あゆみをやめることは,評価をやめることではない― 「現行のあゆみについての一考察」に書いたこと
前回,私は学校運営協議会で「あゆみをやめたい」と話した日のことを書いた
委員の方々からは,率直な声が返ってきた
「マル(○)の数を数えるだけ」
「ほとんど見ない」
「きょうだいげんかになる」
その声を聞きながら,私は,あゆみへの違和感は学校だけのものではなかったのだと感じた
しかし同時に,別の大切な声もあった
「何かしら,成績の分かるようなものは欲しい」
「個別懇談会などで,具体的に知りたい」
あゆみをやめる
けれど,子どもの学びを伝えなくてよいわけではない
むしろ,あゆみをやめるなら,評価のあり方をもっと丁寧に考えなければならない
そのとき,学校運営協議会に出した資料がある
表題は,「現行のあゆみについての一考察」
そこに書いたのは,「あゆみをなくしたい」という結論だけではなかった
私が伝えたかったのは,評価をやめることではなく,子ども一人ひとりの個別最適な学びを保障する評価システムに転換したいということだった
「あゆみをなくす」ではなく,評価システムを転換する
資料の冒頭に,私は提案の主旨を書いた
「小学校のあゆみ」の廃止,もしくは大幅な見直しを行い,子ども一人ひとりの個別最適な学びを保障する評価システムに転換したい
これが,私の一番伝えたかったことだった
つまり,評価を軽くしたいわけではない
評価をなくしたいわけでもない
むしろ,評価をもっと子どもの学びに近いものにしたかった
学期末にまとめて渡す評価ではなく,
学びの途中で返る評価へ
子どもを並べる評価ではなく,
次の学びを支える評価へ
保護者に「結果」を知らせるだけではなく,
子どもがどこでつまずき,どこまで分かり,次に何へ向かえばよいのかが伝わる評価へ
そのために,あゆみという形を見直したかった

提案の主旨として,評価システムの転換を示した ※一部加工
一斉評価は,個別最適な学びと矛盾する
資料では,廃止・見直しを考える理由をいくつか整理した
一つ目は,一斉評価は個別最適な学びと矛盾するということだった
あゆみは,同学年,同教科,同時期に,全児童を同一基準で評価する形をとっている
一方で,個別最適な学びは,子ども一人ひとりの学習進度や関心に違いがあることを前提としている
子どもたちは,同じ場所から学び始めているわけではない
同じスピードで進んでいるわけでもない
同じ支援を必要としているわけでもない
それなのに,学期末になると,同じ形式でまとめて評価する
ここに,どうしても無理が生まれる
個別最適な学びを進めるなら,評価もまた,個別最適である必要がある
これは,このマガジンの中で何度も書いてきた私の考えでもある
あゆみは,本当に学びのフィードバックになっているのか
二つ目は,あゆみが本来のフィードバックとして機能しているのか,という問いだった
評価は,本来,子どもの学びを支えるためにある
教師が授業を見直すためにも使われる
子どもが次にどう学べばよいかを考える手がかりにもなる
けれど,現行のあゆみは,学期末に保護者へ渡す説明資料のようになっている面がある
もちろん,保護者へ学習状況を伝えることは大切だ
それ自体を否定したいわけではない
ただ,子どもの学びに返るフィードバックとして考えたとき,
学期末にまとめて渡されるあゆみは遅すぎると同時に,
単元ごとで伝える評価で,区切りを付けてもいいのではないか
つまずいたその瞬間に,必要な言葉がある
分かりかけたその瞬間に,返したい評価がある
次へ進もうとしているその瞬間に,支えたい学びがある
それらを学期末にまとめて返すのは,よいのだろうか
資料にも,現行のあゆみは保護者向け説明資料のようになっており,
本質的な学びのフィードバックとして機能していない,
という趣旨を書いた
これは,私が若い頃から感じていた違和感ともつながっていた
評価が,子どもの学びを前に進めるものではなく,
結果を知らせるものになっていないか
そして,その結果が,比較や序列として受け取られていないか
その問いが,ここにもあった
同一基準で評価することの難しさ
資料には,同一基準で評価することの難しさも書いた
学校は,一定の基準に基づいて評価する必要がある
それは当然のことだ
けれど,実際の子どもの学びは,いつも同じ形で進むわけではない
欠席が多かった子ども
自宅で学習を進めた子ども
自宅以外の場所で、学びに挑戦する子ども
教師と一緒に取り組むことで,ようやく次に進めた子ども
友だちの考えを参照しながら,自分の考えをつくり直した子ども
自分で発展的な課題に進んだ子ども
それぞれの学びには,それぞれの背景がある
同じ基準で見ることは大切だ
しかし,その基準を,
子どもの背景や学びの道筋を見ないまま,一律に当てはめてよいのか
そこには慎重さが必要だと思っていた
資料でも,評価の同一基準をうたってはいるが,
実質的には同一基準とは言い切れない面があるのではないか,
という問題意識も書いていた
自由進度学習では,成果も一律ではなくなる
個別最適な学びのある授業では,
見通しのある学習計画,
自己選択・自己決定,
他者参照を大切にする
自由進度学習では,学習の概要が同じであっても,
学習する場所,取り組み方,表現方法を子どもが自己選択して進めていく
そうなると,学習の成果も一律ではなくなる
ある子は基礎に戻る
ある子は発展的な課題に進む
ある子は友だちの考えを参考にする
ある子は教師といっしょに学ぶ
どの姿も,その子にとって必要な学びだった。
けれど,それを同じ欄に,同じ観点で,同じように示そうとしたとき,
どうしても無理が生じてしまうのだ
資料でも,
自由進度学習では,学習の概要が同じでも,
学習する場所や取り組み方,
表現方法を自己選択して進めるため,
同一基準での評価は難しくなると整理していた
これからは,個別最適な学びを進め,さらに進化していく……
ここでも,私の問いは同じだった
同じことをしていない子どもを,同じように評価できるのだろうか
必要なのは,学びの途中で返る評価
私が考えていたのは,評価をなくすことではなかった
むしろ,評価をもっと大切にしたかった
ただし,それは学期末にまとめて渡す評価ではない
授業の中で,子どもの取り組み方を見る
目標への向かい方を見る
どこでつまずいているのかを見る
どのような支援があれば次に進めるのかを見る
そして,その場で返す
「ここまでできているよ」
「次はここを考えてみよう」
「この方法はよかったね」
「一度,前の問題に戻ってみよう」
そうした評価は,子どもの学びの途中に返るからこそ意味がある
資料にも,
個別最適な学びや協働的な学びのある授業では,
子どもたちの学習への取り組み方や目標へのアプローチについて,
教師が即時評価し,導くことが大切になると書いた
これは,あゆみに書く評価とは,少し意味が違う
同じ「評価」という言葉を使っていても
終わったあとにまとめる評価と,
学びの途中で返す評価は,働き方が違う
私が大切にしたかったのは,後者だった
評価を,子どもの学びに近づけたい
ここまで考えてきて,私の中で一つの考えがはっきりしていった
あゆみをやめることは,評価をやめることではない
むしろ,評価を子どもの学びに近づけるための見直しだった
まとめて渡す評価から,その場で返る評価へ
一律に並べる評価から,一人ひとりに向き合う評価へ
結果を知らせる評価から,次の学びを支える評価へ
私は,そう変えていきたいと考えていた
もちろん,では何をどう保護者に伝えるのか,という問題は残る
学校運営協議会でも,そこは大切な論点になった
「何かしら,成績の分かるようなものは欲しい」
「個別懇談会などで,具体的に知りたい」
その声は,とても大切だった
では,あゆみをやめるなら,学校は何をどう伝えるのか
次回は,資料に示した代替案について書いてみたい
