『アルカディア航路』試し読み②│四年前
四年前
キュッと高い音がして、滑った右手に目がいった。チョークの粉で白くなった指。背後からの圧で肩が上がる。最初の方に書いた式が張り出しすぎて、余白がもうない。息が詰まりそうだ。剛也は苦しそうな表情になった。この部屋に来るようになって一年近く、一向に慣れない。後ろから自分の全てを透視されてる気がする。式の正誤も自分の考えも。不思議だ。最初は自信あったのに、いまは絶対にどこか違ってる気がする。数式を書きながら間違い探しもして、だからこんなにも文字が——
「大体わかった」
後ろから声がして剛也は手を止め、振り返った。冬樹助教授が黒板を凝視している。黒縁メガネ越しの厳しい視線。剛也がチョークを黒板に置くと、冬樹助教授は黒板に目を向けたまま歩み寄ってきた。黒板消しを手にして黒板を埋める数式を一気に消し、次いでチョークを手にすると黒板に図を描き、剛也の方に顔を向けて黒板を指さしながら口を開いた。
「全部ダメ、全くダメ。計算が間違ってるし、議論も飛躍してる。量子力学から熱力学の第二法則を求めるなんて、めちゃめちゃ難しいんだからさ。自分が何を仮定して、どんなモデルで何を示したいか、分かってる?」顔を強張らせて微かに首を傾げた剛也だったが、何も返せずにいると冬樹助教授は先を続けた。「分かってないだろ? 君が取り組もうとしてる問題はすんごい問題なんだよ。時間発展が可逆なシュレーディンガー方程式から、どうやってエントロピー増大っていう不可逆性が現れるのか。一見矛盾する二つがどうやって両立するのか。必然なのか? 何か条件があるのか? それをどう確かめる?」そこで冬樹助教授は言葉を切った。なにか返さなきゃ。何て言えばいい? 苦しげな顔をして考える剛也だったが、返事が浮かばない。チョークの粉が気になり指を擦る。冬樹助教授は再び口を開いた。「まずは量子系の仮定だろ。僕の真似で閉じた量子多体系を仮定するって、それはいい。というか、他にやりようがないからね。おもちゃみたいなモデルだけど。それはいいんだけど、今回のモデルで厳密に、それこそ定理として第二法則を導かないといけない。それができて、スタートのスタートだから。そのはじめの一歩も踏み出せてない。それが君の現実で、僕の現実でもある」
冬樹助教授は口を閉ざしたが、刺すような眼差しをこちらに向ける。返事を催促されているようだ。喉がヒリつく。助けを求めるように右に目を逸らすと、黒板の端に自分が書いた数式が残っていた。恥ずかしい。
「この問題は難しすぎる」
優しい声がして顔を前に向けた。冬樹助教授が微笑んでいる。冬樹助教授は付け足した。「四年では別の課題に取り組んだら? 大学院入試もあるんだしさ」
冬樹助教授は言葉を切ったが、剛也は何も返さなかった。顔を歪める。また大学院の話。うんざりだ。よそに行けってそればっか。
「僕としてはさ」剛也が黙っていることに業を煮やしたのか、再び厳しい表情に戻り冬樹助教授は言った。「この大学じゃない方がいいと思うんだよね、大学院は。万が一、他に全部落ちるようなことがあった場合には、僕がとるけど」
剛也は懇願するような目を冬樹助教授に向けた。
「そんな顔するなって」励ますような口調で冬樹助教授は言った。「剛也はきっとどこに行っても大丈夫だよ。僕が太鼓判を押す。いつでも遊びにくればいい。大学院で落ち着いたら遊びに来なよ。そしたらまた、この問題をやろう」
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