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『アルカディア航路』試し読み①|四月十一日(土)16:27 快晴

まえがきにかえて

長編小説『アルカディア航路』の試し読みを公開します。あわせて、本日より文庫本の販売を開始します。
この小説は、日時・曜日・天気を記した46の断片からできています。
主人公・三輪剛也の物語を軸に、地下のロックバーへ集まる人々の会話、仕事、音楽、蘊蓄、酩酊、SNS上の言葉までを重ねながら、その場所に生まれる共同体を書いた小説です。
今回公開するのは、最初の断片「四月十一日(土)16:27 快晴」です。第2断片は一週間後に、その後は三日おきくらいで公開する予定です。
音楽や物理学の話も登場しますが、専門知識は必要ありません。まずは、この小説のリズムと、そこに流れる空気に触れてもらえたらうれしいです。
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試し読み

 四月十一日(土)16:27 快晴
 まばらに雲があるばかりの晴れ上がった空から降り注ぐ西日を一面に受けてきらきら輝く川面に目をやり、なぜだか心がざわついて、三輪剛也は顔を右に向けた。大小さまざまな石が埋め込まれたコンクリートの斜面が川岸からなだらかにせり上がり、それが五メートルほど続いてから直立し、五十センチほどの段をなしているその向こう、河川敷には一面に芝生が広がっている。ピクニックだろうか、ぽつぽつと点在しているブルーシートに座り込んだ十人くらいの集団、その一番近くの一団の中央に位置する長髪の若い男——白いTシャツに赤白黒のチェック柄の長袖シャツという格好の男が、ギターをかき鳴らしながら気持ちよさそうに歌っていた。彼を取り囲む人たちはだれもが笑顔で手を打ち鳴らしている。いかにも一昔前の青春ドラマに出てきそう。剛也は顔をしかめ、クソがと吐き捨てるように口にした。なんでイラつくんだろう? 研究の息抜きと思ったのに、こんな気分になるんなら来るんじゃなかった。
「はぁーあ」
 剛也はため息をついて前に目を向けた。二十メートルほど前方に高架橋があり、三十メートルくらいの間隔で橋脚がある。それらのうちごく川に近いもの、その川に面していない方のコンクリートの壁に向かってボールを投げている人がいる。目を凝らすとユニフォームを着た少年のようだ。剛也は頭を捻った。小学生がこんなとこまで来て練習する? まあどうでもいいか。とにかく計算を終わらせないと。もう少しで終わるはず。冬樹さんに早く知らせたい。驚くだろうな、きっと。剛也は相好を崩し、成果を示したときの冬樹教授の様子を思い浮かべた。両頬にくっきりとしたえくぼを浮かべた笑顔。細目を見開き、大げさに両手を振りながら剛也の発見がいかに素晴らしいか、自分のことのように熱弁する。剛也はニヤつく顔を仰いだ。ようやくだ。最後に会ったのは卒業式。だから二〇〇六年で、もう三年か。ずいぶんと時間がかかったけど胸を張って誇れる結果だ。ゴミだなんて言わせない。にっこりした剛也の脳裏に、冬樹教授との出会いの場面が蘇ってきた。あれは大学三年の四月。最初の統計力学の講義。最前列の中央の席で腕組みして、新進気鋭の物理学者がどんなもんか試してやろうって、生意気なガキだった。あの態度が火をつけたのかな、冬樹さんはこっちを見てニカッと笑ってから、無秩序さの指標であるエントロピー、それが増大し続けるっていう原理は、と言って教室の後ろの方に目を向けて続けた。熱力学第二法則っていう。エントロピーは増えて増えて、最後には最大値に達する。宇宙は均一化して変化を止める。これが宇宙の熱的死。そこでまた冬樹さんはこちらをチラッと見た。いたずらっぽい笑みを浮かべて、黒板にチョークを置き、後方に視線を向けて口を開いた。でも本当かな? 宇宙が死ぬとか、エントロピーが増え続けるとか、本当だと思う? 僕はそれを研究してる。マクスウェルの悪魔っていうんだけどね。ほら、電磁気学でも出てきただろ? あのマクスウェルさん。マクスウェルは考えたんだ。気体分子が入った容器の真ん中に、小さな穴の空いた仕切りをつける。その穴を通じて、片方に素早い分子だけ、もう片方に遅い分子だけ入るように、その穴を開閉できる悪魔、熱に秩序をもたらす悪魔がいたら、どうなるか。どうなると思う? そこで冬樹さんは——
 音が聞こえ剛也はハッとした。いつの間にか高架下を抜けていた。右前方に目を向けると、百メートルほど先のだだっ広い野原に百人か二百人か、ともかくたくさんの人が群がっている。ロックが流れている。音がぼんやりしていて、何の曲かはわからない。なんだろうあれ? 難しい顔をした剛也だったが、すぐにピンときた。野外のクラブか、レイヴってやつ? ロックのクラブって懐かしいな。何年ぶりだろ? 久々に踊るか。剛也は笑みを浮かべて走り出した。
 人だかりの近くまで来ると剛也の思った通り、前方にDJブースがあった。知らない曲が流れている。静かに歌っていると思ったら急に叫び出したりする縦ノリの曲で、二十メートルほど前方、白いタープテントの下のDJブース前では誰もがTシャツ一枚で汗だくになり、暴れるように踊っていた。ヤバいな、全員あんなかな? 剛也は周囲に目を向けた。しかし激しく踊っている人はいない。前方とは違って人がまばらで、隣の人と話したり、ボトルや缶を口に運びながら緩やかに体を動かしたりしていた。それが十メートルほど前に行くと隣の人と一メートルも間隔がなくなり、さらに五メートルくらい前に行くと肩がぶつかりあう混雑になる。横はどうかな? 剛也は右を向いた。十メートルくらい離れたところから高架橋の方へとブルーシートが敷かれている。ブルーシートも人と同様、手前の方は隣との間隔が狭く、人が一人やっと通れるくらいの隙間しかなかったが、DJブースから遠ざかるほどにまばらになっていった。一番遠いものはDJブースから百メートルくらい離れていそうだ。剛也は時計回りに体を回転させ、ブルーシートの配置を確認した。大体のブルーシートはDJブースを中心とした扇形の範囲に敷かれていたが、いくつか例外があった。その中の一つ、剛也の真後ろ五メートルくらいにあるブルーシートでは男が二人寝そべっていた。その周りを取り囲むようにして人が踊っていて、あんな状況でよく眠れるなと半ば呆れつつ眺めていると、そのブルーシートの手前にいた全身黒ずくめ——黒い中折れ帽に黒いシャツと黒いジャケット、黒いスラックスに黒の革靴——の男、目がくりくりとしたその男が、左右の手に持った何かを体の横で振り回し始めた。その何かは、紐なのか棒なのかわからないものの先にオレンジ色をした球状の物体が取り付けられていて、その物体からオレンジ、黄、青、紫、赤と剛也が目視できただけでも五色の細長い布が伸びており、球状の物体が回転するとカラフルな軌跡が中空に描かれた。縄跳びのように左右の手を一緒に回すので、右の球と左の球は同期している。つまり横から見たとき右が三時なら左も三時の向きで時計回りに回転していたのだが、少しして男が右手と左手を近づけ、さらには左右に開いた足を固定して軽くストレッチするように上体を捩じると、二つの球は百八十度ずれた状態(右が三時なら左が九時)で左から右、右から左へと、交差しながら横向きの八の字を描き始めた。
「おお、すんげぇー!」
 剛也は思わず感嘆の声を上げたが、すぐに恥ずかしくなり周囲に目を向けた。誰もこちらを見ていない。体を反転させてDJブースの方を見ても、こちらに顔を向けている人はいなかった。DJブース周辺に群がる人が増えている。いつの間にか曲が変わっていた。誰かを怒鳴りつけるようなボーカルの声、バイクのエンジン音のように唸りを上げるベース音、全身に浴びせられた音に魂を乗っ取られたかのように手足を動かし叫び声をあげる群衆。上半身裸の男がかなりいる。何かを確かめ合うように互いに激しくぶつかりあう。密集している辺りをめがけて後ろ向きで飛び上がり、お尻からぶつかっていく者もいた。
 その様子に剛也はぼんやりした眼差しを向けた。ブラウン運動みたい。エントロピーが増大しとる。いかんなあ。剛也はにんまりした。癖が抜けない。人が密集してると気体分子運動論的に考えちゃって。速く動く人と遅い人を分類したり——ああ、そうだった。剛也は目を見開いた。マクスウェルの悪魔! あのとき初めて知ったんだ。悪魔がいたらどうなるかって、冬樹さんは微笑みながら訊いた。だけど誰も何も言わなかった。顔を俯けちゃって。俺もそうだった。それで痺れを切らしたんだろうな、永久機関って冬樹さんは言った。悪魔に熱を仕分けさせて、そしたら温度差ができて、その分仕事をさせることができる。エントロピーを下げて上げて、いくらでも熱を仕事に変えられる。こんなことが可能かどうか、不可能なら何でなのか、つまりエントロピーはなぜ増え続けるのかってことだけど、それを量子力学のミクロな視点から、僕は研究してる。そこまで口にすると、冬樹さんは真ん中分けの髪をかき上げた。次いで、静かだね、と不満そうに言ってからメガネを直し、教室全体を見渡して訊いた。君たちの中で物理学者になりたい人はどのくらいいる? どう? 俺は意を決して手を上げた。だけど冬樹さんの視線は後ろに向かってて、振り返ると半分くらいの手が上がってた。手を下げさせてから冬樹さんは言った。そうか、結構いるんだね。一人か二人かな? 学者になれるのは。でもまあ大体はゴミ、下らない論文ばっか書くことになる。そのレベルを超えて価値のある仕事をする人はこの教室に——そこで冬樹さんは顎に手を当てて全体を見渡した。最後にこっちを見て、またニヤッとしてから言った。まずいない。悔しいかい? ふざけんなって思った奴いる? 少しして冬樹さんは表情を緩めると口を開いた。学者を志すっていうのは荒海に立ち向かうようなもんなんだ。自分だけを頼りに理想を求めてどこまでも航行する。難破するかもしれない、というかほとんどそうなる。それでもなりたいって奴は僕の部屋に来なよ、鍛えてあげる。
 目を細めて過去を懐かしむ剛也だったが、目の前にワインボトルが現れ、ギョッとした。そちらを向くと、汗で黒っぽく変色した迷彩柄のTシャツがあった。すぐさま顔を上げる。角刈りの大男がこちらを見下ろしていた。細目で面長の男。剛也と目が合うと眉を思いっきりつり上げたひょうきんな顔をし、親指と人差し指と中指で何かを握る形にした左手を口に近づけた。顔を上向け、親指が下になるまで手首を回転させる。一気飲みしろってこと? そりゃあ無理だ。剛也はいかにも辛そうな顔をして首を横に振ったが、角刈りの大男は同じ仕草を繰り返した。命令ってこと? 何様よ。剛也は男を睨みつけた。しかし剛也の意図が伝わっているのかいないのか、男はぼんやりした顔をしている。よく見ると男の目は充血していて、焦点も定まっていない。ああ酔っ払いか、めんどいなあ。危険な奴だったりして。何とか穏便に済ませたい。剛也は渋い顔をして見上げたが、男はニヤニヤした顔で同じ動作を繰り返した。しょうがない。剛也は諦めて男からボトルを受け取った。それから大きく深呼吸をするとボトルを口に持っていき、ゆっくりとボトルと顔を傾けた。口の中にワインが勢いよく流れ込む。懸命に喉を動かし飲み下すが、傾斜が増すにつれて口内に残るワインの量が増していき、すぐに限界を迎えた。もう無理。息ができない。剛也はしゃがみ込んでボトルを足元に置き、そのまま地面に四つんばいになった。口に含んだワインを吐き出す。しばらくそのままの姿勢で呼吸を整えた。
 三十秒ほどして剛也がようやく立ち上がったとき、次の曲が流れ出した。エレキギターとシンバルが鳴り響き、ギターがメロディアスなフレーズを奏でる。この曲なんだっけ? と、腰が浮き、目を下に向けると角刈りの頭があった。体が持ち上げられる。振り落とされないように頭にしがみつく。動きが止まったので顔を上げると、百人はくだらない人の群れ、その向こうにはDJブースが見える。その全てが西日を受けてうっすらオレンジ色に染まっていた。またシンバルが鳴り、ギターが同じフレーズを繰り返した。なんだっけなこの曲。再度シンバルが鳴ると、その音に合わせてDJブースの近くにいる十人ほどがこぶしを頭上に突き上げた。それを真似たのか、少し遅れてDJブース中央にいる男もこぶしを掲げた。ギターフレーズが反復されシンバルが鳴り響くと、今度は二十人ほどがこぶしを突き上げた。その様を眺めながら曲名を思い出そうと頭を捻っていた剛也だったが、ドラムが性急なビートを刻み始め、同時に歌が始まってようやく曲名がわかった。リバティーンズの『Death on the Stairs』。何で思い出せなかったんだろう? 一番好きな曲なのに。剛也は渋い顔をしたが、風景が回り始めたので目を見開いた。三十メートルほど向こう、人がまばらに揺れている辺りに丸く小さいものがたくさん浮かんでいる。あれはなんだ? 透明で光を反射して、空中を漂う。何かを手にした四、五歳くらいの女の子と小学校高学年くらいの男の子。ああシャボン玉か。にんまりし、髪が光ってたけど金髪だったのかなと頭を巡らせていると強烈な日差しが目に入り、左手を顔の前に掲げた。一瞬目を閉じ、次いで指の間から向こうを覗くと川岸を歩く二人が見えた。カップルかな? と疑問に思ったのも束の間、高架の手前でキャッチボールしている二人が見えて、壁に向かってボールを投げてたあの少年なのか? と考えているとDJブースが見えてきた。大男の動きが止まった。相変わらず曲に合わせて激しく揺れ動く人の群れに目を向けているうち、DJブースが見えなくなり、前方にいる人たちが徐々に視界から消えていって、ついに風景が元通りになった。
 剛也は男の肩から降り、再びよく見えなくなったDJブースに目を凝らした。夢みたいだった。もう少しあのままがよかった、もう一周し——
「自分大樹っていいます」
 声がして驚き、剛也は右を向いた。大男がこちらに腰を屈めている。まだびっくりしていると大男は繰り返した。
「大樹っていいます」
 剛也は笑みを浮かべて頷いた。するとタイキという男はこちらに耳を向けた。ああ名乗れってこと?
「俺は剛也」
 ゴウヤ、ゴウヤと口を動かしてから男は微笑み、また剛也に向かって言った。
「新宿の端っこに最高の店があるんすよ。このあと行きません?」続けてタイキは店名を告げると、先ほどのように眉を思いっきりつり上げて剛也を見た。
 その顔を横目で見ながら剛也は渋い顔をした。こんなに楽しかったの久しぶりだ。行ったらきっと楽しいだろうな。頷きそうになる。が、思いとどまった。でもなあ。剛也は顔をしかめた。さっさと計算を進めないと、もうちょっとで終わりなんだ。
「ごめん」申し訳なさそうな顔をして剛也は言った。「このあと用事があるんだ」
 タイキはにっこりと笑った。続いて剛也に向かって右手を上げ親指を立てると、DJブースに向かって歩き出した。その後ろ姿をしょんぼりとした顔で剛也は見つめる。悪いことをした。寮に戻るの嫌だなあ、あの陰気な部屋に。ため息をついて視線を下に向けた。と、右前方一メートルほどの地面にワインボトルがある。剛也は慌てて近づきボトルを拾い上げた。それから顔を前に向けたが、すでにDJブース前にいるのだろう、タイキの頭部は群衆の向こうで上下に揺れていた。その様子を目を細めてしばらく眺め、次いで元の場所にボトルを戻すと、剛也は高架に向かって歩き出した。

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