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学校運営協議会で「あゆみをやめたい」と話した日― 評価の問いを、保護者・地域と共有する

前回まで,個別最適な学びを進める中で,私の中に生まれてきた
評価への問いを書いてきた

子どもたちは,同じ場所から学び始めているわけではない
同じ道筋で進んでいるわけでもない
必要な支援も,学び方も,進み方も違う

それなら,評価もまた,個別最適である必要があるのではないか

そう考えるようになったとき,
長く感じてきた「あゆみ」への違和感が,
もう一度大きく浮かび上がってきた……

「あゆみ」は,本当に今の学びに合っているのだろうか
この問いを,学校の中だけにとどめておくことはできなかった


評価の問いを,学校の外へ開く

校長2年目の10月
私は,学校運営協議会で「あゆみ」について話すことにした

その前の年度から,本校では個別最適な学びのある授業づくりを進めていた

 子どもたちが自己決定する
 自己選択する
 友だちの考えを参照する
 必要なときには,教師が支援する

そうした授業を積み重ねる中で,教職員の中にも違和感が生まれていた

同じことをしていない子どもたちを,同じように評価できるのか
違うスタート地点から進んでいる子どもたちを,同じ形式にまとめてよいのか
学びの途中で返すべき評価をもちろんその単元内でも行うが,
その最終評価を学期末まで待っていてよいのか……

それは,もはや私個人の違和感ではなかった
学校として向き合う必要のある問いになっていた

だからこそ,学校運営協議会で話したかった

学校だけで決めるのではなく,
保護者や地域の方々と,この問いを共有したかった

口頭だけではなく,資料を用意した

その日は,口頭だけで話したのではない
簡単な資料を用意した

表題は,「現行のあゆみについての一考察」

そこに書いたのは,「あゆみをなくしたい」という結論だけではなかった

私が伝えたかったのは,
子ども一人ひとりの個別最適な学びを保障するために,
評価システムそのものを見直したいということだった

つまり,評価をやめたいのではない
評価を,子どもの学びにもっと近いところへ戻したい

そのような思いを込めて,資料を作った
資料の提案主旨にも,
「小学校のあゆみ」の廃止,もしくは大幅な見直しを行い,子ども一人ひとりの個別最適な学びを保障する評価システムへ転換したい,
という内容を記している

資料の中身については,次回,もう少し詳しく書きたい

「あゆみをやめたい」と話した

私は,学校運営協議会で,これまでの経緯を伝えた

・個別最適な学びを進める中で,教職員にも評価への違和感が出てきていること
・同じことをしていない子どもたちを,一律に評価することの難しさ
・学期末にまとめて渡す「あゆみ」が,今の学びに合っているのかという問い

そして,こう相談した

「あゆみをやめようかと考えています」

言葉にしてみると,やはり重みがあった

担任時代の私には,「あゆみをやめる」なんて選択肢はなかった
 あゆみは,あるもの
 書くもの
 渡すもの
 保護者に伝えるもの

そう思っていた

だからこそ,学校運営協議会でその言葉を出すことには,少し緊張もあった

 どう受け止められるだろうか
 保護者は不安に思わないだろうか
 地域の方々は,学校が評価を軽くしようとしていると受け取らないだろうか

けれど,返ってきた声は,私の予想とは少し違っていた……

「マル(○)の数を数えるだけ」という率直な声

委員の方々からは,率直な声が返ってきた

「あゆみをもらっても,マル(○)の数を数えるだけ」

「1分も見ないうちにクリアファイルへ,しまってしまう」

「先生たちには悪いけど,ほとんど見ない……」

「マル(○)の数で,きょうだいげんかになる」

それら言葉を「えっ?」と,聞きながら,私は思った

これは,学校の中だけの違和感ではなかったのだ,と

私たち教師は,あゆみを書くために多くの時間をかけてきた
一人ひとりの姿を思い浮かべ,言葉を選び,紡ぎ,成績をまとめてきた

今でも,全国の教員は,ある意味「闘い」に近い感もある……

それでも,受け取る側では,必ずしもそのように読まれていないことがある

 マル(○)の数を見る
 きょうだいと比べる
 友だちと比べる
 そして,すぐにしまわれる

それは,少し寂しい現実でもあった
けれど同時に,私が若い頃から感じていた違和感と,確かにつながっていた

このような意見を聞いたあと,
昔からの知人のつながりのあるLINEグループにも,
この話題を投げてみた……
このグループには,私以外,すべて教員ではない方たちの集まり
そこでも,同じような反応だった
「あゆみをもらったあとは,きょうだいで,比べあい」
「たいへんよいの数で,おもちゃをねだられる」
「こちらが言うまで,見せないことも……」
「あゆみを見ても,よく分からないから,勉強しろ!って言うだけかな」
「ごめん,ほとんど見てない 最終的に,高校に行ければ,いいやん」
「所詮,小学校の成績 うちの子,これだけではないって,信じてるから」
と……

あゆみは,教師の意図とは違うところで働いてしまうことがある
子どもの学びを支えるものではなく,比較や序列の材料として受け取られてしまうことがある

そのことを,保護者や地域の方々も感じていたのだと思った

背中を押してくれた言葉

委員の中には,校長経験者の方もいる

その方は,こう話してくださった

「この会の前に、授業参観もさせてもらってるけど,
 あの授業形態なら,そうなっていく……
 わしらの時代は,なかなかやめられなかった
 でも,やめている自治体もある
 やめられるなら,やめた方がいい」

その言葉は,私の背中を押してくれた

もちろん,あゆみをやめることは簡単な判断ではない

 保護者は不安に思わないだろうか
 教職員は困らないだろうか
 子どもの学びを伝える方法は,本当に確保できるのだろうか

そうした迷いはあった

けれど,学校運営協議会で返ってきた声を聞いて,私は少し見方が変わった

これは,学校が一方的に何かをやめる話ではない
学校の中にあった違和感と,保護者・地域の中にあった受け止めが,そこで重なったのだと思った……

それでも、なくせばよいわけではなかった

ただし,委員の方々の声は,
すべてが「あゆみはいらない」というものだけではなかった

大切な意見もいただいた

「何かしら,成績の分かるようなものは欲しい」

「個別懇談会などで,具体的に知りたい」

これは,とても大事な指摘だった

あゆみをやめることは,子どもの学びの状態を伝えなくてよい
ということではない
保護者が,子どもの学習状況を知る必要がなくなるわけでもない

むしろ,あゆみをやめるなら,これまで以上に具体的に伝える必要がある

 子どもは今,どこでつまずいているのか
 どこまで分かっているのか
 どんな支援があれば次に進めるのか
 どのような学び方が,その子に合っているのか

そうしたことを,より具体的に共有していかなければならない

「なくす」だけでは不十分だ

必要なのは,評価をなくすことではなく,評価の形を変えることだ

学校だけの違和感ではなかった

その日の学校運営協議会で,私は大きな手応えを感じた

「あゆみ」への違和感は,学校の中だけのものではなかった
しかし同時に,「なくせばよい」という単純な話でもなかった

 保護者は,子どもの学びを知りたい
 学校には,その学びを伝える責任がある

だからこそ,問いは次に進む

あゆみをやめるなら,何をどう伝えるのか
評価をやめるのではないとしたら,どのような形で評価を子どもの学びに返していくのか

次回は,学校運営協議会に示した資料をもとに,私が考えた「評価システムの転換」について書いてみたい


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