#407 承久の乱を起こした後鳥羽上皇とは? 文武両道だった異色の天皇
幕府に戦いを挑んだ天皇
日本史の授業で「承久の乱」という言葉を聞くと、「後鳥羽上皇が幕府に負けた事件」というイメージを持つ人が多いかもしれません。
しかし実際の後鳥羽上皇は、かなり個性的な人物でした。
和歌に熱中し、刀づくりに夢中になり、スポーツ万能で、自ら政治を動かそうとした行動派。そして最後には、鎌倉幕府を倒そうとして日本史を大きく変えてしまった人物です。
もし現代にいたなら、「文化系と体育会系を両方極めた文武両道のカリスマ」と呼ばれていたかもしれません。
「代打の天皇」として即位した少年
後鳥羽天皇が即位したのは1183年。まだ4歳ほどでした。
当時の日本は、源平合戦の真っただ中です。
平清盛の平氏と、源頼朝・義経ら源氏が戦っていた時代でした。
実は後鳥羽天皇は最初から「予定されていた」天皇ではありませんでした。
当時の安徳天皇は平氏側に連れ去られてしまい、京都の朝廷側は「新しい天皇を立てなければならない」という状況になります。そこで即位したのが後鳥羽天皇でした。
つまり、後鳥羽上皇は「戦争中に急きょ即位した天皇」だったのです。
実はかなりの「スーパー文化人」
後鳥羽上皇は、歴代天皇の中でもかなり多趣味な人物として知られています。
特に有名なのが和歌です。
後鳥羽上皇は和歌にものすごく熱中し、日本を代表する歌人・藤原定家などを集めて『新古今和歌集』をつくらせました。
しかも、ただ命令するだけではありません。
自分でも本格的に和歌を詠み、「この表現はダメ」「もっと余韻が必要」など、かなり細かく口を出していたそうです。
現代でいえば、「自分でも創作するプロデューサー」のような存在だったのかもしれません。
刀剣マニアだった後鳥羽上皇
さらに後鳥羽上皇は、日本刀への異常なほどの情熱でも知られています。
各地から有名刀工を京都へ呼び寄せ、「御番鍛冶(ごばんかじ)」という制度までつくりました。
しかも、「鑑賞するだけ」ではありません。
後鳥羽上皇は、自分で焼き入れをするほど刀づくりにのめり込んでいたと伝わっています。
後鳥羽上皇がつくった刀には、皇室が好んだ菊紋が毛彫りされており、これが皇室の紋章「菊花紋」の起源になったと言われています。
このように、後鳥羽上皇は現代風に言えば、「刀オタク」で、日本刀文化を発展させた人物の一人ともいわれています。
実はスポーツ万能だった
さらに驚くのが、後鳥羽上皇はかなりの運動好きだったことです。
馬術
水泳
蹴鞠(けまり)
相撲
などを好み、自ら積極的に参加していました。
特に水泳はかなり得意だったらしく、「海を長時間泳いだ」という記録まで残っています。
天皇や上皇というと、「御簾の奥で静かに暮らしている」というイメージを持つ人も多いかもしれません。しかし後鳥羽上皇は、かなりアクティブなタイプだったのです。
なぜ幕府と戦おうとしたのか
そんな後鳥羽上皇ですが、次第に強く不満を持つようになります。
相手は鎌倉幕府です。
当時、日本では源頼朝が開いた鎌倉幕府が大きな力を持つようになっていました。そして頼朝の死後は、北条氏が実権を握ります。
このような状況は、朝廷側から見ると、
「本来、武士は天皇に仕える存在なのに、なぜ幕府がここまで強いのか」
という状況になっていきました。
後鳥羽上皇は、「朝廷こそが日本の中心であるべきだ」と考えていたのでしょう。そして1221年、ついに幕府討伐を決意します。
これが「承久の乱」です。
「天皇の命令なら勝てる」と考えた
後鳥羽上皇は、「天皇の命令なら武士たちは従う」とある程度考えていたようです。しかし、現実は違いました。
多くの武士は朝廷ではなく、鎌倉幕府側についたのです。
理由はシンプルでした。
武士たちに土地を与え、生活を守っていたのは幕府だったからです。
特に有名なのが、北条政子の演説です。
「頼朝公の恩を忘れるのか」
という言葉で御家人たちを奮い立たせ、多くの武士が京都へ向かいました。
結果、朝廷軍は敗北。
後鳥羽上皇は隠岐へ流されることになります。
それでも後世に強い影響を残した
後鳥羽上皇は、政治的には敗北しました。
しかし、文化面では非常に大きな影響を残しています。
『新古今和歌集』
日本刀文化
王朝文化の発展
など、後鳥羽上皇が関わったものは後世に長く残りました。
さらに、承久の乱によって「武士の時代」が決定的になったため、日本史そのものを変えた人物ともいえます。
もし後鳥羽上皇が幕府に勝っていたら、日本の歴史はまったく違うものになっていたかもしれません。
「和歌の天才」で、「刀好き」で、「スポーツ万能」、そして最後には幕府に戦争を仕掛けた上皇。
後鳥羽上皇は、日本史の中でもかなり「キャラの濃い人物」だったのです。
【参考図書】
【関連記事】
【目次】
【参考HP】
