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「平等」には神の視点が入っている──平等の欺瞞、暴力構造

平等という名の支配装置

平等は美しい理念である。誰もが平等に扱われるべきだという主張に、正面から反対する者は少ない。しかし、この一見自明な理念の背後には、極めて暴力的な構造が潜んでいる。平等を語ること、平等を実現しようとすることそのものが、実は最も非対称的な権力行使なのである。

この逆説を理解するには、平等という概念が本質的に要請する「神の視点」について考察しなければならない。平等とは、ある特定の存在(神、国家、法、アルゴリズム)が、「すべてを等しく見る」という超越的立場に立つことで初めて成立する。つまり、平等を実現する者が絶対的な特権的地位に立つという、根本的な矛盾を孕んでいる。

I. 平等の構造的暴力──何を捨象するかという問題

抽象化という暴力

平等を語るには、必ず「何において等しいか」という基準が必要である。しかし、この基準の設定それ自体が、すでに暴力的な抽象化を含んでいる。

AとBを「人間」という抽象カテゴリーで括り、その下で等しく扱う。しかし、Aの具体的な身体、経験、文脈、そしてBのそれらは、根本的に異なっている。この差異を「些末なもの」として捨象し、両者を同一の基準で測定すること──これが平等の第一の暴力である。

言語に依らない真なる平等を考えるならば、それは各存在をその固有性において「そのまま」認めることではないか。つまり、我々が通常「不平等」と呼ぶものこそが、真の意味での平等なのかもしれない。なぜなら、それは各存在の比較不可能な固有性を尊重するからだ。

しかし、このような「存在論的平等」は社会制度として実装不可能である。我々は必然的に、何らかの抽象化、何らかの基準設定、何らかの「神の視点」を導入せざるを得ない。平等は、その誕生の瞬間から、すでに暴力を内包している。

超越者の性質が規定する平等の様態

さらに問題を複雑にするのは、「神の視点」を担う超越者の性質によって、実現される平等の性質が根本的に変わるという事実である。

国家と法は、法的権利という尺度で平等を測る。この時、経済力、社会的地位、文化資本は捨象される。形式的・手続き的平等が実現されるが、実質的不平等は放置される。

アルゴリズムは、データ指標(クリック率、エンゲージメント等)という尺度で平等を測る。この時、文脈、意図、質的価値は捨象される。計量的・最適化的平等が実現されるが、測定不可能なものは存在しないことにされる。

市場は、交換価値という尺度で平等を測る。この時、使用価値、関係性、歴史性は捨象される。貨幣的平等が実現されるが、貨幣で買えないものの価値は無視される。

科学は、測定可能性、再現性という尺度で平等を測る。この時、主観性、個別性、一回性は捨象される。客観的・普遍的平等が実現されるが、科学的方法で捉えられないものは非科学的として排除される。

つまり、平等は単一の概念ではない。複数の異なる平等が競合しており、それぞれが異なる暴力を行使している。そして決定的なのは、どの超越者も自らの暴力を「客観性」「中立性」「公平性」として隠蔽するということである。

II. 死んだ平等──神の視点が固定化される時

全体主義の平等

歴史を振り返れば、「平等」を最も声高に叫んだ体制が、最も抑圧的だったという皮肉な事実がある。

フランス革命は「自由・平等・博愛」を掲げながら、ギロチンによる恐怖政治を敷いた。社会主義国家は階級の平等を実現すると主張しながら、前衛党の絶対的特権を確立した。これらは偶然ではない。平等の実現には「すべてを等しくする者」の存在が必要であり、その者は必然的に絶対的な非対称的地位に立つからである。

アルゴリズムの平等

現代において、この構造は新たな形で再現されている。AIアルゴリズムによる「公平な」判断がそれである。

採用AIは「性別・人種を考慮せず、能力だけで判定する」と謳う。しかし、「能力」の定義そのものが、特定の階級、特定の文化を有利にするように設計されている。学歴、職歴、テストスコア──これらの指標は、すでに社会的不平等を反映している。

しかし、AIは「客観的」だと主張する。設計者の価値判断は不可視化され、アルゴリズムは「データに基づいた中立的判断」を下しているとされる。ここで生じるのは、責任の消去である。「AIが決めたこと」で、人間は免責される。判断は自動化され、決定不可能性を経験することなく、機械的に実行される。

ジャック・デリダの言葉を借りるなら、これは「責任」ではなく「計算」である。真の責任とは、決定不可能性を経験してこそ責任である。既存のルールに従うだけなら、それはプログラムの実行であり、そこに倫理的主体は存在しない。

神の視点を経由する平等は、死んだ平等である。それは平等という名を借りた抑圧、制圧、統治、暴力である。

III. 形式的平等と実質的平等のアポリア

男女平等の二つの顔

平等の構造的矛盾は、男女平等の議論に典型的に現れる。

形式的平等は、性差は社会的構築物であり、本質的差異は存在しない(あるいは無視すべき)と主張する。したがって、同一労働同一賃金、男女混合競技、徴兵制における男女平等などを要求する。しかし、現実の身体的・統計的差異を無視すると、結果的に不利益が生じる層が出る。「性差はない」という前提自体が、ある種の暴力的な抽象化である。

実質的平等は、性差は存在するが、それによる不利益を補正することで平等を実現すべきだと主張する。したがって、女性専用車両、妊娠・出産に対する特別措置、スポーツにおける男女別競技などを要求する。しかし、「補正すべき差異」を誰がどう決めるのかという問題(再び神の視点)が生じる。さらに、「女性は弱い」などの本質主義的ステレオタイプを強化するリスクがある。

ここに測定不可能性の問題がある。形式的平等は差異を「ゼロ」と測定するが、実際はゼロではない。実質的平等は差異を「X」と測定しようとするが、Xの値をどう決めるのか。どちらも、「真の差異」を直接測定することはできず、何らかの仮定・モデル・理論に依存する。つまり、どちらも「神の視点」を要請する。

アポリアに留まること

この二項対立は解消できない。解消しようとすること自体が、新たな「神の視点」の導入になる。重要なのは、このアポリアを解消せず、その中に留まることである。

形式的平等と実質的平等は、互いに他方の暴力を批判し合う。この緊張関係そのものが、どちらか一方の平等が絶対化されることを防ぐ。平等は、到達すべき「状態」ではなく、不断に更新される「プロセス」である。

IV. à venir──到来しつつ、いまだ到来しない平等

デリダ的時間性

デリダの概念「à venir(到来)」は、平等の時間構造を理解する鍵である。

à venirは単なる「未来(futur)」ではない。未来は現在から予測・計算可能な時間である(明日の会議、5年後の目標)。しかし、à venirは予測不可能だが、それでも待ち望まれるものである。

平等のà venirは、次のような逆説的構造を持つ。もし平等が完全に到来したら、それは予測可能だったということであり、真の到来ではない。もし平等が到来しなければ、それは空虚な期待であり、真の到来ではない。したがって、平等は「到来しつつ、到来しない」という様態でのみ到来する。

先送りの積極的意味

平等は常に先送りされ続けている。法的平等が実現されると、経済的平等が欠けていると批判される。経済的平等が実現されると、文化的平等が欠けていると批判される。形式的平等が実現されると、実質的平等が欠けていると批判される。

しかし、これは単なる「未完成」ではない。もし「完全な平等」が実現したら、それを判定する「神の視点」が固定化されているということであり、それはもはや平等ではない。完成された平等は、死んだ平等である。

したがって、平等は「未完成であること」においてのみ平等でありうる。平等は常に「次の平等」へと差延される。この差延そのものが、平等の生命である。

これはメシア的時間の構造である。メシアは来ない(到来しない)。だからこそ、常にメシアを待ち続ける(到来しつつある)。この待機そのものが、現在を変革する力になる。

平等も同様である。完全な平等は到来しない。だからこそ、不断に平等を追求する。この追求そのものが、現在の不平等を批判し、変革する力になる。

V. 裁判官のパラドックス──「誰が平等を判断するのか」という問い

法における責任の構造

デリダは『法の力』において、裁判官のパラドックスを論じた。裁判官は二つの矛盾する要請に同時に応えなければならない。

第一の要請:既存の法に従わなければならない。
第二の要請:この個別の事例の固有性に応答しなければならない。

したがって、裁判官の判断は、あたかも「新たな法を作る」かのように創造的でなければならない。しかし同時に、既存の法に「準拠している」ように見えなければならない。

もし裁判官が単に過去の判例を機械的に適用するだけなら、それは計算であり、正義ではない。しかし、過去の法を完全に無視すれば、それは恣意であり、やはり正義ではない。真の判断は、法と正義の間、反復可能性と単独性の間、この緊張の中で生じる。

平等における裁判官の不在

しかし、私はこの平等について法のアナロジーで理解しようとしたとき、決定的な困難に直面した。誰が平等を判断するのか?

法の場合、裁判官という制度的に位置づけられた判断者が存在する。しかし、平等の場合、そのような判断者は存在しない。あるいは、誰もが判断者であり、同時に誰も判断者ではない。

平等を謳う各カテゴリー(法、アルゴリズム、貨幣、市場、科学)において、「誰が平等を追求し、批判するのか」は実は異なっている。

法的平等における判断者は、一見、裁判官である。しかし、裁判官自身が特定の階級・教育・文化背景を持つ。最高裁の判断を誰が審査するのか。無限後退が生じる。

アルゴリズム的平等における判断者は、誰なのか。設計者は「技術的最適化」を目指すのみで、「平等」を判断していない。ユーザーはアルゴリズムが何をしているか見えない。監査者が存在したとしても、ブラックボックスを完全に理解できるとは限らない。アルゴリズムは「判断者なき判断」を行う。

市場的平等における判断者は、構造的に不在である。市場は無数の個人の選択の集積であり、誰も全体を判断していない。「見えざる手」という神話があるだけだ。市場には「外部」がない。全員が市場の内部にいる。したがって、市場的平等を判断する「神の視点」は構造的に不可能である。

科学的平等における判断者は、科学者共同体である。しかし、科学者共同体の判断を誰が審査するのか。「科学的方法」という基準があるが、それ自体が歴史的・文化的構築物である。

つまり、平等は法のように単一の制度的枠組みに還元できない、複数の異質な領域にまたがる問題である。したがって、裁判官のような単一の判断者を想定することはできない。

誰もが裁判官、誰も裁判官ではない

この認識は、二重の意味を持つ。

第一の意味:誰もが裁判官である(民主的理想)。平等の判断は専門家に独占されるべきではない。すべての人が平等について語り、判断する権利を持つ。これが民主主義の前提である。しかし、「誰もが」判断できるなら、誰の判断が優先されるのか。多数決は多数派の専制を招く。合意は往々にして強者に有利である。

第二の意味:誰も裁判官ではない(判断の不可能性)。平等を最終的に判断できる「神の視点」は存在しない。すべての判断は暫定的であり、異議申し立て可能である。これがデリダ的な決定不可能性である。しかし、ならば現実の不平等にどう対処するのか。判断の無限の先送りは、実質的な現状維持ではないのか。

このアポリアは解消できない。そして、解消すべきでもない。

VI. 生きた平等──決定不可能性を経験する

神の視点を回避する経験

デリダ的に言い換えるなら、「平等とは構造的に神の視点を要請するが、その要請を回避する経験を経て、平等は追及される」

神の視点を経由する平等は、死んだ平等である。それは平等という名を借りた抑圧、制圧、統治、暴力である。

では、生きた平等とは何か。それは、神の視点の不可能性を経験しながら、それでも平等を追求することである。

生の三つの条件

第一の条件:基準の複数性と葛藤

単一の基準ではなく、複数の矛盾する基準が並存する。それらが衝突し、どれを優先すべきか決定不可能になる。その決定不可能性の中で、それでも判断しなければならない。

例えば、妊娠中の女性社員への業務配分を考える。形式的平等は男女で同じ業務量を割り当てるべきだと言う。実質的平等は妊娠による負担を考慮すべきだと言う。個別性の尊重は本人の意向を最優先すべきだと言う。組織の公平性は他の社員への影響も考慮すべきだと言う。これらは互いに矛盾する。しかし決断しなければならない。この苦悩の経験が「生きた平等」への道である。

第二の条件:他者への開放性

既存の基準では捉えきれない「他者」の声を聞く。「この人の固有性は、既存のカテゴリーに収まらない」。その驚き、戸惑い、当惑を経験する。

例えば、トランスジェンダーの人々。既存の「男女平等」は男女の二項対立を前提とする。しかし、「男でも女でもない」あるいは「両方である」という存在が到来する。既存の「平等」概念では対処できない。この決定不可能性において、基準そのものを問い直し、更新する。これが生きた平等である。

第三の条件:差延と反復

平等は一度達成されて終わりではない。新しい文脈、新しい他者、新しい問題が常に到来する。そのたびに「平等とは何か」が問い直される。この問い直しの反復が、平等を生かし続ける。

VII. 平等のエコシステム──複数の審級の緊張関係

単一の神を拒む

平等の判断者は「所有」されるべきではない。

法的平等の判断を裁判所が独占してはならない。アルゴリズム的平等の判断を技術者が独占してはならない。市場的平等の判断を経済学者が独占してはならない。

しかし同時に、すべての人が全ての平等を判断できるわけでもない。専門性、経験、当事者性には固有の価値がある。

したがって、判断者の位置は、常に流動化、複数化、異議申し立て可能化されるべきである。

平等の分立

単一の裁判官ではなく、複数の判断者が相互作用する複雑系として平等を捉える。

法的平等は裁判所によって判断されるが、市場的平等は消費者運動によって、アルゴリズム的平等は技術規制によって、科学的平等は批判的科学者によって、社会運動的平等は当事者たちによって判断される。

これらが相互に影響し合い、緊張し、時に連帯し、全体として「平等」を構成する。これは「権力の分立」ならぬ「平等の分立」である。

一つの平等が極端化すれば、他の平等が介入する。市場的平等が極端化すれば、法的平等が介入する(労働法)。法的平等が硬直化すれば、社会運動的平等が批判する。アルゴリズム的平等が不透明化すれば、科学的平等が監査する。

この動的平衡において、平等は生き続ける。

結論:平等の不可能な可能性

平等は本質的にアポリアである。

平等には神の視点が必要である。なぜなら、「何において等しいか」の基準が必要だからだ。しかし、神の視点を設定すれば、平等は暴力になる。なぜなら、基準の設定自体が非対称的権力行使だからだ。

このアポリアは解消できない。そして、解消すべきでもない。

平等は、不可能な可能性として追求され続けるべきである。完全な平等は到来しない。だからこそ、不断に平等を追求する。この追求そのものが、現在の不平等を批判し、変革する力になる。

平等は到来しつつ、いまだ到来しない(à venir)。この時間性を生きること。これが平等の倫理学である。

神の視点を経由する死んだ平等を拒絶し、決定不可能性を経験する生きた平等を追求すること。既存の平等概念を反復しながら、その限界に直面し、新しい平等概念を創造すること。単一の審級に平等を委ねず、複数の平等の緊張関係を維持すること。

平等の欺瞞を暴くことは、平等を放棄することではない。むしろ、より誠実に、より批判的に、より開かれた形で平等を追求することである。

平等という名の暴力構造を認識しながら、それでも平等のために闘うこと。このアポリアに留まることこそが、我々に課された責任である。


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