#389「承久の乱」は「承久の変」だった?
1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討幕を目指して北条義時の追放を命じたことではじまった争乱を承久の乱と呼ぶ。
この争いで幕府が勝利したことにより、鎌倉幕府の勢力が全国に行きわたるようになった鎌倉時代のターニングポイントとなる重要なできごとだ。
そんな「承久の乱」だが、昔、とくに戦前は「承久の変」として教えられることが多かったということをご存じだろうか。
そもそも、「〇〇の乱」や「〇〇の変」という呼称は、どちらも権力者に対しておこされた反乱に対して使われる。
「〇〇の乱」は国をゆるがす大きな争乱に使われることが多い。例えば、「壬申の乱」「応仁の乱」「治承・寿永の乱(源平合戦)」などだ。
これに対し、「〇〇の変」は、比較的争いの規模や歴史への影響が小さい場合に使われることが多く、「本能寺の変」や「桜田門外の変」などがある。
つまり、「承久の変」と呼ぶ場合は、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との争いを「あまり大きな争いではなく、歴史への影響も限定的だった」とするニュアンスが含まれるのだ。
その背後にあるのは、戦前の日本の根幹となっていた、天皇を絶対とする皇国史観だ。
天皇家が絶対とする立場からすると、鎌倉幕府は天皇から政権を奪った「逆賊」ということになる。
つまり、承久の乱は天皇側からすれば権力を奪った武士が奪い返そうとする天皇勢力に勝ったという都合の悪い歴史なのである。
さらに、「乱」は権力者側が反逆者を鎮圧したというニュアンスも含まれる。やはりこれも天皇側からすると都合が悪い話だ。
そのため、「変」という呼称には、正統性のある権力者の後鳥羽上皇の起こした争いが歴史へ与えた影響は限定的で、大した争いではなかったという解釈が含まれているのである。
皇国史観による教育が敗戦によって転換した後、承久の変は徐々に承久の乱という記述に変わっていき、現代ではほとんど目にすることがなくなった。
もしかしたら上の世代の人たちは「承久の変」で習ったという人もいるかもしれない。
歴史は後世の人間が解釈していくもの。
承久の乱をめぐる「乱」か「変」かの違いは歴史の解釈の違いでもある。
教科書の記述にも後世の人間の「解釈」が含まれているということを理解しておかなければならない。
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