タイラー・ハミルトン|闇のツール・ド・フランス|シークレットレース
ツール・ド・フランスの(元)七回制覇王者王者のランスアームストロングの不正を告発した話。
誰もが不正している中で自分だけがクリーンでいられるか?
タイラー・ハミルトンをシークレットレース読了した。これと同時にただランス・アームストロング「ただマイヨジョーヌのためでなく」を併読してすげぇげんなりした気分になっている。
ただマイヨジョーヌのためでなくが白鳥の水上の物語だと思う。言い換えればランス・アームストロングというツール・ド・フランスを7連覇したと言われていた男の自分語り。自分がスペシャルになるまでを書く。ちな英語版しかもうでとらん。
その一方でタイラーが水中のランスの動きを書く。いかに残酷なシステムにランスがドーピングで巻き込まれていくか?という話。
で、最終的な結論はwikipeidaにもあるんだけど優勝の剥奪に至る。7年の優勝記録はなかったことにされた。
あれ?でもこれって合理性の話だよね
ふと思うんだけど、これって合理性を人間がどう持ちうるか?って問いだよね。ドーピングは数値によって効率化されていく。その数値化が僕は気持ち悪く感じたし、ただマイヨジョーヌのためでなく、なんのために戦っていたんだろう?って思うんだよね。
でも合理性ってすごく賞賛される行為でもある。効率化、タイパ、コスパ。
なんか今の時代のフレームワークを20年前にやりましたっていう当時の最先端の話を今普遍的に落とし込んでいるだけなんじゃないかな?
そりゃ、効率的に出会えたり、成功したり、何かを習得できるのはいいことだけど、その間の不合理に楽しさってあるんじゃないかな?
僕が介護を選んだのは不合理だったから
前もマッチングアプリの話にも書いたかもしれないけど不合理だから、データにノイズに出るから人間の美しさってあると思うんだよね。少なくとも僕はそう思う。ホッケのカリカリが美味しいのは多分そういう理由。
僕はテストのためのテスト勉強とか、就活のためにどの学部選ぶとか、効率的だからっていうのがすごく嫌いなんだ。人と違うから楽しいんじゃないの?人と同じことして楽しい?
ヤングケアラーから30年の介護を経て思うのはやっぱり不合理なことこそ人間らしいんじゃないかな?って問いなんだ。人間を効率的に図るのってキモチワルイ。
で、話を戻す。
みんなやってたから、抜けれなかったというのは、理屈としてはわかる。で、だ、人間性を捨てることでランス・アームストロングは効率化の権化としてツールで勝ったということなんだよね。
で、逆パターンの悲劇もある。今は逆の物語。おそらくドーピングをせざるをえなくてでも同時に人間性を捨てられなかったマルコ・パンターニの物語を読んでいる。
合理的ってそんなに重要なんですかね?
