何がいけないのか、自分でもわからない
はじめに
私は副業で、相談員として活動しています。
具体的には、心理カウンセラー、キャリアコンサルタントとして、相談者さんの、お話を聴く仕事です。
やっていることは、そんなに複雑ではありません。
苦しみを手放しながら、「本当はどうしたいのか」を、一緒に探す伴走。
これだけです。
何かを無理に変えようとするのでもなく、
正解を渡すのでもなく、その人の中にある違和感を、
ひとつずつ言葉にしながら、整理していく。
そういう関わりをしています。
この仕事を続けてきて、はっきり見えてきたことがあります。
人が抱える悩みは、入り口こそ違っても、最後はほとんど、人間関係に行き着くんです。
家族との関係。 パートナーとの関係。
友達との関係。 職場やコミュニティの中での関係。
入り口は、人それぞれです。
「わかってもらえない」
「本当は聞いてほしい」 「言いたいことが言えない」
「期待して、勝手に苦しくなる」 「近づきたいのに、近づくほど苦しい」
時には、失恋や、嫉妬や、恨みといった、
もっと激しい感情として出てくることもあります。
でも、どの入り口から入っても、
たどっていくと、同じ場所に行き着くんです。
大切にしたい相手なのに、なぜか関係がこじれていく。
わかってほしい相手ほど、わかり合えなくなる。
善意で関わったはずなのに、
相手には、まったく別のものとして受け取られてしまう。
なぜ、こういうことが起きるのか。
私は、この問いを、明らかにしなければならない。
そんな気がして、なりませんでした。
話し方や聞き方を、いくら整えても、
それだけでは、ほどけない苦しみがある。
そう感じ続けてきたからです。
そして、もうひとつ。
かつての私自身が、二十年以上、
自分の本音が見えないまま生きてきた人間だからです。
だから、あらゆる角度から、この問いをひも解いてみました。
そうして見えてきたのは、
人間関係のこじれは、「話し方」や「聞き方」の問題ではない、ということでした。
原因は、もっと手前にあります。
私たちは、言葉のやりとりをしているようで、
実際には、言葉の奥にあるものまで、渡し合っているんです。
感情。 意図。 期待。
そして、その場に流れる空気。
同じ言葉を渡していても、
その奥で、
まったく違うものが相手に届いていることがあります。
そこで、何が渡り、何が受け取られているのか。
それが見えなくなっていること。
そこに、こじれの根があります。
この記事では、
その「言葉の奥で起きていること」を、
ひとつずつ、順番に見ていきます。
さて、はじめましょう。
そもそも、人間関係とは何か
こじれの話に入る前に、
そもそも人間関係とは何か、
というところから考えてみたいんです。
まず、「人間」という言葉を、分解してみます。
人間とは、人と人の間、と書きます。
言葉の成り立ちを厳密にたどれば、
いろいろな説があると思います。
ただ、この文字そのものが、教えてくれていることがあります。
人と人との間。
人は、ひとりでは完結しない。
つまり、ひとりでは生きていけない、ということではないでしょうか。
私たちは、自分ひとりで生きているようで、
実際には、あらゆるものを受け取って生きています。
食べるもの。 着るもの。 住む場所。
毎日使っている道具。 働く場所。
誰かがかけてくれた言葉。
誰かが整えてくれた仕組み。
衣食住のひとつを取っても、
自分ひとりで成り立っているものは、ほとんどありません。
私たちは、生きているだけで、
すでに、たくさんのものを受け取っているんです。
そして同時に、私たちも、何かを渡しています。
これが、意外と見えていません。
言葉を渡す。
態度を渡す。
表情を渡す。
時間を渡す。
仕事を渡す。
安心を渡す。
不安を渡す。
沈黙を渡す。
自分では何も渡していないつもりの時でも、
実際には、何かを渡しているんです。
たとえば、朝、誰かとすれ違う。
何も言わなかったとします。
言葉の上では、何も渡していません。
でも、そっけない表情だったのか、
軽く会釈したのか、目も合わせなかったのか。
その違いで、相手の中に残るものは変わります。
「何もしていない」つもりが、実際には、何かを渡している。
これが、人と人の間で、いつも起きていることなんです。
だとすると、関係とは何か。
関係とは、ただ知り合っていることではありません。
連絡先を知っていることでもない。
同じ職場にいることでもない。
家族であることでもない。
長く一緒にいることでもない。
関係とは、人と人の間で、
絶えず行われている、渡すことと受け取ることの循環です。
言葉を渡す。受け取る。
態度を渡す。受け取る。
気持ちを渡す。受け取る。
この受け渡しが、止まることなく続いている。
それが、関係というものの正体です。
では、その循環の中で、
私たちは、何を渡し合っているのか。
三つです。
心で、思うこと。
口に出す、言葉。
そして、行動。
私たちは、いつも、
心で思い、それを言葉にし、行動している。
それを、相手に渡し、
相手からも、受け取っている。
仏教で、身口意(しんくい)、と呼ばれてきたものです。
この三つを、絶えず、繰り返している。
それが、関係の中身なんです。
そして、いちばん奥にあるのが、心。
心で思ったことが、言葉になり、行動になる。
だから、いちばん大事なのは、心なんです。
この記事で、これから見ていくのは、
つまるところ、この、
心で思い、口に出し、行動する、
という一連を、どう整えていくか、という話です。
ただ、その話に入る前に、ひとつ、見ておきたいことがあります。
人間関係が難しいのは、
この受け渡しが、
いつもきれいに成立するとは限らないからです。
私たちは、渡したつもりのものを、
相手がそのまま受け取っているとは限らない。
むしろ、渡したものと、
受け取られたものが、ずれていく。
そこに、こじれの入り口があります。
そして、そのズレがどこで生まれるのかを知るには、
私たちが日々、どんな受け渡しをしているのかを、もう少し細かく見ていく必要があるんです。
私たちは日々、三層の受け渡しをしている
私たちが日々おこなっている受け渡しには、層があります。
大きく分けると、三つです。
ひとつ目は、表面の受け渡しです。
物。 情報。 言葉。 連絡。 お金。 返事。
これは、目に見えやすい受け渡しです。
「資料を渡す」
「連絡をする」
「ありがとう、と言う」
「大丈夫?、と声をかける」
このあたりは、比較的わかりやすい。
渡したものが、はっきりしています。
でも、人間関係で本当に大きく効いてくるのは、この表面だけではないんです。
ふたつ目は、内側の受け渡しです。
感情。 意図。
期待。 不安。
好意。 怒り。
承認してほしい気持ち。
ここが、見えにくい。
たとえば、
「大丈夫?」という言葉があります。
表面では、「大丈夫?」という五文字が渡されている。
それだけです。
でも、その奥に、本当の心配があるのか。
ただの確認なのか。
「なんでまだ終わってないの」という責める気持ちが混じっているのか。
それによって、相手が受け取るものは、まったく変わります。
言葉は同じ「大丈夫?」なのに、渡っているものが違う。
「お願いします」も、そうです。
表面は、依頼の言葉です。
でも、信頼して任せているのか。
面倒だから丸投げしているのか。
「早くやれよ」という圧をかけているのか。
同じ「お願いします」でも、
奥で渡っているものが違うんです。
沈黙も、同じです。
黙っている。
表面では、何の言葉も渡していません。
でも、ただ考えているだけの沈黙なのか。
怒っている沈黙なのか。
もう関わりたくない、という沈黙なのか。
相手は、その奥にあるものを、受け取ろうとします。
つまり、私たちは、表面で言葉を渡しているつもりでも、その言葉に、内側にある感情や意図を、乗せて渡しているんです。
そして、三つ目。
最終的に渡っているものです。
これが、いちばん見えにくくて、いちばん大きい。
関係の空気。 信頼。
圧。 安心感。 距離感。
人が最終的に受け取っているのは、言葉そのものではありません。
その人と関わったあとに、自分の中に、何が残ったか、です。
その人と話したあと、ほっとするのか。
それとも、どっと疲れるのか。
また話したいと思うのか。
少し距離を置きたくなるのか。
責められた感じが残るのか。
大事にされた感じが残るのか。
私たちは、この「あとに残るもの」を、知らないうちに受け取り、そして、知らないうちに渡しています。
ここで、三つの層を、いちど整理します。
表面では、言葉や物を渡している。
内側では、感情や意図を渡している。
最終的には、関係の空気を渡している。

そして、大事なのはここなんです。
私たちは、表面の言葉には、わりと気を配ります。
「なんて言おうか」と、言葉は選ぶんです。
でも、その奥で、自分がどんな感情を乗せているか。
関わったあと、相手の中にどんな空気を残しているか。
そこまでは、なかなか意識が届きません。
だから、人間関係がこじれる時というのは、表面の言葉だけを見ていても、原因がわからないことが多いんです。
「あんなにていねいに言ったのに、なぜ」
「ちゃんと気をつかったのに、どうして」
そう感じる時、
たいてい、ズレは表面ではなく、
その奥で起きています。
では、そのズレは、具体的にどう起きるのか。
次に、そこを見ていきます。
なぜ、こじれるのか
ここまでで、私たちが三つの層で受け渡しをしていること、そして、渡したものと受け取られたものが、ずれることがある、というところまで来ました。
こじれは、多くの場合、このズレから起きます。
自分が渡したつもりのものと、
相手が受け取ったものが、ちがう。
言葉にすると、たったこれだけです。
でも、これが、人間関係のこじれの、
かなり深いところにあると思っています。
たとえば、こういうことです。
心配を渡したつもりが、相手には、圧として受け取られる。
助言を渡したつもりが、否定として受け取られる。
確認をしたつもりが、疑いとして受け取られる。
黙っていただけのつもりが、拒絶として受け取られる。
正しさを伝えたつもりが、攻撃として受け取られる。
どれも、渡した側は、悪いものを渡したつもりはありません。
むしろ、心配していた。
良かれと思って言った。
ちゃんと確認しようとした。
でも、受け取った側には、まったく別のものが届いている。
ここで、三層の話を思い出してほしいんです。
表面では、たとえば「終わった?」という、ただの確認の言葉を渡しています。
でも、その奥に、こちらの焦りや、
不信が乗っていると、相手は言葉そのものではなく、
その奥にあるものを受け取ります。
「終わった?」という四文字が、
「あなたは、ちゃんとやれていないんじゃないか」
という疑いとして、着地する。
渡したのは、確認。 届いたのは、疑い。
言葉は間違っていないんです。
でも、こじれる。
こういう時、決まって起きるやりとりがあります。
「そんなつもりじゃなかった」
「でも、私はそう感じた」
渡した側は、「そんなつもりじゃなかった」と言う。
これは、本当です。
嘘ではありません。
受け取った側は、「でも、私はそう感じた」と言う。
これも、本当です。
どちらも、嘘をついていない。
ここが、人間関係のこじれの、やっかいなところなんです。
どちらかが完全に悪い、
という話ではないことが、とても多い。
もちろん、明らかに人を傷つける言葉や行動はあります。
それは、はっきり別の問題として、きちんと扱う必要があります。
でも、日々の人間関係でこじれていくものの多くは、もっと曖昧です。
悪意があったわけではない。
でも、相手は傷ついた。
伝えたつもりだった。
でも、伝わっていなかった。
気をつかったつもりだった。
でも、相手は距離を感じた。
我慢していたつもりだった。
でも、相手には、重さとして渡っていた。
そして、このズレは、
たいてい、一回では終わりません。
小さなズレが、
その場で解かれないまま、積み重なっていきます。
最初は、ほんの小さな違和感でした。
それが、何度か続くうちに、不満になる。
不満が、不信になる。
不信が、距離になる。
距離が、こじれになる。
一つひとつは、小さな受け渡しのズレです。
でも、それがほどかれないまま積もっていくと、関係そのものの空気が、変わってしまうんです。
だから、
人間関係を整えようとする時、
話し方だけを変えても、足りないんです。
聞き方だけを学んでも、足りない。
正しい言葉を選ぶだけでも、足りない。
なぜなら、こじれは、表面の言葉ではなく、
その奥で渡っているものと、
受け取られているものの間で、起きているからです。
本当に必要なのは、
今、自分と相手の間で、
何が渡り、何が受け取られ、
どんな空気が生まれているのか。
そこを、感じ取る力です。
ただ、この「感じ取る」というのが、
いちばんの問題なんです。
なぜなら、これは、
教えられて身につくような、知識ではないからです。
この領域は、頭では渡らない
感じ取る力は、なぜ、
教えられて身につく知識ではないのか。
それは、この力が、頭で理解するものではなく、
体で受け取るもの。
つまり、体感だからです。
例えば、ラーメンを食べたことがない人がいたとします。
その人に、ラーメンの味を、
三十分、一時間かけて説明したとします。
麺の食感。 スープの香り。
脂の甘み。 塩気の深さ。
食べたあとに残る、余韻。
どれだけ言葉を尽くしても、
その人は、ラーメンの味を、本当にはわからないんです。
最後は、自分で食べてみるしかない。
しかも、食べたところで、感じ方は人それぞれです。
「こってりしてる」と思う人もいれば、
「意外とあっさり」と思う人もいる。
同じ一杯でも、受け取るものが、違うんです。
人の気持ちを感じ取る、
というのも、
これに近いと思っています。
「相手の気持ちを受け取る」
「その場の空気を感じる」
「言葉の奥を見る」
「沈黙の意味を感じ取る」
これらは、説明を聞いて、身につくものではありません。
頭では、わかるんです。
「言葉の奥を見ましょう」と言われれば、意味は理解できる。
でも、実際に、
目の前の人が発した「大丈夫です」という一言の奥に、
無理をしている気配を感じ取れるかどうかは、
まったく別の話なんです。
知識として知っていることと、
その場で感じ取れることの間には、大きな隔たりがあります。
これは、腑に落ちる、という感覚に近いのかもしれません。
説明されて「わかった」と思うのと、
実際に体験して「あぁ、こういうことか」と腑に落ちるのは、別のことなんです。
では、その「感じ取る」は、そもそも、
どうやってやっているのか。
ここが、大事なところだと思っています。
私たちは、他人の心の中を、直接のぞくことはできません。
相手が何を感じているのか。
本当のところは、見えないし、どこまでいってもわかりません。
聞いてみることはできても、
相手の内側に、そのまま入っていくことはできない。
だからこそ、私たちは、
自分の内側にある感覚を手がかりにして、
相手を理解しようとするしかないんだと思っています。
たとえば、
自分が、ひどく落ち込んだとき。
飛び上がるほど、嬉しかったとき。
不安で、どうにかなりそうだったとき。
そういう気持ちを、
頭で理解するのではなく、
自分の体で、実際に通ってきている。
その経験が、自分の中に、残っている。
だからこそ、目の前の人が、
少し元気がない時に、その人の感じているものに、手を伸ばせるんです。
「あの時の、自分のあの感じに、近いのかもしれない」と。
自分が通ってきたものを頼りに、
相手の中にあるものを、想像する。
これは、お医者さんの診断にも、少し似ています。
健康な状態を知っているからこそ、
「ここは、いつもと違う」と気づける。
自分の心が、どんな時に、どう動くのか。
それを知っているからこそ、
相手の中に起きている「いつもと違うもの」に、
気づけるようになる。
つまり、他人を理解しようとするなら、
まずは、自分の状態を知っていること(自分を理解すること)が、ひとつの土台になるんです。
自分を手がかりにして、相手を想像する。
これが、感じ取るということの、
中身なんじゃないかなって思うんです。
ただ、ここに、難しさがあります。
自分を手がかりにできるとはいえ、
相手は、自分とは別の人間です。
自分ならこう感じる、が、そのまま相手に当てはまるとは限らない。
同じ「大丈夫です」でも、
無理をして言っている人もいれば、本当に大丈夫な人もいます。
その人が、いま、何を感じているのか。
それは、その人自身にしか、わからない部分がある。
だから、感じ取る力は、
覚えたら終わり、というものではありません。
そのつど、感じ取るしかない。
だからこそ、難しい。
だからこそ、多くの人が、
この「感じる領域」で、つまずいているんだと思っています。
「ちゃんと言ったのに、伝わらない」
「気をつかっているのに、うまくいかない」
その苦しさの正体は、たぶん、ここにあります。
人と人の間には、
体で感じ取るしかない領域が、確かにあるんです。
便利な時代に、感じる力は使われにくくなっている
ここで、少し立ち止まって考えたいことがあります。
なぜ、これほど多くの人が、
この「感じる領域」でつまずくようになったのか。
私は、時代の便利さと、無関係ではないと思っています。
今の私たちは、日々の暮らしの中で、命の危険を感じることが、ほとんどありません。
お腹がすけば、すぐに食べ物が手に入る。
道を歩いていても、基本的に安全で、
困ったことがあれば、スマホひとつで片づいてしまう。
こうした便利で安全な暮らしは、本当に、ありがたいものです。
これは、否定したい話ではないんです。
人の工夫と努力が積み重なって、
ここまで来たこと自体は、すごいことだと思っています。
ただ、その裏側で、静かに起きていることがあります。
もともと私たちに備わっていた、
感じる力が、だんだん、使われなくなっているんです。
もともと、生き物は、
全身で気配を感じ取りながら、生きていました。
わずかな物音。 風の動き。
仲間の声の、トーンの変化。
そういう、かすかな気配を、体じゅうで受け取る。
そうやって、外敵の接近や、
迫ってくる危険を察知して、生き延びてきたんです。
人間も、同じでした。
昔は、五感を総動員して、生きていたんです。
でも、今は違います。
生きるための緊張感が、ほとんどありません。
その結果、どうなるか。
周りの小さな変化に気づく感覚。
相手の気持ちの、かすかな揺れを感じ取る力。
そういうものが、以前よりも、鈍くなっているんです。
感じ取る力は体感だ、という話をしました。
体感は、体を使うことでしか、育ちません。
その体は、もともと、
生き延びるためのセンサーでした。
だとすれば、
命の緊張が消えた今、そのセンサーが鈍っていくのは、ある意味、自然なことなのかもしれません。
これは、力そのものが消えるわけではないんです。
使わない筋肉が、少しずつ衰えていくように、
使わない感覚も、鈍っていく。
ただ、それだけのことです。
だから、便利さが悪いわけではありません。
ただ、この便利で安全な時代に、
私たちの感じる力は、放っておくと、静かに眠っていく。
そのことには、気づいておきたいと思うんです。
でも、進化の根っこにあるのは、感じる力である
ここまで読むと、感じる力は、
時代とともに失われていくもの、と聞こえるかもしれません。
でも、逆なんです。
便利な時代は、確かに、感じる力を眠らせます。
けれど、その便利さを生んだのも、また、感じる力でした。
新しい商品も、サービスも、その出発点には、いつも、人の困りごとがあります。
「もっと、こうなったらいいのに」
「こうだったら、助かる人がいるはずなのに」
こうした小さな願いや違和感を、
誰かが感じ取り、形にしてきた。
その積み重ねが、今の便利さをつくったんです。
感じる力は、なくなってなどいません。
もともとは、危険を察知して、生き延びるための力でした。
それが、時代とともに、
誰かの困りごとを察知する力へと、役割を変えてきた。
生き延びるための感覚が、誰かを助けるための感覚に、変わってきたんです。
そして、この力が、いちばん深く働く場所があります。
人と人の間です。
相手の困りごとを感じ取る。
ここまでは、モノやサービスを生む力と、同じです。
でも、人と人の間では、もう一段、奥へ入ります。
目の前の人が、いま、何を感じているのか。
言葉にはしていないけれど、
本当は、何を渡したくて、何を受け取りたいのか。
これは、頭で分析して、わかるものではありません。
相手に心を寄せて、その内側にある、
まだ言葉にならないものを、そっと汲み取る。
感じる力が、人の心に向かった時、
それは、汲み取る力になります。
そして、この汲み取る力こそが、
こじれた関係を、ほどいていくんです。
ここまで、感じる力、と呼んできました。
でも、その正体を、もう少し、正確に言いたいんです。
それは、「気づき」です。
生き物が、わずかな気配に、気づく。
目の前の人の、小さな変化に、気づく。
自分の中に起きた、かすかな違和感に、気づく。
すべては、この「気づく」から、始まっています。
気づいて、はじめて、受け取れる。
気づいて、はじめて、自分が何を渡しているかも、わかる。
だとすれば、私たちが本当に鍛えるべきものも、まずは、ここからです。
受け取る、渡す、の、その手前。
いちばん根っこにある、気づき。
まず、そこから、見ていきたいと思います。
すべては、気づくことから始まる
気づき、と言いました。
まず、何に気づくのか。
大きく、三つです。
相手の、小さな変化に、気づく。
いつもより口数が少ない、声のトーンが違う、
笑っているのに目が笑っていない。
自分の中に起きたものに、気づく。
なぜか、イラッとした。
急に、緊張した。
胸が、重くなった。
そして、二人の間に流れる空気の変化に、気づく。
さっきまで和やかだったのに、急に、固くなった。
相手に、自分に、その間に。
この三つに気づくことが、すべての、出発点です。
ただ、ここで、考えたいことがあります。
この気づきは、どうやって、起きるのか。
私は、気づきには、二つある、と思っています。
ひとつは、気づかされる、気づきです。
何かが、うまくいかなかった時。
誰かに、何かを、言われた時。
何かが、うまくいかなかった時。
誰かに、何かを、言われた時。
その時、はじめて、ハッとする。
「あ、そうだったのか」と。
自分では、見えていなかった。
でも、出来事や、相手に、気づかされる。
ぶつかって、はじめて、見えてくる。
これは、大切な気づきです。
でも、受け身なんです。
何かが起きるまで、待つしかない。
もうひとつは、自分で、気づきにいく、気づきです。
誰かに言われるのを、待たない。
自分から、気づきに、いく。
そして、この、自分で気づくことには、方法があります。
自分に、問いを立てることです。
なかでも、たったひとつ、魔法のような言葉があります。
それは、「なぜ」です。
なぜ、私は、今、あんなに腹が立ったのか。
なぜ、あの人の、あの一言が、こんなに引っかかるのか。
なぜ、この関係は、こじれていったのか。
こじれた時、私たちは、
たいてい、矢印を、外に向けます。
「あの人が悪い」
「なんで、わかってくれないの」と。
でも、「なぜ」と、自分に問うと、どうなるか。
矢印が、自分に、返ってきます。
「なぜ、私は、これほど傷ついたのか」と問うた瞬間、
意識は、相手ではなく、自分の内側に、向く。
これが、自分で気づく、ということです。
この記事で、ずっと言ってきました。
私たちは、自分を手がかりにして、相手を、想像する。
自分を知らないと、相手のことも、受け取れない。
その、自分を知るための、入り口が、この「なぜ」なんです。
気づきは、奥の深いものです。
ここでは、とても、語り尽くせません。
でも、これだけは、覚えておいてほしいんです。
気づきは、待っていても、起きる。
でも、自分から「なぜ」と問えば、
待たずに、気づきにいける。
そして、この気づきがあって、はじめて、次のことができます。
相手の変化に気づくから、受け取ろうと、できる。
自分が渡しているものに気づくから、渡し方を、選べる。
気づきがなければ、受け取ることも、
渡すことも、始まらない。
だから、いちばん最初にあるのは、この、気づきなんです。
まず、渡す力から

気づいた。
では、その次に、何をするのか。
ここで、二つの力が、いります。
渡す力と、受け取る力です。
関係とは、渡すことと受け取ることの循環でした。
だとすれば、鍛えるべきも、この両方です。
片方だけでは、循環は、回りません。
ただ、私は、この二つには、順番があると思っています。
まず、鍛えるべきは、渡す力です。
なぜ、渡すが先なのか。
それは、渡すことだけは、自分で、選べるからです。
受け取るほうは、コントロールが、きかないんです。
いつ、どこで、誰から、何が渡されてくるか。
予測が、できません。
ある日、突然、誰かの言葉に、傷つけられる。
思ってもみない場所で、思ってもみない刃が、飛んでくる。
それが、いつ起きるかは、こちらでは、選べない。
でも、渡すほうは、違います。
自分から、出すものです。
だから、出す前に、見直せる。
「いま、自分は、何を渡そうとしているのか」
「この言葉に、とげは、混じっていないか」
「これは、圧に、なっていないか」
都度、立ち止まって、点検できる。
手綱が、自分の手に、あるんです。
だから、まず、渡す力から、磨いていく。
渡す力とは、上手に伝える技術のことではありません。
自分が、いま、何を渡しているのかに、
気づいている、ということです。
優しさのつもりで、圧を、渡していないか。
心配のつもりで、不安を、渡していないか。
正しさのつもりで、拒絶を、渡していないか。
自分が渡しているものに、気づけると、渡し方を、選べるようになります。
そして、もう一方が、受け取る力です。
これは、渡す力より、ずっと、難しい。
さっき言ったように、何が飛んでくるか、選べないからです。
だからこそ、受け取る力とは、
ただ黙って、聞くことではありません。
飛んできたものを、そのまま、全部、浴びることでもない。
気づいた、相手の変化。
その奥にあるものを、受け取っていく。
表面の言葉。
その奥にある、気持ち。
まだ言葉になっていない、いちばん奥のもの。
そこに、心を寄せて、そっと汲み取る。
この、汲み取ることが、受け取る力の、心臓部です。
そして、ここまでを、整理しておきます。
気づいて、受け取って、渡す。
この三つには、順番があります。
まず、目の前で起きていることに、気づく。
気づいたものを、受け取る。
受け取ったうえで、渡す。
土台から、順に、積み上がっていくんです。
でも、この三つは、バラバラのものではありません。
渡す力を、磨こうとすると、どうなるか。
きちんと渡すためには、相手が何を受け取るかを、
受け取る必要がある。
そして、そのためには、
目の前の変化に、気づいている必要がある。
つまり、いちばん上にある、渡す力を磨こうとすると、
その下にある、受け取る力も、気づく力も、一緒に、動きはじめるんです。
だから、まず、渡す力から。
渡すことを、本気で見つめていくと、
その手前にある、受け取る力も、気づく力も、つられて、育っていきます。
この両輪で、渡す・受け取るの循環を、整えていくんです。
渡したものは、巡って返ってくる

なぜ、そこまで、渡すものが、大事なのか。
それは、渡したものが、
巡って、自分に、返ってくるからです。
私たちは、自分のことを、
受け取ってばかりだと、思いがちです。
周りから、いろいろなものを渡されて、
それに、反応して生きている。
自分は、受け身だ、と。
でも、本当は、逆なんです。
自分が、何を渡しているか。
それが、自分の周りに、何が返ってくるかを、決めています。
とげのある言葉を、渡し続ければ、人は、離れていく。
安心を、渡し続ければ、人は、そばに、いてくれる。
自分が、渡す。
相手が、それを、受け取る。
そして、相手も、何かを、返してくる。
一方通行ではないんです。
つながっている。
自分の発信が、相手の受け取りを生み、
相手の発信を生み、それが、また、自分に、返ってくる。
これは、因果応報です。
原因と、結果の、法則です。
自分が渡したものが、原因となって、
巡り巡って、自分のもとに、返ってくる。
こじれた関係も、心地よい関係も、その原因は、
全部とは言わないですが、
少なからず、自分が、何を渡しているか、にあります。
そう考えると、人間関係というのは、
当然、相手の問題もあると思います。
ですが、自分の問題なのかもしれません。
これは、厳しい話に、聞こえるかもしれません。
でも、私は、これは、希望の話だと思っています。
なぜなら、相手を変えることは、できません。
でも、自分が渡すものは、変えられるからです。
自分が渡すものを変えれば、返ってくるものが、変わる。
つまり、自分の周りの人間関係は、
自分から、変えていける、ということです。
ここで、大事なことがあります。
変えるのは、言葉づかいや、
態度、といった、表面のことではありません。
もっと、根っこの部分です。
自分は、どんな思いで、人と関わっているのか。
何を、大切にしているのか。
どう、在りたいのか。
この、いちばん奥にある、自分の信念のようなもの。
そこが変わると、渡すものが、自然に、変わります。
小手先で、言葉だけを、優しくしても、
奥に、とげがあれば、それは、渡ってしまう。
三層の話で、見てきた通りです。
表面ではなく、奥にあるものが、渡るからです。
だから、変えるべきは、根っこなんです。
自分の、いちばん奥にある、在り方。
そこが変わると、どうなるか。
周りの人間関係が、少しずつ、変わっていきます。
それは、
みんなと、仲良くなる、
ということではありません。
価値観の合う人が、集まってくる。
合わない人は、静かに、離れていく。
そして、
本当に関わりたい人と、
長く、深く、つながれるようになる。
自分の根っこが変わると、
周りが、そうやって、整っていくんです。
離れていく人がいることを、こわがらなくて、いい。
それは、関係が、あるべき形に、
整っていく、ということだからです。
自分が、どう在るか。
それが、巡り巡って、
自分の周りに、どんな人がいるか、を決めていく。
だからこそ、私たちは、自分が渡すものに、そして、その奥にある、自分の在り方に、目を向ける必要があるんです。
ただし、扱い方を間違えると、危うさもある
ここまで、気づき、渡す力、受け取る力と、見てきました。
でも、これらの力には、はっきりと、危うい面があります。
そこに触れないまま、「さあ、鍛えましょう」とだけ言うのは、私には、できません。
なぜなら、これらの力は、
扱い方を間違えると、人を傷つける道具にも、なるからです。
危うさの根っこは、ひとつです。
感じ取ったものを、正解だと、思い込むこと。
これに尽きます。
私たちが受け取ったものは、
あくまで、こちら側で感じ取ったものです。
相手の中にある、本物とは限らない。
なのに、それを「正解」として握りしめた瞬間、受け取る力は、向きを変えて、人を刺しはじめます。
このことを、五つの場面で、確かめておきたいんです。
ひとつ目。
感じたことは、正解ではなく、仮説です。
「この人は、きっと怒っている」
「この沈黙は、拒絶に違いない」
そう感じたとして、それは、こちらの受け取りにすぎません。本当に怒っているかは、わからない。
感じたことは、入り口です。
「もしかすると、こうかもしれない」という、仮説です。
それを確かめずに、決めつけたとき、
受け取る力は、決めつける力に変わります。
ふたつ目。
想像は、妄想ではありません。
相手の背景を想像することは、大切です。
相手を受け取るには、想像も、欠かせないと話しました。
でも、想像が、行きすぎると、どうなるか。
「あの人は、私を嫌っているに違いない」
「どうせ、こう思われているんだ」
事実の裏づけもないまま、頭の中だけで、
物語をつくりあげてしまう。
これは、もう、想像ではありません。妄想です。
想像は、相手に確かめる余地を、残しています。
妄想は、確かめる前に、結論を出してしまうんです。
みっつ目。
受け取ることは、全部、受け入れることではありません。
受け取る力とは、相手の言いなりになることではない。
相手の感情を、全部、背負うことでもない。
相手が、理不尽な怒りを、ぶつけてきたとします。
その怒りを、受け取ることはできます。
「ああ、この人は、いま怒っているんだな」と。
でも、それを、全部、引き受ける必要はないんです。
受け取ったうえで、必要なら、線を引く。
ここから先は、受け取らない、と。
受け取ることと、抱え込むことは、違います。
よっつ目。
渡し直すことは、相手を操作することではありません。
受け取ったものを、整理して、もう一度、渡し直す。
ズレを、そのままにしない。
でも、これは、相手に、
都合よく受け取らせる技術ではないんです。
「こう言えば、相手はこう動く」
そういう、操作ではないです。
渡し直すとは、ただ、自分の意図と、
相手の受け取りのズレを、ていねいに、整えること。
それだけです。
相手を動かすためではなく、ズレを、そのままにしないため。ここを、履き違えてはいけないと思っています。
いつつ目。
言葉にすることは、相手を裁くためではありません。
受け取ったものを、言葉にする。
これも、大切な力です。
でも、その言葉を、相手に、突きつけてはいけない。
「あなたは、こういう人ですよね」
「あなたの、ここが問題なんですよ」
これは、言語化ではなく、断罪です。
言葉にする力は、相手を裁くためのものではありません。
いま、二人の間で、何が起きているのか。
それを、一緒に、見えるようにするためのものです。
五つ、見てきました。
どれも、根っこは同じです。
感じ取ったものを、正解として、握りしめた瞬間。
受け取る力は、
決めつけ、妄想、抱え込み、
操作、断罪へと、姿を変えてしまいます。
だから、いちばん大事なのは、この一点です。
受け取ったものを、正解にしない。
「私は、こう受け取った。でも、本当のところは、まだ、わからない」
この、わからない、を、手放さないこと。
そして、ここから、もう一段、踏み込みたいんです。
そもそも、人間関係に、正解はありません。
これは、なかなか、
受け入れがたいことかもしれません。
答えが、すぐに手に入る時代です。
わからないことは、調べれば、出てくる。
だから私たちは、どこかで、人間関係にも正解があると、思ってしまいます。
探せば、どこかに、答えがあるはずだ、って。
でも、人と人の間に、決まった正解は、ないんです。
同じ言葉が、相手によって、違う意味を持つ。
昨日は届いたものが、今日は、届かない。
だから、正解を探すほど、苦しくなります。
「正しい答えが、あるはずなのに、見つからない」と。
私が関わってきた中でも、
答えの出ない関係を前にして、
強く、苦しんでいる人ほど、どこかで、正解を探していました。
でも、大切なのは、正解を、見つけることではないんです。
答えが出ないなかで、それでも、相手と向き合いつづけること。わからないまま、受け取りつづけること。
その、答えのなさに、耐える力。
これもまた、受け取る力の、
大切な一部なんだと思っています。
それでも、練習で育てることができる
人間関係に、正解はない。
そう聞くと、じゃあ、
どうしようもないのか、と思うかもしれません。
でも、そうではないんです。
正解は、ない。
でも、気づき、受け取り、渡す、この力は、育てられます。
ただし、覚えるのではありません。
練習で、育てるんです。
たとえば、人間関係の正解を、どこかで見つけたとします。
本でも、動画でも、誰かのアドバイスでも。
「こういう時は、こう言えばいい」
それを、実際に、やってみる。
すると、たいてい、うまくいかないんです。
相手が、違うからです。
本に書いてあった相手と、
目の前の相手は、別の人間なんです。
でも、この「うまくいかなかった」という体験が、大事なんです。
スポーツでも、武道でも、同じだと思います。
技を、頭で覚えても、実際に相手と向き合うと、通用しない。ぶつかって、はじめて、自分の本当の実力に気づく。
その気づきから、人は、自分で工夫しはじめます。
では、どう練習するのか。
やり方は、シンプルです。
何か、人との間で、心が動いた出来事があったとき。
それを、あとで、少し、立ち止まって、振り返ってみる。
まず、渡す側から、見ます。
自分は、あの時、何を、渡したのか。
どんな言葉を、口にして、どんな態度を、とったのか。
その奥で、心は、何を、思っていたのか。
そして、ここで、あの問いを、使います。
なぜ、自分は、あんな言葉を、渡したのか。
なぜ、あの時、あんな態度に、なったのか。
「なぜ」と、自分に、問う。
すると、矢印が、自分に、返ってきます。
相手を責めるのではなく、自分が渡していたものが、見えてくる。
次に、受け取る側も、見ます。
相手は、あの時、何を、渡してきたのか。
自分は、それを、どう受け取ったのか。
本当に、相手は、そういうつもり、だったのか。
ここでも、決めつけない。
「相手は、こうだった」ではなく、
「もしかしたら、こうだったのかもしれない」と、
仮説のまま、置いておく。
渡す側を、見つめると、
その手前にある、受け取る側も、
気づきも、一緒に、動きはじめます。
この、振り返りを、日々、繰り返していく。
それが、練習です。
この振り返りは、ひとりでも、できます。
むしろ、「なぜ」と自分に問うことは、
もともと、ひとりで、やることです。
ただ、ひとつだけ、ひとりでは、難しいところがあります。
自分の癖が、自分では、いちばん、見えにくいんです。
自分が、いつも、どんなふうに渡してしまうのか。
どこで、決めつけやすいのか。
何を、渡しているつもりで、渡せていないのか。
そこは、自分の内側からは、盲点になりやすい。
だからこそ、時には、一緒に見てくれる人がいると、
自分ひとりでは見えなかった角度から、
自分の受け渡しが、見えてくることがあります。
でも、それも、あくまで、きっかけです。
最後に、気づくのは、自分自身。
「なぜ」と問い、自分の渡しているものに、気づいていく。
その主役は、いつも、自分なんです。
私にできること
なぜ、私が、こんなことを、書いているのか。
私自身が、二十年以上、
自分の本音が見えないまま、生きてきたからです。
自分が、何を感じ、本当は、どうしたいのか。
それが、わからなかった。
変わりはじめたのは、
キャリアコンサルタントの資格を、
学ぶ過程で、自分自身が、カウンセリングを受けた時でした。
他者の目を借りて、はじめて、自分の癖が、見えてきたんです。
私は、ずっと、本音ではなく、借り物の自分を、渡していました。
心で思うこと、口に出す言葉、行動。
この三つが、ばらばらだったんです。
そのズレは、違和感となり、
苦しみとして、ずっと、ありました。
でも、正体が、わからなかったんです。
それが、他者と一緒に見て、はじめて、ほどけました。
だから、思うんです。
この道は、ひとりでは、なかなか進めない。
でも、一緒に見てくれる人がいれば、進んでいける。
私にできるのは、その、一緒に見ることです。
いま、あなたが、
心で何を思い、何を口にして、どう行動しているのか。
その三つは、ズレていないか。
本当は、何を、渡したかったのか。
そこを、一緒に、見ていく。
ただ、それは、やさしく、寄り添うだけ、ではありません。
相談に来る人の多くは、本当は、もう、答えを持っています。
ただ、それを見るのが、こわくて、目を、そらしている。
その、目をそらしているところにこそ、答えがある。
だから、私は、いきなり「こうしなさい」とは、言いません。
一緒に、順を追って、たどっていく。
すると、その人自身が、たどり着くんです。
「本当は、こうしたかったんだ」と。
私が、答えを渡すのではありません。
その人が、自分で、気づいていく。
そのために、時には、逃げたくなる一歩に、そっと、寄り添う。
「その違和感から、逃げないで、一緒に、見てみませんか」って。
そういう関わりに、これから、取り組んでいきたいと思っています。
これからの時代に、育てたい力
心から話せるようになること。
それは、入り口にすぎません。
その先に、私が見ているのは、
その人が、自分の人生を、生きていく姿です。
そして、これからの時代に、共通して、
大切になっていくと、思うことがあります。
AIが、加速していきますよね。
みんなが使うようになると、
感情を抜きにした、論理的な話し方や書き方が、
AIから出された「正解」として、真似されていく。
もちろん、論理も、効率も、大切です。
でも、人間は、最終的には、感情の生き物なんです。
だから、これからの時代に、
より必要になるのは、AIのような理屈とは、むしろ、逆のもの。
人の気持ちを、感じ取る力。
相手の立場に立って、考える姿勢。
思いやりや、汲み取る力。
そういう、心の通ったコミュニケーションの力を、
これからの時代にこそ、育てていきたい。
そして、それは、この記事で書いてきた、
気づき、受け取り、渡す力と、同じものです。
この力を育てることは、つきつめると、
自分が、どう在るか、を取り戻していくことでもあります。
心で思うこと、言葉、行動。
その三つが、ずれなくなっていく。
本音のままの自分で、人と、関われるようになる。
それが、在り方を取り戻す、
ということなんじゃないかなって、思うんです。
私自身も、借り物の自分を手放して、そこへ、向かっている途中です。
一人ひとりが、自分の人生を生きていくために。
そして、AIの時代に、人が、人の心を、見失わないために。
その、傍に、いたい。
そして、時には、背中を押す一人で、ありたいと思っています。
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「受け取る」ことについては、いま、あらためて内容を練り直しています。受け取り方は、人によっても、場面によっても、無限にあって、もう少し私自身、試行錯誤の途中です。整い次第、またご案内できればと思っています。
しかし、その受け取り方については、日々のnoteの記事の中で、書き続けています。心の整理のしかた、目の前の出来事の受けとめ方を、一年以上、一つひとつ、綴ってきました。
関心のある方は、過去の記事も、のぞいてみてください。
また、個別のご相談も、承っています。
人間関係のこと、仕事やキャリアのこと。
いま、迷っていることを、まず、聞かせてください。
なお、「言葉にする」ということについては、
別の記事「言語化で、人生は変わる」にも、書いています。
自分の本音を、どう言葉にしていくか。
関心のある方は、そちらも、のぞいてみてください。
<おまけ>|
よければ、聞いてみてください✨
【第四弾:歌ってみた】
恋に落ちて-Fall in love- 小林明子
その他のラインナップは、こちらのYouTubeより👇
