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Unconsciously or consciously ①プロローグ

プロローグ ―2026年―

2026年3月25日、私は早稲田大学の学位授与式に参加した。大学院の博士前期課程、つまり修士課程を修了することになったのだ。私はこの2年間、社会科学研究科の現代日本学を専攻し、2か月前に修士論文を仕上げた。また、大変光栄なことに私は総代に選出された。各学部・研究科から選出されたほかの総代とともに、会場の最前列の座席が割り当てられた。修了式が始まると、まず各総代が順に登壇する。私も名前が呼ばれ、総長から学位記を渡された。
このとき、私は背広の内ポケットに二枚の写真を入れていた。一枚は母の写真。母はこの式典からさかのぼること4か月前に亡くなった。私の大学院への挑戦を最大限に応援してくれ、この学位記を最初に報告したかった人であるが、残念ながら間に合わなかった。そしてもう一枚の写真は父である。父の写真は1953年に撮られたもので、早稲田の昔の学生ならば皆がそうであっただろう角帽をかぶり、大熊講堂の前で腕を組んでいる。今から73年前、父はそのころ早稲田の理工で建築を学ぶ学生だった。
壇上で名前を呼ばれ、学位記を受け取り、降壇するまでの10秒ほどの時間を両親の写真とともに歩きながら、なんとなくだが、二人の間で手をつながれているような、3人の家族になれたような気がした。もちろん親子であることには違いないのだが、私たち親子はいつも近いようで遠くて、どこかリアリティがなく、一方で強烈な母と子のつながりがあった。座席に戻ってその後の式典を眺めながらも、私の頭の中にはぼんやりと、両親の顔が浮かんでいた。

その日は雨だった。早々に終わった式場を出ると、キャンパスやその周辺の道路は20代前半の卒業生とその親御さんたちの傘で埋め尽くされていた。近所の飲食店には長蛇の列ができている。キャンパスのシンボルである大隈重信像にも記念写真の撮影の行列が作られ、大熊講堂周辺では学生同士が名残惜しそうに談笑する姿があふれている。
私の年齢は52歳、仕事をしながら修士課程に所属していた社会人学生であった。若い大学生のようにキャンパスライフを楽しむような過ごし方はしていなかった。その日はゼミの教授と記念撮影の約束をしていたものの、ほかの予定はなかった。学生証を返納する時間まではまだ少し時間がある。私はキャンパス内を当てもなく歩き回った。
大熊講堂前に立った。父の73年前の写真に書かれていた「門無き自由学園」は、その面影を残し、入り口の松はこの間にずいぶんと幹を太くしたものだ。校舎も目新しいものに変わっている。大隈重信老侯の姿は今も変わらない。あと、昔と同じなのは演劇博物館の建物くらいか。外観は父の73年前の写真とほぼ同じである。入院していた母を連れてくることは叶わなかったが、連れてこられたらさぞ喜んだだろうと思う。
その後、ゼミの教授と合流し、慣れ親しんだ校舎の前で記念撮影をした。教授には大変お世話になった。母は、前年の8月に入院して以降、回復の見込みが薄い中で治療を受けていた。修士課程で言えば2年時の後半にあたる。秋以降は単位取得のための講義はなかったものの、通常の仕事と論文の調査やヒアリング、1日おきの見舞いが重なり、月に一度は数日間の出張もあったため、今となってはあまり記憶がないほどの忙しさだった。特に母は11月末からは危篤状態に陥ったため、病院には毎日訪れていた。そんな状況でも、論文の執筆について多大なご配慮をいただいたことは、生涯忘れられない恩義に感じている。母は12月中旬に亡くなった。
本来ならばこの時期は論文の執筆に費やすべきなのだが、このような事情で執筆ができず、さらに母の死後は葬儀の喪主や各種手続きに追われた。約一年をかけて行ってきた調査やヒアリングの結果はノートに書き留めてある。それを元に執筆したくても、母のベッド横ではそれはなかなか難しかった。それでも短期間で書き終えることができたのは、年末年始に教授が時間を融通してくださったからだ。
翌1月に論文を提出し、その後の口頭試問を経て、論文は承認された。また、2月末には履修単位についても確認が取れて修了が確定し、同時に成績に基づき総代の連絡が大学から入った。この半年間の、私の半生の中でも極度に多忙で、心身ともに疲弊した期間を振り返ると少しの達成感を得られたものの、やはり母にこの結果を報告できなかったことが心残りだった。
修了式後のキャンパスを歩きながら、私は本当に頑張ったと胸を張ってもよいのだろうかと考えた。この修士課程に挑戦した目的は、私自身のキャリアを次のステップに持ち上げるためであった。それは同時に、両親に対して自分の挑戦を表明するプロセスそのものでもあった。しかし一方で、自分の思いとは裏腹に、晩年の母にどこまで寄り添えたのだろうか。自分の研究や学びのために費やした時間で、もっと母のそばにいてやれることはできなかったのか。父の写真を眺めながら、父は私の挑戦を応援してくれているのだろうか。私は、両親が求めるような子どもになることが、果たしてできているのだろうか。
私にとっては約30年ぶりの修了式であり、母の死の直後であり、かつて父が学んだキャンパスであり、雨の中での一人の散策であり、いろいろなものが重なって少し感傷的になってしまったのかもしれない。この修了式を一番見てもらいたかったのは、52歳の私が言うのは少し変なのだが、両親だったのだ。この「両親」という言い方は、そういえば私にとってはとても新鮮な響きだ。これまで約半世紀を生きてきて、「両親」という言い方をしたことはほぼ皆無だった。そうか。「両親」と呼べるのは、母が亡くなったからだ。母が亡くなって初めて、母が父と一緒になった。これは私にとっての新発見だ。私は、ようやく、約半世紀が経って、両親と一緒に歩くことができているのだと思った。

無意識か、自覚的か―――。

私はこれまで、父との関係をどのように自分の中で構築し、理解してきたのか。そこには無意識に繋がるものがあるのか。あるいは、自覚的に、父の背中を追い求めてきたものがあるのか。そこにはどのような連関が存在するのだろうか。

父と私の関係と比べれば、母と私の関係はとても濃密であり、単なる親子の関係を超越した、緊密な精神的連帯のようなものがあったと思う。父のいない母子家庭だったことで常に距離が近かったためだ。個人的には、この不安定な家庭環境が構成員に及ぼす共生や生存本能への感覚が、両親の揃った家庭とは違う独特なつながりを生んでいたと解釈している。
それは現在の私の仕事や価値基準にも大きな影響を与えた。例えば、母はその人生の大半を生け花の教諭として過ごした。幼少期から私の書や絵画、作文などをいつも褒めてくれた。映画や演劇の世界を教えてくれて、ともに劇場を訪れた機会は数知れない。私は次第に、自分で何かを作ることに関心を示すようになった。それはのちにライターになりたいという夢となり、それがさらに形を変えて現在の仕事につながっていると思う。また、研究にも挑戦したいと思うようになったその背景には、独特の感性で美に迫る母の表現力や視点、感覚的で主観的で、何より高みを目指そうとする姿勢そのものが強く影響していると思っている。やはり、私の人格形成が母との関係を軸としてきたことは、疑いようのないものなのだ。
しかしながら、その母が病に倒れてから、母と私をつなぐ楔にも変化が生まれたように思う。ふと、父のことが気になりだしたのだ。
私は父のことをほぼ知らない。「ほぼ」としたのは、多少の遺品と母から聞いた少しの情報、そして個人的に調べたものがあるからである。しかしその絶対量は少なく、それこそ母に関する情報と比べたら雲泥の差だ。この「ほぼ」は「限りなく無に近い」状態を意図している。なぜなら、私は父とこの世で会ったことがないからだ。
父は私が生まれる三週間前に亡くなった。仕事中の交通事故だった。父の死亡日と私の誕生日は、同じ年の同じ月。この悲劇的な運命を前に、若い母は絶望を感じたという。私が生まれたときの申請はもちろん母であり、小さい頃の写真には母との写真しかなかった。その写真自体も少なかった。
また、母も父との新婚生活は短く、私が知りたいと思う情報の大半は持ち合わせていなかったようだ。例えば、私が知りたいと思ったのは生い立ちのこと、学生時代のこと、仕事のことなどである。これらを通し、私の父親とはどのような人物だったのかを知り、ひいては自分自身の生存確認、自己形成、遺伝上の特性などを把握することにつながると思ったのだが、幼少期からこれらを把握することは「ほぼ」できずにここまで来たことになる。私が母との関係を「緊密な精神的連帯」と書いた根拠は、父に関する圧倒的な情報の欠落を埋めようとする強固な関係性の構築そのものだったのかもしれないし、単純に、相対比較として母との関係に偏ってしまった結果なのかもしれない。加えて、私から母に対して父のことを聞くのは、母がかつての絶望を想起し、悲しむことを子どもながら危惧して聞くのを避けてきたこともある。母に父について聞くことができるようになったのは、私が成人してからのことである。その頃には、母も記憶が曖昧になってしまったものもあっただろう。いずれにしても、父に関する情報は「ほぼ」ないことを前提に、私の人生は積み上げられてきた。
父と私の関係は、このような背景から、基本的には遺伝上のつながりでしかなかった。そのくらいだった、と言っても過言ではない。私は父と、この社会で同じ時間を、同じ人生を共有したことがないのだ。この事実は決定的に時間的・空間的断絶を生み、感覚的にも生物としての本能的にも、親として意識することが難しい対象であり続けた。私にとっての親は母一人であり、父は遺伝上の親でしかなかった。
しかしながら自身の人生を振り返ると、恐らく、人間の本能として、父のことを知りたいと思ってきたのだろうと思う。なぜなら、これまで私は父について過去20数年にわたり調べてきていたからだ。自身が社会に出て仕事をするようになると、社会との関係性の中で、自分の存在を相対的に検証してみたくなったためだと自覚している。私とは何者なのか、どのような系譜を持つのか、この個体は誰の意志により形成されたのか。もし遺伝というものがあるのなら、私に受け継がれている先天的な要素とは何か。もし母親だけの家庭でなかったら、私はどのような人格形成をたどったのか。奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、私は自分自身のことを知りたかったのだ。なぜか。どこか、自分自身に足りないものがあると感じて生きてきたためだ。
提供精子による非配偶者間人工授精(AID)の事例に触れると共感するところがある。AIDにより生まれた子どもは、自分自身のアイデンティティに悩み、遺伝上の父親の存在を探している人もいる。私の場合は父親の存在が明確であるが、その詳細な情報は持ち合わせていない。父親が誰なのかがわからない不安感、喪失感は、自己形成に大きな影響を及ぼすことは、自らの半生において経験済みなのだ。それは、母との強固な関係性があったとしても解消できるものではなかった。だからこそ、薄い手がかりとともにこれまでも自分なりに調べてきたのだ。ただ、それらは断片的であるため、体系的に整理できるほどのものではなく、断片的であるがゆえに、私自身の父親像ももろいままなのである。

私は、その過程を通して気づいたことがある。私は無意識に、父と似た行動をとっていたのかもしれない。父が関心を持っていたことを追い求めていたのかもしれない。いや、こうした調査の結果を元に、無意識ではなく「自覚的」に参考にしているのかもしれない。もしかすると、かつての父と「同じ」行動をとることを、敢えて選択しているかもしれない。いや、もしかしたらただのこじつけかもしれないのだが。
それに気づかされたのは私が大学院修士課程に進学を決めたときだった。私がこの研究科を選んだのは、自らが追及したい専門領域に最も近いと思ったことと、仕事をしながら通える環境があることの二点からであった。しかし、その修士課程の修了式に臨み、自分が話しかける相手は、母とともに父なのだ。私は、無意識のうちに、70年以上前に父が学んだこのキャンパスで自分も学ぶことで、父に近づきたいと思う無意識(ここでは自覚的かもしれない)の行動があったのかもしれない。
私は、母が亡くなった今、改めて父のことを整理してみようと思った。それはとても個人的で、冒険的で、特殊で、感傷的な親子の歴史であり、一方で普遍的な要素も含んでいる。この作業を通して、もう一度自分自身とは何か、小さい頃から重石のように歩む先にあり続けたこの課題に、向き合ってみようと思った。

この文章では、とても個人的で、特殊な親子の歴史を通して「つながり」を考え、自分自身とは何かを考えていきたい。この社会ではつながることが許されなかった父と子が、つながることがあるのか、つながることは許されるのかを問うてみたい。2026年から出発し、少しずつ時代をさかのぼっていこうと思う。

#創作大賞2026

<前後記事>

Unconsciously or consciously ②挑戦

https://note.com/shima1234/n/nd928797a9719?app_launch=false

Unconsciously or consciously ③選択と自我

https://note.com/shima1234/n/n625eda32b9f2?app_launch=false

Unconsciously or consciously ④父について

https://note.com/shima1234/n/n1a93e6574c5e?app_launch=false

Unconsciously or consciously ⑤再調査へ

https://note.com/shima1234/n/nc32b22015a79?app_launch=false

Unconsciously or consciously ⑥エピローグ

https://note.com/shima1234/n/n336832096eaf?app_launch=false

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