背景”にとどまる。自然の側に能動性を認めるような発想は、学問の主流からは外されていた。
 にもかかわらず、安田が大きな影響を受けたのが、東北大学の地理学者・能登志雄(のうとしお、1912〜88)だった。能登は戦前からラッツェル(1844〜1904)の『人類地理学』(1882〜1891)などを対象に戦前から「地人相関論」を論じていた。

 
 さらに、もう一人の師が東京大学の鈴木秀夫(1932〜2011)だった。

 気候学が専門の鈴木は『高地民族の国エチオピア』(古今書院、1969年)を皮切りに氷河期以降の気候の変動を研究していたが、1970年代にはそのスケールを風土論、宗教学、言語学へと拡大していく。こうして、1980年代にかけて『風土の構造』(大明堂、1975年。のち文庫化)、『超越者と風土』(大明堂、1976年)、『森林の思考・砂漠の思考』(NHKブックス、1978年)などの著作を次々に刊行。
 しかし、彼の主張は当時の学界から冷笑的な批判を浴び、「東京大学の教授があんな本を書くようになったらもうおしまいだ」(安田喜憲『縄文文明の環境』1997年、8頁)とも囁かれたそうだ。

 そうした環境のなかで、安田はあえて異端とされた自然と人間の相関を探究する道を選んだ。
 この「DIY精神」は、安田の思想全体を通底する特徴であり、同時に彼が高く評価する私財を投じてトロイア文明を掘り当てたシュリーマンや、のちに紹介する縄文文化を日本の深層文化とみた梅原猛の姿勢とも重なる。

古代の神話や叙事詩の語りかけを真に読みとることは、シュリーマンと同じく、少数のすぐれた感性と直感力をもつ人間によってのみ初めて可能なのである。

安田喜憲「総論1 森と文明」『講座[文明と環境]9 森と文明』朝倉書店、1996年



「縄文文明」の発見


 広島大学に就職後、助手のまま業績がなかなか認められぬ中、「地理学で認められないのであれば、いっそのこと自分で新しい分野を開拓しようと思いたって、初めての著書を『環境考古学事始』(NHKブックス、1980年)という書名で刊行したのである」(安田喜憲『縄文文明の環境』1997年、7頁)。

 そして2冊目の1987年に刊行された安田喜憲『世界史のなかの縄文文化』が転機となる。

 環境と共にあった縄文人の暮らしを再評価し、それを「森の文明」として世界史の中に位置づけようとしたこの一冊が、哲学者・梅原猛の目にとまったのだ。
 1988年、安田は京都の国際日本文化研究センターに助教授として招かれることになる。

 そして安田は、「文明と環境」プロジェクトを、伊東俊太郎が東京大学から着任したことを契機に、1991年から1994年にかけて実施し、その成果を『文明と環境』シリーズ(朝倉書店)として刊行した。これは当時としても画期的な取り組みであった。



「長江文明」の発見と人類史との接続


 ここから、安田の知的関心は「環境考古学」から「文明論」へと本格的にスケールアップしていく。なかでも彼が力を入れてきたのが、長江流域に眠る未知の文明——いわゆる「長江文明」の発見だった。


 安田は語る。

 われわれは1990年代から中国へ行きまして、どうも長江流域に巨大な文明が眠っている可能性に気づいて調査を始めたわけです。(中略)その後、「…1996年に「古代都市の祭壇を発見」と新聞に載ったものですから、その後、「中国考古学を何も知らない素人が」とか「長江文明が存在するはずがない」と、ものすごく批判されました。

石弘之・安田喜憲・湯浅赳男『環境と文明の世界史』2001年、64頁


 この気づきの背景には、「5700年前の気候変動」という環境史的知見がある。安田は、西アジアや地中海で確認された気候の急変が、農耕民と牧畜民の混交を促し、やがて大河流域に文明を生んだとする仮説を立てていた。

 だが、そこには一つだけ仮説に合わない地域があった。黄河文明である。

黄河文明はせいぜい4500年前にしか遡れません。しかも、気候の乾燥化が引き起こされたのは北緯35度よりも南というのが僕の説です。ところが黄河文明は北にある。…それならば、もっと南に古い文明があるはずだ、と仮定したわけです。

同上、72–73頁。

「こうして導き出されたのが、長江中下流域にこそ、真の「先行文明」が存在したのではないか、という着想だったというのだ。「僕が長江文明の存在を考える大きなきっかけになったのは、やはり環境史から始まっているわけです。5700年前に大きな気候変動があったことを、西アジアや地中海の研究・調査で発見していました。その気候の変動が、西アジアでは大河のほとりに顕著にあらわれていた。チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダスといった大河の中・下流域には、もともと川沿いに農耕民が生活していましたが、気候の乾燥化によって周辺の牧地民が大河のほとりに集まってきて農耕民と融合し、文明を生み出したと考えています。…」

石弘之・安田喜憲・湯浅赳男『環境と文明の世界史—人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』洋泉社、2001年、72-73頁



 では、長江文明は安田の文明観にどのような影響を与えたのだろうか?

 まず安田は長江文明を「森と水の循環を守り、太陽、鳥、柱、蛇、山、玉を崇拝する世界観をもった文明」として捉えている。
 これらは縄文文化との共通点が多く、両者を媒介的に接続することで、安田は日本列島と大陸アジアを同じ文化圏として語り直せることに気付く。
 かつて梅棹忠夫は「中国=第1地域」「日本=第2地域」として分け、「脱亜入欧」的世界史観を立ち上げた。

 
 だが、長江文明を中国の「古層」と見ることで、同じく日本の「古層」である縄文文明との「類似」を示すことができる。
 すなわち、日本と中国を「古層」を媒介としてつなげることができるようになる。これまでの議論を踏まえれば、いわば入亜的な世界史構成が可能となるわけだ。
 そして「古層」にさかのぼればという条件つきではあるものの、のちに安田は、来たるべき未来において、この「古層」を日本が旗振り役となって復興させようとするビジョンを描くことになる。
 1970年代に流行した「古層の復活」としての未来論(#29「長い目」で世界史を見る:成長の限界・ノストラダムス・小松左京)の系譜に連ねることもできるだろう。


 もちろんこうした「古層」への関心は、ひとり安田の独創というわけではない。
 安田の構想は、1970年代以降注目されていた照葉樹林文化論(佐々木高明・中尾佐助)の影響も受けている。

 東アジアの山地に広がる稲作文化帯——「東亜稲作半月弧」と呼ばれる文化圏が、雲南からアッサム、湖南を経て日本列島にまで至るという考え方であり、たとえば上山春平(1921〜2012)は、この議論をもとに1990年代以降も日本文明論を展開していった(『日本文明史の構想』角川書店、1990年)。


 さらに1980年代以降、日本文化論や日本論は、さらに新しい方向へと展開していった。社会史の影響もあり、塚本学(1927〜2013)が「日本列島上の人類社会史」の必要性を提起した(「日本史は特異なのか」『歴史学研究月報』1980年)。この発想は、たとえば環東シナ海をめぐる倭寇史の構築といった研究へとつながっていく。

 こうした流れは、『列島の文化史』(1984年)、『日本の社会史』(岩波書店、1987〜88年)、『アジアのなかの日本史』(1992〜93年)などの著作群へと発展した。
 そして、『海と列島文化』(1990〜93年)では、海洋への注目が新たな局面を迎える。1980年代当初に見られた覇権争い的な意味合いは薄れ、代わって「海を通じたトランスナショナルなつながり」や「アイデンティティ」への関心が高まっていった。

 同時に、「民族」とは何かという問いが改めて注目されるようになる。これは、普遍性を志向したマルクス主義が凋落したことと関係している。
 そのような中でたとえば網野善彦(1928〜2004)は、「日本」とは何か、その内実の多様性は何かという問題に対して揺さぶりをかけていったのである(『岩波講座 日本通史1』3〜40頁、6〜7頁参照)。

 こうした潮流も重なり、安田による「四大文明=西洋的近代の源流」批判が、自然科学的なエビデンスとともに大きく展開されることとなった。



世界史構成への関心

 

 「異端」視されていた環境考古学という学問は、1990年代に入ると評価がガラリと変わる。

 『岩波通史 日本歴史』(岩波書店、1993年)が、地理的・環境的な側面からも日本史にアプローチできるようにと、第1巻を特設し、安田喜憲に論稿を依頼したのだ。
 本連載の図式でいえb、「非公式」の側の研究が「公式」側に包摂されるようになったわけである。

 実は当初の依頼は、師の鈴木に行っていたようだが、体調不良のため辞退したという。このことに第1巻の月報で鈴木がふれた上で、次のようにもふれている。

「宗教上の対立による紛争というような表現は、毎日の新聞にも登場する。しかし、それでは宗教上の対立とは何か。それは世界観に根ざしている。すなわち、その人、あるいは人々が世界をどのように観ているかということであり、当然、その人々の生活している地理学的環境と深くかかわっている」(『月報1』、1993年)。

 これまでの歴史学研究が、マルクス主義的なるものの影響から地理学的環境を後景にしりぞけていなかったか、との批判を込めた表明でもある。

 また、1990年代末には安田の関わった教科書も採択された(川北稔ほか編(別記著作者・安田喜憲)『新編高等世界史B』(帝国書院、1999年、下図)。
 

環境史に関する記述がはじめて多く盛り込まれた画期的な教科書として知られる。


 こうした地理学畑の安田の世界史・人類史に対する関心は、急に芽生えたわけではない。
 安田はキャリアのかなり早い段階から世界史構成に対する強い関心を持っていたことは『世界史のなかの縄文文化』(1987年)の序章からも伺える。

 たとえば和辻哲郎(1889–1960)は太平洋戦争敗戦後、近代西洋文明への懐疑から出発し、「世界史的認識のもとに国家や民族性を反省する必要性」を説いたが、安田はこの視点を最重要視する。 
 地理学者・飯塚浩二(1906〜70)もまた、西洋人によって構築された「世界の一元化」による歴史像を「妄想」と断じ、東洋の視点から世界史を再構築すべきだと主張した。安田は彼ら二人に共通するのは、世界史の視野のなかで日本民族の特殊性・地域性を拾い上げようとする姿勢であると評価している。


 さらに安田は、マルクス主義発展段階史観を取る上原専禄(1909–1963)の生活意識に密着した日本人を主体とする世界史構成や、石田英一郎(1905–1981)、江上波夫(1903–1974)らの人類史的なスケールをもつ世界史構成をとりあげる。

 上原は戦後日本で『日本国民の世界史』(1960年)を編み、日本の歴史意識とアジアとの関係性を問い、自国中心の歴史構図から脱却しようとした。安田は「研究者は第一に、自己の生活体験を通して得た現在的な問題意識、または生活意識に対して、あくまで忠実であらねばならない。(中略)縄文時代の文化や生活は、この人類史における現代的課題との連関において取り上げられるべきである。」という有名な一節をとりあげて高く評価する。

 一方、安田は石田や江上が、人類史や先史世界から歴史を考える人類史的アプローチを提案した先駆者として、やはり高く評価。彼らがなしえなかった「人類史的な世界史」をこそ構築するべきだと述べる。

 こうした議論のうえに、安田が重視したのが梅棹忠夫(1920–2010)の「文明の生態史観」である。
 梅棹は自然と人間の関係を歴史的プロセスとして捉える点で独自であるが、その「環境」が比較的静的・構造的に扱われていた点を、安田は批判する。安田が目指したのは、環境もまた変動する歴史的主体として、人類文化とともに変遷する動的な系としての世界史である。


 これらを整理すると以下のような表になろう。

 ここで安田は、上山春平や伊東俊太郎の世界史構成にも依拠しながら、「世界史」という概念そのものを、環境—文明—人間の動態的相互作用のなかに再配置する必要性を訴える。
 梅棹の功績は、生態系と文明の連動性に目を向けた点にあったが、そのモデルにおける「環境」はややスタティックな前提に立っていた、と安田は批判的に見る。

 したがって、安田の目指す世界史とは、「自然」や「文明」を外在的に配置された舞台装置として扱うのではなく、それらを一つの有機体的全体として捉え、そのなかに歴史を組み込んでいくというものである。ここでは、文明の変動そのものが環境のリズムに反応し、また環境も人間の選択や活動に応じて変化していく、という双方向的な相関が前提となる。


晩氷期以降の気候変動と文明の盛衰
安田喜憲『縄文文明の環境』吉川弘文館、1997年、p.17-18。


 このような視点から見たとき、梅棹が唱えた「日本と北西ヨーロッパの類似性」への疑義が立ち現れる。安田によれば、両者を同質的な文明圏とみなすことには限界がある。むしろ、「日本は北西ヨーロッパとは異なるリズムで発展してきた、別種の文明ではないか」とする視点の方が、世界史の多様性を把握する上で有効だというのだ(『世界史のなかの縄文文化』雄山閣、31–32頁)。

 そこで安田が提示するのが不当におとしめられてきた「縄文文化」の再評価、すなわち「縄文文明」への引き上げである。
 彼にとって、現代の工業技術文明が、ユーラシア大陸における農耕文明の延長線上にあるとするならば、その時代、日本列島ではまったく異なるタイプの文明、すなわち「共生型」の縄文文化が展開されていたことに注目すべきなのである

 すなわち、縄文文明は、環境と共振しながら数千年にわたり定住生活を営んできた世界的に見ても希有なモデルであり、それは「環境史としての世界史」を構築するうえで、新たな基軸たりうる。ここにおいて、安田の史観は、梅棹の生態史観を引き継ぎつつも、それをよりラディカルに、より地質学的スケールに拡張する形で再構成されていくことになる。


 さらにその後に影響を受けたのが伊東俊太郎(1930〜2023)の「五大革命説」だ。安田は、西田正規の議論を踏まえ「定住革命」を加えることで、農業革命偏重への批判から、新たな時代区分を構想する。


〈人間史〉と〈文明史〉〈自然史〉との関係(伊東俊太郎著作集5巻より)


農業革命がおこったところだけが、人類史における先進地域ではない——そう言いたかったんです。

梅原猛・河合隼雄編『〈長江文明の探求〉大河文明の誕生』2000年、22–23頁。


 このように、文明は一つではない。むしろ気候変動や環境要因をトリガーにして、世界各地で同時多発的に誕生したのだという「文明誕生の多元論」を論じた安田。
 その根底には、ニッポンの世界史の系譜を踏まえ、その欠如を補うべく導入された「人類史的世界史」なる視座があった。
 そのようなわけで安田は、人類と自然の相互作用を時間的・空間的スケールで捉え直す理論的枠組みを構築するに至るのである。

 



アニミズム・ルネサンスと一神教文明批判


 安田の世界史構想の位相を確認できたところで、すこし先回りすることになるが、安田のその先の動向についても追っておこう。

 ひとまず環境考古学に一定の評価は与えられた。だが、これに満足しない安田は、花粉分析による環境考古学的研究をすすめるかたわらで、2000年代には次の関心に向かう。

 宗教文明論の立場から「アニミズムの再評価」と「一神教文明批判」を展開するのである。

 この転換点となったのが、『魔女の文明史』(2004年)、『龍の文明史』(2006年)、『山岳信仰と日本人』(2006年)と続く“アニミズム三部作”である。安田はこれらの著作を通じて、アニミズム的な世界観こそが、現代の環境破壊や戦争に対抗しうる文明論的オルタナティブだと強く主張する。

 この主張には、ヨーロッパにおける一神教文明、すなわちキリスト教による「アニミズムの神々の抹殺」への激しい批判が含まれている。
 とくに『大地母神の時代』(1991年)をめぐっては、海外の研究者から「神話を使った環境論」として強い反発も受けた。その反論として書かれた『蛇と十字架』(1994年)では、彼自身が「魔女狩りにあっている」と感じたことが記されている。

 こうして展開された「アニミズム・ルネサンス」の構想は、一方でグローバルな政治構造への批判にも結びついていく。安田はサミュエル・ハンチントン(1927〜2008)の『文明の衝突』論(1996年)を強く批判し、その背景にある「一神教的世界観の暴力性」を指摘している。

 こうした一連の考えを一般向けにくだきつつ総括したのが『一神教の闇』(ちくま新書、2006年)である。

 熱量が伝わるよう、長い引用にはなるが、いくつかの箇所を抜き出そう。


「一神教は畑作牧畜民により発達。「力と闘争の文明」とならざるをえないのは、彼らが拡大のエートスをもつからだ。サミュエルハンチントンの「文明の衝突」説がアメリカを「対テロ戦争」へ向かわせた。ハンチントンの「文明衝突の時代」の発想は、一神教的世界観からうまれたもので危険とこれまえも行ってきた(安田喜憲『東西文明の風土』朝倉書店、1999年、154頁)。E・ハンチントンが第二次世界大戦のとき「気候と文明」説により、熱帯地域は一年を落として刺激が少なく愚鈍・放縦ゆえ野蛮であるとの侵略戦争口実をあたえるようになった説(『気候と文明』岩波文庫、1938年)を言い出したのもアメリカだ。

安田喜憲『一神教の闇』ちくま新書、2006年、16-17頁


一神教は「自らが正しいと信じる超越的幻想世界のみが最善であり、それに相反するものは悪であるという独善的な倫理」をもつ。

安田喜憲『一神教の闇』ちくま新書、2006年、32頁


今のアメリカ文明も、ヨーロッパ文明も、そしてイスラム文明や中国文明も大きな闇を抱えていた。それは、アニミズムの神々を殺した悲劇であった。…そして、アニミズムの神々を殺したがゆえに現代の地球環境問題も起った。もしもアニミズムの神々を殺さなければ、魔女裁判も必要なく、地球環境問題も起こらなかったし、今日のイスラエルとパレスチナの戦争、キリスト教とイスラム教の対立もなかったにちがいない。アニミズムの神々の崇拝を禁止しなければ、中国人の心はもっと穏やかで優しさに満ち、政府を、そして他者を信頼できるゆとりある国家を構築できたであろう。なぜ中国人はこれほどまでに経済成長の亡者と化したのか、それは彼らの心が不安だからである。信頼できるものがお金しかないからである。それはアニミズムの神々を殺した悲劇である。

安田喜憲『一神教の闇』ちくま新書、2006年、188-9頁


これまで侮蔑され、卑猥や野蛮と貶められてきたアニミズムこそが、この危機に瀕した地球と人類を救済できる重要な世界観であり、人類が生命の惑星地球に生き残るために必要不可欠な世界観であることを確信した。そして、そのことが欧米のキリスト教世界の人々にも認められてこそ、はじめて地球と人類は救済できると考えるようになったのである。

安田喜憲『一神教の闇』ちくま新書、2006年、236頁


 こうした議論の前提として、いまなお続くイスラエルとパレスチナの対立、イラク戦争(2003年〜)、さらには2005年の中国における反日デモなどの情勢が置かれる。

 たとえば安田は、現代の中国を「西洋文明と同じくアニミズム殺しの文明」と位置づける。
 こうすることで、「脱欧・脱亜」という立場が可能になる。一方で、かつての中国は異なっており、モンスーン・アジアは「アニミズム文明」として連帯し得るのだ、とする(安田喜憲『一神教の闇』ちくま新書、2006年、156頁)。

 安田によれば、アニミズム殺しの文明は「力と闘争の文明」である。これに対して、日本は「美と慈悲の文明」を再建する必要がある。そのためには、「力と闘争の文明」の土俵(ギア)では日米同盟やEUと協調し、そのために最低限の憲法改正が必要だという。
 日本文明はこれまでも「使えるところは使う」柔軟性を発揮してきたではないか、と安田は指摘する。

 さらに、アジア太平洋諸国とは「アニミズム連合」(構成メンバー:ヤクーツク、ギリヤーク、オロチョン、チュクチェ、モンゴル、チベット、インド、東南アジア諸国、アボリジニ、マオリ、メラネシア、ポリネシア、インディヘナ、ネイティブ・アメリカン)や「少数民族連合」を結成し、そのリーダーとなって国難に対処する。そして、国土経営や地球環境保全においては、伝統的な「慈悲に満ちた美しい森と水の大国」を築くべきだとする(同書、155〜156頁)。

 もちろんこうした一神教批判は、世界各地の文化をあまりに単純化した「極論」である。すべての問題を「アニミズムの神殺し」に還元してしまう姿勢は、宗教的多様性や信仰の重層性を見落としてしまうおそれもあろう。安田の議論がこれまでの世界史論者とは一線を画するのは、この「類似」による連帯を可能とするのが、膨大な自然科学的なデータである点であるが、2000年代に入ると、議論の多くが、必ずしも史料的裏付けのないもの——まさにシュリーマンのような「感性と直感力」——に裏打ちされたものによって構成されるようになる。

 それでも安田は熱量をもって「力と闘争の文明」に対して、「美と慈悲の文明」を再建する必要があると訴え続け、その役割を引き受ける主体は、日本文明をおいてほかにない、とする。日本は「森と水の文明」「雑穀と発酵の文明」として、アニミズムを受け継ぐ稀有な文明であるからだ。

 こうした前提から、安田は“アニミズム連合”という大胆な構想に至る。チュクチ、モンゴル、チベット、アボリジニ、マオリ、ネイティブ・アメリカンなど、世界各地の少数民族を「アニミズム的文化圏」として束ね、日本がその「リーダー」になるべきだという。


環太平洋生命文化圏
太平洋周辺のあらゆる「文明」が、四大文明と対比される形で示される(安田『環境文明論』論創社、2016年、p.335)。詳しくは、安田『ミルクを飲まない文明』洋泉社、2015年も参照。
最終講義「環境生命文明論」(第8章)を含む自身の議論の集大成ともいえる本書の副題は「新たな世界史像」である。


おわりに

 安田喜憲の環境史的世界史構想は、従来の人文学的歴史叙述に自然科学的知見を導入しようとしたもので、すでに1980年代に梅棹忠夫=小松左京が披露していた「理系的世界史」構想が具現化されたものであったと言えるだろう。

梅棹 わたしがいうている文明学というのは、そういう[注:シミュレーションによる計算の]裏づけがあればこそ可能性が出てきたのです。情報の膨大な蓄積とその処理法が出てきた。その上に立っているいうているわけです。単なる空想ではない。実証的科学研究としてこういうことができるようになりつつありますよ、ということを提唱したいというのがわたしの志であります。
小松 それはそうですよ。はじめて「文明」というものを、しかも共時的にも通時的にも複数の文明を客観的に検証するだけのバックグラウンドと方法とデータがそろってきたということですからね。

梅棹忠夫編『文明学の構築のために』中央公論新社、1981年、203頁


 花粉分析や気候変動データに裏打ちされた文明論は、「人文学の限界」を越え、地球環境問題を視野に入れた総合的歴史理解へと接続することとなった。

 2000年代以降、地球温暖化に対する関心の高まりから、気候考古学はますます注目を集めるようになった。先史のみならず歴史時代の研究に対しても、もはや無視することのできない影響を与えるまでになった。


 その一方で安田は一神教的文明 vs アミニズム文明の闘争史として文明論を展開する中で、世界各地の文明の「古層」に着目する。
 日本にとっての縄文であり、中国にとっての長江文明であり、そしてエジプトにとっては一神教的な地中海文明にのっとられるまえの「古代エジプト文明」である(安田人類史において、縄文文明と古代エジプト文明は「類似」による「連帯」が可能となる!)。
 これらは等しく自然と人間の循環関係を基盤とする文明として「連帯」しうる存在であるということになるのだ(安田喜憲『縄文文明の環境』吉川弘文館、1997年、214頁)。


***


 梅棹の文明論は、日本を西欧と「似ている」とする着想から始まった。

 それはとりもなおさず、日本はソ連や中国などの共産圏やアラブ、インド、そしてそれらが取り囲む中央ユーラシアの遊牧民とは「異なる」文明であるという前提に立つものであり、その意味で梅棹の世界史構成は「脱亜・入欧」「脱ユーラシア・入西欧」的な性格を帯びるものであった点は、すでに確認した。

 これに対し安田の世界史構成は、「古層」をたどれば、日本も、中国も、エジプトも、果てはアメリカの先住民、マヤやインカ、東南アジアや太平洋諸島の文化でさえも、「類似」による「連帯」が可能であるとするものだ。

この論理によれば、同時に現在の中国や、現代のヨーロッパ、現代のアメリカ、現代の中国については、一神教に犯されてしまったということで、「古層」を唯一よく保っている日本文明と区別することができる。

こうして[1]人間=自然循環系の文明→[2]反人間=自然循環系の文明→[3]人間=自然循環系の文明の復興という新しいタイプの世界史構成が可能となるわけである。


 1990年代初頭には、リオで地球サミットが開催され、空前のエコロジー・ブームとなった。前々回詳解した手塚治虫が逝去間際まで執筆した随筆『ガラスの地球を救え』(光文社、1989年)も話題を呼んだ。そんな時代もあったのだ。

 安田の世界史構成や文明論も、そうした潮流に沿うものであった。


 他方、安田の展開した縄文文明論、世界史における縄文時代の位置付け(「森の文明」)は、安田じしんの構想を離れていくこととなる。1990年代半ば以降、西尾幹二(1935〜2024)らの「新しい教科書をつくる会」の教科書記述における「森と岩清水の文明」は、その一例だ。

 1990年代のニッポンの世界史をふりかえるにあたり、安田の活動に焦点を当て、一挙に2010年代にまで射程を広げてしまった。
 再び1990年代に戻り、「ニッポンの世界史」が、80年代以前から何を引き継ぎ、そして何を断ち切っていったのか、みていくことにしよう。

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