第2話:「毒親育ち」って一言で言うけど、何がどう辛かったのか、そしてどう向き合ってきたのか
🧪これは、“幸せって何だろう?”を探し続けてきた私の、実験と発見の記録です。
毒親育ちだった私が、別居婚と愛犬との暮らしを選び、
“自分の人生”を取り戻すまでのリアルな軌跡。
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「毒親育ち」って一言で片付けられるほど、簡単じゃなかった。
ビンタ、馬乗り、泣きながら作ったドアのバリケード、絶縁。
今でも私は、自分の“本当の気持ち”がわからないことがある。
だから今日は、
“なんとなくの言葉”にされがちなこの経験について、
少し丁寧に書いてみようと思います。
ちゃんと、自分の人生の背景として、認めるために。
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「親の期待に応えることが、生きる術だった」
私は東京の、いわゆる中流家庭に育ちました。
父はサラリーマン、母はスポーツインストラクター。
母の期待を一身に受け、私もスポーツの道へ。
他の選択肢なんて、許される空気すらなかった。
進路も就職も、「親がどう思うか」で決まる。
私はただ、“納得される子”でい続けるしかなかった。
物心ついた頃にはもう、
私は“自分”として生きていなかった気がします。
何をしても、言っても、何もしなくても怒鳴られる。
暴力も日常で、私の鼻はいまでも少し曲がっています。
それに気づいた母は、笑いながら言いました。
「私が殴ったときのやつかもね〜」
そんな環境で育った私は、“考える”ことをやめました。
「何も言わないほうがマシ」
そう思いながら、感情も、意見も、押し殺して生きてきました。
いまでも時々、わからなくなるんです。
“ほんとうの自分の気持ち”が。
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外では「いつも笑顔で元気な子」
家では「ひとりで泣いてばかりの子」
家の中では、怒鳴られ、責められ、否定される毎日。
だから私は、外では必要以上に明るく振る舞っていました。
「いつも笑顔で元気で、いい子だね」
そう言われることだけが、唯一の救いだったのかもしれません。
でも本当は、家に帰ると毎日、涙が止まりませんでした。
些細なことで母が怒鳴りながら追いかけてくる。
私は逃げるように部屋へ駆け込み、鍵のないドアに大きな荷物を積み上げて、バリケードをつくる。
泣きながら、震えながら、それでもなんとか自分の心を守ろうとしていた。
ドアの向こうでは、怒鳴り声とドンドンという音が響き続ける。
それが消えるまで、私はずっと息をひそめていた。
ほんとうに、毎日、泣いていた。
大げさなんかじゃなくて、それが現実だった。

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息苦しさで目覚めた休日の朝。馬乗りになった母のビンタ
少しゆっくり眠りたい休日の朝。
そんなささやかな希望すら、私には許されていませんでした。
重くて息苦しい感覚で目を覚ますと、
母が私の身体に馬乗りになっていた。
「アンタはなんでそんななのよ!」
怒鳴りながらの往復ビンタ。
休息どころか、呼吸すらままならない目覚めが、
当たり前のように繰り返されていたのです。
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「いつか、目の前で自分を消してやる」
それが、私なりの“復讐計画”だった。
忘れられない夜があります。
酔って帰ってきた父が、上機嫌で私の部屋にやってきた。
「お前、何やってんだよぉ〜」と絡んでくるのを、
私は苦笑いしながら、いつものようにやり過ごしていました。
「わかったから、もう自分の部屋に戻ってよ〜」
そう言って、父を廊下に追いやった瞬間――
空気が一変しました。
「お前、俺がどんな気持ちで生きてると思ってんだよ!」
突然押し倒されて、馬乗りにされた。
怒鳴り声と同時に、首を締め上げられる。
視界がぐらぐらと揺れて、呼吸ができなくなり、頭が真っ白になる。
それでも私は――
必死に、笑顔を作ろうとしていました。
「怒らせないように」
「もっと怒らせないように」
ずっとそうやって、生きてきたから。
その夜、私は心の奥で決意しました。
「いつか、両親の目の前で、自分を終わらせてやる」
そうすれば、きっと気づく。
自分たちが、何をしてきたのか。
笑顔のまま、何も言わずに人生を終わらせる。
それが、私の“復讐”であり、“勝ち逃げ”だと思っていた。
理由なんて、わざわざ教えてあげない。
どうせ言っても、届かないと思っていたから。
…でも、その計画は、途中で止まりました。
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「3年後にまたここに来よう」
たったその一言で、救われた夜がある
私の異変に気づいてくれた人がいます。
当時はただの友人――(後に彼氏になる人)でした。
精一杯、笑っているつもりだった私。
でも彼には、それが空元気に見えたようです。
「ちょっと、いい景色を見に行こう」
そう言って連れていってくれたのは、夜景の綺麗な場所。

ぽつりと彼が言いました。
「3年後に、またここに来よう」
たった一言。
でも、その未来の約束が、奇跡のように私を“今”につなぎとめてくれたんです。
今でも私は、彼のことを、命の恩人だと思っています。
その後も、「普通の家庭」には、まだ遠かった。
それでも私は、“生きる”という選択をしました
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家に入れてもらえず、謝り続けた深夜。そしてホテルで迎えた夜
社会人になり、仕事が忙しくなって帰宅が遅くなると、私を待っていたのは閉ざされた玄関でした。
鍵はある。でも、内側からチェーンがかかっている。
「こんな遅くまで女の子を働かせる会社なんて辞めなさい」
それが両親の言い分。
玄関先で謝り続け、入れてもらえるまでに1時間。
その後の“家族会議”でさらに1時間。
疲弊しきって、心も身体も限界だった私は、
ある日、近所のラブホテルにひとりで泊まりました。
どちらが危険かなんて、一目瞭然。
それでもその夜は、ゆっくり眠れた安堵の方が大きかったのを覚えています。
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「大人の家出」──初めての冬ボーナスで契約した、わたしの“自分の人生”
“生きる”と決めた私は、
一日でも早く、親元を離れたかった。
社会人になって初めての冬ボーナスで、一人暮らしの賃貸を契約しました。
誰にも告げずに、静かに引っ越した。
いわば「大人の家出」。
あの一歩が、私にとって“人生の再スタート”でした。
自分で決めて、自分の人生を歩き始めた証。
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簡単に「親を許そう」としなくていい
「親も人間だから」
「もう過去は変えられないし」
「許して前に進もうよ」
そう言ってくれる人もいるけど、
私はこう思ってます。
許せなくていい。
無理に向き合わなくていい。
ただ、「あれは、ちゃんと傷つくことだった」って、自分で認めてあげるだけでいい。
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今、私が“家族”を築いていることが、ひとつの答えかもしれない
今の私は、
自分で“家族”を選び、少しずつ、大切に築いています。自分のペースで。
当時の私が見たら、信じられないかもしれない。
でも、確かに今ここにいる“私”は、ちゃんと生きていて、毎日心の底から笑っている。
「毒親育ち」を言葉にするのは、勇気がいる。
でもそれは、過去をなかったことにしないため。
そして、新しく生き直すため。
家族は「生まれるもの」じゃなくて、「築くもの」かもしれない。
そう思えるようになるまでに、私は遠回りしたけど。
ーーあなたにとって、“家族”ってなんですか?
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📢 次回予告
第3話:毒親との再会。そして、もう一度サヨナラした話
「親から離れたら幸せになれる」
そう思っていたはずなのに、心のどこかで罪悪感が消えなかった。
だから私は、“親孝行っぽいこと”をしてみた。
でも――やっぱり、変わらなかった。
借金4,000万円の名義人の話。
あっけなく兄を裏切った両親。
そして私は、もう一度、決断を下す。
“大人としての絶縁”という、最後の選択を。
