古い種痘証を読み解いたら、十四代当主の幼名が出てきました
家にある古い文書を整理していると、くしゃくしゃになった一枚の紙が出てきました。墨の文字は薄れ、折り目もたくさんついていて、最初は「一体何が書いてあるのだろう?」と、ほとんど内容が分からない状態でした。
ところが、その紙をじっくりと眺めているうちに、思いがけない発見がありました。そこにはなんと、当家の十四代当主の幼名らしき名前が書かれていたのです。

「駒之助三才」の文字が意味するもの
この文書の内容で一番気になったのは、左下に記された「善右衛門長男 駒之助 三才」という文字です。 善右衛門といえば、十三代当主の善右衛門惟貞(これさだ)のことかと思います。そしてその長男となれば、十四代となる駒太郎惟壽(これひさ)のはずです。
駒太郎は慶応3年(1867年)9月7日生まれです。当時は数え年でしたから、「駒太郎3才」の年は明治2年(1869年)にあたります。 文書の左上には発行年と思われる日付があり、「明治二年」と読めました。どうやら年代はぴったりと整合するようです。
つまり、「駒之助」というのは、駒太郎の幼名だったのでしょう。 私はこれまで、幼名といえば徳川家康の「竹千代」のように、武士が名乗るものという印象を持っていました。ですから、当時の農家の子どもにも幼名が付けられていたことは、少し意外な発見でした。
おそらく、幼い頃は「駒之助」と呼ばれ、元服して成人した後に通称を「駒太郎」、諱(いみな)を「惟壽」と称したのだと思います。
ちなみに、政府から「平民苗字許可令」が出たのが明治3年(1870年)、「平民苗字必称義務令」が出たのが明治8年(1875年)です。この証明書が発行された明治2年当時はまだ、苗字(竹内)の記載はなく、下の名前のみが記されていたようです。
この文書は「ワクチン接種の証明書」でした
せっかくですので、この古い紙切れをもう少し詳しく読んでみたいと思います。
まず、中央に書かれた大きな文字ですが、「疱瘡相済種痘○」と書いてあるように読み取れました。 「疱瘡(ほうそう)」とは、かつて不治の病として人々から恐れられた「天然痘」の古い呼び名です。そして「種痘(しゅとう)」とは、その天然痘を防ぐための、人類の歴史で最初の予防接種(ワクチン)のことです。
「相済(あいずみ)」は、物事が終わることや、義務が果たされることを意味します。つまり、これは天然痘の予防接種を無事に終えたことを証明する文書だったのです。文末の◯文字は「証」だと考えられ、全体で「疱瘡相済種痘証」と書かれているのではないかと推測します。
どこで接種を受けたのか?謎解きの壁
右端には「播州加東郡○水」、その左側には「宮(官)○」という2つの文字が記されています。 加東郡の「○水」という場所に置かれた種痘所(医療機関)で、左側の2文字は接種機関(例えば「宮脇」など?)の名称ではないかと想像しました。
ただ、「宮脇」は地名である可能性もあるため調べてみると、確かに明治初期の加東郡には「宮脇村(現在の小野市垂井町)」という地名が存在しました。明治9年(1876年)に門前村と合併して垂井村になり、明治22年(1889年)には他の村と合併して小野村(現在の小野市)となっています。
もし加東郡垂井庄の「宮脇村」であれば、「宮(官)○」の文字は解決するのですが、「○水」の部分を「垂井」と読むのは、読めないこともないとはいえ、少し無理があるような気もします。
それよりも、「○水」は「垂水」と読むほうが自然に思えます。当時、加東郡には「垂水村」が社町と東条町の2か所にありました。明治初期に区別するため、社町の方を「西垂水村」、東条町の方を「東垂水村」に改称しています。ただ、場所的な距離を考えると、どうなのでしょうか?

視点を変えて、加東郡の種痘所がどこにあったのかを文献で調べてみました。 『加東郡誌』には、安政年間(1855年〜1860年)に種痘を試した記録はあるものの、一般に普及するには至らず、各町村で広く実施されるようになったのは明治19年(1886年)からだと書かれています。
また『西脇市史』には、周辺地域(西脇、三木、北条など)での記録は嘉永3年(1850年)頃から残っているものの、加東郡における明確な記録は見当たりませんでした。
残念ながら、文字の解読と場所の特定は、ここでひとまず行き詰まってしまいました。
実はとても貴重な資料かもしれない
そこで今度は、この「明治2年の種痘証」そのものに、歴史的な資料としてどのような価値があるのかを調べてみることにしました。
天然痘は当時、非常に恐れられていた致死率の高い感染症であり、明治新政府は国を挙げてその予防に取り組みました。
政府は明治3年(1870年)に「種痘館規則」などを定め、全国の府や藩、県に対して、民衆に種痘を受けさせるよう指示を出します。これを受けて地方自治体は各地に「種痘所」を設け、接種を終えた人には「種痘済証」を発行して記録を管理しました。 その後、法整備が進み、明治9年(1876年)の「天然痘予防規則」によって、ついに国民への接種が正式に義務付けられることになります。
調べていて驚いたのですが、2022年に松江市立松江歴史館で開催された「明治時代のワクチン接種」という展示では、島根県内で確認されている「最古の種痘証明書」として、「明治8年(1875年)」発行のものが初公開されたそうです。
もちろん兵庫県と島根県では事情が異なりますが、当家の駒之助の種痘証は「明治2年(1869年)」の発行です。『加東郡誌』に明治初期の加東郡での種痘記録が残っていない点も考え合わせると、実はこれ、意外と貴重な資料になるのかもしれません。
くしゃくしゃの古い紙切れから、十四代当主の幼名を知り、さらには日本のワクチン接種の歴史にまで触れることができました。 蔵の整理は、時を超えた宝探しのようで本当に面白いです。これからも、見つけたものを少しずつ読み解いていきたいと思います。
(補足資料)
『新修加東郡誌 〔本編〕』より
痘瘡は、敏達天皇のころ朝鮮から九州を経て各地にはびこり、それ以来、千年余りの間に六五回の大流行があり、人間一生には必ず一回これを経なければならないといわれ、本郡においても「その惨状目を覆うがごとし。」といわれた。明治十八年・二十年・二十五年・二十七年・二十九年・三十年・三十九年・四十年にわたり、全国各地に流行したとか、本郡もまたその害を受けたものと思われる。ことに、四十年に臨時種痘を実施し、医師会員は、いくらかの金品を、その居村衛生費の中へ寄付したことから判断すると、その流行の程度はひどくなかったようだが、その侵入を受けたことは間違いなかったと思われる。種痘は安政年間すでにこれをためしたようであったが、まだ一般に普及するまでにはいたらず、明治十九年(一八八六)になり各町村が一般に実施したようである。
『西脇市史 本篇』より
疱瘡の恐怖を取り除き、幼い子供らの生命を救うことになったのが、牛痘法の普及である。牛痘法は一七九八年(寛政一〇)ジェンナーが発見した画期的な種痘法であるが、わが国へ伝来したのは約五〇年後の嘉永二年(一八四九)のことであった。同年牛痘のかさぶたがオランダ船によって長崎にもたらされ、それを同年九月、越前藩の侍医笠原白翁が京都において同地の蘭医日野鼎哉とともに試みて成功したのであるが、当時すでに大阪で蘭医としてめざましい活動をしていた緒方洪庵は鼎哉の養子日野葛民とともに上洛して痘苗の分与を頼み、十一月大坂古手町(今の道修町)の除痘館で分苗式が行われ、ここにジェンナー法が大坂で始められることになった。これは江戸で種痘館が設立されるより八年前のことである。そしてこの大坂除痘館を中心に近畿・中国・四国・九州の各地に分苗所がおかれ、次第にこの牛痘法が普及していった。
当地方では嘉永二年よりは大分遅れて、慶応三年(一八六七)十一月には播州多可郡西脇村の徳岡三鼎の分苗所ができている。なお西脇の近隣では、嘉永三年二月に、三木の岡村高四郎、北条の村田良作・今村賛斎、慶応三年九月に三木下町の神沢坦斎・神沢民部、同年十一月に加西郡北条市場村の徳岡啓哉らの分苗所ができた(松本端「大阪市種痘歴史」)。これらの医者は、いずれも種痘術の伝授を受け免許状を与えられ、分苗をうけて牛痘法を施術したことがわかる。幕末当時では、牛痘苗の保存ができないので、幼児に次々と植え継いでいかなければならなかった。そのため当地方のような山村部では痘苗が継続しにくく、毎年大坂除痘館に分苗を請求する場合が多かったであろう。この牛痘法の普及によって当地方も、従来のような疱瘡の恐怖からの免れることができ幼児の生命が失われることも少なくなったと想像される。明治に入ると種痘が義務付けられ、小学校入学前に種痘を済ませておくことになった。
