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『アルカディア航路』試し読み⑬|四月二十五日(土)17:57 雨

 四月二十五日(土)17:57 雨
 鉄製の外階段を上りきり、傘を二度振って水を払った。顔を上げると葉桜が四階の高さまで伸びている。三年ぶりか。身震いして息を整え、剛也は右を見た。灰色に塗られた鉄のドア、その中央にある白い看板の赤字——『関係者以外立ち入り禁止』。学部の頃は素通りできた文言が、いまは胸に刺さる。なんでいままで来なかった? どの面下げていまさら来たんだ。そう罪をとがめられている気がする。研究が忙しかったから、冬樹さんの研究の邪魔になると思って、メールではそんな適当な理由を、中退して就職した経緯と共に書いたが、冬樹教授からの返答にはそこへの言及はなかった。
『懐かしいなあ。元気でやってる? 今週土曜僕の部屋に来てよ。休みで用事もないから。送ってもらった草稿には目を通しとく。』
 水曜日に受け取った、たったこれだけの文面を剛也は何度も読み返してきた。そしてこれまで顔を見せなかったことへの言い訳に対して何も書かれていないことを確認しては、自分が恥ずかしくなった。忙しかった? 冬樹さんの研究? なんて幼稚な理屈だろう。子どもが親にする言い訳みたいじゃないか、あからさまに嘘っぽい。冬樹さんも呆れているに違いない。本当は怖かっただけだろ? 頭に響いた言葉に剛也は顔をしかめた。どうしようもない研究をしてることがバレるのが嫌だったんだろ。冬樹さんに否定されたくなかった。逃げてただけじゃないか。厳しく責め立てる声に剛也は顔を俯けた。意識をそらそうとする。しかし声はやまない。冬樹さんを騙すことはできないぞ、彼はホントのことしか言わない、どうだ怖いだろ? ビビったんならとっとと帰ったらどうだ?
「俺は結果を出したんだ」剛也ははっきりと口にした。奥歯を噛みしめ、鼻から大きく空気を吸い込んで口から吐き出し、さらに独語する。「俺は逃げずに物理と向き合い続けた。結果を出した。ビビるのは冬樹さんの方だ」
 剛也はもう一度大きく口から息を吸い込むと顔を上げ、ドアノブに手をかけた。次いで鼻から息を吐き出すと同時に思い切り手を引きドアを開けた。
 中に入ってすぐ左にある傘立てに傘を入れると、前方一直線に伸びる廊下の左右の部屋、そのドアの上の明かり取りに目をやった。照明がついている部屋がいくつもある。剛也は口元を引き締めた。学者には休日なんて関係ないんだ、みんな死に物狂いで研究してる。足がすくみそうになり、剛也は先ほどの呟きを繰り返した。結果を出した、結果を出した、……。災いを退けるおまじないのように口を動かしながら剛也は歩み始めたが、廊下の一番奥、外階段と反対側にある建物内の階段の手前まで来ると、また体が強張った。右上に顔を向ける。明かり取りに目をやると電気がついていた。在室だ。この奥に冬樹さんがいる。剛也は深呼吸した。気持ちが落ち着かずもう一度。だが駄目だった。落ち着くどころか胸を打つ早鐘は激しさを増す。いますぐ帰るかノックをするか二つに一つ、そう誰かに選択を迫られているような気がする。剛也は寮の部屋を思い浮かべた。いけ好かない同期しかいない寮、散らかった室内、間違っても快適とは言い難いあの部屋に、いまは一刻も早く戻りたい。しかしそうしたら大学院在学中からいままで必死の思いで計算し、見出した成果も冬樹さんに見せることはできない。いや、それどころか二度と会えなくなるだろう。
 剛也は口から息を吸い込み、それを口から吐き出しながらドアをノックした。
「はい、どうぞー」
 久しぶりに冬樹教授の間延びした声を耳にし、剛也は再び身を固くした。しかしもう後戻りはできない。鼻から息を吸い込み、ドアノブに手をかけると、奥歯を噛みしめながら鼻から息を吐き出してドアを引いた。
 中に入ると冬樹教授は部屋の奥、正面がドアの方に向くように置かれた机に向かっていた。顔は下を向いている。剛也はドアを閉め、頭を下げながら挨拶した。
「三輪です。ご無沙汰してます」
「おお久しぶり」
 陽気な声がして顔を上げると、冬樹教授は笑顔だった。頬にえくぼを浮かべた懐かしい笑顔。真ん中分けしたサラサラとした髪、黒縁メガネの奥にある細目、縦長の顔にシャープな顎のライン、スヌーピーがでかでかとプリントされたTシャツまで、初めて会ったときの印象のままだ。統計力学の講義で冬樹教授を目にしたとき、剛也は大学生みたいだと思ったものだったが、いまでも大学生といわれたら信じてしまいそうなほど若く見える。まるであの頃に戻ったみたい。胸に渦巻いていた不安が消え、剛也はにっこりと微笑んで返した。
「冬樹さんは相変わらずですね」
「剛也こそちっとも変わんない」そう言ってニヤッと笑ってから、冬樹教授は視線を落とした。「えーっと、どこだったかな」
 冬樹教授は机の右に積まれた書類の山を探り始めた。メールで送った草稿のプリントを探しているのだろう。手持ち無沙汰になった剛也は周囲に目をやった。左の壁沿いは天井近くまである本棚で埋められている。本棚には上から下まで物理の専門書がびっしりと並べられており、それでも入りきらない本がそれぞれの本棚の手前の床に直に積み上げられていた。右に目をやるとすぐ横の壁から机の近くの壁まで黒板で占められており、黒板には数式がびっしりと書かれていた。剛也の右前方にはアームチェアがあり、その向こうには冬樹教授の机がある。机の上、左側にはデスクトップ・パソコンがあり、右側には近くにある電気スタンドと同じくらいの高さまで書類が積み上げられていた。冬樹教授はまだ書類を調べている。それを眺めながら剛也は鼻から思い切り息を吸い込んだ。ああこの古本のかび臭い匂い、懐かしい。学問の匂いだ。
「おお、あったあった」冬樹教授は書類を手に取ると、アームチェアの方に顔を向けて言った。「突っ立ってないでそこにかけろよ」
「ああはい」
 剛也がアームチェアに腰掛けると、冬樹教授は書類に目を落とした。ペラペラと草稿をめくっていき、しばらくすると一ページ目からまた読み始めた。その様子を剛也ははらはらしながら見守った。絶対に合ってる、間違いはない。今週の頭から十回以上見直したんだ、計算に穴があるはずがない。そう思いながらも、脳内で式展開を一つひとつ辿り、誤りがないことを確認していった。
 冬樹教授の表情が一瞬険しくなり、剛也はどきりとした。が、すぐに顔を和らげ、こちらを向くと冬樹教授は言った。
「よくこんなん計算したね。これ(冬樹教授は論文の草稿を上下に振った)、懐かしいなあ。量子力学から第二法則をだそうって、四年に上がる前やってたやつ。どんくらいかかった?」
「そうですね」と口にし、得意そうな顔を本棚に向けてから再度正面を向き、剛也は答えた。「博士に上がってすぐからなんで、もう一年になります」
「いやあ根性あるよ」微笑みながらそう言い、次いで心配そうな表情になって冬樹教授は付け加えた。「でもよく前園さんが許してくれてたね、こんなの前園さん知らないだろ」
「それはー」と言って、剛也は冬樹教授の顔色をうかがった。不安そうな顔でこちらを見ている。どう言うべきか? 内緒でやってたなんて言ったら心配されるかも。言葉に気をつけないと。「許可を取りました。大学院の研究は研究でやって、こっちは残りの時間で取り組むってことで」
「そうか」と言って冬樹教授は渋い顔をした。あれ? どうしたんだろ? 俺まずいこと言った? 剛也が疑問に思ったのも束の間、再び笑顔になって冬樹教授は続けた。「就職してからもやってたの?」
「はい、大変でしたよ」笑みを浮かべて剛也は言った。「会社の近くにある寮に住んでるんですけど、五時半に仕事が終わってからもたくさん時間があるのは助かりました。でも平日とか仕事終わって夕飯食べると眠くなっちゃって、実際寝ちゃうときもあるんですけど、そういうときも夜中に起きてちゃぶ台に向かいましたね。休日は極力出かけないで部屋に籠もって計算しました。でもしつこく遊びに誘ってくる海本って奴がいて」ここまでまくしたてた剛也だったが、ニコニコしながら聞いていた冬樹教授が一瞬俯いた。退屈したのかな? 剛也は軽く頭を下げ付け足した。「自分ばっか話してすんません」
「いやいや楽しそうでよかったよ。博士まで行くと就職するのも楽じゃないから。友達もいるんだろ? よかったよかった。大学の時は剛也ずっと一人だったもんな。一人っきりで夜遅くまでお茶部屋に残ってさ。消し忘れてるのかって入って行ったら、隅っこの方で計算してた」そこまで言うと冬樹教授は言葉を切り、目を細めた。寂しそうな表情になり、それから呟くように続けた。「でもまあ、学者になるばかりが人生じゃないからな」
 冬樹教授はぼんやりとした視線を前方に向けたまま黙り込んだ。
 最後の言葉に剛也は耳を疑った。いまなんて言った? 学者になるばかりが人生じゃないって、どういうこと? ああ中退したことか。でも結果を出したんだ、大学院であろうとなかろうと。
 剛也は冬樹教授に挑むような視線を向けて口を開いた。
「学者じゃないかもしれませんけど、論文は書きましたし——」
「あれは意味がない」
 発言を遮られ、剛也は呼吸が止まるかと思った。剛也は目を見開いた。冬樹教授を見る。教授はメガネ越しに射抜くような視線をこちらに向けていた。金縛りにあったように剛也は固くなった。何も口にできない。
「君がいまでも学問を志してるっていうんなら、ごまかせない。あれは全然駄目だった。相変わらずだ。純粋状態で示したって? どこがだよ。都合がいい状態もってきてるだけじゃないか。そうじゃないって言うなら言ってくれ」冬樹教授は口を閉ざしたが、剛也はなにも返せなかった。視線を落として黙り込む。胸が苦しい。冬樹教授は再び口を開いた。「期待値の計算も違ってる。ブラケットの使い方も忘れたの?」冬樹教授はまた黙った。返事を求めているのか、剛也の方をじっと見る。しかし剛也はそれどころではなかった。虚ろな視線を前方に向け、不規則な呼吸を繰り返す。冬樹教授は言葉を継いだ。「確かによく計算してある。あんな量を地道に計算しようなんて人そういやしない。でも間違ってたら意味はない。申し訳ないけど話にならない」そこまで口にすると冬樹教授は急に表情を和らげた。目を見開き、肩を強張らせた剛也に優しい眼差しを向け、冬樹教授は続けた。「悪いこと言わないからここに戻ろうなんて考えるなよ。せっかく就職できたんだ、いまの生活を大切にしな。その方が君のためだ」
 冬樹教授は口を閉ざしたが剛也はなにも言えなかった。言葉が浮かばない。と、冬樹教授の表情が変わった。悲しそうな顔、哀れむような眼差し。失敗したんだ。剛也はさっと立ち上がった。大声を発する。
「お邪魔しました!」
 剛也は思い切り頭を下げると、さっと身をひるがえした。
「待て剛也! まだ時間あるだろ」
 冬樹教授の呼びかけを無視して剛也は前進する。
「また来いよ!」
 必死の声に胸が熱くなったがやっぱり振り返らずにドアノブを掴むと、お邪魔しました! と繰り返し剛也はドアを押し開けた。
 外に出ると左を向いて早足で外階段を目指した。誰にも会いたくない。十分前の自分が憎い。傘のことも忘れドアを開いて外階段まで来ると、誰かに追われているかのように駆け降り始めた。鉄の階段が立てる音と張り合うように声を発する。ああ終わったな、終わった終わった。なに考えてた? 大学院もその後も。とっくに終わってたんだ、海本の言うとおり、とっくに挫折してた……
 階段を降りきると剛也は口を閉ざして歩き出したが、降りしきる雨も周囲の風景もまるで目に入らなかった。ぼんやりした視線を前方に向け、ただただ足を動かすのみだった。

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