気楽の手がかり244:自分ルールは、地図じゃなくてコンパスくらいでいい
あるがままを受け取ると、少しだけ楽になる
気づかないうちに「裁判官」になっていた
[現状への気づき]
自分の中には、長年かけて育ててきた「こうあるべき」という感覚がある。それ自体は自然なことで、悪いものでもない。ただ、気づかないうちにその感覚が、目の前の出来事や人を「採点する物差し」に変わっていることがある。
何かうまくいかないとき、誰かの言動が引っかかるとき、頭の中ではすでに「あの人が悪い」「この状況はおかしい」という結論が先に出ていたりする。自分のルールに照らし合わせると、どうしても周りが「問題」に見えてしまうのだ。
出来事は「素材」、解釈は「料理」
[起きた事象の受け止め方]
起きた出来事は、ただそこにある。誰かが遅刻してきた、予定が変わった、思ったより評価されなかった。それ自体はただの「素材」で、良くも悪くもない。
でも、そこに「なんでそういうことをするんだろう」「やっぱり自分はそういう扱いをされる」という解釈が加わった途端、素材は一気に苦い料理になる。同じ素材でも、どう味付けするかで全然違うものになるのと同じで、受け止め方には選択の余地があるようですよ。
ルールは「道しるべ」、現実に合わせて動かしていい
[行動する際の指針]
自分のルールを全部手放す必要はないと思う。ただ、そのルールを「現実より上位のもの」にしてしまうと、少し苦しくなる。
地図が間違えていたら、地図を疑った方がいい。現実の方が正確だから。同じように、自分ルールもときどき「あれ、これ今の状況に合ってるかな」と見直してみると、ずいぶん軽くなることがある。「正しいかどうか」より「今の自分に合っているかどうか」という視点の方が、気楽に生きるには向いているかもしれない。
人との関係は、ルールより「間合い」で
[周囲の人との調和]
誰かと接するとき、自分のルールで相手を測っていると、どうしても「もっとこうしてほしい」「なんでわかってくれないんだろう」という気持ちが出てくる。相手も自分のルールで生きているのだ、と思い出すだけで、少し違う見方ができる。
思いやりというのは、自分を曲げることじゃないと思っている。「この人にはこの人の事情がある」と、ほんの少し余白を持って接すること。それだけで、関係がぎこちなくなりにくくなる。相手を変えようとするより、自分の解釈をほんの少し緩める方が、ずっとコストが低くて済む。
「私が正しい裁判所」は、24時間開廷している
[ユーモアでほぐす]
人間の頭の中には、なぜか「私が正しい裁判所」が常設されているようです。しかも裁判官も弁護士も被告も全部自分が兼任していて、判決はだいたい「やっぱり私が正しい」で終わる。公平性ゼロ、控訴も却下。…そんな裁判所、いつでも閉廷してよかったんだと気づくまで、けっこう時間がかかるものだ。
地図を信じすぎた旅人
[たとえ話]
ある旅人が、何十年も前に書かれた地図を持って旅をしていた。地図には「この先に橋がある」と書かれていたが、実際に行ってみると、そこには立派な橋の代わりに川幅の狭いところがあるだけだった。
旅人はしばらく地図を眺めて、川を眺めて、また地図を眺めた。そして静かにつぶやいた。「橋がないのがおかしい」と。
川は何も言わなかった。ただ、渡れそうな石が、いくつか水面に並んでいた。
おわりに
自分の中のルールは、長年の経験から育ったものだから、それ自体を否定することはありません。ただ、現実より自分の思いを優先しすぎると、あちこちで「思い通りじゃない」と嘆くことになる。あるがままの現実に合わせてルールを少し動かしていくと、世界は意外と渡りやすくなるかもしれない。自分を曲げるのではなく、ただ少し、柔らかくする。それくらいが、ちょうどいい気がします。
※この記事は、下記のXへの投稿をベースにしています。
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