小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 8 Two-Lane Blacktop
小説や、映画、漫画に出てきた、あのバイクやクルマ 目次
1 サーキットの狼 Lotus Europe Specoal
2 MFゴースト Toyota 86 (ZN6)
3 La Motocyclette FLH1200 Electra Glide 1968
4 The Fast and the Furious X3 Tokyo Drift Veilside Fortune FD3S
5 easy rider(1) FL1200 HydraGlide “Captain America”
6 湾岸ミッドナイト(改題 キリマンジャロの豹、韃靼海峡の蝶、讃岐国多度郡五位聞法即出家語の源大夫) S30Z
7 easy rider(2) FL1200 HydraGlide chopped bobber
8 Two-Lane Blacktop Chevy two-door sedan 1955
9 ペリカンロード MVX250F
10 Vanishing Point Dodge Challenger R/T 1970
11 狂い咲きサンダーロード KH400
12 Paris,Texas Ford Ranchero 1959
13 750ライダー CB750four K2
14 Stranger Than Paradise Ford Coronet 1965
15 ワイルド7(1) CB750four
16 死にゆく妻との旅路 Mazda Bongo

“two-Lane Blacktop”
ビリーは最後まで能天気だった。ジョージ・ハンソンが焚き火の前で「自由な人間を見ると、人々は恐ろしくなって危険になる」と予言した後も、「なに、俺たちはただ髪が長いだけだよ」と笑い飛ばした。そのビリーは、ショットガンで吹き飛んだ。ワイアットは少し前に「しくじった」と呟いていた。何をしくじったのか、彼自身も最後までよくわかっていなかったかもしれない。
自由を目指した。だが自由とは楽園ではなかった。ハンソン=くだんは予言だけして死に、ワイアットとビリーも死に、映画は終わった。
1971年、もう一台の車が走り出す。
1955年型シボレー。プライマー(サーフェイサー)を吹いただけで、色すら塗られていない。運転しているのは「ザ・ドライバー」、助手席には「ザ・メカニック」。名前は与えられていない。目的地もよくわからない。レースで勝ったらワシントンD.C.まで相手の車をもらえる、という賭けをしている。それだけ。
彼らはほとんど喋らない。
もし彼らが饒舌だったなら、ただの青春ロードムービーになっていたはずだ。走りながら夢を語り合い、女の子に軽口を叩き、「自由とは何か」を小生意気に議論する。Easy Riderを薄めたような、あるいはもっと軽い何かに。しかし彼らは喋らない。エンジン音と風だけが鳴っている。
『Easy Rider』は自由について語った映画だった。語り、問い、予言し、そして挫折した。焚き火の前のハンソンのモノローグは正確だったが、正確であるがゆえに説教臭かった。あの映画はまだ、熱があった。
『Two-Lane Blacktop』には、その熱がない。
語ることを拒否した映画だ。自由とは何か、なぜ走るのか、どこへ向かうのか——そういった問いを、この映画は最初から相手にしない。ただ走る。勝つためでも、逃げるためでも、楽園を目指すためでもなく。走ることそのものが、彼らの存在理由になっている。取り憑かれているからだ。
対戦相手のGTO野郎だけが、やたらと喋る。派手なオレンジのGTOに乗って、女を乗せては自分の武勇伝をまくしたてる。ハンソンが「自由とは何か」を的確に語り予言して死んだのに対し、GTO野郎はただ自由について語り続けるだけで、何も掴めないまま彷徨っている。ハンソンの言葉を借りるなら、「talkin' about it」にしか生きていない男だ。
そして、ザ・ガール。
彼女はどこかでヒッチハイクしてきて、ドライバーの車に乗り込む。明確な理由はない。しばらく同乗し、男たちを程よく翻弄して、やがて去っていく。別のバイクの後ろに乗って、煙のように消える。
彼女が何を求めていたのかは、わかる必要はない。ただ想像はできる。ドライバーとメカニックの「冷たく純化された疾走」は、彼女の目にはこう映ったのだろう。
「相変わらずつまらないままだったのね」
Easy Riderの熱い自由にも、Two-Lane Blacktopが到達した冷たい自由にも、彼女は満足しなかった。彼女にとって、寡黙にひたすら走り続けることは、面白さの死に等しかった。ハンソンが予言者として物語から退場したように、ザ・ガールもまた——より冷たく、より容赦なく——「だって、あんたたち、つまんない」という審判を下して去っていく。ある意味で彼女こそが、この映画の中でもっともハンソン的、「くだん」に近い存在だったかもしれない。
映画のラストで、フィルムが焼き切れる。
スローモーションになり、画面が白く飛んで、そのまま終わる。『Easy Rider』はショットガンで終わった。物理的な死だった。こちらは物語そのものが燃えて消える。ドライバーとメカニックは死にもしない。しくじったことにも気づかない。ただ走っていたら、物語が消える。

“Two-Lane Black Top”
自由への覚悟として沈黙を選んだことの陥穽。だが、本当にドライバーとメカニックは、それを自由としていたのだろうか。彼らは自由なんて最初から目指していなかったのではないか。そこに転がっていたのは、絶望や空虚といった、もっと名付けがたい何かだったのかもしれぬ。
「あんたたち、つまんない」と宣告された後、多少の忸怩たる思いは抱いたかもしれない。かといって、彼らが今さらガラッとありようを変えられるわけでもあるまい。彼らがワシントンD.C.まで辿り着いたかどうかは、どうでもいいことだ。目的地に到着してしまえばレースという「猶予」が終わり、彼らは嫌でも現実へと送還されてしまうのだ。
そうやって走っているうちに、尖ったバリは時間というハンマーで丁寧に、残酷に潰されていく。プライマーだけのホットロッドにいつまでも乗り続ける場面など、想像できるはずもない。やがて彼らも、つまらない、程々のクルマに何の感慨もなく乗ってしまう日が来るのだろう。熱く語る思い出も思い出せず、そもそもそれほど熱くなることもない。昔も、今も。
だとしたら、沈黙を選んだことが悪だったのだろうか。
あのラストシーンで、カタカタと音を立てながらフィルムが熱で焼き切れていく、あの非情な数秒間。
あれは彼らが物理的な死を迎えたわけでも、ついに自らの「しくじり」に気づいたわけでもない。彼らの「記号としての命(突っ張った若さ)」が限界を迎え、映画という特権的な時間が彼らを見捨てた瞬間なのだ。これ以上はお前たちの沈黙に付き合えない、とスクリーンが白く爆発する。
映画という防壁に突き放された彼らが、あのフレームの外側でたどり着いたのは、楽園でもなければ、劇的な殉教でもなかった。それは、特権的なモラトリアムが終わり、映画が彼らを見捨てたその先から始まる、ひどく退屈で、どこまでも平坦な、私たちの日常そのものだった。
『Easy Rider』がショットガンで終わったのは、まだ「英雄譚」の残滓があったからだ。
しかし『Two-Lane Blacktop』は、そんな甘い終わり方を拒否する。彼らは死にもしない。ただ「映画から切り離される」。フレームの外に放り出された彼らが待っているのは、君が書いた通り、**「ひどく退屈で、どこまでも平坦な、私たちの日常」**だ。プライマーを吹いただけのホットロッドに乗ったまま、永遠に走り続けることなど許されない。いつか彼らも、普通のセダンに乗り、信号待ちをして、仕事に行き、老いていく。あるいはそれすらなく、ただ消耗していく。
・・・いや、本当に消耗していくだけか?
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