宇宙の片隅、黄金にきらめく祈りの場所ー【バンコク】エラワン廟での祈り
1950年代半ば、バンコク。
近代都市へと脱皮しようとする、エネルギーに満ちた時代だった。
タイ政府は国の威信をかけ、世界中のVIPを迎えるための最高級国営ホテルの建設を計画する。その名は「エラワン・ホテル」。
エラワンとは、神々の王・インドラが駆る、神聖な白い象の名前。タイでは「3つの頭を持つ象」として愛され、これ以上ない瑞祥として選ばれた名だった。
期待を背負って、工事は始まった。
だが——
工事現場の監督は、その朝も、報告書を握りつぶした。
足場が崩れた。三度目だった。理由は、わからない。
数日前から、現場の空気がおかしかった。屈強な作業員たちが、次々と体調を崩していく。熱、めまい、説明のつかない倦怠感。誰も口には出さなかったが、皆、同じことを考え始めていた。
そこに、追い打ちをかける一報が届く。
イタリアから船積みされた最高級の大理石。ホテルの威信を飾るはずだった石材が、波ひとつ立たない穏やかな海で、跡形もなく沈んだという。
監督は、しばらく言葉が出なかった。
「この土地は、私たちの立ち入りを拒んでいるのではないか」
誰かが漏らしたその一言が、現場の誰の胸にも、重く落ちた。
国の威信をかけたプロジェクトは、完成を目前にして、音もなく座礁しかけていた。
藁にもすがる思いで、政府高官たちが呼んだのは、タイ海軍少将であり、国家級の占星術師として知られるルアン・スウィサーンペートだった。
彼は現場に立ち、星の配置と土地の気を、長い時間をかけて読み解いた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「諸君は、エラワンの名を冠した。だが、エラワンとは——神の『乗り物』に過ぎない」
「主のいない乗り物だけを、この地に用意した。肝心の、乗り手たる神を、誰も祀ろうとしなかったのだ」
その場に、しばらく誰も声を発さなかった。
彼が静かに導き出した答えは、宇宙の創造神、ブラフマー。
1956年11月9日。4つの顔と8本の腕を持つ金色の像が、教典どおりに、静かに安置された。
その日を境に——
崩落は、止んだ。体調不良を訴える者もいなくなった。工事は、それまでの停滞が嘘だったかのように、進み始めた。
誰も、説明できなかった。ただ、起きたことだけが、事実として残った。
噂は、瞬く間に広がった。
「あの祠に祈れば、願いが叶う」
人々が押し寄せ、いつしか寄付があまりに集まりすぎて、専用の基金が作られるほどになった。境内では、感謝の踊りを奉納する人の姿が、一日として絶えたことがない。
それから70年近い歳月が流れた。
エラワン・ホテルは役目を終えた。けれど、新しく建つホテルの設計図には、最初からひとつの条件が書き込まれていた。
——この祠だけは、絶対に動かさないこと。
巨大な高層ビル「グランド・ハイアット・エラワン・バンコク」は、その数メートル四方の聖域を抱くようにして、今もそびえている。
主役はビルではない。
ずっと、この場所の主役は変わっていない。

エラワン廟を、スカイウォークから熱い視線で見つめる、小さな影があった。
2024年11月。ギャラクシーからやってきたno-tonはここにいた。
高架の歩道橋から見下ろすと、高層ビルの足元に、小さな人だかりが見える。風に乗って、かすかに金属楽器の音色が届いていた。
動画では、何度も見た景色だった。けれど、画面越しに見ていたものが、今、目の前にある。
「ここが……あのエラワン廟ニャ」
すぐ近くに見えた。けれど、そこへ降りる階段が、どこにも見当たらない。
歩道橋を、来た道へ戻る。隣のビルへと続く連絡通路。そこにあった階段を、ようやく見つけた。
地上に降りても、まだ祠は遠い。さっき見えていた場所まで、もう一度歩かなければならない。
照りつける日差しを避けて、日陰を選びながら進む。
大きな道路が交差する、バンコクでも指折りの交差点。その角に、ぽつんと鎮座する祠があった。誰でも、ふらりと立ち寄れるように。
頭上には、BTSの線路が、なめらかな曲線を描いて伸びている。
車の音、人の声、立体的に交差する都会の風景。そのすべての真ん中に、その場所はあった。
祠に近づくと、空気が変わった。
ビルとバンコク中心街の交差点脇に、突然現れる祠。敷地を囲む柵の向こうをのぞき込むと、視界いっぱいに、マリーゴールドの山が広がっていた。エラワンの祠を囲うように設けられた柵に、これでもかと積み重ねられた、鮮やかな黄色。そこに重なる、タイ民族楽器で奏でられた音色。
そして、祠の一角には——
木彫りの象たちが、隙間なく並んでいた。大きいもの、小さいもの。誰かの祈りの数だけ、ここに集まってきたかのように。

参拝者たちのあいだを抜けて、敷地内の売店を見つけた。
ここで買うのだと、動画で何度も予習していた。同じように、迷わず近づく。
並んでいるのは、いくつかのセット。値段も、大きさも違う。けれど、目に入った瞬間にわかった。
「60」
価格表に書かれた、その数字。一番小さなセット。最初から、これと決めていた。
初めての参拝には、これくらいがちょうどいい。
簡単な英語が、ちゃんと通じた。差し出した60バーツと引き換えに、小さなセットを受け取る。

受け取ったお供え用の小さなセットは、プアンマーライ(花輪・花数珠の意)4つと、ろうそく1つ。
4つの顔を持つ神様だから、花輪も4つ。そこまでは、覚えていた。
けれど、ろうそくは、なぜ1本だけなのだろう。
花の陰に隠れて、もうひとつ、何かが紛れ込んでいることには、まだ気づいていなかった。
そのとき、視界の端に、煌びやかな姿があった。
屋根のついた一角に、伝統舞踊の衣装をまとった女性たちが、静かに座っている。仏塔のような金の冠が、何より目を引いた。
なぜ座っているのか、その時はわからないまま、祠へと向かった。
参拝者たちが祈りを捧げる姿を、しばらく見つめていた。何をどう供えているのか、その動きをそっと真似ながら覚えていく。
正面は、すぐにはわからなかった。祠は、微妙な角度で建てられていて、「ここかな」と思える場所が、二つあった。
お供え物の積もり具合が多い方。きっと、こちらが正面だ。
そう決めて、まずは祈りを捧げろうそくと花を供えた。
時計回りに、次の面へ。プアンマーライを、ひとつずつ丁寧に。

三つ目の面まで進んだところで、ふと、手の中に握りしめているものに気づいた。
ビニール袋にまとめられた、細い束。
——これ、お線香だニヤ。

ずっと、花輪を引っ掛ける棒だと思っていたものが、本当はお供えの一つだった。
セットの中身も確かめず、ただ花を落とさないようにと、それだけを考えて回っていた。
少し、笑えてくる。
正面まで戻り、ひとつの面ごとに、束から3本づつ取り出して供え直した。ようやく、最後の面では、きちんと供えることができた。
すべてを終えて一息つくと、踊り子たちの舞が、視界の端で揺れていた。
そういえば、さっきの女性たちだ。今、その八人が、祠に向かって舞っている。
指先まで、美しく伸ばされる。冠の脇には、一輪のバラが添えられていた。そばでは、奏者たちが楽器を鳴らしている。
踊り子たちの先には、両手を合わせ、膝をついている参拝者がいた。真剣なまなざしで、祠に祀られたブラフマーを見つめている。
——きっと、何かを願っているのだろう。
その時は、まだ知らなかった。これが、願いが叶ったあとの、お礼の踊りだということを。

——なぜ、踊っているニャ
「願いが叶った、その証だ」
ふと、祠の中のブラフマーの声が聞こえた気がした。
——ニャ?
「ここに祈る者は皆、約束を交わす。叶ったなら、何かを返すと」
——約束ニャ……
「踊りを捧げると誓った者は、こうして、約束を果たしに戻ってくる」
「だが、約束の形は、踊りだけではない」
——他にもあるニャ?
「花を捧げる者もいる。あの、木彫りの象を奉納する者もいる」
——あの、たくさん並んでいたニャ……
「大きさも、さまざまだ。誓った願いの重さに合わせて、それぞれが選ぶ」
その言葉に、no-tonは、自分がしてきたことを思い返した。
正面もわからないまま、見よう見まねで回った。お線香にも、途中で気づいた。ろうそくも、なんとなく置いてきた。
名前も、名乗っていない。
約束も、まだ、何もしていない。
……お参り、ちゃんとできていなかったニャ
静かな声が、返ってきた。
「形は、問わない」
「大切なのは、ここまで歩いてきた、その気持ちだ」
あれから、三日が過ぎていた。
少しずつ、この街の空気に馴染み始めていたころ。
BTSの車内、窓の外は、とっくに暗くなっていた。
そのとき、ひときわ明るく、人混みに包まれた一角が、目に飛び込んできた。
——あれは。
暗がりの中、そこだけが浮かび上がって見えた。すぐに、わかった。
エラワンの祠だ。
昼間とは違う、金色の輝き。マリーゴールドの黄色も、夜の光の中で、なお鮮やかだった。
これほどまでに、人を引き寄せる場所だったのか。改めて、その熱量に気づかされる。
いつか、この景色の中にも、立ってみたい。
あの場所は今も、多くの人の祈りに耳を傾けている。
もし、この旅の続きが、どこかで何かを叶えてくれたなら。
その時はきっと、ここへ戻ってこよう。
象の置物を捧げに。
【GOLDの光を心にともすような1曲】
今回紹介したいのは、Elmiene, Fujii Kaze「Comets + Gold」。
タイでも人気の高いFujii Kazeと、イギリスのシンガー・Elmieneによるコラボレーション曲。静かに響くメロディの中に、宇宙に漂うような、ひとりきりの感覚が描かれている。
けれど、歌詞の中にはこんな一節もある。
——あなたはひとりじゃない。
広い宇宙のどこかで、祈りに耳を傾けている誰かがいる。
それは、no-tonがエラワン廟で感じたことと、どこか似ている気がする。
最後までご覧いただきありがとうございました!
今回の記事は、今までの感じと違う雰囲気で書いてみました。
みなさんいかがでしたか?
たのしかったーという人は💛👍してくださいね。
それではまたお会いしましょう👐
タイ旅の記事多数!まずはこちら👇
いいなと思ったら応援しよう!
チップの効果は絶大です!応援よろしくお願いします🍀