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本当の自分は、“見つけるもの”ではない。── 自己理解とは何か

― 自分の「中心」を、見えるようにする
やり方より、"在り方"の話 ―


はじめに

「自己理解が大事」って、よく言われます。

自分のことだから、
それなりに分かっているつもり。

以前の私も含めて、
そんなふうに感じている人は多いのかなって思います。

でも、いざ「あなたは自己理解できていますか」
と正面から聞かれると、すぐには言葉が出てこない。

そして、もう一つ。

ちゃんと生きてきたはずなのに、
ふとした瞬間に、こんな違和感を持ったことは、ありませんか。

「間違ってはいないんだけど、これでいいのかな」
「なんとなく、実感がないな」

その違和感は、
いい加減に扱わないほうがいい信号だと、私は思っています。

では、いくつか質問してみますね。

「あなたは、どう在りたいですか」

……どうでしょう。

「あなたが、いちばん大切にしているものは何ですか」

「誰にも頼まれないのに、つい丁寧にやってしまうことは何ですか」

すっと答えられた人も、いるかもしれません。
でも、「えっと」と詰まった人も、
けっこういるんじゃないかと思うんです。

実は、この「うまく答えられない」という感じ。
これこそが、自己理解ができていない状態だと私は考えています。

自己理解って、できているようで、
その"そもそも何なのか"が、自分の中で曖昧になっていることが多いんです。

一つだけ、先に、結論を置いておきますね。

自己理解とは、
自分の「在り方」を、自分で見えるようにしていくこと。

「在り方」というのは、
自分の軸とか、
自分の真ん中とか、
自分らしさのもう一歩深いところ、と言ってもいいです。
自分がどこへ向かいたいのか、という目的地のようなもの。
「やり方」や「方法」の手前にある、もっと土台の部分のことです。

もう少しだけ、踏み込んで言うと、
自己理解とは、日々の小さな観察の繰り返しなんです。

「あ、自分はこういうことに反応するんだな。なんでだろう」
「これって、小さい頃からある感覚だな」
「これは、あの経験を通して、無意識に身につけたものだな」

そうやって、一つひとつ気づいていく。

そして、自分の中にあるものを、二つに分けていく。

ずっと前から自分の中にあった感性や能力 ── 大切にしていくもの。
無意識に身につけた思考のクセ ── 手放していくもの。

その繰り返しの先に、自分の在り方が、少しずつ見えてくる。

性格診断とも、自分探しとも、ちょっと違います。
なぜそう言えるのか。
そして、なぜそれが大事なのか。

ここから、一つずつ、掘っていきます。


第一章 ― 自己理解って、性格診断とどう違うんですか

「自分のこと知りたいなら、MBTIでもエニアグラムでも、性格診断をやればいいんじゃないですか?」

「自分探しの旅に出るとか、そういうのとは違うんですか?」

たぶん、いちばん最初に湧く疑問は、これだと思うんです。

最初に、ここを整理させてください。

性格診断は、ラベルを貼ること

性格診断は、自分を知る入り口として、すごくいいんです。

「ああ、私ってこういう傾向があるんだ」
「だから、人とぶつかりやすいのかもしれない」

そういう気づきは、確かにあります。

でも、性格診断でやっていることは、
突き詰めると「ラベルを貼る」作業なんです。

「私はINFJタイプ」
「私は内向型」
「私は感受性が強いタイプ」

ラベルは、便利です。
自分のことを一言で人に説明できるし、安心もできる。

でも、ラベルを貼っただけでは、
自分の中で何が起きているのかは、見えるようにならない。

たとえば「私は内向型だから」と言っても、
なぜ、ある特定の場面でだけ、自分が極端に消耗するのか。
なぜ、ある一言にだけ、自分が深く傷つくのか。
そこまでは、ラベルでは説明できないんです。

自己理解は、ラベルを貼ることじゃないんです。

その奥で、何が起きているのかを、見えるようにすること。

自分探しは、外で答えを探すこと

「自分探し」も、似ているようで、違います。

旅に出る。 新しいことを始める。
今までと違う環境に身を置く。

それで「本当の自分」が見つかるんじゃないか、と思う。

気持ちは、すごく分かります。

でも、自分探しでやっていることは、
結局「外」に答えを探す作業なんです。

旅先のどこかに、本当の自分がいる。
新しい仕事のどこかに、本当の自分がいる。

そんなふうに、外に探す。

でも、本当の自分は、外にはいないんです。

ずっと、自分の中にいる。
ただ、見えなくなっているだけ。

自己理解は、外に探しに行く作業じゃないんです。

すでに自分の中にあるものを、見えるようにする作業。

じゃあ、自己理解って何か

冒頭の結論を、もう一度。

自己理解とは、自分の「在り方」を、自分で見えるようにしていくこと。

ラベルを貼ることでも、外に答えを探すことでもない。

自分の中で何が起きているのか。
自分は、何に反応するのか。
自分は、どう在りたいのか。

そういう、自分の内側にすでにあるものを、見えるようにしていく。

「ようにしていく」と書いたのには、理由があります。

自己理解は、一回やって終わり、というものじゃないんです。
ずっと、見えるようにし続けていく。

なぜなら、自分のいちばん近くにあるものは、いちばん見えにくいから。

なぜ、見えにくいのか。
次の章で、そこに降りていきます。


第二章 ― 自分のことが、なぜ見えないんですか

「いやいや、自分のことくらい、自分が一番分かってますよ」

そう思いますよね。

でも、ちょっと、こんな経験ないですか。

自分の声を、録音で聞いてみる。
「えっ、こんな声?」って、なりませんか。

毎日聞いているはずの自分の声なのに、
外から聞くと、別人みたいに感じる。

体の中から聞いている自分の声を、
自分はずっと「自分の声」だと思って暮らしてきたわけです。

ずっと近すぎるものほど、見えなくなる。
近すぎて、それが「ある」ことに、気づけなくなる。

自分の「ものの見方」も、これとそっくりなんです。

ずっとその見方で世界を見てきたから、
それが一つの見方にすぎないことに、気づけない。
「これが現実だ」と思い込んでしまう。

感情は、突然生まれない

もう少し、踏み込みます。

私たちは、感情というのは、
出来事に直接反応して、突然わいてくるものだと思っています。

嫌なことがあった → イラッとした。
うれしいことがあった → うれしくなった。

そういう直結のイメージ。

でも、実際は違うんです。

感情が生まれる前に、内側では、もっと細かい4つのステップが起きている。

①五感から、刺激が入る

まず、私たちは日々、五感を通してさまざまな刺激を受け取っています。

目で見たもの、耳で聞こえた音、肌で感じた感触。

たとえば、送ったメッセージが既読スルーされた、という情報も、目から入ってくる一つの刺激です。

②刺激が、過去の記憶と結びつく

ここが、すごく大事なところです。

入ってきた刺激は、そのまま終わるんじゃない。
過去の経験や記憶と、結びつくんです。

昔の体験、
傷ついた記憶、
安心した記憶、
成功体験、
不安になった経験。

そういう、
自分の中にしまわれている記憶のどれかと、
入ってきた刺激が、結びつく。

「既読スルー」という刺激は、
ある人にとっては「昔、無視されて傷ついた記憶」と結びつく。
別のある人にとっては「相手が忙しいときの記憶」と結びつく。

同じ刺激でも、結びつく記憶が、人によって違う。

③記憶と結びついて、思考が起こる

記憶と結びついた瞬間、
刺激には「意味づけ」が起こります。

つまり、思考が生まれる。

「嫌な感じがする」
「また同じことが起こるかもしれない」
「大丈夫そう」
「これはチャンスかもしれない」

刺激そのものは、ただの情報です。
でも、過去の記憶と結びついた瞬間に、
「これはこういうことだ」という思考が、勝手に生まれる。

④思考に基づいて、感情が起こる

そして最後に、思考に基づいて、感情が起こります。

「また同じことが起こるかも」と思ったら → 不安。
「嫌な感じがする」と思ったら → 怒り、悲しみ。
「大丈夫そう」と思ったら → 安心。
「チャンスかも」と思ったら → 喜び、焦り。

感情は、突然生まれているんじゃないんです。
その手前に、必ず「思考」がある。
その手前に、必ず「記憶との結びつき」がある。
その手前に、必ず「刺激」がある。

刺激 → 記憶 → 思考 → 感情

これが、感情が生まれる本当のプロセスなんです。

自分では、選んでいない

ここで、いちばん大事なことを言います。

このプロセスのうち、
②記憶との結びつきと、
③思考。
この二つは、自分では選んでいないんです。

「嫌われたかもしれない」と思った人は、
別にそう思おうとして思ったわけじゃない。

考える前に、もう、そう感じている。

過去のどの記憶と結びつくのかも、
そこからどんな思考が生まれるのかも、
本人の意思の外で、勝手に決まっている。

自分で選んでいないのに、自分の感情を決めているもの。

そして、これが、自分では見えない。
選んでいないんだから、見えないのも、当然なんです。

自分の感情を理解したいなら、感情そのものを見るんじゃない。
その手前にある「何をどう受け取ったか」を見ることが、大切なんです。

じゃあ、なぜ、自分で選んでもいないのに、いつも同じ記憶と結びつき、同じ思考が生まれるのか。

次の章で、そこに降りていきます。


第三章 ― なぜ、同じところで、何度もつまずくんですか

「気にしないようにしてるのに、なんで、いつも同じところで引っかかるんですか?」

これも、よくある疑問だと思うんです。

ある一言に、いつも傷つく。
ある場面で、いつもイライラする。
ある相手に、いつも消耗する。

頭では「気にしないようにしよう」と思っているのに、体が勝手に反応してしまう。

これ、性格の問題でも、意志の弱さでもないんです。

仕組みの話なんです。

無意識は、脳の省エネ機能

少し、別の話から入ります。

私たちは一日に約2万回も、呼吸しています。
でも「吸って、吐いて」と、毎回考えてはいません。

もしそれを一回ずつ意識し続けたら、
他のことを考える余裕なんて、なくなってしまいます。

自転車も同じです。

最初は「右足、次は左足、ハンドルは……」と考えながら、ふらふら進む。 でも慣れてしまえば、考えなくてもスムーズに走れるようになる。

これは、脳が「生きるために必要だけれど、毎回考えていたら効率が悪いこと」を、自動化しているからなんです。

つまり無意識は、脳の「省エネ機能」だと言えます。

無意識の正体は、突き詰めると「習慣」です。

最初はできないし、意識もしていない。
意識して練習すれば、できるようになる。
やがて、考えなくても自然にできる。

「習う」「慣れる」という字の通りです。

繰り返しと慣れによって、無意識は形づくられていく。

ここまでは、便利で、ありがたい仕組みの話です。

その仕組みは、心にも働く

さて、問題は、ここからなんです。

この「省エネのために自動化する」という脳の仕組みは、体の動作だけに働くわけじゃありません。

心の動きにも、まったく同じように働くんです。

第二章で見た「刺激 → 記憶 → 思考 → 感情」のプロセス。
このプロセス自体が、繰り返されることで、自動化されていく。

特に「どの記憶と結びつくか」
「どんな思考が生まれるか」のクセが、固定化されていく。

ここが、本当に大事なところです。

「まあいっか」と頼み事を何度も引き受けるうちに、断れないのが普通になる。
傷ついた気持ちをごまかして笑ううちに、本音を出す感覚そのものが鈍っていく。
既読スルーにドキッとして謝ることを繰り返すうちに、意見を言う前に、まず謝るクセがつく。

最初のうちは、ちゃんと「小さな違和感」があったはずなんです。

胸の重さ、喉の詰まり。
そういう体のサインも、あったはずなんです。

でも、繰り返しの中で、それは見えなくなっていく。

自転車のペダルを、もう意識しなくなるのと、まったく同じ理屈で。

その結果、本人も気づかないところで心はすり減って、自己評価まで、ゆがんだまま固定されてしまう。

私自身の話をさせてください。

私には、いじめを受けた経験があります。

そこから「嫌われたくない」という思いが無意識にこびりついて、相手の顔色を読むことが、やがて「当たり前の自分」になっていました。

それが自動化された思考のクセだなんて、当時の私は考えもしなかったんです。

それくらい、自然に、自分の一部になっていました。

そして、これが、無意識のもっとも恐ろしいところなんです。

本人には見えない」という、この一点です。

なぜ、そこまで根深いのか

ここで、第二章で出てきた「過去の記憶」を、もう一段深く見てみます。

「過去の記憶」と一言で言っても、実は、それが心の中でどう蓄えられているのか。
昔の人たちは、ここをとても細やかに観察していました。

そして、私たちが普段「自分」だと思っている意識の下に、もう二つの層があることに気づいたんです。

仏教の世界では、
これを「末那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」と呼んでいます。

言葉は難しいですが、中身はシンプルです。
「色眼鏡」と「貯蔵庫」のこと。

【この心の構造について詳しく知りたい方は、
別記事『思考と感情がどう生まれているか』にまとめています】

一つは、あらゆる経験が「種(たね)」として蓄えられていく層。

うれしかったこと、傷ついたこと、繰り返した反応。
その全部が、消えずに種としてしまわれていく。

第二章の「過去の記憶」は、この種のことです。

「嫌われたくない」も、ここに蒔かれた種です。

普段は見えません。
でも、似たような状況になると、その種からぱっと芽が出て、いつもの反応として表に現れる。

心の地下にある、巨大な倉庫だと思ってください。

たとえば、人から見たら何でもないような一言に、
自分でもおどろくほど深く傷ついてしまったこと、ありませんか。

あとから「なんで、あんなに引きずったんだろう」と思うくらいに。

あれは、その一言が、地下に眠っていた古い種に触れたからなんです。

傷ついていたのは、目の前の一言にじゃない。
ずっと前にしまい込んだ、種のほうだったんです。

だから、反応の大きさが、出来事の大きさと釣り合わない。
本人すら、理由が分からない。

もう一つは、何を見るときも、
そこに「私」という色をつけてしまう層です。

たとえば既読スルーという出来事が来たとき、
この層が瞬時に「これは“私が”嫌われたということだ」と、自分を主語にした思考を貼りつける。

出来事は、ただの出来事なのに。
いつも「私にとってどうか」というフィルターを通してしか、受け取れなくしてしまう。

この二つが組み合わさると、出来事は、
決して「ありのまま」では私たちに届きません。

まず貯蔵庫の、過去の種を通り。
次に「私」という色眼鏡を通って。
ようやく、意識に届く。

だから「嫌われたかもしれない」という結論が、考える前に、一瞬で出てしまうんです。

これが、同じところで何度もつまずく理由です。

意識の力で「気にしないようにしよう」と頑張っても、なかなか変わらない。

当然なんです。
クセは、意識よりずっと深い層から生まれているんですから。

じゃあ、どうすれば、その地下層に届くのか。

次の章で、そこに進みます。


第四章 ― 内側に向かうって、ぐるぐる考えることじゃないんですか

「内省って、ぐるぐる悩むだけで、余計しんどくなりません?」

これも、よく聞かれます。

たしかに「自分と向き合う」と言うと、暗い部屋で一人で考え込んでいる、みたいなイメージがある。

でも、自己理解で言う「内側に向かう」は、ちょっと違うんです。

感情は、敵じゃない

その前に、一つ。

私たちは、不快な感情を「消したいもの」として扱いがちです。

でも、ここで、見方を一つ変えたいんです。

感情とは、心と体からの「お知らせ」です。

胸の重さ、喉の詰まり、胃のあたりのざわつき。

あれは、あなたを困らせるために出ているんじゃない。

「ここに、まだ見えていない大事な何かがあるよ」と、教えてくれている信号なんです。

しかも、不快な感情ほど、大事な情報を運んでいることが多い。

心地よい感情は「このままでいい」というお知らせ。
不快な感情は「ここに見落としがあるよ」というお知らせ。

だとしたら、不快な感情こそ、自己理解の宝の地図なんです。

第三章で、「傷ついた気持ちをごまかして笑ううちに、本音を出す感覚が鈍る」という話をしました。

あれを、いま言い換えられます。

感じないようにするというのは、
お知らせの音量を、自分で下げてしまう行為だったんです。

音量を下げれば、確かに一時的には楽になる。
でも同時に、地下室への入り口を、自分で塞いでしまっていた。

だから、自己理解の第一歩は、感情を消すことじゃありません。
感情を「読む」ことなんです。

出来事と感情を、切り離す

カウンセラーが、よくこう問いかけます。

「そのとき、どう感じましたか」

何気ない問いに見えて、これは、とても精密な作業をしているんです。

何をしているかというと、
第二章で見た「刺激 → 記憶 → 思考 → 感情」のプロセスに、切れ目を入れている。

私たちは普段、
この4つをひとかたまりに、「現実」として握りしめています。

「既読スルーされた=(過去のあの記憶)=嫌われた=つらい」が、一つの塊になっている。

「そのとき、どう感じましたか」という問いは、
この塊に、そっと切れ目を入れる作業なんです。

刺激は、刺激。
結びついた記憶は、記憶。
そこから生まれた思考は、思考。
感情は、感情。

一つずつ取り出して、机の上に並べてみる。

すると、何が起きるか。

握りしめていたときには見えなかった「思考」の部分が、外側から眺められるようになるんです。

「あ、自分はあのとき“嫌われた”って思ったんだ」と、初めて見える。

これが、内省が「ぐるぐる考えること」と違うところです。

ぐるぐるは、塊のまま、ずっと握りしめている状態。
内省は、塊に切れ目を入れて、一つずつ見ていく作業。

そして「なぜ、自分はそう感じたんだろう」と、もう一段深く問う。

すると、第三章の貯蔵庫にしまわれていた、古い種に手が届きはじめます。

深く、深く降りていくほど、結びついていた記憶と、
そこから生まれていた思考の「出どころ」が、見えてくるんです。

内側へ向けるとは、無意識の地下室に、意識の光を差し込む作業なんです。

光が差せば、見えなかったものが見える。
見えれば、苦しみはほどけはじめます。

ただ、ここで大きな問題が一つあります。

地下室は、一人では降りにくいんです。

なぜなら、自分の見方は、自分では見えないから。

だからこそ、もう一人の存在が要る。

次の章で、その話に進みます。


第五章 ― 人に話すのって、結局、甘えじゃないんですか

「人に話を聴いてもらうって、結局、自分で解決できない人がやることじゃないんですか?」

そう感じる人も、いると思うんです。

でも、これは、甘えじゃない。
むしろ、合理的なんです。

なぜ、一人では難しいのか

第二章で見たように、自分のいちばん近くにあるものは、自分では見えません。

録音で初めて自分の声を聞いたときと、同じです。

外から映してもらわないと、自分の見方は見えない。

だから、一人で頑張っても、ぐるぐるしか起きないんです。
頑張れば頑張るほど、同じ塊を握りしめてしまう。

ここで必要なのは、努力じゃない。
鏡なんです。

カウンセラーは、何をしているのか

世の中には、ゲシュタルト療法、キャリアコンサルティング、コーチング。 いろいろな手法があります。

手順も、言葉づかいも違う。

でも、その奥でやっていることの本質は、実は一つだと思うんです。

安全に、自分の地下室に降りられる場をつくること。

これだけなんです。

その場を支える土台として、ある人が三つの条件を挙げました。

ひとつ目は、受容

何を話しても、否定されない。
「そんなふうに感じるなんておかしい」と言われない。

この安心があって、初めて、人は本音を口にできます。

批判される場所では、誰も地下室の扉を開けませんから。

受容とは、降りても大丈夫だという、安全のことなんです。

ふたつ目は、共感

「それはつらかったですね」と、相手が同じ景色を、隣で見てくれる。

すると、一人で抱えていたものが、二人で見るものに変わります。

一人だと真っ暗で踏み込めなかった地下室も、隣に灯りを持った人がいれば、もう少し奥まで進める。

共感とは、一人にしない、ということなんです。

みっつ目は、一致

これは、少し説明が要ります。

一致とは、聴き手自身が、取り繕わず、透明であること。
心の中で思っていることと、見せている態度が、ズレていない、ということです。

なぜ、これが大事なのか。

鏡の話と、つながるんです。

なぜ「鏡」なのか

カウンセラーやコーチの最大の役割は、答えを"押しつける"ことじゃありません。

本人の中にすでにある答えを、引き出すこと。
そして、鏡になることなんです。

もちろん、時には情報を渡したり、選択肢を提示したりすることもあります。
でも、それは本人の中の動きを助けるためで、外から答えを押し込むためじゃない。

第二章で見たように、自分の見方は、自分では見えません。

でも、信頼できる誰かが、あなたの話したこと・感じたことを、ゆがめずにそのまま映し返してくれたら。

あなたは生まれて初めて、自分の見方を「外側から」見ることができます。

「自分は、こういうことに反応するんだな」って。

このとき、鏡が曇っていたら、意味がない。

聴き手が取り繕っていたり、
内心で別のことを思っていたりしたら、映し返される像は、ゆがむ。

だから、一致が要るんです。
聴き手が透明だからこそ、その鏡は信頼できる。
だから人は、安心して自分を覗き込める。

そして、この安全な場の中で、カウンセラーがすることは、第四章で見た、あの作業です。

あなたと一緒に内側へ降りていって、握りしめた塊に、少しずつ切れ目を入れていく。

そのやり方は、流派によってさまざまです。

じっくり問いを重ねていく人もいれば、
今ここで感じている体の感覚に焦点を当てる人もいる。
沈黙を大切にする人もいます。

道順も、使う道具も違う。

でも、芯は同じなんです。

安全な場で、一緒に、
本人が見えなかったものを、本人が見えるようにしていく。

答えを押しつけるんじゃなくて、本人の中にある答えを、引き出していく。

流派の違いは、そこへ向かう道の違いにすぎないんです。

人に話すのは、甘えじゃない。
自分の見方を、外から映してもらうための、合理的な選択なんです。

ただ、ここでまた、新しい疑問が湧くと思うんです。

カウンセラーやコーチは、答えを押しつけない。
なのに、なぜ、人は前に進めるのか。

次の章で、その話に進みます。


第六章 ― 答えをくれないなら、意味なくないですか

「答えをはっきり教えてくれないなら、相談しても意味なくないですか?」

これも、よく聞かれる疑問だと思うんです。

でも、ここに、いちばん大事な仕組みがあるんです。

体には、治癒力がある

ここで、体の話を一つ、させてください。

転んで膝をすりむいたとき、私たちは傷の治し方を知りません。

なのに、傷は勝手にふさがっていきます。

かさぶたができて、新しい皮膚ができて、やがて元どおりになる。

誰に頼んだわけでもないのに。

これを、治癒力と言います。

体には、放っておいても整おうとする力が、もともと備わっているんです。

そして、ここがこの記事でいちばん伝えたいところなんですが。

同じ力が、心にも備わっていると、私は考えています。

視界さえ取り戻せば、人は自分で立ち上がろうとする。
出口さえ見えれば、自分の足で歩き出そうとする。

これは、特別な人の話じゃありません。

誰の中にも、もともと備わっている力なんです。

だから、答えを押しつけない

だから、カウンセラーやコーチは、答えを押しつけないんです。
いや、押しつけないほうがいい。

考えてみてください。

地中に蒔かれた種を、早く育てたいからといって、芽を上に引っぱったら、どうなるか。

ちぎれてしまいますよね。

私たちにできるのは、光を当てて、水をやって、土を整えること。
それだけなんです。

芽が伸びるのは、種自身の力です。

カウンセリングやコーチングがやっているのは、
これとまったく同じなんです。

安全(受容)と、灯り(共感)と、曇りのない鏡(一致)を整える。
気づきという光を、差し込む。

そこから先、どう芽を伸ばすかは、その人自身の整おうとする力にまかせる。

外から答えを押しつけるのは、芽を引っぱるのと同じ。
せっかくの力を、奪ってしまうことになる。

つまり、苦しみがほどけるのは、誰かが正解をくれたからじゃありません。

見えるようになった結果、もともと持っていた力が、自然に働き出したからなんです。

そして、この「もともと持っている力」を、ちゃんと働かせるために整えるべき、いちばん深い場所がある。

それが、最初の問いに戻ります。

自己理解とは、何なのか。
在り方とは、何なのか。

次の章で、ここに着地します。


第七章 ― 結局、自己理解って、何をどうすればいいんですか

「で、結局、自己理解って何をすればいいんですか?」
「方法を教えてください」

ここまで読んで、そう聞きたくなる気持ちは、すごく分かるんです。

でも、ここで、いちばん大事な順番の話をさせてください。

やり方や、手段や、資格を取ることの前に、
まず、在り方なんです。

なぜ、その順番なのか。

家と、木の話で、説明させてください。

家の話 ― 土台がないと、崩れる

家を建てるとき、いちばん最初にやるのは、基礎工事です。
地味で、完成すれば見えなくなる、あの部分です。

なぜ、最初にやるのか。

土台がしっかりしていないと、どれだけ立派な建物を上に建てても、台風が来たときに、壊れてしまうからなんです。

自己理解は、この基礎工事なんです。

在り方という土台が定まっていないまま、方法や肩書きという「建物」だけを積み上げても、他人の評価や環境の変化という台風が来たとき、ぐらりと崩れてしまう。

木の話 ― 幹があると、迷わない

家の話は、「崩れない」ための土台でした。
木の話は、そこからもう一歩進みます。

土台があると、今度は「何を選べばいいか」が見えてくる、という話です。

木で言えば、在り方は「幹」です。 枝葉じゃないんです。

幹がしっかり立っていれば、そこからどんな枝を伸ばし、どんな葉をつければいいのか、手に取るように分かるようになります。

逆に、幹が細いまま枝葉ばかり増やそうとすると、重さに耐えられず、自分が何者なのか、分からなくなっていく。

幹を太くすること。 それが自己理解で、枝葉(方法・選択・キャリア)は、そのあとから自然と決まっていくんです。

バイキングで、選べない理由

今は、選択肢が多すぎる時代です。

広いバイキング会場にぽんと放り込まれて、
この中から好きなものを一つだけ選んでください」と言われているようなもの。

料理は数えきれないほど並んでいる。
なのに、いざとなると、選べない。

でも、あの会場で選べないのは、料理が多すぎるからじゃない。

自分のおなかが今どれくらい空いていて、何を食べたいのか。
それが見えていないから、選べないんです。

幹とは、その「自分のおなかの具合」です。

軸さえあれば、料理がどれだけ並んでいても「今の自分にはこれだ」と選べる。

選択肢の多さは、もう、苦しみじゃなくなるんです。

蓮の花の話 ― ひらいて、現れる

では、その幹、その土台とは、具体的に何なのか。

私はよく、「蓮の花のつぼみ」を思い浮かべます。

蓮の花は、何重もの花びらに包まれています。
外側には大きな花びら、
その内側にもまた花びら、さらに内側にも。

外側の花びらは、肩書き。
その内側は、役割。
その内側は、こうあるべきという理想。
さらに内側は、他人に貼られた評価。

そういう「外側にまとっているもの」が、何重にも重なっている。

ここで、大事なことを言います。

外側の花びらたちは、もともと自分の中にあったものじゃないんです。

「ちゃんとしなきゃ」「期待に応えなきゃ」「こう見られなきゃ」。
生きていく過程で、無意識に身につけたもの。
言いかえると、思考のクセです。

だから、手放していけるもの。

それが、ゆっくり、一枚ずつ、ひらいていく。

最後に、いちばん奥の中心が、現れます。

それが、ありのままの自分なんです。

ここで、もう一つ、大事なことを言います。

中心の自分は、もともとずっと、自分の中にあったもの。

何かに反応してきた感覚。
気になって仕方なかったこと。
頼まれると、つい丁寧にやってしまうこと。
理由なく、続けてきたこと。

そういう、自分の中にずっとあった感性や能力です。

だから、こちらは、大切にしていくもの。

この中心の自分は、実は「何者でもない」んです。

すごい肩書きがあるわけでも、特別な何かであるわけでもない。
何者でもない、ただの存在。

でも、何者でもないからこそ、こう問えるんです。

「じゃあ、自分はいったい、どういう生き物なんだろう」って。

こういうことが起きると、自分は反応するんだな。
こういうことが起きたら、自分はきっと嫌だと思うんだろうな。
そして、これをしているとき、自分は楽しくて、夢中になるんだな。

外側のものがひらいて、最後に残ったところに、もともと持っている感性や、能力や、その人らしさが、ちゃんと立ち上がってくるんです。

誰かに与えられたものじゃない。
最初から自分の中にあったもの。

それを、見えるようにすること。

これが、在り方を整えるということなんです。

ビジネスの世界では「軸」と言われ、
自己啓発では「自分らしさ」と言われ、
内省の世界では「自分の真ん中」と言われたりします。
呼び方は、いろいろある。

私は、これを「在り方」と呼んでいます。

なぜなら、「やり方」や「方法」の手前にある、
もっと深いものだからです。
やり方は、在り方の上に乗っているもの。
順番が、逆になってはいけない。

だから、いちばん最初に整えるべきは、在り方なんです。

そして第六章とつながります。

中心の自分、つまり幹がはっきり見えてくると、あの「整おうとする力」が、いちばん力を発揮できる場所を見つける。

土台の上にだから、安心して枝葉を伸ばせる。
台風が来ても、もう折れないんです。

冒頭の三つの問いを、もう一度。

「あなたは、どう在りたいですか」
「あなたが、いちばん大切にしているものは何ですか」
「誰にも頼まれないのに、つい丁寧にやってしまうことは何ですか」

最初に詰まったこれらの問いは、全部、この「中心の自分」を見るための問いだったんです。


終章 ― ただし、自己理解で全部解決するわけじゃない

ここまで読んで、もしかしたら、こう感じている人もいるかもしれません。

「自己理解さえできれば、人生の悩みは全部消えるんですか?」

正直に言います。
そんなことは、ないんです。

自己理解をしたからといって、苦しみが完全に消えるわけじゃありません。

生きていれば、つらいことは起こります。
理不尽な出来事もある。
失うこともある。

それは、自己理解では、どうにもならない領域です。

それから、もう一つ。

今、心が本当にしんどい時期にいる人は、
まず休むことのほうが先です。

考えるエネルギーがないときに、無理に自分と向き合おうとすると、かえって苦しくなることもある。

そんなときは、まず眠ること。
信頼できる人を頼ること。
必要なら、医療や専門家の力を借りること。

自己理解は、その先の話です。

そのうえで。

「見えている苦しみ」は、もう、苦しみ方が違うんです。

なぜ、そこで胸が重くなるのか。
それが、自分のどの種から来ているのか。

それが見えているだけで、
人は、その苦しみに飲み込まれずにいられる。

昔の人が大切にした言葉に、
「正見(しょうけん)」というものがあります。
物事を、あるがままに、正しく見る、という意味です。

私は、自己理解の最終地点は、この正見なんだと思っています。

自分の見方を、見えるようにする。
握りしめていた塊に、切れ目を入れる。
古い種に、光を当てる。

そうやって、自分を、あるがままに見られるようになっていく。

それが、自己理解なんです。

そしてこれは、一度やって終わりじゃありません。
ずっと、見えるようにし続けていく。

外側の選択肢に振り回されそうになったときに、自分の中心に戻ってくる。

「自分は、どう在りたいんだっけ」
「自分は、何を大切にしてるんだっけ」

そうやって、自分の軸に、戻り続けること。

それが、自己理解という営みなんだと思います。


おわりに ― ほんの5センチを、動いてみる

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

最後に、一つだけ、お願いがあります。

この記事を読んで、もし何か一つでも心に残ったなら。

どんなに小さなことでもいいので、実際に動いてみてほしいんです。

ほんの「5センチ」でいいんです。

いつも我慢して引き受けてしまう場面で、
一度だけ「少し考えさせてください」と言ってみる。
笑ってごまかしていた場面で、胸の重さに、一度だけ気づいてみる。

それだけで、十分なんです。

頭で「なるほど」と理解するのと、
実際に体で動いてみるのとでは、見える景色がまるで違います。

動いてみて初めて、
「あ、こんなことだったのか」と、視界がひらける瞬間が来ます。

たった一つでいいので、試してほしいんです。

ただ、正直に、お伝えします。

一人で5センチ動くのは、思っているよりむずかしいものです。

なぜなら、自分の見方は、自分では見えないから。

これは、この記事でずっと見てきた通りです。

だからこそ、鏡になる人が要るんです。

もし、ずっと同じ場所でつまずいている感覚があるなら。
その違和感を、なかったことにしたくないと思うなら。

よければ、私に声をかけてください。

あなたの在り方の土台を、一緒に見つけていけます。

ほんの5センチ、隣で一緒に動いてみる。

それだけで、悩みの出口や、
「自分はこういう人間だったのか」という理解が、
目の前にひらけていくはずです。

大丈夫。
その違和感を、なかったことにしなくていいから。


「私」について

私が運営している、自己理解と在り方を整える伴走の場です。

「少し話してみたい」
「自分の場合は、どうしたらいいんだろう」

そんなふうに感じたら、
よければ一度、LINEから声をかけてください。

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すぐにセッションを申し込まなくても大丈夫です。
質問や感想だけでも、気軽に送ってください。

一人で抱えている違和感を、
言葉にしてみることから、はじめてみませんか。

<おまけ>|【エッセイ】より。
よければ、聞いてみてください✨

【第五弾:歌ってみた】

明日への手紙 ── 手嶌葵

【第四弾:歌ってみた】
恋に落ちて-Fall in love- 小林明子



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