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あゆみは,誰のためのものか― 評価が「序列」になる瞬間

「ぼくは,あほやねん」

あゆみを渡したあと,教室で聞こえてきた言葉だ
徹夜して書いた評価は,本当に子どものためになっているのだろうか
その問いは,私の中にずっと残り続けている……


徹夜して書いた「あゆみ」が,比べられる瞬間

徹夜して書き上げてきた「あゆみ」を子どもたちに手渡す

静かに子どもへ手渡していくたびに,
終わりに近づき,最後は,「ふうっ」と,一息……

一人ひとりの顔を思い浮かべながら,言葉を選び,成績をまとめる
担任として,できるだけ丁寧に子どもの姿を伝えたい
そんな思いを,若いなりに伝えた

しかし,渡した直後の教室では,別のことが起きる

「勝った!」
「お前,賢いやん」
「ぼくは,あほやねん」

笑い声にまじって,その言葉が教室に広がっていく……
手渡したばかりの紙が,
あっという間に比べられ,
誰かを上に,誰かを下に置いていくように見えた
そのやりとりを聞くたびに,胸の奥がざわついた

これは本当に,子どもの学びに返っているのだろうか

この違和感は,その場限りのものではなかった
一度きりの出来事なら,偶然として流すこともできたのかもしれない
けれど,同じような場面を,今まで私は何度も見てきた
学年が変わっても,子どもが変わっても,学校が変わっても,繰り返されるまるで,そのやりとりが起こることが前提になっているかのように……

22歳の担任時代に感じた違和感

あれは,私が22歳で担任をしていた頃のことだった

初めて書き上げた「あゆみ」を,緊張しながら子どもたちに手渡した
自分なりに時間をかけた
迷いながら,言葉を選んだ
一人ひとりのよさや成長を,どうにか伝えたいと思っていた
管理職から返ってきた真っ赤な下書きを清書して,
やっとの思いで書き上げた

ところが,終業式当日,
「あゆみ」を渡した直後から,見せ合いが始まった

「先生,<たいへんよい>に,マル(○)が多い人がいいんやろ?」
「ぼく,これ少ない……」

そして,小さな声が聞こえてきた
「ぼくは,あほやねん……」

その言葉は,冗談のようでもあり,しかしどこか本気にも聞こえた
無邪気なやりとりのはずなのに,その一言だけが妙に重く,耳に残った

自分が書いた評価が,子どもの中の,
自分ということを客観的に俯瞰してみているような
なんとも言えない感覚が,子どもの中に入り込んでいくようだ……

もちろん,あゆみは子どもを傷つけるためにあるわけではない
教師も,そんなつもりで書いているわけではない
むしろ逆だ

 子どものがんばりを伝えたい
 成長を認めたい
 保護者にも,その姿を知ってもらいたい

そう願って書いている

けれど,子どもたちは,まずそれぞれの項目に並ぶ,○の数を数える
次に,友だちと比べる
家では,きょうだいと比べられることもある
そして,
「多い」「少ない」「勝った」「負けた」という言葉に変わっていく

教師の意図とは違うところで,あゆみが働き始めてしまう
私は,そのことに長く引っかかっていた

「見せ合いをするな」と伝えても,消えなかったもの

やがて私は,あゆみを渡す前に,子どもたちへ伝えるようになった

「見せ合いをするものではありません」
「人と比べるためのものではありません」
「自分のがんばりを振り返るためのものです」

そう話してから,渡すようにした

今思えば,それは私なりの抵抗だったのだと思う
なんとか,比較にならないようにしたかった
なんとか,子どもが自分を決めつけないようにしたかった

それでも,だった

子どもたちは、タイミングを見て,そっと見せ合う

「どれくらい,マル,ついてる?」
「ここ,マルやった!」
「ええなあ」

声のトーンは小さくなっても,やっていることは変わらない
防ごうとすればするほど,別の形でにじみ出てくる

そのうち私は,こう考えるようになった

問題は,「見せ合う子どもたち」なのだろうか
それとも,「見せ合われてしまうもの」を渡していることなのだろうか

あゆみは、子どもを序列化していないか

もしかすると「あゆみ」は,子どもたちを評価しているのではなく,
知らず知らずのうちに序列化してしまっているのではないか
そんな思いが,少しずつ大きくなっていった

もちろん,あゆみには役割がある
 保護者へ学習状況を伝える
 学校として,子どもの成長を記録する
 一定期間の学びを振り返る

それらを否定したいわけではない

ただ,私がずっと感じてきたのは,
あゆみが子どもに届くとき,
必ずしも「学びのための評価」として
受け取られていないのではないか,ということだった

評価が,学びを前に進めるものではなく,
自分と誰かを比べるものになってしまう

評価が,次の一歩を考える材料ではなく,
自分の位置を決めるものになってしまう

そのとき,評価は本当に,
子どものために働いているのだろうかと……


評価とは,誰のためにあるのか

そう気づいても,
すぐに「あゆみをやめよう」とは思えなかった
というより,担任時代の私には,そんな選択肢はなかった

だから,
 あゆみは,あるもの
 学期末に書くもの
 子どもに渡すもの
 保護者に伝えるもの
そういうものだと思っていた

だから,その中でできることを探し続けた
 所見の言葉を工夫する
 渡し方を工夫する
 子どもへの伝え方を工夫する

それでも,胸の奥のざわつきは消えなかった

 評価とは,誰のためにあるのか
 子どもを並べるためのものなのか
 それとも,子どもの学びを前に進めるためのものなのか

この問いは,私の中で長く残り続けることになる……

そして後に,個別最適な学びに取り組む中で,
この違和感はさらに大きな問いへと変わっていく

「あゆみ」は,本当に今の学びに合っているのだろうか

次回は,私が現場の中でどんな工夫を重ね,それでもなぜ限界を感じたのかを書いてみたい


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