Unconsciously or consciously ⑥エピローグ
父とのつながりを探す旅
私はこのエピローグを、2026年6月26日の夜、韓国の仁川で書いている。父につながる場所として、訪れていない最後の場所が仁川だった。
今振り返ると、父、または父につながる人たちの足跡を求めて国内外のさまざまな場所を訪れた。父たちは奉天を脱出し、安東で1年間の抑留または朝鮮半島を縦断のどちらかのルートで、1946年9月または10月にこの仁川にたどり着き、引揚船に乗った。韓国には何度か訪れているものの、仁川の港をゆっくり歩いたことはなかった。
6月26日の午前9時、私は東仁川駅で電車を降りた。ここから仁川港に至るエリアにはチャイナタウンや日本統治時代の建物が残されている。かつて日本統治時代には釜山と並び日本から朝鮮半島へ、また大陸へ進む玄関口として機能し、近代的な港湾都市としての機能を有していた。開港自体は1883年と古く、その後租界と呼ばれる外国人居留地が置かれ、その名残は今も街なかに残されている。
私はまず、仁川港の歴史が紹介されている仁川開港博物館を訪れた。この建物自体もかつては日系の銀行だったそうだ。中に入ると1900年代初頭からのこの地の写真やジオラマが展示されていた。古い資料を見ると、今私がいる場所から歩いてすぐの場所がかつての仁川埠頭と書かれているものがあった。その情報を元に、職員の方に当時の港の状況について聞いてみた。引揚船が停泊していた場所を知りたかったからだ。
仁川の港は遠浅であり、また潮位の差が激しく、それに対応するためのドック(船渠、堤防で囲んだプールのようなもの)と、閘門(こうもん・ロックゲート・二重の門を設置して門の中の水位を調節する)を設置し、ドック内の水位を一定に保てるようにしていた。これは日本統治時代の1918年に完成したものは当時アジア最大級の閘門式ドックと言われ、1万トン級の大型船が直接接岸できる港となった。現在の大きな港は1974年に造られたもので、5万トン級の大型船が接岸できるという。終戦直後、仁川からの引揚船は、直接ドック内の岸壁に接岸したものもあったが、多くの場合は引揚船を外海の沖合に停泊させ、岸壁との間は艀(はしけ・平底の小型輸送船)を使い、引揚者をピストン輸送していたようだ。
博物館を後にして駅前の観光案内所へ向かう。この港の全貌が見られるところはあるかと聞くと、案内してくれた人が、港の向かいにある月尾山に登るとよいと教えてくれた。ここには展望台があり、仁川のドックはもちろんのこと、外海も含めて広く眺められるという。月尾山を一周するモノレールに乗ってまずは島へ向かい、山の上の展望台に上った。仁川の海を一望することができた。ここが、父たち一行が引揚船に乗った港なのか。

父の足跡を辿る旅を1999年から始めて、今年で27年目となる。これまでの旅を振り返り、父に関する情報収集はそろそろ終えてもよいと思えるようになった。
とてもとても長かったのだが、これまでの私にはその時間が必要だったのだと思う。なぜなら、情報を集めることと、それを自分の頭で理解し、過去の私が直面していた喪失や空虚と向き合うプロセスが並行して行われなければならなかったからだ。私はそれが、元々喪失、いや空白であった父の姿を形作るために必要な時間だと、今になって強く実感している。それは単に父に関する情報収集をすればよいということでは決してなく、その情報を元に対話をするような、ジグゾーパズルの欠けたピースを生めるような、地味な作業を積み重ねることに似ている。それはとても説明が難しいのだが、でも誰の心にもある親子間の関係構築の作業と言えばわかりやすいだろうか。多くの人が、物心がつく前から対話や接触の積み重ねをして親子となるプロセスを、私は26歳以降、少しずつ続けてきた。それが、私の場合は旧満州への旅であったのだと思うのだ。
なぜこの地が私にとっての自己確認の場となったのか。直接的な理由は、それしか新たな情報となるものがなかったからであるが、おそらくそれ以上に確かなのは、そこに命のつながりを感じたためだ。父について調べ始めたとき、私もかなり珍しい出自であると自覚しているが、父についてもそれは同様で、よくここまで命が繋がってきたものだと感心するほどだったのだ。私は父のギリギリの命を、自分の命と重ねていたのかもしれない。そこに何らかの共通性を見出すことで、新たなストーリーを構築したかったのかもしれない。
もしかしたら、人の命や親子の関係なんて、そうしたフラジャイルな、刹那的なものなのかもしれない。それでもそこには何かを求めたいのだ。それが本能的に、あるいは後天的に、その人の人生の羅針盤となる可能性を秘めているから。私は自分の中の父親像を生い立ちの中で構築できなかった経験を、喪失や欠落に向き合う作業を通して再構築しているようなものだ。でも、それが喜びとなり、支えとなり、私は30代、40代をくぐり抜けてこられたのだと思う。そのくらいに旧満州への旅は私の自己形成にとって重要な意味を持っている。
また、この旧満州への旅が私の人生において重要だと感じるもう一つの理由がある。それは、この旅を通して取り組んだ様々な調査やヒアリング、分析視点などが、その後の私の仕事において活かされ、その延長線上に今の自分があると感じるからである。
こういう言い方をするととても不謹慎だとの認識を持ちつつ書くことをお許しいただきたい。私はこの父、または父につながる人たちの足跡をたどる調査分析が、言葉を選ばずに言えばとても楽しかった。新しい情報に触れることはもちろんのこと、彼らが置かれた環境(時代、地域、職業、社会、技術、文化等)について考えることが楽しかったのだ。「個」の存在とそれを取り巻く「環境」や「空間」を掛け合わせることで、調査対象が輪郭を持ち、立体的にイメージ化できる。例えば、父たちが暮らした奉天という単語だけではどうも記号の枠を出ないのだが、そこに政局や産業、生活、文化などの要素を重ねることで、そこにはどのような仕事をし、どのような生活環境で暮らした日本人がいて、その中の父やそこにつながる人たちはどのように生きていたのかを想像することができる。そうした調査の視点は旧満州という、今の日本から見たときには外国の土地に当たるから、余計にそう感じるのかもしれないが。
そして、これは偶然なのだが、その後に就職した企業は政策科学領域での調査研究を得意としており、私も仕事として地域構造調査に関わるようになった。地域が直面する様々な課題を、やはり政局や産業、文化、現代であれば観光などの側面から調査分析を試み、政策提言を行うような仕事だ。もちろん、20代の私がその後の仕事で用いる技術や視点を学んだ経験はなく、持ち合わせていたわけではないのだが、結果的に、20代の私と30代の私には、ベースとなる関心や手法に似たようなものがあると感じるのだ。
加えて、私はこの仕事で開発の視点から検証する業務に多く携わった。それは国策の場合もあれば、企業の事業開発の場合も、基礎自治体の小さな施策もあった。これらの戦略的な枠組みを検討する際に、満州国について多角的に検証した経験は役に立った。都市計画やまちづくり、産業育成、地域コミュニティづくりなど、その取り組みに課題があることを前提としつつも、とても多くの実験的要素があったと思うからだ。背景には世界恐慌後の日本社会の疲弊と新たな未来づくりとしての満州国があったことは否定できず、そこは正当化されるべきものではないが、経済的・社会的閉塞感や公共サービスの限界に直面したときに、新たなアイデアやデザインで挑戦することの高揚感は、当時満州国に渡った日本人にもあったのではないか。私が仕事を通して感じた高揚感は、もしかすると構造的に近しいのかもしれない。
さらに40代になると、それまでの経験をベースに新たな挑戦を進めてきた。それも地域の調査研究を踏まえたものだ。50代に入った今、私はアカデミアでの研究にも挑戦しようと考えた。それは学際的な社会科学だった。アカデミアに挑戦しようと思ったのが、私のそれまでの活動を総括する目的だったのならば、この流れの原点は、やはり旧満州への旅なのだ。そして父の存在なのだ。
もし私が本能の赴くままにライターで生きていきたい気持ちを優先していたら、私の目指す仕事の場はマスコミや個人事務所に籍を置き、取材とライティングによるコンテンツを制作し続ける生き方を選択していただろう。恐らく20代の私はそういう生き方が自分に合っていると思っていたのだ。しかし、私の人生ではそうはならなかった。取材やライティングは手段として活用しつつも、目指す方向性は調査研究や政策提案、編集などに向かった。大枠で逸れていないとしても、20代の私の頭の中にあった未来図とは異なっていた。興味のある方向に、変化を楽しめる方向に舵を切ってきた結果だと思っている。
ただ、それは決して私だけの選択ではない。ある程度の期待するルートがあるとしたら、そこに挑戦し、試行錯誤しつつも、常に私の周りには誰かがいた。それは職場の上司や先輩、家族、友人、論者、研究者、いろいろだ。彼らとのコミュニケーションや彼らから共有される論点、示唆、そこから生まれる新たな思考などを通し、さらに新たな興味関心と挑戦へのモチベーションが生まれる。この好循環、再生産活動こそ、その人の仕事や生き方のデザインにつながるのだと感じる。つまり、価値の掛け合わせを無意識に、または自覚的に行い続けることによる創造物が現在の私とも言えるのだ。
もしかすると、私が地域活性化や内発的発展、地域デザインなどに関心を持ち、仕事の対象として意識している背景には、主軸に「私」があるとしても、その多様なステークホルダーによる相互関係、相乗効果、デザイン思考などが新しい「何か」を生み出す可能性を秘める要素であることを、私自身の人生から自覚しているためなのではないかと思うのだ。「なぜ中山間地域なのか」「なぜ地方創生なのか」と問われれば、私は迷わず「新たな価値を生む可能性を秘めているから」と答えるだろう。つまり、未来があると感じているからだ。「なぜ大学院に進んだのか」と問われれば、「私のこれまでの活動を総括し、理論的に整理してみたい」という意図を伝え、「その上で新たな研究領域を構築したいから」と答えるだろう。それが計画的であっても、後付けであっても、今この年齢で自分の半生を振り返ったとき、自らが注目する人や事業者、地域などの対象が、その関係性の中でどのような存在を確立し、そこで新たな「何か」を生み出しうるのか、この「何か」を作るための自分なりの挑戦が、今までの仕事や生き方そのものであったのだと思うのだ。私が、私として生きる上で見つめる対象は、30代での国や自治体、大手事業者から、40代での中山間地域や地域コミュニティ、中小企業などへ変化をしてきたのも、私自身が自らの仕事や生き方の中で葛藤し、模索し、選択し続けた結果であると言える。そうした観点で仕事や生き方を再構築してみると新しい発見があるように思う。
多くの人は、職業選択をどのような経緯や根拠とともに行うのだろうか。社会人としての活動の折り返しを経た今、私の歩みは、私自身の意思決定だけでは片づけられない様々な出会いや経験、そして内面の葛藤から導き出された結果として今の仕事や生活、研究活動がある。そうしたつながりを人生において感じられるのは喜ばしいことだろう。その意味で、私はようやく、50代になってからこの原稿を書くことができたのだろう。26歳のときに初めて旅をしたときから、さらに26年が経った。自分に向き合い、それをまとめるのにはそのくらいの時間が必要だったことも自覚している。
無意識か、自覚的か
ひとつの時代を区切る言葉としての「戦後」は、現代の日本を作り上げてきた時代そのものである。戦後の復興、高度経済成長期、成熟期、そして人口減少と規模縮小の時代へ。私たちはこの「戦後」という時代の中でも、さまざまな変化を経て、今を生きている。
それは、多くの「個」の集積として成り立っているものでもある。私たちが生きた「戦後」は、「個」が持つそれぞれの人間関係や地域社会との接点、生産活動における努力や挑戦などが重層的に絡み合い、家族を作り、地域コミュニティを育成し、それぞれが仕事をし、その集積としての産業が生まれる。恐らく、私たちは世代を超えてその営みを繰り返しているのだろう。
父の死後に生まれた私にも、父との関係性において「戦後」は存在する。それが時間的、空間的に分離し、連関がないように見えても、そこには何らかのつながりが存在し、またそのつながりが今の私の仕事や生活、あり方を支えている。
そのつながりは、もしかしたら自然と生み出されてしまうものなのかもしれないし、私が求めているものなのかもしれない。無意識なのか、自覚的なのか。それがどちらであったとしても、その積み重ねが親子や家族というつながりを生み、この国の日常をつくり、さらにこの先の未来をつくっていくのだとしたら、それはとても人間らしいことだと思うのだ。
先祖代々の呉服屋が時代の変化により廃れ、新聞社勤務となり、軍国時代を生きた祖父。その祖父の影響を受けて軍属として満州に暮らした伯父。その伯父を父親代わりとし、同じく満州に暮らした父。その父とは3週間の空白により出会うことができなかった私。ざっくりとこの過去100年において、みんな若い頃に苦境や挫折を経験し、その時代その時代で新しいことに挑戦していた。そこがとても面白い。このように言語化することで、急に親近感がわいてくる。
そして父と私の関係を見れば、遺伝的要素についてはよくわからないが、例えば仕事、例えば研究において共通する要素が多くあるように思う。それが無意識なのか、自覚的なのかはわからないが、この仕事や研究において父を感じるということは、父子関係というものはこれらの継承により表出される側面があるのかもしれない。私にとって、父とのつながりは、「未来」そのものなのかもしれないのだ。
50代にしてようやく彼らとのつながりを実感できているのは、私が少しだけ成長できたからなのか。仕事や研究活動に自信を持つことができたからなのか。でも、母も含めて、彼らからはまだ努力が足りないと発破をかけられているような気もするので、もう少し頑張ってみようと思いつつ、それもまた楽しいのである。
ー Unconsciously or consciously ―
<前後記事>
Unconsciously or consciously ①プロローグ
https://note.com/shima1234/n/nbc58b0ac17fd
Unconsciously or consciously ②挑戦
https://note.com/shima1234/n/nd928797a9719?app_launch=false
Unconsciously or consciously ③選択と自我
https://note.com/shima1234/n/n625eda32b9f2?app_launch=false
Unconsciously or consciously ④父について
https://note.com/shima1234/n/n1a93e6574c5e?app_launch=false
Unconsciously or consciously ⑤再調査へ
