ニッポンの世界史#44 理系的世界史の誕生:小松左京と梅棹忠夫

『サピエンス全史』は、なぜヒットしたのか?
連載の「はじめに」で述べたように、2010年代のニッポンの世界史ブームは、『サピエンス全史』からはじまったと言っても過言ではない。
「文明の構造と人類の幸福」という邦副題をもつ同書は、イスラエルの歴史家ユヴァル・ノア・ハラリによるもので、いわば人類の通史を人類の出現期にさかのぼる長期的なスコープで論じたもの。初版刊行は2011年、2019年の時点で全世界で1200万部を売り上げた。そして2016年に邦訳が刊行されるや、2016年の単行本発売から7年で累計発行部数150万部を突破し、2023年には文庫化されている。
同書はホモ・サピエンスがいかにして他の種を圧倒し、文明を築いたかを描く「世界史読み物」だ。そのためにハラリは、進化人類学や神経歴史学といった "理系" 的知見を多用する。人類約7万年前の「認知革命」から始まり、「農業革命」「人類の統一」「科学革命」という大きな転換点を軸に、人類社会の発展とその背後にある虚構(宗教、国家、貨幣など)の力を論じる。特に、虚構を信じる力がサピエンスの協力と支配を可能にしたという視点が特徴的で、人物主体の世界史、文化圏単位の世界史ではなく、まさに人類総体を視野に入れた「人類史」を描こうとするものだ。
では、なぜ『サピエンス全史』という、いわば理系的世界史が2010年代の日本でかくも受け入れられたのか、これについては詳しくは後にとりあげることとして、今回ではその前史を1980年代にさかのぼることで、現代につながる補助線を引っ張ってみることにしたい。
***
小松左京と梅棹忠夫のビッグ・ヒストリー
登場してもらうのは、梅棹忠夫と小松左京という二人の異才だ。二人とも、すでにこの連載でとりあげたことがある。戦後、日本の発展がむしろ西欧と似通っているという、いわば「脱亜的」な世界史観を唱えた梅棹。そして1970年代の終末論的風潮のなかで、必ずしも薔薇色の未来を描くことなく、未来と文明のあり方を問う小説を次々に発表した小松。二人の間柄は、小松が1964年に立ち上げた私的勉強会「万国博を考える会」にさかのぼる。国家イベントへの疑念を抱いていたからこそ、逆に積極的に関わるスタンスをとったのが小松である。両者ともに万博後も学術・文化政策などへの関わりも深めていった。
その二人が1980年、梅棹の還暦を記念して開催されたシンポジウムに集った。小松の役職は司会・コーディネーターで、シンポジウムのタイトル「文明学の構築のために」も小松が考えたものだ。
梅棹はシンポを通して若手の研究者を集め、これからの時代に要請される「文明学」の輪郭を描こうとした。それに応えるようにコーディネーターの小松は、とことん理系的な想像力をはたらかせる。
梅棹 わたしがいうている文明学というのは、そういう[注:シミュレーションによる計算の]裏づけがあればこそ可能性が出てきたのです。情報の膨大な蓄積とその処理法が出てきた。その上に立っているいうているわけです。単なる空想ではない。実証的科学研究としてこういうことができるようになりつつありますよ、ということを提唱したいというのがわたしの志であります。
小松 それはそうですよ。はじめて「文明」というものを、しかも共時的にも通時的にも複数の文明を客観的に検証するだけのバックグラウンドと方法とデータがそろってきたということですからね。
ここで梅棹が企図するのは、もちろん比較文明論の分析手法の刷新だ。梅棹は、20世紀中頃の比較文明論としてトインビーの『歴史の研究』と自身の『文明の生態史観』を挙げ、どちらも「きわめて文学的」「定性的」「模索的」であったと批判する。
梅棹 どちらも、洞察であって、多少の知識の集積の上に立って見当づけをやっているわけです。きわめて文学的だ。
そうではなくて、もっと実証的なデータ処理方法を導入すれば、人類史をより客観的にとらえることができるのではないか。その先に梅棹がめざすのは、「宇宙システムの中での自己の存在のまさに現状、おれはここにいるんだという定位」。まさに国という枠を超え、人類全体の超長期のスケールで歴史を見渡そうというものだ。2010年代的にいえば、梅棹と小松のやろうとしていたのは、まさにビッグ・ヒストリーだと言えるだろう。

***
ビッグ・ヒストリーの起源は聖書にある
もちろん歴史に対するそうしたアプローチをとったのは、二人が初めてではない。そもそも近代以降の西洋的世界史のプロトタイプである『聖書』的な世界史(普遍史)も宇宙の開闢から幕を上げている。ビッグ・ヒストリー、つまり「地球誕生から歴史を見た歴史」の元祖は、要するに聖書的な歴史観なのだ。それが近代以降、進歩主義的な歴史観と混ざり合い、受容されていくことになった。
たとえば児童書によくある「地球史カレンダー」。

約46億年におよぶ地球の歴史を1年に見立て、人間の時間スケールに馴染みの深いカレンダーになぞらえたものであるが、この初出は、Richard Carringtonによる "A Guide to Earth History"であるとされるが、この図には終末論的な含意もある(同様の歴史に対する見立てはイスラームにもあると思われる)。(https://archive.org/details/in.gov.ignca.18308/page/65/mode/2up…)。

さて、ここでは小松も別の箇所で挙げているH・G・ウェルズの『世界史概観』を紹介しておこう。やはり地球誕生から歴史を見た、一般向けのベストセラーだ。
おなじSF作家であるウェルズはフェビアン協会の会員でもあり、博愛主義的な観点から人類がひとつに進歩していく歴史を、地球や生命の歴史のスパンに置いて語りあげようとする意図をもっていた。
ただ、小松と梅棹にとってはウェルズの世界史も、やはり「構想」の域を出ないものであっただろう。可能な限りデータを集め、定量的に分析処理することで、より手堅く客観的な文明の普遍理論が構築できるのではないか。そのような熱気がシンポジウムのなかには立ち込めていた。
***
「客観的」であることが、「脱イデオロギー」である
そもそも小松は、なぜ「客観的」な歴史像をめざすのだろうか?
それは一言でいえば、戦中・戦後体験によるものだ。万博の研究会立ち上げの際をはじめ、彼自身さまざまなところで述べているように、国家の構えが変われば、それまでたたきこまれていた歴史叙述が「修正」されてしまう。その経験がナショナルなもの一般に対する懐疑を生んだ。
そんな小松左京が、世界史教育の改革を主導した歴史学者・木村尚三郎に対し、歴史カリキュラムの改変をお願いしていたことは、あまり知られていないことだろう(『ユーラシア時代の日本人』朝日新聞社、1982年)。
小松の歴史観がよくわかる箇所をこの対談から引いてみよう。
小松 木村さんに、少しそういう比較をやっていただくといいと思うんですが、われわれが歴史を習った時代は戦争中でしたから、紀元2600年、世界に冠たる日本、とまず教わる。中国なんかも日本との関係でようやくでてくる。このステップで習うと、おのずと日本は優れているということになってしまう。戦後は、逆に卑屈になって、日本は島国で遅れた国だ、世界のことは何も知らず、NHKでいう難視聴地域で情報も入らない、というような世界史の位置付けをしてしまう。
戦前は、「日本=優れている」という歴史だった。
だが戦後は「日本=遅れている」という歴史に変わる。
このように歴史というものは国家によっていとも簡単に「修正」されてしまう。
日本を中心に置いているからこうなってしまうのだ。
ではどうするか?
小松は「だいたい人間の世界は基礎的なパターンは同じだから、日本の歴史だけでもしっかり見るといいと思う」(83-84頁)と述べつつ、次のように木村に提案する。
少なくとも中高教育以降は、ランキング型の世界史ではなく、人類史にグルント[注:(独)基礎]を置いた世界史のなかの日本を教えるカリキュラムが組めないだろうか。それでやってみると、日本はわりといいところへ行けるんですよ。
日本を「世界史のなか」に置き、世界の文明の歴史と比較する。まさに以前みた比較文明論的な発想そのものだということに気づかれるだろう。
その後、「世界史の中の日本史」というテーマは特に2010年代以降に増加することとなるが(*2)、小松の意図は、日本というナショナルな枠を言祝ぐことではなく、あくまで人類の歴史をより客観的にとらえること、そのためにこそ日本史を世界史的な視野に置いて活用することにあった。
だからこそ小松は日本が90年代にかけて世界の最先端をいくバラ色の展望が待っているとも断言しない(*2)。
木村もそれに応じ、ナショナルなメーカーが中心となっている日本企業(=「国学派」)はやがて力を失い、これからは「幕末、明治のときのように、商人感覚的センスを持った人間」が国際社会で活躍するようになる、と持論を述べる。
そうして、こうした議論を踏まえて小松は、来るべき変化に備え、カリキュラムの作成と整理を木村や、政治学の高坂正堯にこそやってほしいとお願いするのだ(106頁)。
***
なぜ「世界史の中の日本史」は、「理系的」に語られるのか?
その後の木村の動向は、#40・#41・#42ですでに見てきたとおりである。
小松の関心は、歴史を公定イデオロギーから切り離し、人類的な視野でとらえることにあった。その基本的なスケッチは、梅棹シンポでの対談のなかに示されている。文化や精神的価値ではなく、文明の構造やテクノロジー、環境との関係といった〈外部的な視点〉を重視すべきという立場である。
一方、木村は世界史の必修化を推し進めていくことになるわけだが、その関心の軸足はあくまで「文化」理解を通した国家的戦略の構想にあった。宗教観・死生観・家族観といった文化的基層への深い理解こそが、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にふさわしい交渉力を育む基礎になると考えていたのである(山本書店主・山本七平(1921〜1991)も、木村と同様のタイプに属するといえるだろう)。
先ほどの対談では、小松のラブコールに対し、木村はYesともNoとも答えていない(*4)。
もちろん、小松の「理系的・巨視的な歴史観」は、1980年代の学習指導要領の改訂に際して、無視されたわけではない。むしろ、西洋中心主義からの脱却や、複数文明の並列的理解という構想とは一定の共鳴を見せていた。
また両者がともに、イデオロギーによる世界史の記号的な理解に対して批判的な立場をとっていた点も注目しておくべきだろう(*5)。とりわけ小松の場合、懐疑の対象は左右両極に及んだ(*6)。そしてイデオロギーから歴史を分離させ、文明史の法則そのものへ迫るためにこそ持ち出されたのが、「理系的」な世界史観だった。
実証史学の手続きを押し出すよりも、そこから距離をとり、理系的なアプローチを援用して「客観」的にいた書き手が一般向けに世界史を語る。その流れは、特に2000年代以降主要なジャンルとして引き継がれ、『サピエンス全史』の潮流にも流れ込んでいくこととなる。
同時に、1980年代に再び注目された「世界史の中の日本史」というモチーフは、日本を、世界の諸文明と型を並べる「日本文明」という自己規定に引き上げ、強化する手段ともなりうる。
また中には両者が交わり、「理系的」に「世界史の中の日本史」を語ろうとするケースも見られるようになっていく。
今後、「世界史の中の日本史」言説と、「理系的世界史」言説は、どのように作用しあっていくことになるのか。1980年代の「ニッポンの世界史」の震央に位置していた小松・梅棹・木村らの議論からみえてくるのは、両者の地続き性にこそ鍵があるということだ(*7)。
*1 なお、同じ1980年7月11日には、小松が政策研究員として参加した大平正芳首相による制作研究会「文化の時代研究グループ」報告書が発表された。議長は山本書店主・山本七平、政策研究員兼幹事として浅利慶太、山崎正和、政策研究員に上田篤、小椋佳、日下公人、公文俊平、黒川紀章、香山健一が名を連ねた。国際社会と文化の項には次のようにある。
(1)人類の歴史は諸地域間の文化・文明の交流の歴史であり、文化は交流によって生々発展する。 (2) 諸国間の相互依存関係のために、文化交流による相互認識と信頼が重要である。 (3) 経済摩擦への応急手当てとしてではなく、居丈高な文化帝国主義になることもなく、相手国民の理解を深め、また逆照射によって自らの正体をも発見していくような、そういう文化交流を活発に天海しなければならない。
また、次の部分からもおそらく山本氏のとりまとめによるところが大であろうと思う「外国で市場を機能させているのは多くはユダヤ人であり、彼らは典型的は典型的な商業民族と思われているが、現状は逆で、イスラエルの商社が日本方式を積極的に取り入れて現地で話題となっている。この相互受容は全般的・世界的といえる状態に近づきつつあり、市場文化のすべてに広がっていき、…(後略)」。
*2 もちろん古くは京都学派にさかのぼる。この時期に、理系的(脱人文的、あるいは分離融合的)=脱イデオロギー的な動機から、またしてもおなじ図式が再演されたとみるべきだろう。
*3 木村もここではそれに歩調を合わせている。1990年代には日本は「まあなんとかなる」けれども21世紀の初めともなると、日本が勢いを維持していることは「難しい」というのが小松の「予言」だ(同書、105頁)。
*4 これに限らず木村がカリキュラム改訂の必要性について述べたものは、管見では見当たらない。唯一突っ込んだ話をしているのは、山崎正和・丸山才一との鼎談『鼎談書評 三人で本を読む』(文藝春秋)で、山崎正和が「公教育から「歴史」を廃止せよ!」(「たとえ偏っていてもいいから、一つの信念を述べる」べき)と訴えたとき。「十代の子供に歴史が分るなどということはありえない」「本来、正しい歴史の教科書などありえません。歴史叙述はすべて副読本としての扱いしか出来ないものなんですね。独特の史観、人生観、世界観がそこに反映されてこそ読むに値するからです」「歴史というのは、人間を考えるのに一番いい科目だから、入試科目から除いても、授業だけはちゃんとやるべきだと思います」「いまの歴史の教科書に一番欠けているのは、現実感覚なんですね」「その意味で私は、まず地方史を教えるべきだと思います」「(小説を使うなど)教科書の叙述をもう少し自由にしてほしい」などと答えている。世界史必修化のキーパーソンの率直な意見として傾聴に値する(なお当時の木村は、教科書の編纂に関係していなかったわけではない)。
*5 木村による良知力『向こう岸からの世界史』評(丸谷才一・木村尚三郎・山崎正和『鼎談書評』文藝春秋、1979年、313-314頁)。
*6 そもそも小松も梅棹も、日本を一個の「文明」とみなすことには慎重(「亜文明」「サブシビライゼーション」と呼称)で、トインビーは日本を持ち上げ過ぎと付言する(同書、84頁)(→トインビーについてはニッポンの世界史#4)。
*7 たとえば特定の遺伝子マーカーを共通にもつ人々の集団(ハプログループ)を通した説明づけなど。
参考文献
丸谷才一・木村尚三郎・山崎正和『鼎談書評』文藝春秋、1979年
梅棹忠夫編『文明学の構築のために』中央公論新社、1981年
木村尚三郎編『ユーラシア時代の日本人 : '90年代からの設計』朝日新聞社、1982年
丸谷才一・木村尚三郎・山崎正和『鼎談書評 三人で本を読む』文藝春秋、1985年
『現代思想 2021年10月臨時増刊号 総特集◎小松左京 ―生誕九〇年/没後一〇年―』青土社、2021年
いいなと思ったら応援しよう!
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊