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書評:三宅香帆『推したちとどう生きるか《三宅香帆「推したちとどう生きるか」と乃木坂46を追う私①》

はじめに

土曜日。用事があって、東京駅から福岡まで新幹線に乗った。この時期の飛行機は高いし予約が取れない。時間はかかるが、新幹線(自由席)で行くのは、苦渋だが仕方ない決断であった。
その長い時間、読書に勤しむことにした。そのお供となるのが、三宅香帆『推したちとどう生きるか』である。

【書評】三宅香帆「推したちとどう生きるか」

◆現代社会構造の中の「推し」

ここ数年、サブカルチャーは明らかに受容状況の変化が生じている。三宅氏は『ONE PIECE』『名探偵コナン』などを引き合いに出してこのように言う。

そう、推しが、長い間活動することが増えたのだ。
私たちも社会人生活が長くなれば転職したり結婚したりするように、推しもまた、年齢を重ねて転職したり結婚したり仕事の仕方を変えたりする。あるいは年齢を重ねなくとも、時代の流れとともに変化するようになっている。
もはや、私たちは推しと年齢を重ねていく段階に、入ったのである。
それは一時的な熱狂というよりも、なんだかこの国に根付いたある種の文化や新しい人間関係のように見える
たとえば友人関係も思春期と大人になってからでは異なるように、推される側と推す側の関係もまた、人生をともにする関係になりつつある。

推しがいると、日常にハレとケができるなあ、とぼんやり思ったことがある。ハレとケとは、「晴れ=非日常な行事」と「褻=日常的な普段のルーティーン」という時間感覚の区切りのようなものである。

三宅香帆『推したちとどう生きるか』(新潮社)

このように考えると、腑に落ちる部分も生活の中では多くある。

そのうえで、推す側と推される側の関係も少しずつ変わってきていることも実感する。
最初は熱狂だったものが、いつの間にか習慣になり、生活の一部になっている。(三宅氏はそれを、「ハレ・ケ」として説明している。)
ライブに行ったことや、作品に励まされたことが、自分自身の人生の記憶として積み重なっていく。直接言葉を交わすわけではなくても、長い時間を通して、自分の人生に影響を与えてくれる。従来の「ファンと芸能人」という関係だけでは説明しにくい、新しい人間関係のようなものなのかもしれない。仕事や学校、家事といったいつもの生活が「ケ」だとすれば、ライブやイベント、新しい作品の発表は「ハレ」になる。次のライブを楽しみにしながら日常を過ごし、特別な一日を終えたら、また日常へ戻っていく。
推しがいることで、何気なく過ぎていく毎日に、いくつもの小さな節目ができる。そう考えると、「推し」とは単に好きな人や作品を指す言葉ではないのかもしれない。誰かを応援しながら時間を重ね、その存在を通して自分自身の人生にも節目をつくっていく。
「推し」という文化が根付いている要因は、そこに単なる消費以上のものがあるからだということの示唆になっているのであろう。

◆自己表現するアイドルの時代

第三章「「母」化する現代日本の推し活」という章では、インターネット社会・新自由主義社会のなかで、アイドル・推し活がどのように位置づけられてきたのかが巧みに論じられている。
そもそも、現代社会がどのような実態であるか…。

2001年以降、日本では新自由主義と呼ばれる経済思想に基づく構造改革が推し進められてきた。新自由主義とは、すべては経済的な需要と供給に基づく市場原理に任せるべきだとする考え方である。ポストフォーディズムと呼ばれる社会を背景に、新自由主義の台頭は格差拡大やデフレの深刻化をはじめ現代の社会状況をつくりだした。

三宅香帆『推したちとどう生きるか』(新潮社)によれば、このうち、ポストフォーディズム(企業が雇用を流動化させて、市場の需要を確認しながら生産調整していくべきだというスタンス)時代であることに着目し、アイドルが「自らの能力を磨き、それを実践すること」が求められているのだという。「仕事=自己表現」という姿勢は、現代の社会人にも同じような傾向はみられてきているかもしれない。教員である私がいまこうして文章を繕っているのもその片鱗なのかもしれない。

感覚的な話だが、所謂昭和アイドルは、プロデュース"されている"感があったような印象を受ける。すべてのしぐさやパフォーマンスが、訓練されたロボットのような精巧さは、そのように感じる気がしないでもない。ところが、現代のアイドルとなると、そもそもアイドル自体がおそらく飽和状態である。そのなかで、「推してもらう」ためには、各々がInstagram等のSNSで発信をするなりして、自分の力で動くことが多分に求められることが多くなったように思われる。そうでもしないと、見つからない、というのもあるだろうが、そうやって、社会の情勢にアジャストしてしまっている実情があることが否めなくなっていることを実感する。
余談だが、たとえば、乃木坂46の遠藤さくら・賀喜遥香(つい今日8/8にインスタを始めた!)のようなSNSをろくすっぽやっていないアイドルもいる。(ブログはやっているが…) それでもなおグループ内では高い人気を保っているというのは、このなかでも数少ない例外であるように思われる。もしかすると、この勢力の最後の砦となるかもしれない…。

◆「君の名は希望」

上記のような時代の実情もあいまって、現状は、KAWAII LAB系のように、世界観のみを提供し、それ以外の発信は各個人に任せているというアイドルグループが多くあると三宅氏は言う。また、それゆえ、アイドルの全人格が推される対象となってしまっている。
そのなかで、三宅氏は乃木坂46『君の名は希望』を引用している。

未来はいつだって
新たなときめきと出会いの場
君の名前は"希望"と今知った          
              (『君の名は希望』)
「君」は、ただ恋する相手であるだけでなく、僕にとって、ときめきと出会いをもつ未来を見せてくれる存在そのものとなっている。つまりそれまで自分には見えていなかった、足跡が続いている時間軸——その先にある未来の存在を知らしめてくれるもの。それこそが君であり、それは自分にとって未来に続く希望である、という展開が綴られる。
これはまさに、「君」のなかに「来るべき未来」が内包されている、という感覚である。

三宅香帆『推したちとどう生きるか』(新潮社)

この曲は、恋しくなることによって、希望の光を見出すというような詞である。存在していることそのものが「希望」だという点は、「推しを崇拝する」ということにつながる。三宅氏は、「つまり君とは推しであり、それは希望のことである。」と述べている。
正直、個人的には、「希望」が先にあって、その構造は「推す」ことにつながるほうが筋道立った表現ではないか?とは感じた。(大きな齟齬はないと思うので、問題ではない)また、この例をもって、「「推し」に理想を見出すこと=推し活の源流」としている記述があったのだが、『君の名は希望』でそれを示すのはすこし飛躍があるようには感じた。それは、ここに描かれるのはシンプルな憧憬であって、それが「推す」こと自体を指し示すように考えられるためである。
とにかく、「推し」は私たちに「希望」をもたらす存在である…というのは言うまでもない。今、その時間軸から、未来に展望するものもあるだろうし、そういう意味では、大きな含みを持った詞であることは自明である。

◆「推し事」をどう位置づけるのか

ここまで読んできて、改めて考えたのは、推し事は、自分の人生を豊かにするための「余白」なのではないかということである。
推しは、日常そのものではない。けれど、日常から離れた「ハレ」の時間をつくり、そこからまた「ケ」の日常へ戻っていくためのきっかけにはなる。そして、その存在に希望を見出したり、長い時間をともに過ごしたりすることで、自分自身の時間にも意味が生まれていく。

だからこそ、推し事は単なる消費でも、現実逃避でもない。一方で、人生そのものにしてしまうものでもない。自分の生活をきちんと生きながら、その生活を少し豊かにしてくれるもの。 私にとっての「推し事」は、今のところ、そのくらいの距離感がちょうどいいようにも思える。
そう考えると、「推したちとどう生きるか」という問いは、結局のところ、推しとどう生きるかではなく、推しがいる自分の人生をどう生きるかという問いなのかもしれない。と感じた。

「推したちとどう生きるか」と銘打った書籍であったからこそ、私自身がこれを考える、有意義な機会をもたらしてくれる一冊となった。

これまでもやってきたことであるが、引き続き、「推したち」は、私たちをいかにして、豊かにしてくれるのかを、発信していくことにする。

このシリーズの今後

◆これから

この投稿は大きく3シリーズに分けての投稿を予定している。
① 今回の三宅香帆『推したちとどう生きるか』に基づく書評
② 三宅香帆の書評をふまえつつ、好きなことを表現することについて

そしてもう一つを話す前に話しておきたいこと…。
それは、なぜ私が福岡に行くのかである。

◆福岡に行く理由

それは、乃木坂46のライブである。
福岡公演…。とても楽しみ!!センター一ノ瀬美空の地元凱旋ツアーなので、ぜひとも現地に足を運びたかった。
地震や台風など、心配事も多くあったが、初日は無事に開催されていること、また二日目も無事に開催されることを願うばかりである。

今後の続編は、投稿し次第、リンクをこの投稿にも随時貼り付けておこうと思います。
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続き

〈続〉


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