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【ニッポンの世界史】#41 世界史は、なぜ必修化されたのか?(その2):必修化までの経緯

 世界史必修化までの経緯には、さまざまな人物や審議会が関わり議論も錯綜して追いにくいところがある。
 今回はちょっと長くなるが、当時の議論の前提や文脈を踏まえつつ、審議会の内外の動きとともに大きな流れを、基本的な事実確認として時系列で整理しておくこととしたい。


***

「社会科」の揺らぎ:戦後教育の総決算

1986年4月23日 臨教審「第二次答申」まで


 1985年9月10日、秋のはじまりとともに、新たな教育の方針を探る会議が静かに始まった。文部省が設置した「教育課程審議会(教課審、会長は福井謙一(1918〜1998))」である。その目的は、「戦後教育の総決算」。これまでの制度を一度見つめ直し、新しい時代にふさわしい形に編み直そうという試みだった。

 だが、教課審の初会合で文部省の幹部が口にしたひと言が、早くも議論の火種となる。
 「高等学校における社会科の教科構成について、再検討の必要があるという声が出ています」。

 実はこの少し前、あの「臨時教育審議会(臨教審)」(1984年8月発足)という会議体も動き始めていた。こちらはより大きな枠組みで教育全体を見直す組織。
 1986年1月、臨教審は「初等中等教育における社会科の在り方を見直し、世界地理、日本地理、世界史、日本史の基礎からしっかり教えるようにすること」と提言(「審議経過の概要その3」)。こちらでも、従来ひとまとめにされてきた「社会」という教科の枠組みを解体し、より明確な形に整えるべきではないか、という意見が強まっていった。
 そして同年4月の「第二次答申」では、さらに踏み込んだ見直しが提案される。とりわけ高校では、歴史教育の専門性や系統性に配慮し、「社会」という一つの教科にすべてを押し込むのではなく、教科の枠そのものを再編すべきではないか、という提言だった。中学校についても、「検討の余地がある」と言及され、教育現場に波紋が広がった。ただ、この段階では臨教審のなかにも存続と廃止の両論があることも明記されていた(注)。

(注)文部省編『文部時報 = The monthly journal of Monbusho(1309),ぎょうせい,1986-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2227778 (参照 2025-04-13)、36頁を参照。




社会科再編論の背景:「世界史離れ」と「国際化」

1986年2月〜 :教育課程審議会「課題別委員会」の動きと中曽根首相


 こうした流れを受けて、教課審の中に「課題別委員会」が発足。1986年2月、第7回総会で4つの分科会が設けられ、そのうち「第三委員会」で社会科教育についての本格的な審議が3月に始まった。委員には次のような人物が名を連ねていた(注)。

  • 東洋(1926〜2016)

    • 東大教授。当時は当時は同教育学部長。専門は発達心理学・教育工学

  • 木村尚三郎(1930〜2006)

    • 東大教授。専門は歴史学(中世西洋史)。『朝日新聞』に「山川グループ」の一員と報じられ、教育課程審議会における歴史独立論・世界史必修化の急先鋒となった人物。

  • 森隆夫(1931〜2014)

    • お茶の水女子大教授。当時は同教育学部長。専門は教育行政学。

  • 諸沢正道(〜2003

    • 元文部事務次官。当時は国立科学博物館長。主査。のち、1987年11月13日の世界史必修化の事実上の決定におけるキーパーソンとなる人物

  • 山口薫(1924〜2015

    • 東京学芸大学教授。専門は特殊教育学。

  • 江副浩正(1936〜2013)

    • リクルート社長。


 委員会では、「高校の社会科は、このままでよいのか?」という問いが繰り返された。とくに焦点となったのは、歴史や地理、公民といった科目を、社会科という一つの枠におさめたままでよいのかという点。専門性を高めるためには、それぞれを独立させたほうがよいのではないか——そんな意見も出た。

だが、問題はそう単純ではない。大学のカリキュラムとの接続、教員免許制度との整合性、生徒の負担や理解度への影響……さまざまな要素が複雑に絡み合っていた。予定していた6月末の審議終了は7月にももつれこみ、最終的に1986年7月、「審議のまとめ」が発表される。ここでは、社会科の枠組みを見直すことには意義があるが、制度全体との関係も踏まえ、さらに検討が必要と結ばれていた。
 なお、「現代社会」という科目については、ここで必修から外す方向が示されている。



 この問題は、やがて国会でも取り上げられることとなる。
 1986年10月6日、参議院予算委員会でのやりとり。ある議員が指摘したのは、世界史離れ」という深刻な課題だった。

村上正邦 これは九月十日付のある新聞でございますが、「中高生に世界史離れ」という記事が載っております。 …
それによりますと、高校における世界史の履修率は六十年には六四・四%、つまり高校生十人のうち四人近くは世界史を勉強してないということになりますね。都道府県別では三〇%台が二県、四〇%台が六県もあるという。総理、ただいまも国際国家日本というお言葉が出てまいりましたが、これで国際国家日本と言えましょうか。

第107回国会 参議院予算委員会、1986年10月6日。村上正邦議員(1932〜2020)の質問。太字は筆者による。

 この頃よく引き合いに出された、高校生の4割近くが世界史を履修せず、共通一次試験で世界史を敬遠する受験生が増えているという指摘(たとえば国公立向けの生徒は、内容的にも受験に有利とされた「現代社会」を選択し、暗記地獄化した世界史を避け「日本史」「地理」を選びがちとなっていた(「高校の世界史離れ定着」『読売新聞』1983年12月7日朝刊))。

 それに対し、中曽根首相はこう応じる。


この間その新聞を見まして、私も非常に今憂いをともにしている者でございます。やはり国際国家と言う限りにおいては、周りのこと、我々が住んでいる世界、社会のことをよく知らずして国際国家には絶対になり得ない。そういう意味において、高校生の世界史の履修者が四〇%いないということは世界史を知らないということでございますから、隣国やあるいは世界の国々を知らないという状態ではいけない、これは何とか改革する必要があると感じておる次第でございます。

第107回国会 参議院予算委員会、1986年10月6日。太字は筆者。



 世界史を知らない、ということは、世界の国々を知らない、ということ。
 それでは「国際国家」たりえない。

 この発言の中曽根首相の真意は、前年に文学者の梅原猛(1925〜2019)との対談にもよくあらわれている。
 中曽根は前年1985年のレーガン・ゴルバチョフ会談が「新しい世界史への展望」の端緒と位置付けた上で、梅原と次のように対談する。

梅原 総理、おめでとうございます。今年は日本にとって大変な年になると思いますが。
中曽根 ええ、…[米ソ会談を踏まえ]…日本もまたそうした大きな世界の動きに応じて日本自体の世界に対する姿勢、あるいは欧米諸国との関係を、もう一度よく再検討しながら、大きく前進させる年だろうと思います。それにしても、やはり大事なことは、日本人自身が、日本とは何だろうか、自分とは何だということを、よく知った上で世界の中へ入っていかないと、どこの国民だかわからない人になってしまう危険性も出てきつつありますね。

「世界文明の流れと日本の役割」、『文藝春秋』1986年2月号。梅原は当時京都市立芸術大学長。


 自国の文化や歴史に立脚したアイデンティティを礎とし、世界の多様な文化や歴史を理解すること。それが、世界史の転換期にあるこれからの教育に求められる姿であると、ここで首相から明確に示された形となったわけである。

(注)『内外教育』1986年2月25日。






突如現れた「世界史必修」—木村尚三郎の役割


1987年2月 臨教審「第三次答申」:国際化の提言

 中曽根の述べる文脈における国際化の必要は、審議会の議論にはどのような関連が見られるだろうか。

 1987年2月、臨教審は「第三次答申」を発表。
 社会科の位置付けがわかる箇所を、ある程度の文脈がわかるように示しておこう。

第5章 時代の変化に対応するための改革
 第1節 国際化への対応
…日本の教育システムが国際化に対応するための出来合いの即効薬があり得ないのは当然である。…「モノ」「カネ」「情報」に続く「人」の国際化、すなわち、すぐれて我々の意識の転換であり人間性の再確認であるだけに、失敗を恐れず手探りで進む姿勢こそ、最も重要であると考える。

 ④主体性の確立と相対化—生涯学習への課題
 ア 国際社会に通用する日本人として、主体性を確立しつつも自らを相対化する態度と能力を有することが要請される。すなわち、日本文化について深い素養をもち、しかも、日本の在り方を相対化して、自らをらせん型に深めかつ高める視点が必要である。

文部省 編『文部時報 = The monthly journal of Monbusho』(1327),ぎょうせい,1987-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2227796 (参照 2025-04-13)、241-247頁。


 ここでは「国際化」に加えて「相対化」というタームも使われている。すなわち「比較文化的視点」を持ちつつ、国際社会の中を生きる力を養おうというわけだ。この課題意識の真意は、臨教審委員の香山健一(1933〜1997)が著書で述べた次の箇所からより明確に浮かび上がってくる。


このように追いつき型近代化時代の終了という時代的背景ならびに戦後四十年という時間の経過と、それによる国際社会との相互依存関係の深化によってはじめて、我が国は比較文化論的な広い視点に立って、また近代を超えるというより広い歴史的視野に立って「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」について現実的に考えることができる時点に到達したのだということができるであろう。

香山健一『自由のための教育改革—画一主義から多様性への選択』PHP出版、51-52頁。太字は筆者による。


 「近代を超える」、この連載をたどっていただいたからならピンと来るだろう。
 まさにこれは第38回で述べた「比較文明論」(比較文化論)の潜在的な動機であるとともに、京都学派以来の「ニッポンの世界史」が一貫して抱え込む動機でもある。

 「国際化」のためには比較文化的な視点をもたねばならない。それは、世界の諸文明を比較し、フラットに世界史を描く「主体」としての日本人の創造である。
 ここに、1980年代の教育改革が、ジグザグな道をたどりながら「世界史必修化」へと至る、その理路が生じることとなった


 このように、歴史や地理(すなわち社会科)のカリキュラム改革が「国際化への対応」という観点のなかに明確に位置づけられた「第三次答申」であったが、この時点での報道の焦点は、まだそこには当てられていなかった点を付言しておこう。
教科書検定制度の指針や、審議会において大きな発言力を持った香山健一(1933〜1997)の掲げた「個性化」「自由化」の動向に置かれていた。たとえば、「簡略化し中立性重点に/教科書検定の改革提唱」(朝日)、「教育研究に重点投資を/教科書検定簡略化、公開へ」(サンケイ)、「教科書検定を簡素化/公開も提唱」(毎日)、「"教育立国"民活で/教科書「新検定制」に/9月入学は見送り」(読売)(注)。

(注)天笠茂「<文献・資料解題> 臨時教育審議会と新聞報道(その3) : 第三次答申と最終答申について」『学校経営研究』、1988年、73-86頁、https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202542383744。「教科書検定制度」に注目が集まっていたのはもちろん、1982年に新聞報道の過熱により東アジアの外交問題に発展した第一次教科書問題が背景にある(また前後するが、1987年には日本を守る国民会議(現・日本会議)編『新編日本史』も政治問題化し、こちらは第二次教科書問題ともいわれる)。


1987年3月 教科等別委員会の社会委員会:木村尚三郎による歴史独立論・世界史必修化の定期


 とはいえ、この時点でもまだ「世界史必修化」の話は出ていない

翌1987年3月には、教育課程審議会に教科等別委員会が設置され、そのなかの社会委員会において小・中・高を通して社会科を再検討する場が設けられた。初会合で木村尚三郎教授が訴えたのは、歴史独立論だった。

歴史を社会科の枠から外さなければならない理由は、歴史学、歴史研究あるいは歴史教育が本来社会科に馴染まないという点にある。つまり、その中には社会科的な要素、社会科学的な要素だけじゃなくて、人文科学的な要素もあり、文学も宗教も出てくるのであり、社会科というよりは人間諸学の基礎をなしている。しかも現代という時代が世界的に大きな転換期となっていて、歴史的な見方や思考を通して学んでいくことが必要になっている。そこでこの機会に歴史教育は社会科のわくから独立させ、そして生徒に歴史的なものの見方を学ばせるということが不可欠になっているのではないかと思う。

矢吹芳洋「高校社会科の「再編」と世界史必修をめぐって」、『専修大学社会科学研究所月報』338、1991年、5頁より。

 木村の論理を図式化すればこのようになるだろう。

 要するに、比較文化的な視点を養う以上、文学・宗教のような「人間」を扱わない(と木村のみる)社会科には、とうてい歴史学・歴史研究・歴史教育は扱うことができないという見方である。
 「歴史は社会科学ではなく、人文学を含む。社会科の中にあるべきではない」とするその主張は、まったくといっていいほど賛同を得られなかったが、理事長を務める私立高校の生徒全員に世界史を課していた田村哲夫(1936〜、渋谷教育学園理事長)とともに粘り強く訴え、5月には両論併記の形式が成立した。字数の上でも独立賛成100字、反対100字という、まさしく「両論併記」の決着となった(『朝日新聞』1987年11月14日朝刊)。

 とはいえ、世界史の必修化をめぐっては、意見は三つに割れた。「世界史を必修にすべき」「公民を必修にすべき」「必修を設けるべきではない」。
 なぜ宗教や文学を比較文化的に扱うにあたって、世界史をとりたてて必修化しなければならないのか?
 国際理解であるならば、政治・経済や倫理、そして廃止の方向で議論の進んでいた現代社会でよいのではないか?
 そして、より大きな問題としては、世界史を一つだけ必修としてしまったら、政治・経済や倫理といった今でいうところの公民科目が必修から落ちてしまう。これをどうするべきか? 
 だったらやはり総合的な枠組みとしての社会科は残すべきではないか?

 結果的に1987年6月26日に出された教育課程審議会社会委員会の「社会科の改善方針(案)」においても、結論は出なかった。





「社会科解体」への反発

 なお、社会委員会での審議中に出された1986年4月の臨教審「第二次答申」から、この社会委員会の「改善方針」までの間、学会や教育者の団体から批判的な声明が相次いだ。第2回で扱ったように、戦後の学校世界史黎明期を知る教員・大学人もまだ現役の時代である。だからこそ、教育課程審議会の動向は「社会化解体」とも命名され、研究会や関連雑誌などを舞台として議論かまびすしいところとなった(注)。

  • 1986.5.1 日本社会科教育学会「社会科教育に関する要望書(Ⅰ)」

  • 1986.5.10 全国地理教育研究会「教育課程改訂に当って「地理」の取扱いについて要望書」

  • 1986.5.19 全国社会科教育学会「教育課程改訂における社会科教育に関する要望書」

  • 1986.8.1 歴史教育者協議会「教育課程審議会への要望」

  • 1986.8.27 日本社会科教育学会「社会科教育に関する要望書(Ⅱ)」

  • 1986.10.26 日本社会科教育学会・全国社会科教育学会「社会科改定についての要望」

  • 1987.1.14 歴史教育者協議会「教育課程審議会への第二次要望書」

  • 1987.4.2 歴史教育者協議会「高校社会科新教育課程に関する要望書」

(注)天笠茂「<文献・資料解題> 臨時教育審議会と新聞報道(その3) : 第三次答申と最終答申について」『学校経営研究』、1988年、73-86頁、https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202542383744。「教科書検定制度」に注目が集まっていたのはもちろん、1982年に新聞報道の過熱により東アジアの外交問題に発展した第一次教科書問題が背景にある。





1987年11月4日:世界史必修化を方向づけた「私的懇談会」

1987年6月 高校分科会:世界史必修化が大勢を占めるも慎重論も存在


 結局、議論は1987年6月26日より教育課程審議会高校分科会へと引き継がれた。
 だが、やはりここでも世界史必修化と、それにともなう社会科の再編には慎重論があった。8月7日には臨教審「第四次答申」が出されたが、ここには社会科についての実質的な決定は記さない姿勢がとられた。
 そんな中、10月2日には中曽根首相が高石文部省事務次官に対し「歴史教育をしっかりとやってほしい」と“要請”をしたことが報じられ、野党の批判が強まった(『歴史地理教育』441、1989年、8頁)。
 これに対し、社会科はアメリカによる民主化政策の一環として新たに設置された科目にすぎず、戦前のように独立させるべきだという声は、自民党の文教議員や前回の林健太郎参議院議員(元・東大学長)のように主に保守的な論調に根強かった。
 それゆえ「歴史独立」派と「社会科存続」派の対立は、いよいよ政治化の様相を帯びるところとなったのだ。

 そうした中、10月27日に開かれた高校分科会では世界史必修論に対する積極論が大勢を占めた。
 ただ、朝日新聞が関係者によるところとして報じたところによれば、

・「独立論に立つ委員ら」が世界史離れへの対応と「国際化時代にあわせ、世界をもっと知るため」に必修化を主張。

これにたいしては、
・地理も「世界史と表裏の関係にあるので同じく必修に」
・世界史離れの原因は大学入試の出題が細かすぎるから
といった意見も挙がったものの、世界史必修化自体には「格別、異論がなかった」(「世界史、必修に変わる可能性:教育課程審・高校文化会で大勢」『朝日新聞』1987年10月28日朝刊)。
 財界出身の委員も企業人の国際化への対応という面で支持し、大学で物理を教える委員も賛成、さらに欠席した女性委員も「賛成」のメモを届けたという(『朝日新聞』1987年11月14日朝刊)。
 1987年3月の社会委員会とは打って変わってのムードだ。

 そういうわけで、座長らが11月中旬までに考えをまとめることになったものの、社会科を存続させた上の世界史を必修とするか、あるいは日本史・地理、政治・経済や倫理の扱いをどうするかといった点は、確定的ではなかった。



1987年11月4日  高等学校社会科教育懇談会:必修化と社会科再編の事実上の決定


 審議が停滞するおそれもある中、主査・諸沢正道がとったのは、自らの私的懇談会(「高等学校社会科教育懇談会」)を設ける手だ。ここで、田村哲夫・木村尚三郎の高校分科会の委員含め、専門家10名のヒアリングをすることとしたのだ。

 結論からいえば、1987年11月4日、その場で世界史必修化と社会科の科目再編は事実上、決定された
 明確な反対意見がなかったとされるが、この場には再編論者が多数含まれており、「結論ありきではなかったか」と疑問も残された(注)。



1987年11月13日 教育課程審議会「審議のまとめ」:正式決定

 とはいえ一度動き出した方針はくつがえられず、1987年11月13日、教育課程審議会は港区のホテルでの3時間に及ぶ討議の末、「審議のまとめ」として「地理歴史科」「公民科」への分離と、世界史の必修化を正式に決定された。それぞれの科目で何を教えるか、何が目標かといった議論はもちこされ、ともかく結論を急いだ形だ。

 翌日14日の朝日新聞に「なぜ「歴史科」独立 「社会科解体」で2氏に聞く」として、推進派の林健太郎・参院議員と反対派の上田薫・都留文科大学学長(1920〜2019)のコメントを紹介している。
 林が選ばれたのはシェア・ナンバーワンの山川出版社の執筆者の一人であり、同日の別記事では「「山川グループ」と呼ばれる東大系の歴史学者」の一派にくくられている。
 林は「歴史は社会科学であると同時に人文科学」「(占領軍がつくった)社会科の役割は終わった」とし、「当時の国史教育の復活などありえません」と戦前回帰との批判を一蹴している。
 これに対し、社会科創設当時の文部省の事務官であった上田は、社会科は、人間の暮らしを良くするにはどうしたらいいかを考える教科とし、「そのために歴史があるのであって、アカデミックなものがまずあるわけじゃない」と推進派歴史学者の動きを牽制。そして「歴史独立、世界史必修を強行すれば、ますます年号の暗記になり、世の中の動きを人間の生活と結びつけながら歴史を見て行くのに逆行します」と付け加える。


 なおその後、社会科の6科目主査のうち2名(朝倉隆太郎・上越教育大学教授(1921〜2001)、平田嘉三・広島大学教授(1925〜2008。16を参照))が抗議の辞任を表明。
 さらに先述の中曽根首相による高石文部省事務次官に対する“要請”(1987年10月2日)の事実や、社会科再編に慎重だった文部省の小西亘初等中等局長の異動などの政治的背景、さらには重要な決定が「私的」な会合に媒介されてブーストされたことなどが問題視され、新聞報道、一部週刊誌報道でも「クーデター」としてとりあげられ、のちに国会(衆議院文教委員会)においても参考人質疑が行われている(1989年11月29日)。


1989年3月 新学習指導要領の告示


かくして1989年3月、文部省により改訂学習指導要領が告示されることとなった


 さて、込み入った経緯はここまでとして、前回から取り組んでいるのは「なぜ世界史が必修化されたのか?」という問題だ。
 これを考えるにあたって、どうしても踏み込んでおくべきは、やはりこの一連の経緯のなかで明らかに大きな役割を果たし、多方面での発信をおこなっていた歴史学者・木村尚三郎の考えだろう。


 また、「山川グループ」と報じられた東大系の歴史学者(ほかに山本達郎(1910〜2001)、村川堅太郎(1907〜1991)ら)を含むアカデミアの動きが、政府サイドの世界史必修化推進派の思惑とまったく軌を一にするともいえない。

 世界史が特権的に高校の必修科目に押し上げられることとなったこの事態は、「ニッポンの世界史」にとっても重大な節目である。
 さらに丁寧に見ていくことにしたい。
 (続く)




(注)矢吹芳洋「高校社会科の「再編」と世界史必修をめぐって」、『専修大学社会科学研究所月報』3381991

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