架橋:「推し」の価値を共有するための表現論を考える《三宅香帆「推したちとどう生きるか」と乃木坂46を追う私② 》
はじめに
これは、三宅香帆『推したちとどう生きるか』から続く、推し活論の続編である。いわば、理論編⇒実践編のような位置づけを想定している。今回は、理論編の後半部分にあたるところであろうか…。
◆前回のあらすじ
前回は、三宅香帆『推したちとどう生きるか』を手がかりに、現代社会における「推し」の位置づけを考えた。推しは一時的な消費対象ではなく、日常に「ハレ」をつくり、人生に節目や希望をもたらす存在になっている。
また、現代のアイドルには自己表現が求められ、「推すこと」そのものも社会の変化と無関係ではない。だからこそ、推しとどう生きるかではなく、推しがいる自分の人生をどう生きるかが重要なのではないか。これをふまえて今回は、もう一歩身近なところから、「好きなことを表現する」ということについて考えていく。
◆前回の記事
【架橋】なぜそれを書くのか、語るのか?
この節では、『推したちとどう生きるか』を念頭において書きたい。
◆「自分の人生」を彩る存在としての「推し」
さきほどまでの話でいくと、「推しがいる自分の人生をどう生きるか」はとても大事なことであることがわかる。そして、「自分の人生をどう生きるか」という命題のなかで、「推し」がどのように関与する(概ね無許可であろう)のかというのがテーマである。
前回の記事では、現代のアイドルには「主体性」が初期装備として搭載されるようになってきているという話をした。これは、現代社会において、様々な物事の価値判断基準に「需要と供給」が伴うようになった(いわゆる、ポストフォーディズム的)という外的要因ゆえに起こってしまったものである。
また、それと並行して伴うのが、推している側(ファン・オタク…様々な名称がある…)の熱量である。曲に合わせて会場一帯に響き渡るコール。コンサート会場中を回るときの、メンバーからレスポンス。会場一帯を包みこむサイリウムの一体感。乃木坂46のライブに行って思い出すのは、そうした観客とともに作る空気感も大きな要素になっていると考える。この空気づくりは、もちろんファンが率先して取り組んでいる場合が多い。
このようなファンの主体性と、アイドルがどのようにライブの中で良いパフォーマンスをする(この場合の「良い」は、アーティスト・アイドルなどそれぞれの”推し”毎に変わるだろう。)という主体性が掛け合わさって、ライブ自体はとても満足感のあるものになる。ドーパミンが出るのであろう。
そういったわけで、ライブが嫌い…という推し活プレイヤ―がめったにいないのは至極当然のことなのである。
以下の記事には、アイドル(今回は=LOVE)のライブから見えるオタク文化から、組織の活発な議論に向けた方策をまとめたものであり、すごく参考になる。
— かわうそ|会社を味方につけるOL (@turtle_zsedai) June 26, 2026
記事の例でも、「主体的に参加すること」の有意義さについて、言及されている。この記事は組織の中でどのように「主体的な活動」を促していくかというものであったが、組織をはじめとする複数人で構成される共同体のなかでは、やはり当事者意識が重要であることはたしかなことだろう。
もし、私たちがなにかを行動を起こさなければならないとして、その物事に対して、責任感がなかったり、重要性を実感してなかったり…そのように当事者意識がなければ、私たちは空虚な感覚を抱いて行動をしてしまうことになってしまうだろう。「なんで私はいまこれをやっているの…?」といった具合で。
当事者意識をもたらすことで、その場面が大変であろうが、苦しかろうが、況や楽しかったことであれば、それは、最後に振り返ったときの充実感・自己有用感につながっていくのである。この「当事者意識」をまっさきに観客に実感させ、愉悦までももたらす「推し活」が嗜まれるのも、人間の性としては、当然なことであろう。「推し活」は、自分を生きる人生にいわば、彩りを与えてくれるものなのである。
そのうえで、
なぜ「好きなことを表現する」ことが面白いのか、大事なのかということである。それは、自分の好きなものの価値をより共有するため。であると私は、考える。
◆ 自分の好きなものの価値を広げる
自分の考えは、自明に、自分の世界で完結している。「推し活」をしていると、他者とのつながりを実感する場面もちょこちょこあるのだが、それは自分の選択によって、拓かれた世界であるから、それは主観性の大きな世界であるのだ。
主観を主観の世界のまま、完結させて閉じ込めておいてもよいのだが、周りに伝えよう・共有しようとなると、ここで先程まで話題にあがっていた「共同体」という概念を思い出させられる。「推す」行為自体は、まず、推す自分=推される他者が居ないと成立しない。そして、その関係性をより発展させるためには、推す他者もまた必要になる場面が多くある。推される他者(いわゆるアーティスト・アイドル、あるいは作家でもよい。)というのは、推す人々がいてその価値が発展・伝播されていくものである。推す/推されるという他者前提の言葉の裏には、そうした価値継承の必要性がどうしても伴わざるをえないものである。もちろん少人数で成り立つ推す/推される関係もあるだろう。教室内での子どもたちの恋バナとかはまさしくそうであろう。規模感としては有り得る話である。しかし、「推し活」となる場合、創作者・演技者が、その価値を他者と共有したい場合には、必ず「推される」責任や必要が伴ってしまうのである。
創作者が努力せねばならない部分もあるのだろうが、限界があるのも事実である。また、酷評されてるものも実は高い評価を受ける価値ある側面を有しているかもしれない。創作者個人では、その善し悪しは伝わりきらないことが大いにあるのだ。
では、改めて、そうした価値判断を他者に共有するべく「推す自分」として何ができるのかを考えたい。
やはりそれは、自分が好きだと感じたものの価値を共有するための、アウトプットをすべきだ。という結論に至る。
バッハやシューベルトは、死後評価された人物だとは有名である。バッハはメンデルスゾーンによる復活演奏という表現の場があった。シューベルトは、楽譜のなかの傑作が、共有される機会があった。こうして、表現・共有が、価値を知ってもらうためには、必要不可欠な要素であることは否めないのだ。
そして、現代であれば、推される者を見る存在が増えることは、その価値を共有する共同体をより活発にし、推される者の動機づけにもつながることが多くなる。こうした循環のなかで、「推し活」は成立しているのだと考える。このような相互利益的循環によって「推す/推される」関係のなかでの共同体をより高次なものに引き上げてくれる可能性を秘めているのである。
◆何を大事にして書けば、上手に言葉にできるのか?
そのうえで、「推し」の価値を他者に伝えるためには、伝え方はすごく大事になってくる。
自分や自分の評価しているものは誰しも、よい印象を持たれたいものである。自分のテリトリーに他者を巻き込みたい・知ってもらいたいという欲求を達成するためには、ある程度、表現する側の心構えといったものが必要となる気がする。
そうしたことも踏まえながら、新書の方を参考にさせていただいたのと、同様に、「書き方」について考えをめぐらしているうちに、偶然にも、三宅氏の過去の投稿を発見した。(上記リンク)
私はたぶん誰よりもアイドルから文章の書き方を学んだんですが、この話を先日友達にしたら「それ面白いからブログとかに書きなよ」ってすすめられまして、なるほどこういうのをブログに書けばいーのか! と思い立ちました。はい、というわけで「私がアイドルから学んだ文章の書き方」というお話。
アイドル。それはひたすらに「歌やダンスの実力だけではないところで、観客に楽しんでもらうこと」を志向する方々。
つまり、私のよーな「文章の中身や技術だけではまだそんなに楽しんでもらえねぇ!」というような人間こそ、アイドルの真似をすべきなのでは、と思っているのです(逆に、文章の中身がものすごく情報として価値がある人は真似しなくてもいいと思う)。
ダンスのプロでも、歌のプロでもない。私たちは「みんなを楽しませること」のプロだ! と、アイドルの方々は言っているように見えます。
その技術をね、私は文章に応用してみたかったんです。
というわけで、セブンルール。
①書き手の表情がわかりやすいこと
②読み手をひとり決めること
③カメラに抜かれそうなキャッチーな言葉を入れること
④ありきたりな言葉で隠してないか確認すること
⑤できるだけ短く書くこと
⑥自分が書いてて楽しいと思えるものを書くこと
⑦愛があること♡
https://note.com/nyake/n/nf22a61bb5c72?sub_rt=share_sb
◆3つのポイント 「焦点化」「独自性」「没入感」
詳細は投稿を参考にされたい。これらのルールもいくつかに分類できるように思われた。大きくわけて、「焦点化」「独自性」「没入感」と言ったところであろうか。
「独自性」はわかる。価値を共有する人が沢山いたとして、みな口を揃えて同じことを言っていたら少しカルトのように思われてしまう。教員として働いていても思うのだが、教員がみな口を揃えて、全く同じキーワードで、日常で教育しなければならないことを言っていたら少し怖い。一体感・一貫性はあるのかもしれないが、そうしたことは、各々の行動の中で反映される、いわば「人の振り見て我が振り直せ」的スタイルの中でものを言うのであって、やはりみんなが同じことを思っていても、「自分」がどう感じていたか。を明らかにするのが大事になってくる。
それで言うと、「没入感」も同様である。自分が「どうして、それにのめり込んでしまったのか」を説明したいし、共有したい。それを説明するための原動力は、熱量である。やはり、こうしたところにも「当事者意識」が求められてくるのか、ということは実感させられる。「当事者意識」をもって推してる人達であれば、意外と表現することは容易いことなのかもしれない。
ここで最後の要素、「焦点化」であろう。ただつらつらと述べていると、自分の「没入した体験」も「独特の見方」も上手く共有されない。それを貫く「論理」が必要なのである。「焦点化」するためには、テーマや押さえるべきポイントが必要となる。まるで小論文を書いているかのように思われてくるが、構成を整理してまとめておくことで、より多くの人に伝わりやすくなる。という可能性を秘めている。
まとめると、「焦点化」が論理や構成、「独自性」がそのアイデア、「没入感」がそれを作り出す熱量であろう。
ところで、この類の話をしたとき、職場の同僚が、「好きなものを説明するときに重要なのは論理ではなくて、熱量」と言っていたのを思い出した。私はちょっと違うと思う。もちろん、熱量も大事なのだけれども、「より多くの人に価値観を共有したい」という目的意識の中であれば、「論理」も大事になってくるのである。「熱量」だけだと、押しつけになってしまう。他人に押し付けない程度に「共同体」がどんな様子なのか共有したいのであれば、以上の3点が肝になってくると考える 。
このバランスのなかで、好きなことを意のままに表現することの意義が生まれてくると考える。
乃木坂のライブに行くぞ!!
閑話休題。乃木坂のライブの当日になった。
私は今、福岡県にいる。
真夏の全国ツアーは神奈川公演についで、2回目である。セットリストの大枠は変わっていないだろうが、だからこそのメンバーの進化が見られるのが非常に楽しみである。
次回は、実践編。好きなことを好きだと、しっかり上手く書けるかを試してみようと思う。(上手くいく気がしない)
◆次回(乃木坂のライブレポ)
次回の記事も、投稿し次第、リンクをこの投稿にも随時貼り付けておこうと思います。
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