“Baduizm”に酔う──Erykah Baduの静かで妖しい自由
Erykah Badu――90年代後期にデビューして以来、R&Bでもヒップホップでもない独自のポジションで、ずっと不動の存在感を放っているアーティストだ。
ジャズの影がちらつくし、リリックには社会性がにじむ。さらにすべてを“アナログ感”と“スピリチュアルな柔らかさ”で包み込んでしまう。
ゆるっとしたムードに誘われて気軽に聴いてみると、不意に鋭いメッセージが顔を出してギョッとする。そんな二面性こそErykah Baduの魅力――何がどう魅力的なのか、今回は彼女のライヴや曲から、いくつかポイントを拾ってみよう。
1. レコードの溝から滲む“Baduizm”
まずは“Baduizm”という言葉で象徴されるように、Erykah Baduといえば1997年のデビューアルバム『Baduizm』が外せない。当時はR&Bが華やかに装飾されたサウンドで席巻していた時代で、そのなかで彼女が提示したのはもっとアナログ寄りの質感。
ジャズの匂い、ゴスペルのコク、ヒップホップの跳ね感が絶妙に混ざっていて、一聴するとメロウなんだけど、よくよく聴くと妙に“粘度”がある。そのせいか、すぐに頭を揺らしたくなるし、逆にぼーっとしていたら曲のほうから手招きしてくる。何だか聞き流せない音って感じだ。
たとえば代表曲「On & On」は、ビートの隙間を縫うようなボーカルで、シンプルなリズムなのにやたら耳を捕まれる。
ここで生まれた“ネオソウル”という動きは、D’AngeloやThe Rootsらと同じ流れにある。でもErykah Baduはそこにとどまらず、アルバムを重ねるたびにファンクを寄せたり、レゲエやヒップホップ要素を濃くしたり、音の表情を何度も変化させてきた。いわば「どんな時代にも、我が道を行く」タイプ。
2000年の『Mama’s Gun』ではさらに荒々しいファンクの質感を出し、『Worldwide Underground』では半ばジャム盤のように自由度が高まる。“飽きさせない”というより、“一箇所にじっとしてない”感じだ。
2. “Window Seat”の騒動とメッセージの濃度
Erykah Baduのやることは、音だけじゃ終わらない。2010年に発表した「Window Seat」のミュージックビデオでは、ダラスの街中を歩きながら服を脱ぎ捨てていく、という衝撃映像を撮影し、実際に違法行為として罰金を科された。
大衆の注目を一瞬で集めたこの騒動は、「ただの露出狂か?」なんて話もあったけれど、彼女なりの“社会へのメッセージ”が潜んでいたと解釈されている。公共の場でのストリップ(しかも最終的に倒れ込む演出)を通して、「人々が他者をどう見るか」「ルールに縛られた視線」などを逆撫でした。
これぞErykah Baduらしい、甘いだけじゃない一面。彼女は基本的にマイペースだけど、やるときはゴリゴリに踏み込む。ファンを面食らわせる手法も辞さないというわけだ。
3. ライブはまるで“儀式”──様々な瞬間の衝撃
Erykah Baduを語るうえで欠かせないのがライブだ。中でも伝説的なものがいくつかあるが、代表的なのはデビュー当時の“Tyrone”が生まれた1997年のライヴや、NPRが企画する**“Tiny Desk Concert”(2018年)**など。どれも別次元のステージだった。
3.1 1997年「Tyrone」が生まれた瞬間
アルバム未収録の「Tyrone」は、97年のコンサート中にアドリブで作られたという逸話を持つ。お客さんとのコール&レスポンスが盛り上がるなか、Baduが即興で歌詞を付けてしまったところ、あれよあれよと曲が完成してしまった。その場のムードを巻き込んで一気に“定番曲”になっちゃうあたり、ライヴの魔術師っぷりがうかがえる。
3.2 2018年 Tiny Desk Concert
最近の“NPR Music Tiny Desk Concert”も凄まじいパフォーマンスだった。狭いスタジオにバンドを詰め込んで数曲披露するという企画だけど、彼女にとってはもはや“普段どおり”の自由度を保ったまま、小さな空間を支配してしまう。
「Rimshot」ではドラムとピアノとベースが絡むだけで、まるで一瞬でビル・エヴァンスのトリオが乗り移ったようなスリルがあって、そこにErykah Baduの声が加わると一気に異界へ飛ぶ。さらに「Green Eyes」になると、今度は別のテンポとコード展開へ次々と形を変え、ストーリーが浮かんでは消える。
観客の歓声というより、むしろ息を呑む静けさが印象的。それだけ“この人の世界”に聞き手が引き込まれてるわけで、身振りだけじゃなく声や楽器が生々しく溶け合っていく瞬間は、まさに「ここでしか味わえない音楽の儀式」って感じだった。
4. ゆるやかな“アナログ”にこそ宿る自由
エリカ・バドゥは、自身を「デジタル時代のアナログ・ガール」と称することがある。確かに現代は、どんな音楽もデジタルでピカピカに加工されがちだが、彼女の音作りやライヴは常に、人肌の熱と即興の化学反応がメインにある。
それは安易な“サブスク映え”や“スナップ撮影”の文脈とは真逆かもしれない。でもだからこそ、いま聴いても色褪せない生々しさをたたえているし、観るたびに「あ、今回も何か事件が起こるぞ」とワクワクしてしまう。
5. 心地よい曖昧さによる穏やかな中毒性
Erykah Baduの曲やライブを行き当たりばったりで聴いていると、いつの間にか「もっと深く知りたいかも…」って思わされるタイミングが来る。それは別にハマって抜け出せなくなるというより、「どうしよう、また聴きたくなる」と思わせる穏やかな中毒性と言えるかもしれない。
耳を澄ませば、ジャズ的なリフとヒップホップ的なビートがせめぎ合い、そこにオーガニックな歌声と政治的メッセージが混ざり合う。派手にガツンと来るのではなく、じわじわ心の奥に染み入る。この“心地よい曖昧さ”こそ、エリカ・バドゥという存在がもたらす魔法だと思う。
夜に一人でぼんやり音を鳴らしていると、サラッとリラックスできる一方で、ときに歌詞が突き刺さったり、リズムが体を揺さぶってきたりする。その“両義性”に身を委ねると、音楽との向き合い方そのものを思い出させてくれるような感覚がある。
要は、ただ安らぐだけじゃなく、自分の意識を微妙に変形させてくれる――そんな体験を求めるなら、Erykah Baduの世界はかなり刺激的だ。もしまだしっかり聴いたことがなければ、ぜひあのライヴ映像、そしていくつかのアルバムを通して、一度味わってみてほしい。もしかしたら、音楽を聴く夜のスタイルがちょっと変わるかもしれない。
