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ピンクのポロシャツと砕けた顎──Kanye Westが壊したヒップホップの常識

Daft Punkから始まった寄り道

Daft Punkの「Harder, Better, Faster, Stronger」が好きで、あの無機質なのにどこか切ないボコーダーのループを延々聴いていた時期がある。で、ある日YouTubeのおすすめにKanye Westの「Stronger」が上がってきて、再生したらイントロからあのフレーズがほぼそのまんま鳴った。は? と思って曲名を確認。ああ、カニエ・ウェストか。名前はさすがに知っている。Yeezyのスニーカーとキム・カーダシアンと授賞式の騒動の人、くらいの認識で。

「Stronger」もあまり聴き込まず正直スルーしてしまった。それが間違いだったとはっきり気づいたのは、Commonの記事を書くために『Be』を聴き返したときだ。あのアルバムのビートをほぼ全部作っていたのがカニエだと知って、ディスコグラフィを頭から辿ってみたら、出てくるエピソードが一々ぶっ飛んでいる。中産階級育ちでギャングだらけのレーベルに突っ込んでいった話。顎を砕かれて2週間後にマイクを握った話。売れるたびに自分のスタイルを壊す話。全部同じ人間かと思うほど奇想天外だ。

ピンクのポロシャツでロッカフェラに乗り込む

カニエはシカゴ育ち。母ドンダは英文学の大学教授、父は元ブラックパンサー党員のフォトジャーナリスト。中産階級の、わりと真面目な家庭。ヒップホップのラッパーとしてはかなり異質な出自だ。

10代のころ、母親がどこからか手に入れてきた電話番号を頼りに、シカゴのプロデューサーNo I.D.の地下スタジオに押しかけた。MCハマーのパンツにノートパソコンを抱えて。中に入っていた自作曲は「Green Eggs & Ham」。No I.D.の感想──「音楽はよくなかった」。

ただ、No I.D.はカニエを追い返さなかった。「父親のいない彼にとっての男の姿でいたかった。音楽より人生の話をしていた」と後に語っている。このNo I.D.、Commonの師匠でもあるし、J Dillaともつながっている人だ。またここで名前が重なる。シカゴの地下水脈は本当に深い。

カニエはみるみる腕を上げ、2000年代に入るとJay-Zの『The Blueprint』にビートを送り込むまでになった。プロデューサーとしての信頼は厚い。ところが「俺、ラップもしたいんだけど」と切り出した途端、空気が冷えたらしい。

Jay-Zが後にこう言っている。「俺たちはストリート育ちで、生き残るために何でもやってきた。カニエは一日もハスリングをしたことがない。うまくいくわけがないと思った」。

しかもカニエときたら、ピンクのポロシャツの襟を立てて、グッチのローファーで現れる。ギャングスタ・ラップ全盛の時代に。契約直前まで行ったキャピトル・レコーズにも白紙にされ、複数のレーベルに断られた。理由は音楽の中身じゃない。見た目がラッパーっぽくない。それだけ。

Commonの記事で「I Used to Love H.E.R.」の話を書いたけど、ヒップホップの"あるべき姿"に異を唱えたCommonと、"あるべきラッパー像"に体が収まらなかったカニエ。シカゴ出身の二人が、別の角度から同じ壁にぶつかっていたというのは、できすぎた話だと思う。

ワイヤー越しの声

2002年10月、カニエはカリフォルニアで深夜のスタジオ作業を終えた帰り、居眠り運転で正面衝突した。顎が三つに砕けた。

で、2週間後にはもうレコーディングしている。顎をワイヤーで固定したまま。口がまともに開かない状態で。できあがった曲が「Through the Wire」だ。

この曲、ぜひ聴いてみてほしい。チャカ・カーンの「Through the Fire」をピッチアップしたサンプルが甲高く回って、そこにカニエのラップが乗るんだけど、よく聴くと声がくぐもっている。最初は録音環境のせいかと思った。ワイヤーで顎を縛ったまま吹き込んでいたと知ると、あのくぐもりがまるで違うものに聴こえてくる。

この"ピッチアップ"のやり方──古いソウルのレコードを速く回して声を甲高く変容させ、そこにドラムを叩きつける──が"チップマンク・ソウル"と呼ばれてカニエの代名詞になった。元ネタの温かさにキュルキュルした高揚感が被さる、あの独特の音。J Dillaが"ズレ"でビートを革新したとすれば、カニエは"速度と音程"でサンプリングの地図を書き換えた人だ。

2004年、デビューアルバム『The College Dropout』。「Jesus Walks」が特にすごい。ゴスペルの合唱がドカンと押し寄せて、その上をミリタリーなドラムが行進していく。ヒップホップでこんな音の壁が作れるのか、と。ビルボード初登場2位、グラミー3部門受賞。ピンクのポロシャツの男が、ラッパーの定義を力ずくで書き換えた。

『Be』とシカゴの二股

カニエの仕事で個人的にいちばん好きなのは、じつはCommonに提供した『Be』(2005年)かもしれない。13曲中11曲をカニエがプロデュースして、J Dillaも「Love Is...」で参加している。

「The Corner」を聴くと分かりやすい。メロウなのにストリートの空気がちゃんとある。ソウルのサンプルが温かくて、噛めば噛むほど味が出るタイプ。「Go!」の弾け方もいい。あのアルバムにはシカゴの地下水脈みたいなものが流れている。

面白いのは、カニエが『Be』を作りながら、裏で自分の2nd『Late Registration』も進めていたこと。そっちでは映画音楽の作曲家ジョン・ブライオンを引っ張ってきて20人編成のオーケストラを入れている。チップマンク・ソウルとはまるで違う。Commonには"温かい原点"を渡しておいて、自分は"未知の実験"に出る。この二股ぶりが、もうカニエそのものだなと思う。

いいかげんにしてくれ、と言いたくなる変貌

カニエを時系列で追うと、アルバムごとに「さっきと違う人じゃないか」となる。

2007年、『Graduation』が50セントの『Curtis』と同日リリースで初週95万枚を売った。ギャングスタ・ラップの商業的な天下が終わったとされる"事件"。普通ならこの路線をしばらく続ける。売れてるんだから。

やらない。翌年の『808s & Heartbreak』で、ラップをほぼやめてAuto-Tuneで歌い始めた。

背景がある。2007年11月に母ドンダが美容整形の合併症で亡くなった。翌春、婚約者とも別れた。半年で二人を失ったあとに出てきた音──TR-808のドラムマシン、マイナーキーのシンセ、機械越しに震える歌声。初めて聴いたとき、カニエだと言われなければ誰だか分からなかったと思う。生身の痛みを機械の膜に通している感じで、聴いていると妙に胸がざわつく。

当時はボロクソに言われた。「カニエ初の失敗作」と断じたメディアがいくつもあった。でも数年後、ドレイクが「いちばん影響を受けた」と名前を挙げ、The WeekndもPost Maloneも結局みんな『808s』の子どもだった。早すぎただけのアルバム。J Dillaのときにも感じたけど、本当にすごい人の音楽は、時代のほうが追いつくのを待っている。

2010年の『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』はPitchforkが10点満点をつけた。ハワイに引きこもって24時間スタジオを回し、壁に「ツイート禁止」と貼って作った怪物みたいなアルバム。2013年の『Yeezus』ではインダストリアルやアシッドハウスに飛び込んで、プロデューサーのリック・ルービンに「足すな、引け」と注文した。

締め切り3日前にまだ5曲の歌詞ができてないままミラノに旅立つカニエ。焦るルービンに一言──「第4クォーターで40点取ってやるよ」。

かっけぇなぁ…

交差点で

近年のカニエは音楽の外で大きく物議を醸していて、そこには触れない。ただ、この人の通ったあとにはいつも新しい道ができていた。それは確かだと思う。

シカゴがあり、No I.D.がいて、Commonがいて、J Dillaがいた。このシリーズで追いかけてきた名前がつながる場所に、カニエは立っている。

まだちゃんと聴いたことがないなら、『The College Dropout』を頭から流してみてほしい。「Through the Wire」のイントロでチャカ・カーンのサンプルがキュルキュルと回り出したら、あのくぐもった声に耳を澄ませてみるといい。砕けた顎にワイヤーを巻いたまま、それでもマイクの前に立った男の声だ。

余裕があれば、Commonの『Be』と並べて聴くと面白い。同じ人が作ったビートなのに、ラッパーが変わるとこんなに表情が違うのかと。


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