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「見せ合いをするな」では,解決しなかった― それでも比べられてしまう評価

前回,私は「あゆみ」が子どもたちの中で比較や序列につながっていく違和感について書きました

「勝った」
「負けた」
「ぼくは,あほやねん」

そんな言葉が,あゆみを渡したあとの教室で聞こえてきた
教師として丁寧に書いたはずの評価が,
子どもたちの中では
「自分は上なのか,下なのか」を確かめるものになってしまう……

では,どうすればよかったのか

今なら,「評価のあり方そのものを見直す必要があった」と言えるだろう
けれど,担任だった当時の私には,
「あゆみをやめる」という選択肢など思い浮かぶこともなく,

 あゆみは,あるもの
 学期末に書くもの
 子どもに渡すもの
 保護者に伝えるもの

そういうものだと思っていた
今の若い先生方も,きっと同じ考えじゃないでしょうか

だからこそ,その中でできることを考えるしか,なかったのです


「あゆみをやめる」なんて,思いもしなかった

担任としてできることは限られている……

制度としてあるものを,教室の中だけで変えることはできない
ましてや,一担任である
けれど,子どもたちが比べ合い,
自分を決めつけるような受け取り方をしてしまうことには,
どうしても引っかかりがあった
だから私は,まず「渡し方」を変えようとした

あゆみを渡す前に,子どもたちへ次のことを話した
「これは,人と比べるものではありません」
「自分のがんばりを振り返るためのものです」
「見せ合いをするものでも,ありません」
そう伝えてから,渡すようにした

今思えば,それは私なりの抵抗だったのかもしれない
なぜなら,
あゆみそのものは変えられないからだ
でも,子どもたちの受け止め方なら,少しは変えられるかもしれない……
そんな思いがあったのではないかと考える

だから,できる工夫は重ねた

所見の書き方も工夫した

できるだけ比較につながらないように,
一人ひとりのよさや成長に焦点を当てた
「できた」「できなかった」だけではなく,
その子がどこでがんばったのか,どんな変化があったのかを書いた
もちろん,言葉も慎重に選び,紡いだ

評価が,子どもを決めつける言葉にならないように
「この子はこういう子だ」と固定するのではなく,
「ここまで歩んできた」「次はここへ向かえる」と伝わるように……

担任として,できる限り丁寧に見ようとした
できる限り,子どもの姿に近づこうとした

それでも,だった

あゆみを渡した直後,
子どもたちはやはりマル(○)の数を見て,数え出すのだ

「ここ,マル(○)やった?」
「ぼく,少ないわ」
「ええなあ,多いやん」

私を気遣ってか,
声の大きさは変わっても,やりとりは残る……
「見せ合いをするな」と伝えたことで,
堂々とは見せ合わなくなったかもしれない
けれど,タイミングを見て,そっと見せ合っている

その姿を何度も何度も見るたびに,あるとき,私は思った

これは,本当に子どもの問題なのだろうか

それでも,子どもたちはマル(○)の数を見る

子どもたちは,○の数を見る

それは,ある意味で自然なことなのかもしれない
紙の上に,同じ形式で,同じように示されていれば,つい比べたくなる
いや,比べるつもりがなくても,比べられてしまう

 ○が多い
 ○が少ない。
 友だちより多い
 きょうだいより少ない

そこにあるのは,学びの振り返りというより,位置の確認に近かった

 自分はどこにいるのか
 誰よりできているのか
 誰よりできていないのか

もちろん,教師はそんなことを願ってあゆみを書いているわけではない
小学校の「あゆみ」である
高校受験のために,内申点を計算するわけでもない
もちろん,私だけではなく,教師は,子どもを並べたいわけではない
序列をつけたいわけでもない

むしろ,一人ひとりを見たいと思っている
その子なりの成長を伝えたいと思っている
これは,全国の教員みな,同じような思いではないだろうか

けれど,同じ紙の上に並べられた瞬間,
評価はどうしても「差」として見えてしまうようだ

一人ひとりを丁寧に見ようとしているのに,
結果として,子どもたちは並べられ,比べられてしまう

ここに,どうしても越えられない壁があった

個別に見たいのに,並べられてしまう

もう一つ,大きな違和感がある
令和の時代では,顕著だが,
教科の学習によっては,
子どもたちは同じように学んでいるわけではなかった

 得意なことも違う
 つまずいているところも違う
 学びに向かうスピードも違う
 家庭での背景も,言葉の理解も,経験してきたことも違う

本当は,それぞれ違う場所から学びを始めている

にもかかわらず,学期末になると,それらを一つの形式にまとめて渡す
同じ枠の中に収め,同じように示すのだ

もちろん,自治体や学校として一定の基準をもって評価することは必要だ
それを否定したいわけではない

けれど,一人ひとりを個別に見ようとすればするほど,
これは,苦しくなっていく……

 この子のがんばりは,○の数だけで伝わるのだろうか
 この子のつまずきは,文章でまとめたときに本当に届くのだろうか
 この子が次に進むために必要な言葉は,学期末に渡される紙の中にあるのだろうか

個別に見たい
個別に伝えたい
個別に支えたい

そう思えば思うほど,学期末に渡す「あゆみ」という形式が,どこか遠く感じられるようになっていった

評価が届くタイミングが遅すぎる

さらに,評価が届く「タイミング」の問題もあった

「あゆみ」は,多くの場合,学期末に渡される
つまり,学びが一区切りついたあとに届くのである

しかし,子どもの学びは,日々の授業の中で進んでいる
 分かった瞬間がある
 つまずいた瞬間がある
 もう少しで届きそうな瞬間がある

本当に必要な評価は,その瞬間に返るものではないだろうか
「ここまでできているよ」
「次はここを考えてみよう」
「このやり方,よかったね」
「もう一度,この問題に戻ってみよう」

そうした言葉は,学びの途中で返されるからこそ意味がある。

すべてが終わったあとにまとめて渡される評価は
子どもにとって「次に生かすもの」というより,
「結果」として受け取られやすいだろう

そのときには,もうその学びには戻れない
振り返ることはできても,今まさに進んでいる学びには返っていかない

私は少しずつ,評価は「あとからまとめて渡すもの」ではなく,
「学びの中で返すもの」なのではないかと考えるようになっていった

問題は,書き方ではなかったのかもしれない

所見の書き方を工夫した
渡し方を工夫した
子どもへの伝え方も工夫した

担任として,できることはやってきたつもりだった

それでも,比較は起きた
○の数を数え,見られた
子どもたちは,自分と誰かを比べた

そのたびに,私は思うようになった

問題は,
子どもが見せ合うことだけではなく,
教師の言葉選びだけでもないのではないか

もしかすると,
評価が「比べられる形」で渡されていることそのものにあるのではないか

 一人ひとりを見たいのに,並べてしまう
 学びに返したいのに,終わったあとに渡してしまう
 成長を伝えたいのに,結果として序列に見えてしまう

次第に私は,「評価の仕組みそのものに限界があるのではないか」と考えるようになった

ただ,その頃の私には,まだ答えはなかった
今の時代ならできる「あゆみをやめる」という選択肢も,
当時は,現実のものとしては見えていなかった

この問いについてのもやもやは,消えなかった

評価とは,子どもの学びを支えるものなのか
それとも,学び終えたあとに,子どもを並べるものなのか

この問いはやがて,私の授業の見方そのものを変えていくことになる

次回は,個別最適な学びに取り組む中で,子どもたちの学びがどう変わり,従来の評価とのズレがどのように見えてきたのかを書いてみたい


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