誰が、その電気代を払うのか──AIインフラへの反旗と、お金という装置の正体
地政学と文明の転換期を読む(毎週金曜)
はじめに
今週、仕事関係でコミュニティ通貨の話が立て続いた。その帰り道、頭のなかで妙な二つの絵が重なった。ひとつは、山あいの小さな地域でお金の外側の価値をやりとりしようとしている人たちの顔。もうひとつは、遠く海の向こうで、住民が「これ以上データセンターを建てるな」と役所に詰め寄っている光景である。
一見、まるで関係のない二枚の絵。けれどわたしには、この二枚は同じ一枚のコインの表と裏のように思えてならなかった。今週はそこから書き起こしてみたい。
便利の裏側で、誰が電気代を払っているのか
2026年7月、ニューヨーク州が全米で初めて、大規模データセンターの新設に事実上の凍結をかけた。州が50メガワット以上の施設の新規許可を止める、という知事令である。同じ月、少なくとも10州以上でデータセンターの一時停止(モラトリアム)を求める法案が動き、いくつもの自治体が独自に建設の一時停止に踏み切っている。
理由はシンプルだ。電気と、水である。ニューヨーク州の家庭用電気料金は、2019年からの数年でおよそ7割近く上がったと報じられている。生成AIを動かす巨大なデータセンターは、桁違いの電力と、冷却のための大量の淡水を必要とする。その負担は、AIの便利さを最も享受している人たちにではなく、たまたまその土地に住んでいる住民の電気代や水道に、静かに乗せられていく。
わたしがここで引っかかるのは、この「受益と負担の非対称」という構造である。便利さを受け取る人と、その裏側のコストを払う人が、みごとに別の場所に分かれている。
これは「核のゴミ」の反復ではないか
この形に、わたしは既視感をおぼえる。
かつて人類は、原子力という便利で強力な火を手に入れた。発電所も、兵器も。けれどその華々しい開発の裏で、「使い終わったあとのゴミをどうするのか」という問いは、長いあいだ後回しにされ続けてきた。恩恵は都市が受け取り、廃棄物の負担は遠くの土地に押しつけられる。受益と負担が分かれていく型は、あのときとよく似ているように思う。
AIもまた、いま同じ道をなぞろうとしているのではないか。膨大な電力と、それを支えるデータセンター群。その電力がどこから来て、その負担を誰が引き受けているのか──その問いを一旦わきに置いたまま、「とにかく前へ」と走ろうとしている。
だからこそ、住民たちの「待った」は重い。これは単なる反対運動ではなく、これまで見えなかった裏側のコストが、人々の生活実感として可視化されはじめた瞬間なのだと思う。便利さの請求書が、ようやく表に出てきた。わたしはこれを、ひとつの静かな覚醒の始まりだと受け取っている。
けれど、反旗は「装置そのもの」を倒さない
ここで立ち止まりたい。人々がインフラに反旗をひるがえしたとして、その先に何が待っているのか。
先日わたしは、別のところ(崩壊の後を、誰が耕すのか)でこう書いた。政権が倒れても、貨幣システムそのものは倒れない、と。同じことが、ここでも言える。AI企業の経営者たち自身が、いまや「AI配当」や「ユニバーサル・ベーシック・キャピタル」を語りはじめている。表面的には希望に見える。だがその多くは、法的な強制力を伴わない、企業の裁量──いわば「善意」に委ねられた仕組みに留まっているように見える。
トップダウンで分配を約束する声と、ボトムアップでインフラそのものを拒む声。この二つは、実は同じ一点を指しているのだとわたしは思う。すなわち、「便利さと負担をどう分け合うか」を、いまのお金の仕組みがうまく引き受けられていない、という一点である。
分配を語るにせよ、拒否するにせよ、その土俵になっているのは結局「お金」だ。ならば、その土俵そのものを一度疑ってみなければ、話は前に進まないのではないか。
そもそも、お金とは何だったのか
ここで、多くの人が身近に置いてこなかった問いに触れたい。そもそもお金とは、何なのか。
わたしたちはふだん、お金を「価値そのもの」だと感じている。だが本当のところ、お金が回るのは、それが「信用」に支えられているからにすぎない。紙切れや口座の数字が価値を持つのは、みんながそれを受け取ってくれると信じているから。信用が担保のすべてであり、逆に言えば、信用が揺らげばお金は容易にただの紙に戻る。
さらに踏み込むと、現代のお金の多くは「信用創造」という仕組みから生まれている。少し乱暴に言えば、銀行が誰かに貸し出すことで、新しいお金が世の中に生まれていく。つまり現代の貨幣は、その根っこに「誰かの借金」を抱えている。経済が回り続けるためには、誰かが借り続けなければならない──そういう、借金誘導型とでも呼ぶべき構造になっているのだと、わたしは理解している(専門家のあいだにも異論はあるので、あくまで一つの捉え方として書いている)。
この視点に立つと、さっきのAIの話が違って見えてくる。データセンターの電気代を最終的に誰が払うのか。AIがもたらす富を誰に分けるのか。それらはすべて、「信用の上に成り立ち、借金を前提に膨らみ続けるお金」という、同じ一つの装置の内側で起きている問題なのである。便利さの請求書に人々が気づきはじめたということは、その請求書を発行している装置そのものにも、遅かれ早かれ目が向く、ということではないか。わたしはそこに、次の局面への引き金があるように感じている。
亀裂は、中心から周辺へ波及する
そう思って世界を眺めると、貨幣という装置のあちこちに、細かな亀裂が走りはじめているのが見えてくる。
たとえば英国では、この7月、経営難に陥っていたブリティッシュ・スチールが国有化された。「市場に任せておけば、資源は自然に最適配分される」という前提そのものが、ほかならぬ政治の側から崩れはじめている。強制力なき市場では守れないものがある、という判断である。
あるいはシンガポール。この国は10年がかりで金(ゴールド)の精錬・保管・決済のインフラを整え、2026年中には各国の準備金を金で預かる仕組みを本格的に動かそうとしている。準備金が制裁や政治で凍結されるリスクが常態化するなかで、デジタルでも国債でもなく、金という最も原始的な実物資産へ回帰していく。信用が揺らいだとき、人は何を掴もうとするのか──その問いへの、一つの逆説的な答えのように思う。
さらにホルムズ海峡をめぐる緊張は、エネルギーと海運の地図を書き換えつつあり、その陰でラテンアメリカの産油国が静かにシェアを広げている。NATOのアンカラ会合とインド太平洋パートナーの連携強化は、国民国家を超えたブロック単位での再編が、経済より先に安全保障の領域で進んでいることを示している。中心に亀裂が走ると、周辺がせり上がってくる。同じ構造が、いくつもの分野で同時に起きているように、わたしには見える。
フェーズ2の引き金と、日本の「種」
これらをつなぐと、一つの筋が浮かぶ。AIインフラへの反旗が、便利さの裏の負担を可視化する。その負担をどう分け合うかを問ううちに、人々の目は「お金という装置」そのものへ向かう。信用が揺らぎ、金への回帰や産業の再国有化という形で、中心の綻びが表に出はじめる。
わたしが以前からフェーズ2と呼んでいる、既存の貨幣システムへの信頼が世界規模で揺らぐ局面。その引き金は、案外こうした「電気代は誰が払うのか」という、生活のいちばん手前の問いから引かれるのかもしれない。
だとすれば、冒頭のコミュニティ通貨の話に戻ってくる。お金の外側で、顔の見える範囲の価値をやりとりしようとする実践は、いまはまだ小さな種にすぎない。けれど、中心が大きく揺らいだとき、世界は「次にどう組み替えるか」というひな型を必要とするはずである。そのとき、地道に運営知を積み上げてきた地域のコミュニティ通貨こそが、参照可能な種として機能するのではないか。派手さはないが、続けることそのものに意味がある営みだと、わたしは思っている。
便利の請求書を、誰が払うのか。その問いは、めぐりめぐって「お金とは何か」という問いに着地する。そしてその答えを、ど派手な革命ではなく、土のうえの地道な実験のなかに準備しておくこと。それが、この転換期にわたしたちができる数少ない仕込みなのだと思う。
