自分のためには、戦えない。 〜いい人が損をしない「名義」の話〜
こんにちは。
株式会社スプリングボード代表の足立晋平です。
独立してまだ間もない頃の話です。
お客様から研修のお見積もりを求められて、金額を書き込む段になると、私の指はいつも止まりました。
設計にどれだけ時間をかけたかは、自分がいちばんよく知っている。それなのに、数字を口にした瞬間に相手の表情が曇るのではないかと思うと、どうにも落ち着かない。
「もう少し下げていただけませんか」
と言われれば、だいたい「わかりました」と答えていました。
ところが、不思議なことがありました。
弊社には、パートナーとして登壇いただく講師の方々がいます。その方の日当についてお客様と話す場面になると、私は別人のように粘れるのです。
「この方は、ここまで準備をされています」
「申し訳ありませんが、この金額でないとお受けできません」
自分の値段は言えないのに、他人の値段はきっちり言える。
しかも後者のとき、私は少しも嫌な気持ちになっていません。むしろ、言うべきことを言えた爽やかさすらある。
長いあいだ、これを自分の性格の欠陥だと思っていました。
気が弱いんだな。
交渉に向いていないんだな、と。
でも、そうではなかったのです。
欠けていたのは度胸ではなく、まったく別のものでした。
今日はこちらの書籍からの学びシェアです。
アダム・グラント
『GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代』
🤝 「お人好し」が、7万ドルを勝ちとった日
本のなかに、サミアという男性が登場します。
インド育ちで、子どもの頃からお人好し。仕事はできるのに、昇給を要求したことが一度もない。成績のパッとしない同僚に追い抜かれても、「自分のためにそこまでする気になれなかった」と言います。
アパートの賃貸契約すら、奥さんが代わりに交渉して家賃を年間600ドル下げてくれた。以来、買い物の交渉はすべて奥さん任せ。
その彼が、転職先の医療技術企業との交渉で、数カ月のあいだに総額7万ドル以上の昇給を勝ちとります。
奥さんは驚いて「あなた、粘り強いのね」と感心したそうです。あの奥さんに認められたのだから間違いない、と本人も笑っています。
何が変わったのか。
サミアはこう振り返っています。
自分自身を、家族に代わって交渉する代理人だと考えることにした。
自分のためなら、しつこく食い下がるのは気がとがめる。
けれど、
「頼りにしてくれている家族に損害を与えている」
と思った瞬間、後ろめたさが吹き飛んだというのです。
しかも彼は、人事に要求をはねつけられたとき、こう伝えています。
家族がいて、ローンの返済もある。もう少し融通していただけないでしょうか、と。
💡ちょこっと理論紹介💡
🗣️ 関係説明(リレーショナル・アカウント)
交渉で何かを要求するとき、「自分のためだけではなく、他の人の利益も背負っている」と説明する技法のことです。
経済学者リンダ・バブコックらが提唱しました。面白いのは、これが相手のためではなく、実は要求する側のために効くという点です。
人は「欲張りな人だと思われたくない」という自己イメージを守るために、驚くほど簡単に主張を引っ込めます。誰かの名義を借りると、その心理的なブレーキが外れる。 というわけです。
📊 たった一言で、年俸が2600万円動いた
バブコックたちの実験が、また強烈です。
官民の上級経営幹部176人に、まったく同じ条件で年俸交渉をしてもらいました。
結果、男性は平均14万6000ドル。女性は平均14万1000ドル。
約3パーセントの差がつきました。
ここで研究チームは、女性側にたった一言を付け加えます。
「志願者本人ではなく、その人の恩師になったつもりで交渉してください」
すると平均は16万7000ドルに跳ね上がりました。
日本円にして2600万円ほどの上振れ。男性を14パーセント上回ったのです。
私がいちばん唸ったのは、その次の一文でした。
彼女たちは、高い目標を設定したわけではなかった。
変わったのは、態度の積極性だけだったというのです。
これ、けっこう衝撃的ではないでしょうか。
研修の現場では、「もっと高い目標を持ちましょう」という話を山ほどします。
もちろん大事です。
でも、目標を上げても動けない人には、別の処方箋がいる。
必要なのは目標ではなく、「主張していい理由」のほうだった。
ということです。
⛵ 江戸の町を背負った男
似た構造の話が、日本史のなかにもあります。
慶応4年、官軍の江戸総攻撃まであとわずか。
幕臣・勝海舟は、本来なら徳川家の代理人として交渉の席に着くはずの立場でした。
けれど彼が背負ったのは、江戸に暮らす百万の町人でした。
しかも勝は、交渉が決裂した場合に備えて、江戸を焼き払う準備まで進めていたと言われます。火消しの親分たちと組み、市民を船で房総へ逃がす算段まで立てていた。
負ければ江戸が消える。
その札を握ったうえで、江戸を焼かないために西郷隆盛と向き合ったわけです。
主家の存続を懇願していたら、あそこまで凄めなかったはずです。
徳川のためだけなら、どこかで頭を下げて手を打っていたでしょう。
⚓ 自分の名義で交渉すると、譲歩が「優しさ」になる
🛡 他者の名義で交渉すると、譲歩が「裏切り」になる
同じ人間の、同じ口から出る言葉なのに、背負っているものが違うだけで、こんなにも変わってしまう。
現代にも、よく似た例があります。
78歳の稲盛和夫さんが日本航空の再建を引き受けたとき、報酬はゼロでした。
航空業界の経験もない。失敗すれば、それまで積み上げてきた評判をすべて失う立場です。
自分のために引き受ける理由は、ひとつもなかった。
ところが、無報酬で来たその人が、誰よりも苛烈な改革を断行しました。
私心がないからこそ、遠慮がなかった。
「動機善なりや、私心なかりしか」
という有名な自問がありますが、あれは自分を戒める言葉であると同時に、
自分に許可を出すための言葉
でもあったのかもしれません。
🪞 なぜ、他人の相談にだけ名回答が出るのか
もうひとつ、思い当たることがあります。
友人から仕事の悩みを相談されたときは、わりと的確なことが言える。
ところが、自分が同じ状況に置かれると、まったく身動きが取れなくなる。
あれです。
💡ちょこっと理論紹介💡
👑 ソロモンのパラドックス
心理学者イゴール・グロスマンらが名づけた現象で、名裁きで知られた古代イスラエルのソロモン王が、自分の家庭や後継者の問題では判断を誤ったという逸話に由来します。
人は他人の問題については賢明に考えられるのに、自分の問題になると途端に視野が狭くなる。
解決策は、自分を三人称で捉え直すこと。
「私はどうすべきか」ではなく「あの人ならどうすべきか」と問い直すことで、判断の質が上がることが実験で確認されています。
つまり私たちの脳は、そもそも自分事の処理があまり得意ではない。
だとすれば、自分を他人扱いするのは、卑怯でもごまかしでもなく、むしろ正しい使い方なのだと思います。
🎽 たすきという発明
日本人にとって、この話がいちばん腑に落ちるのは、たぶん駅伝ではないでしょうか。
自分のタイムのためだけなら、脚が壊れた時点で人は止まります。
合理的です。
ところが、次の走者が待っていると知った途端、選手は止まらなくなる。
ふらふらになりながら、中継所を目指す。
繰り上げスタートで白いたすきを渡された走者の絶望は、自分の記録が消えた絶望ではありません。
「仲間につなげなかった」という絶望です。
私は思います。
たすきとは、「関係説明」を布にしたものなのではないか。
我が家の息子たちのサッカーを見ていても、同じことを感じます。
自分がゴールを決めたい日より、仲間のために走る日のほうが、明らかに足が動いている。
人は、自分のためには止まれても、誰かを背負った瞬間、止まれなくなることがある。
🧭 あなたはいま、誰の名義で立っているか
見積書に自分の金額を書けなかった頃の私は、ずっと、
「もっと強くならなければ」
と思っていました。
でも、強くなる必要はなかったのです。
必要だったのは、
「この金額は、当日登壇する講師の準備時間と、受講される方の一日を守るためのものだ」
と、自分に説明し直すことだけでした。
名義を変えたら、同じ数字がすっと書けるようになりました。
ギバー気質の方ほど、自己主張を「わがまま」だと感じてしまいます。
私もそうでした。
でも、あなたが引きたい線の向こうには、たいてい誰かがいます。
無理な納期を飲めば、しわ寄せは部下にいく。
安請け合いをすれば、品質で困るのはお客様です。
だから、自分にこう問いかけてみる。
あなたが遠慮しているとき、代わりに誰が損をしているのか。
そこまで見えたとき、断ることも、要求することも、戦うことも、少し違って見えてきます。
それは「自分のためのわがまま」ではない。
誰かを守るための責任になる。
自分のためには戦えない人でも、誰かのためなら戦える。
だとすれば、必要なのは性格を変えることではありません。
「誰の名義で立つのか」を変えること。
それだけなのかもしれません。
あなたはいま、誰の名義で交渉していますか。
よろしければ、コメントで教えてください。
お読みいただきありがとうございました。
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