AIは騙せなくても、南米仕込みの転び方
ワールドカップが盛り上がっています。
日本代表もかなりいいところまで行きそうで、試合を見るたびに、ついAIに聞いてしまいます。
「さっきのプレー、何がすごかったの?」
「この動きって、どういう意味があるの?」
試合を見たあと、自分ではうまく説明できない場面をAIに投げると、プレスのかけ方、守備ラインのズレ、パスコースの作り方などを、やたら真面目に整理してくれます。
僕がぼんやり「今のすごいな」と思っていた場面に、あとから言葉をつけてくれる。
AIはすごいです。
ただ、AIにいくら現代サッカーを説明してもらっても、僕の中でサッカーと聞いて真っ先に出てくる記憶は、そんな立派なものではありません。
南米ペルー育ちの僕が、日本に来たばかりの頃、必ず聞かれたことがあります。
「サッカーうまいの?」
これはもう、本当に何度も聞かれました。
ペルー育ち。南米。サッカー。
その三つが並んだ時点で、相手の頭の中には、勝手な南米少年像ができあがっていたのだと思います。
足元が柔らかい。
リフティングがずっと続く。
ボールを持った瞬間、陽気に相手を抜いていく。
残念ながら、僕はその期待にまったく応えられませんでした。
一応、サッカーはやっていました。
やってはいたのです。
でも実際にプレーを見られると、だいたい少しがっかりされます。
「あれ?」
みたいな空気が出る。
相手の中にあった「南米出身」という期待だけが、静かにしぼんでいくのが分かります。
ボールは思ったところに行かない。
ドリブルはすぐ取られる。
シュートはだいたい弱い。
南米育ちなのに、普通に下手でした。
ただ、ひとつだけ当時の日本で妙に通用してしまった技術がありました。
軽い接触で、派手に転ぶことです。
これは、うまい下手とは別の技術です。
南米では、サッカーの中にそういうしたたかさが普通にありました。もちろん全員がそうだと言いたいわけではありません。ただ、子どもの頃に見ていたサッカーの中には、軽い接触でも大きく倒れる、痛そうな顔をする、審判を見る、という一連の動きが自然にありました。
本当に痛い時だけ倒れるのではなく、
「今のは痛かったことにしておこう」
という一瞬の判断。
子どもながらに、そこだけは妙に身体に入っていました。
当時は90年代です。
日本ではJリーグが始まって、サッカー全体がものすごく盛り上がっていた頃でした。
日本のサッカー少年たちは、今思うとまだどこか素直でした。
ちょっと肩が当たる。
僕が派手に転ぶ。
審判が笛を吹く。
自分でもびっくりしました。
「あ、吹くんだ」と。
それだけではありません。
接触した相手が、申し訳なさそうに近づいてくることもありました。
「大丈夫?」
大丈夫です。
ものすごく大丈夫です。
こっちはちゃんと受け身を取っています。
痛そうに見える角度で倒れているだけで、身体へのダメージは最小限に抑えています。
今思うと、日本の子たちは本当に優しかったのだと思います。
いや、優しかったというより、僕が悪いのです。
相手は本気で心配している。
僕は地面で少し痛そうな顔をしながら、心の中で「ごめん、今のは演出です」と思っている。
サッカーというより、ほとんど小劇場です。
別に本気で悪事を働いていたつもりはありません。
ただ、南米で見ていたサッカーの動きが、癖として出てしまっただけです。
すると、当時のサッカー仲間からよく言われました。
「マリーシアって、これのことか」
サッカーは下手。
でもマリーシアだけは本場仕込み。
我ながら、ものすごく偏った才能です。
その後、日本サッカーでは長い間「マリーシアが足りない」と言われていた記憶があります。
もっとずる賢くなれ。
もっと試合巧者になれ。
もっと相手や審判との駆け引きを覚えろ。
たしかに、世界と戦うためにはそういう部分も必要だったのかもしれません。
でも僕は、その言葉を聞くたびに少しだけ変な気持ちになっていました。
もちろん、僕が言うなという話です。
軽い接触で派手に転んでいた人間が、急にフェアプレー側の席に座ろうとしているのです。
どの顔で言っているのでしょうか。
でも、それでもやっぱり、日本サッカーにはそっちへ行きすぎてほしくないと思っていました。
相手をだますうまさではなく、相手を上回るうまさで勝ってほしい。
そんなふうに思っていました。
サッカーは格闘技みたいなところもあります。駆け引きもあるし、時間の使い方もあるし、相手の嫌がることをする強さもあります。
ただ、マリーシアを足りないものとして追いかけすぎると、日本らしい良さまで薄れてしまう気がしていました。
だから今、日本代表が技術や組織力で世界と戦い、フェアプレーの姿勢まで評価されるようになってきたことは、素直に嬉しいです。
強さには、いろいろな形があります。
ずる賢さで勝つ強さもある。
個人技でねじ伏せる強さもある。
でも、相手への敬意を残したまま勝負する強さもある。
日本サッカーは、全部を南米やヨーロッパの真似にしなくてもよかったのだと思います。
足りないものを埋めながら、それでも全部を捨てなくてよかった。
そんなことを、ワールドカップを見ながら考えます。
AIに聞けば、現代サッカーの戦術はどんどん言葉になります。
プレス。
トランジション。
ビルドアップ。
ハーフスペース。
ライン間。
どれも大事です。
でも、僕の中に残っているサッカーの記憶は、もっと情けなくて、ずるくて、少しだけ笑えるものです。
南米育ちというだけで期待され、実際にプレーを見せたらがっかりされる少年。
ボール扱いは下手なのに、軽い接触で転ぶ技術だけは妙に自然だった少年。
そして今になって、日本代表には正々堂々と世界に勝ってほしいなどと言っているおじさん。
AIにこの話をしたら、たぶんこう返される気がします。
「それはサッカーの上達ではなく、文化の誤学習です」
まったくその通りです。
でも、その誤学習だけは、妙に身体に残っています。
今なら確実に通用しないでしょう。
VARもあります。
映像も残ります。
AIに分析されたら、たぶん一発です。
「この転倒には不自然な遅延があります」
そんなことを言われたら、もう立ち上がれません。
だから僕は、今の日本サッカーを見ていて少し安心します。
強くなるために、ずる賢さだけを追いかけなかったこと。
技術で、組織で、走力で、そしてフェアな姿勢で世界と戦おうとしていること。
僕が子どもの頃に身につけてしまった小さなマリーシアとは、まるで逆の方向です。
でも、だからこそ嬉しいのです。
南米育ちなのにサッカーが下手だった僕は、今もたいした戦術は語れません。
ただひとつだけ、昔よりは少し分かることがあります。
転び方より、立ち上がり方がきれいなチームの方が、見ていてずっと気持ちいい。
ワールドカップを見ながら、そんな当たり前のことを、今さらAIと一緒に確認しています。
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