「代読屋ははざまを繙く」第八話
三行半(二)
夜になって店じまいをした典也は、近所の食堂で夕飯に蕎麦を食べて銭湯に寄ってから春夏冬堂に戻った。
路面電車はまだ走っているが、夜になると上野広小路を歩く人の数は減る。
下宿先である二階の部屋の窓を開け、夜風に当たりながら団扇で顔を扇ぐ。
日没後もなかなか気温が下がらないせいか蒸し暑い。
近くで蜩が鳴く声が響いている。
蚊取り線香を焚いているのに蚊の羽音が部屋の隅から聞こえた。
「そういえば、三行半って久しぶりに見たな」
昼間に董子が持ってきた鴈治郎の妻の三行半の声を思い返しながら、重いため息をついた。
空いている手をじっと見つめる。
「前に僕が三行半を見たのは、三年くらい前だったかな。姉さんが入院していた頃だったから――」
視線を上げて夜空を眺めつつ、典也は記憶を辿る。
「あの病院は確か、大きな蘇鉄の木が玄関の脇に植えてあったな。姉さんがいますぐアイスクリームを食べないと死んでも死にきれないと言ってきかないから、毎日買いに行かされたっけ。軽い肺炎だったから、いまアイスクリームを食べなくても死なないと言ったのに、真昼の炎天下の中を買いに行かされた……」
瞼を閉じると実家から汽車で二時間ほどの場所にあった病院の光景が脳裏によみがえる。
病床数二十ほどの中規模な病院だった。
肺炎を結核と診断されて入院したせいで、姉の温子は「病院ってどこも藪医者のひとりやふたりはいるものね」と言っていた。
夏風邪が拗れたのかと思いきや肺炎だったのだが、入院中の姉は病人であることを理由にとにかく我が儘放題だった。
アイスクリームが食べたい、冷たいソーダが飲みたい、やっぱりスイカが食べたい、うどんも食べたい、と両親に代わって病院で付き添いをしていた典也を使いっ走りにしていた。こんなに食欲旺盛な病人は滅多にいないだろうと感心するくらいだった。
結核と診断されて入院した温子が実は肺炎であると言ったのは、入院先の新米医師だった。地元の診療所からの紹介状を持って入院するためやってきた温子と典也に「あー、これは肺炎ですね」とあっさり告げたのだ。そのまま入院することにはなったが、結核と診断されて気落ちしていた温子は誤診であることが判明した途端に元気になった。
「あの老先生はそろそろ隠居した方が良いわよね。肺炎を結核と間違えるくらいなんだから」
入院先で朝昼晩と出てくる食事をすべて平らげた上に、まだアイスクリームだのスイカだのと言う姉の食欲に典也はおののいていた。
後に温子はこの病院で主治医として診てくれた医師と結婚した。
温子が医師を気に入ったのではなく、医師が温子を気に入ったのだ。病人なのにとにかく元気なところが好印象だったという。
「肺炎なら、こんな遠くの病院に入院しなくても良かったんじゃないかな」
高校が夏期休暇である典也は、両親から姉の付き添いを一任されていた。
入院先の病院は付き添いの家族が病室に泊まることを認めていたため、典也は「なんで僕が」と文句を言いつつ姉の病室に泊まっていた。
温子の病室は二人部屋だったが、隣のベッドを使っていた患者は温子が入院した翌日に個室に移っていた。どうやら病状が悪化したらしい。
「病人であることに変わりはないんだし、病気で弱っているのにまた二時間汽車に揺られて帰れって言われるのはさすがに辛いわよ」
元気に焼き鳥を食べながら温子は答える。
焼き鳥は典也が自分の夕飯用に買ってきたものだ。入院患者用の食事は病院が出してくれるが、付添人用の食事はない。典也は毎日三食を病院の外で調達しなければならないのだが、いつも買ってきた物の一品は温子に奪われている。温子に一品巻き上げられることを前提に弁当を買うようになると、今度は懐が厳しくなってきた。
「あー、早く家に帰ってゆっくりお酒を飲みたいわ」
呑ん兵衛の温子らしい台詞を聞きながら、典也は読みかけていた本を開く。実家から持ってきた本はすでに読み尽くしたので、そろそろ病院の近くにある古書店でなにか見繕ってこようかと考えていた。
「退屈ねぇ」
「………………」
温子は、おとなしくベッドの上で寝ているという病人らしい行動をするつもりはさらさらないようだ。
弟と異なり、読書の趣味もない。雑誌は読むが、小説は本を開くことすら滅多にしない。眠れない夜だけ弟の部屋の本棚から本を持ち出すのだが、最初の数行読んだだけで熟睡できるとどの作家の本も好評だ。
「典也。花札でもしない?」
「……なにも賭けないならしていいけど」
「なにも賭けずにする花札ほどつまらないものはないわよ」
「じゃあ、しない」
「よし。あんたが勝ったらわたしのお金でアイスクリームを買ってくる。わたしが勝ったらあんたのお金でアイスクリームを買ってくる」
「……誰が買いに行くんだよ」
「あんたに決まってるでしょ。わたしは入院患者なのよ?」
どちらにしても典也がアイスクリームを買いに行くことは決定らしい。
結局、十五分後に典也は自分の財布だけを持って病院から徒歩十分ほどの場所にある商店街へアイスクリームを買いに行く羽目になった。
夕暮れの商店街は早々に店じまいを始めていたが、なんとかアイスクリームを二つ買うことはできた。
病院に戻ってくると、入り口の蘇鉄に夕日が当たっていた。
蘇鉄は丈が低いわりにごつごつとした幹が太く、葉が長く伸びている。
その蘇鉄の木の下で、ひとりの婦人がうずくまっていた。
浴衣姿で温子と同じくらいの年齢とおぼしき婦人だ。多分入院患者のひとりだろう。
「どうかしましたか? 気分でも……」
周囲に他に人がいないため、典也は恐る恐る声を掛けた。調子が悪いのであれば、できるだけ早く医師か看護婦に知らせるべきだと考えたためだ。
「あ……いえ」
顔を上げた婦人の目には涙が浮かんでいた。青白い顔はやつれており、目の下には隈が浮かんでいる。髪は簡単に結っているだけだ。
「申し訳ありません……大丈夫、です」
まったく大丈夫ではない様子で立ち上がると、婦人はよろよろと病院の中に入っていった。
婦人を見送った典也は、蘇鉄の木の足下に白い紙切れが落ちていることに気づいた。
屈んで指先で摘まむと、中に便箋が入っていると思われる封筒だった。
(さきほどのご婦人が落としたんだろうか)
封筒の表と裏のどちらも無記名だ。
あの婦人の落とし物なのか別の人の落とし物なのかはわからない。
(病院の受付に預けた方が良いんだろうな)
誰の物ともわからないが、もしかしたら重要な手紙かもしれない。患者か見舞客が相手に直接渡すからと宛先や差出人を書かなかった可能性がある。
(中身は見ないままの方が良いんだろうけど……)
封筒からはかすかに白粉の匂いがした。
さきほどの婦人は化粧をしていただろうか、と典也は首を傾げる。
病院の中は嗅ぎなれない薬品の臭いで満ちているせいか、普段は好ましいと感じない白粉の匂いに日常を感じる。
(病院で寝泊まりしていると、患者じゃなくても疲れるものだな)
毎日、退屈している姉の相手と読書をしているだけだが、病院の空気は健康な典也を疲弊させていた。この病院の中で一番元気なのは姉ではないだろうかと思うほどだ。
入院病棟はいつも静かだが、時折廊下で話し声が聞こえてくる。声を潜めていても深刻な話をしていることが伝わってくる。嗚咽を含んだ泣き声が聞こえてくると、それだけでこちらも気分が重くなる。
病院の外で蒸し暑い空気に閉口することはあっても、蜩の鳴き声を聞きながら空を眺めていると姉の病室に戻りたくなくなる。
(……いや、でも、アイスクリームが溶ける前に戻らないといけないな)
手に持っていた袋の存在を思い出し、典也は仕方なく病院の玄関へと向かった。
手紙は後で看護婦に渡すことにしよう、と懐にしまう。
アイスクリームが溶けてしまうと温子が激昂することは目に見えていた。
もう姉は十分元気だからそろそろ退院させてくれないだろうか、と典也は心の底から願う。
温子は食欲があり、体温は微熱ていどで、咳もほとんど出ていないのだが、まだ病院からは退院の許可が下りない。主治医からは「明日改めて精密検査をする」と伝えられているが、検査結果がすぐに出るわけではないので、もし退院できるとしても明日以降だろう。
実家には毎日電話をしているが、両親は「良くなってきているなら見舞いには行かない」と言われた。入院費用がかさんでいるので、見舞いに行って余分な交通費を使いたくないのだろう。
「姉さん、アイスクリームを買ってきたよ」
病院独特の臭いがする廊下を黙って歩き、姉の病室の扉を開けた典也は首にかけた手拭いで汗を拭いながら声を発する。
姉があれこれと買い出しを言いつけてくれるおかげで外の空気を吸うことができるのだが、そろそろ財布の中身は本当に限界に近くなってきていた。
「遅い!」
寝転がって雑誌を読んでいた温子は起き上がりながら文句を垂れる。
その普段通りの反応に、典也は安心した。
姉がおとなしく礼を言おうものなら、姉に死が迫っているのではないかと不安になったことだろう。傍若無人に振る舞う姉の姿に安堵するというのもおかしな話だが、姉に優しくされる方が落ち着かない。
「毎日アイスクリームを食べていたら、腹を壊さないか?」
「大丈夫。わたしの腹は丈夫だから」
「あ、そう」
典也がアイスクリームとスプーンを渡すと、温子はいそいそとアイスクリームの容器の蓋を開けて勢いよくスプーンですくう。
「おいしいー」
温子が嬉しそうに目を細める。
典也も自分の分のアイスクリームを食べた。すこしだけ柔らかくなったアイスクリームは冷たい塊が口の中で溶けて喉の奥に流れ込み、やがて胃へと落ちていく。
開け放った窓からは日中の熱が冷めやらぬ空気が流れ込んでくる。
中庭に植えられている木槿の白い花が満開だ。
姉のベッドの布団カバーや枕、シーツまですべてが真っ白であることを除けば、この部屋はあまり病室らしい陰鬱な空気はない。
アイスクリームの甘いバニラの匂いが気持ちを穏やかにしてくれる。
「あ、そういえば――」
食べ終わったアイスクリームの容器を姉の分も塵箱に捨てたところで、典也は病院の入り口で拾った手紙の存在を思い出した。
「なにそれ?」
典也が封筒を懐から取り出すと、温子がベッドから身を乗り出して覗き込んでくる。彼女はとにかく退屈しているので、何にでも興味を示すのだ。
「さっき、病院の入り口の植木のところに落ちていたのを拾ったんだ」
「植木?」
「蘇鉄の木が植えてあるだろ」
「そんなの、あったっけ?」
温子は覚えていないのか、怪訝な目つきで弟を見つめた。
結核の診断書を持ってこの病院にやってきたため、入り口にどんな木が植えてあるか見る気持ちの余裕がなかったのだろう。肺炎という診断に変わっても温子は病院からは出ていないので、中庭の木槿を見ることはあっても玄関前の蘇鉄の木は見ていないのだ。
「見つける直前に木のそばでうずくまっているご婦人がいたんだけど、その人が落とした物かどうかはわからないし、そのご婦人がどの病室の人かもわからないから、思わず持ってきてしまったんだ」
「看護婦さんに預けてくれば良かったんじゃないの」
「そうは思ったんだけど、アイスクリームが溶けるといけないから」
「確かに、アイスクリームをわたしに届ける方が先よね」
うんうん、と温子が頷く。
「で、中身は見たの?」
「見てない」
「ふうん。宛名とか差出人名は書いてないのね」
「うん」
「なにが入っているのかしら」
「手紙だろ」
「もしかしたら、お金かも」
「……手紙っぽい感触がする」
紙幣が入っている手触りはしなかったが、温子は期待を込めた目で封筒を見つめている。
「見てみましょうよ」
封筒は糊付けをしていない。
「人の手紙を勝手に見るのは良くない」
「でも、中身を見ないと誰に返せば良いのかわからないじゃないの。それに、もしお金が入っているのなら最初からいくら入ってたってちゃんと看護婦さんに説明しなければならないでしょう?」
もっともらしい理由を作って温子は封筒の中身を見たがった。
「いや、しかし」
「中を見ましょうよ」
温子は弟をせっついたが、封筒を奪って自分で中身を取り出そうとはしない。
「そのまま預けた方が」
「だから、お金が入っていたらどうするのよ」
しつこく温子が紙幣の存在を主張するため、仕方なく典也は封筒から中身を取り出した。
「便箋だけだよ」
四つ折りに畳まれた便箋一枚だけが出てきた。
「中に、名前が書いてあるんじゃないの?」
「まぁ、多分」
渋々と典也は便箋を広げる。
「――――あら」
便箋に書かれた内容を一瞥した温子が驚きの声を上げるのと、典也が息を飲んで全身を硬直させたのはほぼ同時だった。
「これだけ?」
ぱっと典也の手から便箋を奪った温子が拍子抜けしたような声を上げる。
一方の典也は、両手を強く握りしめて喉の奥から声を出さないようにするだけで精一杯だった。
(声が……聞こえた)
姉が便箋を奪い取った瞬間に響いていた声は頭の中から消えたが、間違いなくあの便箋から声が発せられた。
(物凄い叫び声が……泣き声のような……いや、あれは号泣しているような声だ)
悲痛な叫びというのはまさしくあのような声のことを指すのだろう。
典也は全身から血の気がひくのを感じた。
一方、便箋を手にしている温子はなにも声を聞いていないのか平然としている。
「これ、三行半よね?」
便箋に目を遣りながら温子は首を傾げる。
宛名は「■■■■様」と名前の部分が万年筆でぐちゃぐちゃに塗りつぶされている。そして差出人のところも同じく塗りつぶされて「■■」と読めない状態になっている。文面の部分は三行半の線が書かれているだけで、文字はない。
まさしく三行半と呼ばれる離縁状だった。
「こんなのを預けられても看護婦さんたちは困るだけかもしれないわね」
しばらく手紙を眺めていた温子はため息をつく。
名前が消されているので誰が誰宛に書いたのかは不明だ。
しかも内容は線のみのため、書いた相手を特定できる情報はどこにもない。塗りつぶされている部分はあまりにも勢いよく塗りつぶされているので、いくら目を凝らしても元の字を判別することは難しい。
「捨てておいてあげた方が親切なんじゃないかしら」
温子が便箋を折りたたんで典也に差し出す。
「…………うん」
ようやく落ち着きを取り戻してきた典也は、小さく頷き、受け取った便箋を封筒にしまった。
さすがに病室の塵箱へそのまま放り込むわけにはいかず、また懐にしまった。
(厄介な物を拾ってしまった)
項垂れる典也の様子に気づいていないのか、温子は手紙から興味を失い、枕元に広げたままにしていた雑誌を手に取って読み始めた。
【次話に続く…】
