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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第十章 ボールヴォワール/アラス/ルーアン/異端審問

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。

総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

⚠️下記プラットフォームで公開中。
- note:各章をマガジンにまとめて投稿。一部有料。
- カクヨム:各話を分割して投稿。少しずつ読みたい人向け。
- pixivFANBOX:原文付き対訳バージョン。支援者限定。


⚠️字数が多い(28,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。

10.1 謎めいた使者とジャンヌの手紙

 1430年9月、トゥルネーの住民である首席参事会員(chief alderman)ビエトレミュー・カルリエと首席評議員(chief Councillor)アンリ・ロマンの2人は、フランス王への使節としてロワール川流域へ派遣された後、帰還する途中で、ボールヴォワールに立ち寄った。

⚠️トゥルネー(Tournai):現在のベルギーで、フランスとの国境沿いにある町。当時はブルゴーニュ公の支配地域。

 ここは、彼らが帰還する直通ルート上にあり、旅の途中で二度休憩するのに都合が良かった。

 とはいえ、シャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)への使節としての任務と、リュクサンブール卿の領地へ立ち寄った間に、何らかの関連があったのではないかと推測せざるを得ない。

 彼らの同胞(ブルゴーニュ派)がフルール・ド・リス(フランス王家の紋章)に今もなお愛着を抱いていたこと、そしてジャンヌとこの使節団にすでに繋がりがあったことを知ると、その可能性は高いと思われる。[495]

 トゥルネーの司教区は、自由と特権を与えたフランス王に忠誠を誓っていたと言われている。シャルル王に何度も伝言を送り、国王を称える公開行列を組織し、人や金銭(徴兵と徴税)を要求しない限り、どんなことでも喜んで王を受け入れた。

 参事会員カルリエと評議員ロマンは、以前にも町の代表としてランスを訪れ、シャルル王の塗油と戴冠式を見守っていた。

 そこで彼らは、栄光に満ちた乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)を目撃しただろうし、彼女を偉大な聖女だと考えたに違いない。

 当時、彼らの町(トゥルネー)は国王軍の進軍を注意深く見守りながら、好戦的なジャンヌと、彼女の告解司祭だった修道士リシャールあるいは修道士パスケレルと定期的に連絡を取り合っていた。

 この日、彼らはジャンヌが残酷にも敵の手中に囚われているボールヴォワール城へと向かった。リュクサンブール卿に何を伝えに来たのか、またリュクサンブール卿が彼らの申し出を受け取ったかどうかさえ、私たちにはわからない。

 仮に、彼らがシャルル王の密使で、王のために戦ったジャンヌの身代金について秘密の申し出をするために来たのだとしたら、リュクサンブール卿は彼らを無視するはずがない。

 彼らが捕虜(ジャンヌ)に会えたかどうかはわからないが、可能性は十分にあり得る。なぜなら、当時は捕虜に近づくのは一般的に容易で、通りすがりの人が囚われの捕虜を訪ねる際には、七つの慈悲の業のひとつを行うためのあらゆる便宜が図られたからである。

 ひとつだけ確かなことがある。

 それは、彼らがボールヴォワールを去る際、ジャンヌから託された手紙を携行しており、それを町の役人に届けるよう頼まれていたということだ。

 手紙の中で、ジャンヌはトゥルネーの人々に、主君である国王のために、そしてこれまで国王に尽くしてきた功績に報いるために、生活費として20~30エキュドール(金貨)を送るよう依頼した。[496]

 当時は囚人がこのようにしてパンを乞うのが慣習だった。

10.2 アラスへ移送、訪問者と唯一の肖像画

 余命わずかだったリュクサンブール嬢(リニー伯ジャン・ド・リュクサンブールの生涯独身だった叔母)は遺言を作成したばかりだったが[497]、その際、高貴な甥に「ジャンヌをイングランド人に引き渡さないように」と懇願したと伝えられている。[498]

 しかし、この善良な貴婦人は、イングランド王が差し出すノルマンディー金貨と聖なる教会の破門に対して、一体どれほどの力を行使できただろうか?

 もしジャン卿が、魔術、偶像崇拝、悪魔召喚、その他の宗教犯罪の疑いのあるこの乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)を引き渡すことを拒否したら、彼は破門されていただろう。

 由緒あるパリ大学は、申し出を拒否すれば重い法的処罰が科せられることを彼に十分に知らしめていた。[499]

 当のリュクサンブール卿は、不安に駆られて落ち着いていられなかった。

 彼の居城であるボールヴォワール城には、1万リーヴルに相当する高価な捕虜がいるのだ。
 フランス人、イングランド人、ブルゴーニュ人、あるいはブルゴーニュやイングランドやフランスのことをまったく気にかけない者が、ジャンヌを拉致して穴に投げ込み、当時の盗賊の慣習に従って身代金を要求するかもしれない。
 襲撃の可能性がある状況下で、ボールヴォワール城にいつまでも閉じ込めておくのは安全とは言えないのではないかと恐れていたのである。[500]

 9月末ごろ、彼は、立派な町や堅固な都市を統治する主君ブルゴーニュ公フィリップに、ジャンヌの安全な保護を引き受けてくれるよう頼んだ。

 フィリップ公は承諾し、彼の命令でジャンヌはアラスへ連れて行かれた。

 この町は高い城壁に囲まれ、二つの城がある。そのうちのひとつ、クール・ル・コント城は町の中心部にあった。
 ジャンヌはおそらくクール・ル・コント城の牢獄に幽閉され、リニー伯(リュクサンブール卿)、金羊毛騎士団、アラス総督ダヴィッド・ド・ブリムー卿の監視と保護下に置かれていたのだろう。

 当時、捕虜が外部から完全に隔離されることは稀だった。[501]

 アラスに幽閉中、ジャンヌは面会者を迎え入れた。そのうちのひとり、あるスコットランド人は「ジャンヌが片膝をついてシャルル王に手紙を差し出している姿」を描いた肖像画を見せた。[502]

 絵の中の手紙は、ボードリクール卿からのものか、あるいはオルレアンの解放やパテーの勝利を国王に知らせる手紙だったのかもしれない。

 これはジャンヌが見た唯一の肖像画だ。
 彼女自身は、自分の肖像画を決して描かせなかった。

⚠️補足:絵画であろうと彫刻であろうと、肖像画を作ることはキリスト教で本来禁じられている偶像崇拝に繋がるため。

 ジャンヌの権力のピークは短期間だったにもかかわらず、フランスの町の住民は聖人礼拝堂にジャンヌの彫刻や絵画を置き、ジャンヌが描かれた鉛のメダイを身に着けた。
 このようにして、ジャンヌを慕う人たちは、教会に列聖された聖人を称えるために確立された慣習に従っていたのである。[503]

**

 (アラスでの面会者の中には)多くのブルゴーニュ貴族たちも含まれ、その中にはブルゴーニュの財務長官を務めるジャン・ド・プレシーという騎士がいた。

 彼は、ボールヴォワール城でリュクサンブール卿の妻と叔母がそうしたように、ジャンヌ自身の利益のため、またスキャンダルを避けるために、ジャンヌに女性の衣服を差し入れた。

 しかし、ジャンヌは何があっても、神の命令に従って身につけた男装を脱ぎ捨てようとはしなかった。

***

 ジャンヌはまた、アラスの牢獄で、トゥルネーの聖職者ジャン・ナヴィエルという人物と面会し、町の役人から託された22エキュドール(金貨)を受け取っている。

 この聖職者は、トゥルネーの住人から大きな信頼を得ており、町に関わるもっとも緊急の事柄を任されていた。

 なお、この年、1430年5月に彼はシャルル王の宰相ルニョー・ド・シャルトル(ランス大司教)のもとに派遣されている。その際、偶然にもジャンヌと同時期に、彼はブルゴーニュ人に捕らえられて身代金を要求されたが、大きな費用はかからず、すぐにその窮地から脱することができた。

⚠️補足:ジャンヌがコンピエーニュで捕縛されたのは1430年5月23日。

 ジャン・ナヴィエルはジャンヌ関連の使命[504]をよく果たし、その苦労に見合う報酬を何も受け取らなかったようだ。おそらく、この慈悲深いおこないに対する見返りを、天国で受け取る自分の口座に預けてもらうことを望んだのだろう。[505]

⚠️補足というか、訳者のこぼれ話

🔸アラスでジャンヌに面会したスコットランド人について
当時、フランスにいるスコットランド人はシャルル七世に仕えており、もしかしたらこの人物はシャルル七世から派遣されて来たのかもしれない。

🔸「ジャンヌが片膝をついてシャルル王に手紙を差し出している姿」を描いた肖像画を見せた
当時は、肖像画自体が貴重で高価なものだった。もし、このスコットランド人がシャルル七世の使者だとしたら、幽閉中のジャンヌを励まし慰めるために描かせたものだろうか?

🔸さらに補足
リュクサンブール卿は、イングランドにくみするパリ大学とボーヴェ司教から「捕虜を解放したら破門する」と示唆されている。
ジャンヌがただの戦争捕虜なら身代金と引き換えに解放できるが、教会が引き渡しを求める異端者を解放したとなれば、リュクサンブール卿と主君のブルゴーニュ公は(破門までいかなくとも)少なからず汚名をかぶることになる。

したがって、ブルゴーニュ陣営はフランス陣営と表立って交渉できないため、密使が行き来している可能性が高い。その際、シャルル七世の使者がジャンヌと面会してメッセージを伝えたり(会話するだけなら不利な証拠は残らない)、激励になるような差し入れを見せるのは大いにあり得るだろう。


10.3 コンピエーニュ包囲戦、その後の死闘:1430年5月23日〜10月24日

 ジャンヌの捕縛(5月23日)も、ジャンヌについてきた兵士たちの撤退も、コンピエーニュ包囲戦を終わらせることはなかった。

 コンピエーニュの総督・守備隊長ギヨーム・ド・フラヴィーとその兄弟であるシャルルとルイ、(ジャンヌとともにシュリーを旅立った)バルトロメオ・バレッタ隊長率いるイタリア兵、そして守備隊500人[506]は、その巧みな技量と活力、そして飽くなき努力を発揮した。

 ブルゴーニュ軍は、イングランド軍がオルレアンでやったのと同じ方法で包囲戦を遂行した。

 坑道(mines、トンネル、城壁の基礎を破壊)
 塹壕(trenches、堀、攻撃から防御)
 防塁(bulwarks、いわゆるバリケード)
 大砲(cannonades、連続砲撃、連射)
 要塞(bastions、拠点となる砦)

 それらの役に立たない巨大で馬鹿げた建造物は、ただ燃やすためにそこにあるようなものだった。

 ギヨーム・ド・フラヴィーは、砲撃の邪魔になるという理由で町の郊外を破壊し、川を封鎖するために船を沈めた。

 ブルゴーニュ軍の臼砲や巨大なクイヤール砲に対して、ギヨームは自軍の砲兵で応戦し、その中でも特に優れた力を発揮したのは小型の銅製カルバリン砲だった。[507]

 オルレアン包囲戦とジャルジョーの戦いで活躍した陽気な砲兵「メートル・ジャン」ことジャン・ド・モンテクレールはいなかったが、ヴァランシエンヌの靴職人ノワルーフルは優れた砲兵だった。背が高く、浅黒い肌で、見るからに恐ろしく、聞くのも恐ろしい人物だった。[508]

 コンピエーニュの人々は、オルレアンの人々と同様に、うまくいかない出撃を繰り返した。

 ある日、ギヨーム・ド・フラヴィーの兄弟ルイがブルゴーニュ軍の砲弾に倒れた。だが、それでもギヨームは兵士たちの士気を高めるために、その日もいつものように吟遊詩人たちに演奏させた。[509]

 6月、オワーズ川に架かる橋を守っていた防塁(バリケード)は、ロワール川に架かる橋を守っていたオルレアンのトゥーレル城塞と同様に敵に占拠された。

 だが、そんなことでコンピエーニュの町は陥落しなかった。
 トゥーレル城塞が敵に占拠されても、シャルル公の町(オルレアン)が陥落しなかったのと同じように。[510]

イートン校の「選挙の間」にあるヘンリー六世の肖像画。学長の許可を得て複製

 要塞(bastions)に関しては、ロワール川で役に立たなかったのと同じように、オワーズ川でもほとんど役立たずで、(何も防ぐことができずに)あらゆる物資が通り過ぎていった。

 ブルゴーニュ軍は、コンピエーニュの外周が広すぎたために町を包囲することができなかった。[511]

 彼らは資金不足に陥り、兵士たちは食料と報酬の不足から、赤十字(イングランド軍)と白十字(フランス軍)の傭兵たちに共通する「《《完全なる確信》》」をもって脱走した。[512]

 さらに不運なことに、ブルゴーニュ公フィリップはコンピエーニュ包囲戦に参加していた部隊の一部を撤退させざるを得なくなった。リエージュの住民が反乱を起こしたため鎮圧する必要に迫られたのだ。[513]

⚠️リエージュ(Liège):現在のベルギー東部にある都市。フランス、ドイツ、オランダの国境に近く、昔から反乱が絶えない。特に、シャルル七世とルイ十一世はブルゴーニュ公を牽制するために、しばしばリエージュの不満分子を扇動して戦略的に反乱を起こさせている。

 10月24日、ヴァンドーム伯とブサック元帥が指揮する援軍がコンピエーニュの近くまで接近してきた。

 イングランド軍とブルゴーニュ軍が彼らを迎え撃つために向きを変えると、守備隊と町の住民全員、さらには女性たちまでもが包囲軍の背後に襲いかかり、ついに彼らを敗走させた。[514]

 援軍はコンピエーニュに入城した。
 要塞が炎上する様子はすばらしい光景だった。
 ブルゴーニュ公はこの戦いですべての砲兵を失った。[515]

 ボーヴェ司教を迎えるためにボールヴォワールにいたリュクサンブール卿は、まさにその時、コンピエーニュの前に戻ってきてこの惨劇に巻き込まれた。[516]

⚠️補足:リニー伯ジャン・ド・リュクサンブールは、コンピエーニュ包囲戦ではブルゴーニュ公に次ぐ司令官。

 イングランド軍がオルレアンから撤退せざるを得なかったのと同じ理由で、ブルゴーニュ軍もまたコンピエーニュからの撤退を強いられた。

 しかし、当時はごく普通の出来事にも超自然的な理由を当てはめるのが常だった。

 そのため、コンピエーニュの町が救われたのはヴァンドーム伯の誓いのおかげだと言われた。彼はサンリスの大聖堂で「もしコンピエーニュが陥落しなければ、ノートルダム・ド・ラ・ピエール教会で毎年ミサを捧げる」と誓約していた。[517]

10.4 ジャンヌを購入(1)イングランドの資金調達とフランスの軍事行動

 ノルマンディーの財務長官は援助金(Aid:臨時税)8万リーヴル・トゥルノワを徴収し、そのうち1万リーヴルをジャンヌの購入費用に充てることになっていた。

 この事態に心を痛めていたボーヴェ司教は、リュクサンブール卿に交渉を急がせ、脅迫と甘言を交じえながら、彼の目の前にノルマンディーの金貨をちらつかせた。

 彼は、「シャルル王も同様の申し出をするのではないか? ヘンリー王の1万リーヴルを上回る身代金を約束するのではないか? 最終的にアルマニャック派は高価な贈り物によって『 妖精の母 フェアリー・ゴッドマザー』を取り戻すのではないか?」と恐れていたようだ。そして、パリ大学の教授や博士たちも同じ恐怖を共有していた。[518]

 噂によると、シャルル王は、イングランドが金銭と引き換えにジャンヌを手に入れようとしていると知り、ブルゴーニュ公に大使を派遣して、「いかなる理由があってもそのような協定には絶対に同意しないように」と警告し、「もし同意すれば、フランス王の手中にあるブルゴーニュ人がジャンヌの運命の代償を払うことになるだろう」と付け加えたという。[519]

 この噂は虚偽だろうが、ボーヴェ司教やパリ大学の教授たちの懸念はまったく根拠がないわけではなかった。ロワール川流域から、好機を捉えて介入しようと、交渉の行方を注意深く見守っていたことは確かである。

 さらに、フランス軍の突然の襲撃もつねに警戒・懸念されていた。

 ラ・イル隊長はノルマンディー地方を荒らしまわり、騎士バルバザンはシャンパーニュ地方で、そしてブサック元帥はセーヌ川、マルヌ川、ソンム川に挟まれた地域で戦っていた。[520]

⚠️騎士バルバザン(Barbazan):二つ名「非の打ちどころのない騎士(chevalier sans reproches)」と呼ばれたアルノー・ギヨーム・ド・バルバザンのこと。王太子シャルルの熱烈な支持者で、無怖公の殺害に加担したため「ブルゴーニュ派の宿敵」といわれる。ムランをイングランド軍から守ったが、人質となった住民と交換条件で投降。1420〜1429年までガイヤール城に幽閉・拷問を受けた。ジャンヌが捕縛された1430年、ラ・イルに救出されて再び戦地に戻ってきたところ。なお、1460年生まれにつき当時70歳!

⚠️補足:なお、日本語の文献に「1430年4月17日にジャンヌ・ダルクによって解放」と書かれているがこれは明らかに間違い。この日のジャンヌはフランス中部のムランにおり、バルバザンが幽閉されているノルマンディーのガイヤール城奪還とは無関係。

⚠️訳者のひとりごと:百年戦争の後期、特にシャルル七世時代のフランス軍はジャンヌに叱咤されるような情けないイメージがあるので、知られざる英傑は積極的に紹介したい。

10.5 ジャンヌを購入(2)パリ大学からボーヴェ司教への指示書

 11月中旬ごろ、ついにリュクサンブール卿は取引に同意し、ジャンヌはイングランド軍に引き渡された。

 ポンティユを経由し、海岸沿いにノルマンディー北部を通ってルーアンへ連れて行く。このルートなら、さまざまな勢力の斥候と遭遇する危険が少ないだろう。

 まずはアラスからドゥルジー城(Château de Drugy)へ移送され、そこではサンリキエの修道士たちが獄中のジャンヌを訪ねたと伝わっている。[521]

 その後は、城壁が海の波に洗われているクロトワへ連れて行かれた。
 ジャンヌが「美しい公爵」と呼んでいたアランソン公は、ヴェルヌイユの戦いの後、ここに幽閉されていた。[522]

 ジャンヌが到着した当時、アミアンのノートルダム大聖堂の司教座聖堂参事会員であるニコラ・ギューヴィル師は、イングランド軍に捕らわれて、クロトワの城で捕虜となっていた。彼はジャンヌの告解(懺悔)を聞き、聖体拝領を授けた。[523]

 その広大なソンム湾、灰色で単調な、海鳥が長く飛び交う低い空の下で、ジャンヌは初期のころの訪問者である大天使・聖ミカエルが降りてくるのを見た。すると、彼女は慰められた。

 アブヴィルの娘たちや市民たちは、ジャンヌが幽閉されている城へ会いに行ったと伝わっている。[524]

 戴冠式の際、これら(フランス北部)の市民たちはフランス陣営に鞍替えしたいと考えていた。もしシャルル王が彼らの町に来ていれば、そうしていただろう。しかし、シャルル王はここまで来なかった。

 おそらく、アブヴィルの人々がジャンヌを訪ねたのは、キリスト教的な慈善心によるものだったのだろう。しかし、ジャンヌを好意的に見ていた人は、自分も異端の疑いをかけられることを恐れて、口に出すことはなかった。[525]

 パリ大学の博士と教授たちは、信じられないほどの苛烈さでジャンヌを追い詰めた。

 11月、ジャン・ド・リュクサンブール卿とイングランド人との取引が成立したことを知ると、彼らは学長を通してボーヴェ司教に手紙を書き、「この女の件で、司教の仕事が遅れている」ことを非難し、もっとまじめに努力するよう促した。

「神の教会において、
 かくも高い地位にあるあなたにとって、
 キリスト教に対するスキャンダルが
 撲滅されることは、決して
 軽視すべきことではありません。
 特に、そのようなスキャンダルが
 あなたの管轄区域内で発生した場合は
 なおさらです」

 手紙にはそう書かれていた。[526]

 「神の名誉を守る」という信念と熱意に満ちたこれらの聖職者たちは、彼らの言うところの、いつでも魔女を火あぶりにする覚悟ができていた。

 彼らは悪魔を恐れていた。しかし、おそらく、彼ら自身にさえ認めていなかったかもしれないが、アルマニャック派だった頃の方が、悪魔を20倍も恐れていたのだ。

⚠️わかりにくいので補足:パリ大学の人たちがジャンヌにこだわる理由は「悪魔を恐れている」からだが、それ以上に、アルマニャック派に対する政治的な恐怖、自分たちの地位や権力がおびやかされる恐れがある。神の名誉を守るという大義名分の下に、自分たちの政治的な恐怖を正当化し、「アルマニャック派復権の象徴」だったジャンヌを苛烈に追い詰めようとしている。

10.6 ルーアンへ移送(1)ジャンヌの独房の様子

 ジャンヌは満潮時にクロトワ城からソンム湾に連れ出され、船でサン=ヴァレリーへ、その後はおそらくディエップへ、そして最終的に(ノルマンディーの首府)ルーアンへと移送された。[527]

 そこでジャンヌは、尊厳王フィリップ(フィリップ二世)の時代にブーヴルイユの丘の斜面に建てられた古城へ連れて行かれた。[528]

 戴冠式のためにフランスに来たヘンリー六世は、8月末からそこに滞在していた。悲しみに暮れるまじめな子供で、城の総督であるウォリック伯から厳しく躾られていた。[529]

 城は堅固に要塞化されており[530]、要塞塔(keep)を含む7つの塔があった。
 ジャンヌは見通しのいい平野に面した塔に幽閉された。[531]
 彼女の部屋は、地下牢と地上階に挟まれた中階にあり、そこへは階段を8段上がる。[532]
 その部屋は、壁を含めて幅43フィート(13.1メートル)の広さのフロア全体に広がっていた。[533]
 石の階段が斜めに部屋に続いていた。窓の一部が塞がれていたため、薄暗い光しかなかった。[534]

 イングランド人は、ルーアンの錠前屋エティエンヌ・カスティーユに鉄製の檻を注文した。その檻の中では、まっすぐ立つことができないと言われていた。

 教会の記録係の報告を信じるならば、ジャンヌはその檻に入れられ、首、足、手を鎖でつながれ[535]、裁判が始まるまでそこに放置された。

 オフィシャル(役所か裁判所)の庭の前にあったジャン・サルヴァールが経営するエキュ・ド・フランス(Écu de France、フランスの盾)という店で[536]、石工の見習いが檻の重さを量っているのを目撃されている。

 しかし、ジャンヌが実際にその檻の中にいるのを見た者は誰もいない。

 もしこの仕打ちが事実だとしても、これはジャンヌのために作り出された檻ではない。

 同年1430年2月、ラ・イル隊長がルーアン近郊のガイヤール城を占領した際、騎士バルバザンが鉄製の檻にいるのを発見した。彼は「仮釈放中の囚人だ」と主張して、なかなかそこから出ようとしなかった。[537]

 ジャンヌはそれとは反対に、何も約束(誓約)しないように注意していた。
 むしろ、できるだけ早く脱出すると約束(誓約)していた。[538]

 そのため、ジャンヌに魔力があると信じていたイングランド人は、彼女をひどく疑っていた。[539]

 ジャンヌは教会から訴追されていたので、本来なら教会の牢に拘留されるべきだったが[540]、ゴドン(イングランドへの蔑称)は自分たちの管理下で監禁すると決めた。

 彼らのうちの一人は、「大金を払ったのだから、彼女は自分たちにとって大切な存在だ」と言った。

 彼らはジャンヌの足に足枷をはめ、腰には長さ5~6フィート(1.5〜1.8メートル)のベッドの梁に南京錠でつながれた鎖が巻かれた。夜になると、この鎖はベッドの足元から持ち上げられ、主要な梁につながれた。[541]

 同様に、ヤン・フスも1415年にコンスタンツ司教に引き渡され、ゴットリーベンの要塞に移送された際、火刑に処されるまで昼夜を問わず鎖につながれていた。

10.7 ルーアンへ移送(2)見張りと見物人との対話

 5人のイングランド兵[542]、つまり粗暴な番兵(houspilleurs)が囚人を見張っていた。[543] 彼らは騎士道の華とはほど遠い存在だった。

⚠️粗暴な番兵(houspilleurs):フランス語で「(犬が獲物を)いたぶる」「乱暴に扱う」という意味の動詞 houspiller に由来。ただの見張り・一般兵士ではなく、囚人を肉体的・精神的に「いたぶる」目的を持った特殊な番兵のこと。

 彼らはジャンヌを嘲笑し、ジャンヌは彼らを叱責した。
 その状況は、彼らにとっていい慰めになったに違いない。

 夜になると、そのうちの2人がドアの後ろに待機し、3人がジャンヌと一緒に残り、「おまえは死ぬだろう」とか「解放されるだろう」とか話しかけて、絶えずジャンヌを悩ませた。彼らの許可なしに、誰もジャンヌに話しかけることはできなかった。[544]

 それにもかかわらず、まるでいちがひらかれた(comme au moulin)ように、人々は牢獄に出入りし、あらゆる身分の人がそれぞれ好き勝手にジャンヌに会いに来た。

 例えば、ルーアンの市参事会員(Bailie、教会に任命される地方役人)代理であるローラン・ゲドン[545]やイングランド王の弁護士ピエール・マニュエルが、ルーアン市の判事(magistrate)ピエール・ダロンを伴ってやって来た。

 彼らは、ジャンヌが足枷をはめられ、兵士に見張られているのを目撃した。[546]

 ピエール・マニュエルは、「もし捕らわれなければ、ジャンヌがここに来ることは決してなかっただろう」と伝える義務があると感じた。

 分別のある人は、魔女や占い師が普通のキリスト教徒と同じように罠に陥るのを見ると、いつも驚くのだ。

 イングランド王の弁護士は分別のある人だったに違いない。
 なぜなら、彼の驚きは、ジャンヌに投げかけた質問に表れていたからだ。

「あなたは自分が捕らえられることを知っていたのか?」と彼は尋ねた。

「そうなるだろうと思っていました」と彼女は答えた。

「では」とピエール・マニュエルは再び尋ねた。
「そうなるだろうと思っていたのなら、なぜ捕らえられた日にもっと注意しなかったのか?」

「いつ捕らえられるのか、それがいつ起こるのかは、その日も時間も知りませんでした」[547]

 ジャン・サルヴァールに雇われていた若い男、ピエール・キュスケル(通称ジャンソン)は城の石工棟梁だったが、雇い主の口利きで塔に入ることを許された。

 彼もまた、ジャンヌが梁につながれた長い鎖で縛られ、足枷をはめているのを目撃した。

 ずっと後になって、彼は「ジャンヌに自分の命がかかっているのだから、発言には注意するように警告した」と主張した。

 確かに、ジャンヌは見張りの兵士に饒舌に話しかけ、その発言がすべて裁判官に報告されていたのは事実だ。

 雇い主がイングランド側についている若いピエールが、ジャンヌに忠告しようと思いたち、実際にそうしたのかもしれない。
 だが、ジャンヌを見にきたその他の大勢の人たちと同様に、彼もただ自慢していただけだったのではないか、という疑念も残る。[548]

10.8 ルーアンへ移送(3)身請け交渉と条件

 リニー伯ジャン・ド・リュクサンブール卿がルーアンにやって来た。
 彼は、兄でイングランド大法官を務めるテルアンヌ司教、ヘンリー王のためにフランス守護隊長を務めるスタッフォード伯ハンフリー、そしてルーアン城の総督であるウォリック伯に付き添われて、ジャンヌがいる塔へ向かった。

 この面会には、若い貴族エイモン・ド・マシーも同席していた。
 ボールヴォワールでジャンヌは彼の馴れ馴れしい態度を拒絶し、その以来彼はジャンヌをとても慎み深い女性だと考えていた。

「ジャンヌ」とリュクサンブール卿は言った。

「二度と我々に対して武器を取らないと約束するなら、私は(身代金を返却して)あなたを身請けするため来たのだ」

 彼の言葉は、ジャンヌの身代金交渉に関する情報と一致しない。この時点で契約が完了していなかったか、少なくとも売主(リュクサンブール卿)が望めば契約を破棄できると考えていたことを示唆している。

 しかし、リュクサンブール卿の説得でもっとも注目すべき点は、ジャンヌを身請けする条件だ。リュクサンブール卿は、二度とイングランドとブルゴーニュに対して戦わないと約束するよう求めている。

 これらの言葉から判断すると、彼はジャンヌをフランス王かその代理人に売り渡すつもりだったと考えられる。[549]

 しかし、リュクサンブール卿の説得がイングランド人に何らかの影響を与えたという証拠は残っていない。ジャンヌもまったく気にかけなかった。

「神の名において、あなたはただ冗談を言っているだけです。それはあなたの意志にも力にも及ばないことを、私はよく知っています」

 リュクサンブール卿がなおも説得を続けたため、ジャンヌはこう答えたと伝わっている。

「私は知っています。これらのイングランド人は私を死刑に処して、その後、フランスを征服できると信じていることを」

 ジャンヌがそれ(イングランドのフランス征服)を信じていなかったのは確かだ。ならば、「イングランド人が私を死刑に処す」と発言した可能性もかなり低いと思われる。

 裁判の間、ジャンヌはずっと「声」を信じて、解放されることを期待していた。いつ、どのようにその解放が実現するかを知らなかったが、聖体拝領における神の存在と同じくらい確信していた。

 ジャンヌはリュクサンブール卿にこう言ったのかもしれない。

「イングランド人が私を死刑にしたいと思っていることを知っています」

 そして、彼女はすでに何千回も言ってきたことを勇敢に繰り返した。

「たとえゴドン(イングランド人への蔑称)が今より10万人増えたとしても、彼らは王国を征服できない」

 この言葉を聞くと、スタッフォード伯は剣を抜き、ウォリック伯は彼の腕を抑えて制止させなければならなかった。[550]

 フランスに駐在するイングランド軍隊長が、鎖につながれた女性に向かって剣を振り上げたとは信じがたい。しかし、ちょうどこの頃のスタッフォード伯が、誰かがジャンヌのことを褒めているのを聞いて、その人物を即座に刺し殺そうとした件は知られている。[551]

10.9 ボーヴェ司教の準備(1)裁判権を獲得するための根回し

 ボーヴェ司教兼ヴィダム(Vidame)がルーアンで裁判権を行使するには「領土譲歩(concession of territory)」が与えられる必要があった。当時、ルーアンの大司教座は空位だった。[552]

⚠️ヴィダム(Vidame):中世ラテン語の「副支配者」に由来する封建時代の称号・役職。教会の利益のために教義上「不適切なこと」を実行する汚れ役。近世以降は廃れたせいか適切な訳語が定まってないようで、副司教/副官/教会の役人/教会の守護者……など。

⚠️領土譲歩(concession of territory):これも適切な訳語がない。ある権力者が、管轄外の地域で力を行使するために、その地域の管轄権を持つ機関から権限を譲り受けること。

 そのため、この譲歩を得るために、ボーヴェ司教は以前から誤解のあった聖堂参事会に働きかけた。[553]

 ルーアンの聖堂参事会員(Canon、世俗の聖職者)たちは毅然とした意志と独立性を持ち合わせており、不誠実な者よりも誠実な者が多く、その中には、高度な教養を持ち、博識で、心優しい者もいた。イングランド人に対して悪意を持つ者もいなかった。

 イングランド摂政ベッドフォード公はルーアンの聖職者(Canon)で、フランス王シャルル七世もピュイの聖職者カノンだったからだ。[554]

⚠️補足:ようするに、ルーアンの聖職者カノンたちは中立の立場だった。

 同年1430年10月20日、摂政ベッドフォード公はサープリス(白い典礼服)とアミス(聖職者がミサで羽織る肩衣)を身に着け、聖堂参事会のためにパンとワインの施しをおこなった。[555]

 ルーアンの聖堂参事会員たちは、アルマニャック派の乙女(ジャンヌ)に偏見を持ってなかったが、ボーヴェ司教の要求に同意して、正式な「領土譲渡」を認めた。[556]

 1431年1月3日、国王ヘンリー六世は勅令により、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)をボーヴェ司教兼伯爵ピエール・コーションに引き渡すよう命じた。ただし、教会裁判で無罪となった場合には、ヘンリー王の前に彼女を連れてくる権利を留保した。[557]

 それにもかかわらず、ジャンヌは教会の牢獄、つまり書籍商の玄関近くにある地下牢に収監されることはなかった。そこでは、巨大な大聖堂の影で、信仰の問題で過ちを犯した不幸な人たちが朽ち果てていた。[558]

 もしそこに収監されていたら、ジャンヌは軍の要塞塔の恐怖よりもはるかに恐ろしい苦しみに耐えなければならなかっただろう。

 イングランドの大評議会が、ジャンヌをルーアンの教会権力に引き渡さなかったことで、彼女に与えた不当な扱いは、それによって裁判官たちに与えた屈辱に比べればはるかに軽微なものだった。

10.10 ボーヴェ司教の準備(2)役人を選ぶ

 こうして道が開かれたボーヴェ司教は、カボシャンから予想されるであろうあらゆる暴力をもって裁判の準備を進めた。もっとも、その暴力は世俗的な手腕と教会法の知識によって限定的ではあったが。[559]

 彼は、この事件の起訴を進める役人である「検事(promoter)」にジャン・デスティヴェを選んだ。通称ベネディシテと呼ばれ、バイユーとボーヴェの聖堂参事会員(canon、世俗の聖職者)であり、ボーヴェ司教区の「検事長(Promoter-General)」でもあった。

 ジャン・デスティヴェはボーヴェ司教の友人で、当時、フランス軍によって司教区から追い出された人物だった。彼はジャンヌに対して敵意を抱いていると疑われていた。[560]

 司教は、文学修士で教会法学士のジャン・ド・ラ・フォンテーヌを「判事代理(councillor commissary)」に任命した。[561]

 また、ルーアンの教会裁判所の書記官のひとり、司祭ギヨーム・マンションを「第一書記(first registrar)」に任命した。この役人に期待されていることを指示する際、ボーヴェ司教はギヨームにこう言った。

「あなたは国王のために良い奉仕をしなければならない。我々は、このジャンヌに対し、入念な訴追(un beau procès)をするつもりだ」[562]

 国王への奉仕について、ボーヴェ司教は「正義を犠牲にして奉仕すべきだ」と主張したわけではない。彼は聖職者としての誇りを多少は持ち合わせており、自身の邪悪な企みを明かすような人物ではなかった。

 もし彼がそう言ったとすれば、それはフランスでは少なくとも100年の間、異端審問の管轄権が国王の管轄権とみなされていたからである。[563]

 「入念な訴追(un beau procès)」という表現は、法的な形式が遵守され、不正行為が避けられた裁判を意味している。なぜなら、この事件はフランス王国のみならず、キリスト教世界全体の神学者や支配者たちが関心を寄せる事件だったからだ。

 ギヨーム・マンションは法的手続きに精通しており、法律用語に関して誤りを犯す可能性は低かった。入念な裁判とは、厳密に正規の裁判のことである。

 例えば、「N**とN**は、入念な司法手続きによって、そのような人物を有罪と判断した」と言われていた。[564]

 ボーヴェ司教から、補佐する書記をひとり選ぶように命じられたギヨーム・マンションは、同僚としてギヨーム・コレスを選んだ。ボワギヨームと呼ばれ、彼と同じく教会の公証人だった。[565]

 ルーアンの教会の首席司祭であるジャン・マシューが、「法廷執行吏(usher of the court)」に任命された。[566]

10.11 ボーヴェ司教の準備(3)評議員と陪審員を選ぶ

 当時の裁判ではごく普通だが、裁判長は厳密にいえば司教と異端検察官の二人だけで開廷可能だった。

 とはいえ、司教は、教会法と民法の両方に精通した者を評議員(councillor)や陪審員(assessor)として召喚するのが慣例だった。

 評議員・陪審員の人数と階級は事件によって異なる。

 非常に有害な異端をかたくなに信じる者は、取るに足らない悪魔に魂を売り、呪文でキャベツ以上のものに害を及ぼすことさえできない老婆よりも、もっと特別にもっと厳しく裁かれる必要があった。

 ある異端審問官が「多くの女を火あぶりにした」と自慢していたように、彼らが「取るに足らない小娘(mulierculæ)」と呼んだ《《一般的な魔法使い》》、つまり多数の女性たちに対しては、教会弁護士3〜4人と教会法学者が同数いれば裁判官は満足した。[567]

⚠️|取るに足らない小娘《ムリエルキュラ》(mulierculæ):当時の聖職者が、魔術の疑いがある民間の女性たちを蔑んで呼んだラテン語の蔑称。知性も信仰も未熟な、惑わされやすい存在のこと。

 非常に著名な人が、非常に有害な例を作った場合——、
 例えば、同年にノルマンディーで教会の世俗的権力に反対する発言をしたジャン・セギュエ師のような国王の弁護士の場合は、イングランドとフランスの神学者と高位聖職者が多数召集されて会議がひらかれ、パリ大学の博士と教授に文書で意見が求められた。[568]

 さて、アルマニャック派の乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の場合は、より多くの神学者や高位聖職者を集めて、さらに入念に、さらに厳粛に裁かれるのがふさわしいとされ、ボーヴェ司教はそのように取り計らった。

 彼は、評議員および陪審員として、ルーアンの聖堂参事会員(世俗の聖職者)をできるだけ多く召喚した。司教の召喚に応じた者は、以下の通り。

(1)聖堂参事会の会計係ラウル・ルーセル
(2)1415年に先王シャルル六世の従軍司祭を務めたジル・デシャン
(3)1428年にパリ大学の学長になった神学博士ピエール・モーリス
(4)1418年の包囲戦で黒衣をまとい、明るい顔つきでヘンリー五世の足元に都市(ルーアン)の生命と名誉を捧げた16人のうちの一人、ジャン・アレスペ

⚠️1418年の包囲戦:1418〜1419年のルーアン包囲戦(Siège de Rouen)のこと。1415年にヘンリー五世がノルマンディーの港湾都市アルフルールに上陸して英仏百年戦争が再開。フランス陣営はノルマンディー各所の防衛強化を図るが、税負担はアルマニャク派への反発を招き、結局1419年までにノルマンディーはモンサンミシェルを除いてイングランドの支配下になった。

(5)コンスタンツ公会議の使徒公証人で、ノルマンディー会計院の院長を務めるパスキエ・ド・ヴォー
(6)空位となっているルーアン司教への立候補を、有力な派閥に支持されていたニコラ・ド・ヴァンデール
(7)そして最後に、ニコラ・ロワズルール

 同じ目的で、ボーヴェ司教はノルマンディーの主要な大修道院の院長(abbot)を召喚した。

(1)モン・サンミシェル・オー・ペリル・ド・ラ・メール修道院長
(2)フェカン修道院長
(3)ジュミエージュ修道院長
(4)プレオー修道院長
(5)モルテメール修道院長
(6)サンジョルジュ・ド・ボシュヴィル修道院長
(7)ラ・トリニテ・デュ・モン・サンカトリーヌ修道院長
(8)サントゥアン修道院長
(9)ベック修道院長
(10)コルメイユ修道院長

 それから、ルーアン、サンロー、ルーアン、シジー、ロングヴィル、コンピエーニュのサンコルネイユの各修道院の院長(prior)も。

⚠️修道院長(abbot/prior)の階級の違い:どちらも修道院長と訳されるが、前者の方が格上。abbotは大修道院の長、priorは大修道院の副長または小修道院の長。

 ボーヴェ司教は、12人の教会弁護士を召喚し、同様にパリ大学の著名な博士や教授にも呼びかけた。

(1)1412年の学長ジャン・ボーペール
(2)1427年の学長トマ・フィエヴェ
(3)ギヨーム・エラール
(4)ニコラ・ミディ[569]
(5)知識と謙虚さにあふれ、当時のキリスト教界で最も輝いていた若き博士トマ・ド・クールセル[570]

**

 ボーヴェ司教は、ジャンヌを裁く法廷を事実上のシノド(Synod、教会会議)に変えようと躍起になっていた。それはまさしく彼女を裁くための地方公会議である。

 さらにいえば、事実上、裁きを受けるのはジャンヌ・ラ・ピュセルだけでなく、シャルル六世の正当な後継者でみずからをフランス王と称するシャルル・ド・ヴァロワなのだ。

 だからこそ、これほど多くの杖とミトラ(司教冠)をかぶった修道院長、および多数の著名な博士や教授が集められたのである。

***

 しかしながら、教会には他にも輝かしい光明がいたのに、ボーヴェ司教に呼ばれなかった者もいる。

 ボーヴェ司教は、クータンス司教とリジュー司教の2人に意見を求めたが、アヴランシュ司教ジャン・ド・サンタヴィには意見を求めなかった。彼はノルマンディー地方で最年長の司教だったにもかかわらずだ。

 ルーアン司教座が空位の間、聖堂参事会はアヴランシュ司教に教区全体の叙階の任務を委ねていた。だが、アヴランシュ司教ジャン・ド・サンタヴィはシャルル王を支持していると見なされており、実際その通りだった。[571]

 一方、(前回10.11で触れた)ジャン・セギュエの裁判で意見を求められたルーアン在住のイングランド人博士や教授たちは、ジャンヌの裁判では意見を求められなかった。[572]

 パリ大学の博士や教授たち、ノルマンディーの修道院長たち、ルーアンの聖堂参事会はトロワ条約を固く支持していた。
 彼らは、乙女(ジャンヌ)と王太子シャルルに対して、イングランドの聖職者と同じくらい偏見を持っており、(誰を支持しているのか)明らかだった。すべてが都合の良いように進められた。[573]

10.12 情報収集(1)不利な証言を集める

 1月9日火曜日、ボーヴェ司教は以下の評議員8人を自宅に呼んだ。

 フェカンの修道院長(abbot)
 ジュミエージュの修道院長(abbot)
 ロングヴィルの修道院長(prior)
 聖堂参事会員のルーセル
 同、ヴァンデレス
 同、バルビエ
 同、コペケヌ
 同、ロワズルール

「この女の訴追を始める前に」とボーヴェ司教は彼らに言った。

「人間の法と神の法(法学と神学)に精通した学識者たちと十分に時間をかけて協議することが賢明だと判断した。神の恵みにより、このルーアンの町にはそのような人が大勢いる」

 博士や教授たちの意見は、「この女に公然と帰せられている行為や発言について情報を収集すべきだ」というものだった。

 司教は、すでに彼の命令で特定の情報が得られており、さらに多くの情報を収集するよう命じたこと、最終的にそれらの情報を評議会に提出することを決定したと彼らに伝えた。[574]

 シャンパーニュ地方アンデロの公証人(tabellion)[575]ニコラ・バイイは、イングランド王ヘンリー六世のショーモン代官(Bailie)を務めるジャン・ド・トルスネに徴用されてドンレミに行き、アンデロの司祭(provost)ジェラール・プティや多くの托鉢修道士とともに、ジャンヌの生活と評判について調査を行った。

 尋問官たちは12人から15人の証人から話を聞いたが、その中にはグルー村のジャン・アヌカン[576]や、彼らが宿泊したジャン・ベゴ[577]もいた。

 ニコラ・バイイ自身の証言から、彼らはジャンヌに不利な事実をひとつも集められなかったことがわかっている。

 そして、ルーアン市民のジャン・モローの証言を信じるならば、ニコラは調査結果をボーヴェ司教に報告したところ、悪人であり裏切り者とみなされて、かかった費用や仕事の報酬を得られなかった。[578]

 これはあり得る話だが、奇妙に思える。
 しかしながら、ヴォークルールでもドンレミでも、近隣の村々でも、ジャンヌに不利な事実がひとつもなかったというのは、決して真実ではない。

 それどころか、住民全般が悪習に染まり、特にジャンヌは妖精と交わり[579]、マンドレイクを胸に抱き、両親に逆らった[580]という告発が多数集められた。

 ロレーヌやパリだけでなく、シャルル王に忠誠を誓う地方、ラニー、ボーヴェ、ランス、さらには遠方からはトゥーレーヌやベリーからも豊富な情報が寄せられた。[581] その情報は、異端者10人と魔女20人を火刑に処すには十分だった。

 失われたカップと手袋の発見、不道徳な司祭の暴露、聖カタリナの剣、赤子の蘇生など、司祭たちを恐怖で満たすような悪魔的行為が次々と発見された。

 また、教皇に関する軽率な手紙の報告や、その他にも魔術、異端、宗教的誤りを示唆する証拠が多数あった。[582]

 これらの情報は、裁判の記録には含まれないことになっていた。[583]
 異端審問所では、証拠や証人の名前を秘密にするのが慣例だった。[584]

 この場合、ボーヴェ司教は、証言者の安全を理由に言い逃れすることも可能だ。王太子シャルルの支配下にある地域で収集された情報を公開すれば、証言者に危険がおよぶ可能性があるからだ。たとえ氏名が伏せられていたとしても、証言の内容によって身元が特定されるだろう。

 裁判の目的上、獄中にいるジャンヌ自身の会話が最良の情報源だった。
 彼女は多くを語り、慎重さから当然控えるような遠慮はまったくなかった。

10.13 情報収集(2)ジャンヌ本人から聞き出す策略

 名前は不明だが、ある画家がジャンヌがいる塔に会いに来た。
 画家はまるでジャンヌの紋章を描きたいかのように、彼女がどんな紋章を帯びているかを衛兵の前で大声で尋ねた。

 当時の肖像画は、非常に身分の高い人物を除いて、生身の姿から描かれることはほとんどなく、一般的にはひざまずき両手を組んで祈る姿で表現された。
 (芸術活動が盛んだった)フランドルやブルゴーニュでは信仰心を示すシンボルのない肖像画がいくつかあったが、非常に稀だった。

 肖像画は、神(イエス・キリスト)、聖母マリア、または何らかの聖人に祈る人物を連想させるものだった。

 したがって、「乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の絵を描く」というアイデアが教会の裁判官に知られたら厳しく非難されたはずだ。
 なぜなら、アルマニャック派の人たちがよくやっていたように、画家の誰かがこの破門された女(ジャンヌ)を教会に列聖された聖人の姿で描くのではないかと、彼らは恐れていたからだ。

 この出来事を注意深く考察すると、この男は画家ではなくスパイだったのではないかと思えてくる。

 ジャンヌは、国王が彼女の兄弟たちに与えた紋章について彼に語った。それは、二つの金のフルール・ド・リスの間に剣を挿した青い盾の図柄だ。

 その後の裁判で、ジャンヌが紋章を描かせたことが議題にのぼり、虚飾に満ちた虚栄心の表れだと非難された。このことを考えると、この疑い(画家=スパイ説)は濃厚となる。[585]

ジャンヌの紋章

 様々な聖職者たちが牢獄に送り込まれ、自分がシャルル・ド・ヴァロワ派の兵士だとジャンヌに信じ込ませようとした。[586]

 ジャンヌを欺くため、この裁判の「検事(promoter)」ジャン・デスティヴェ自身までもが貧しい囚人に変装した。[587]

 中でも、評議員・陪審員として召喚されたルーアンの聖堂参事会員(世俗の聖職者)ニコラ・ロワズルールは、ジャンヌの異端を暴くための策略に特に長けていたようだ。シャルトル出身の彼は、教養の達人だっただけでなく、抜け目のなさでも非常に有名だった。

 1427年と1428年には困難な交渉を成し遂げるためにパリに何カ月もとどまった。(ジャンヌが捕縛された)1430年には、聖堂参事会から派遣された代表団の一人として、ウィンチェスター枢機卿のもとを訪れてヘンリー王に謁見し、ルーアンの教会を推薦した。

 したがって、ニコラ・ロワズルールはイングランドの大評議会にとって《《好ましい人物》》だった。[588]

 ボーヴェ司教とウォリック伯と共謀し、彼は世俗の人(平信徒)のような短い上着(プールポワン)を着て、ジャンヌの牢獄に入った。

 見張りの衛兵は退室するよう指示されていた。囚人と二人きりになったロワズルールは、自分もジャンヌと同じロレーヌ辺境の出身で、職業は靴職人であること、フランス陣営を支持していたが、イングランド軍に捕らわれ捕虜になったと打ち明けた。

 彼は「シャルル王からの知らせ」と称して、彼自身が想像ででっち上げた話を彼女に伝えた。ジャンヌにとって、国王ほど大切な人はいなかった。

 こうしてジャンヌの信頼を勝ち得た偽物の靴職人は、彼女を訪ねてくる天使や聖人について様々な質問をした。ジャンヌは友人同士、なじみの同郷人同士のように親身になって答えた。ロワズルールはジャンヌに助言を与え、「聖職者たちのすべてを信じないように、彼らの要求をすべて聞かないように」と忠告した。

「なぜなら」と彼は言った。
「もし彼らを信じるなら、あなたは滅ぼされるだろう」

10.14 情報収集(3)ロワズルールの変装とジャンヌの無知

 ニコラ・ロワズルールは「ロレーヌの靴職人」を何度も演じたと伝わっている。ジャンヌの発言をすべて書記に書き取らせ、異端審問で使用するメモを作成して、貴重な情報源を提供した。

 ロワズルール訪問の際には、牢獄の隣室の覗き穴に書記が配置されていたようだ。[589]

 町に広まっていた噂を信じるならば、ニコラ・ロワズルールは聖カタリナに変装し、彼が聞き出したいことすべてをジャンヌに言わせたという。

 彼は変装による工作活動を誇っていなかったかもしれないが、少なくとも自分がやっていることを秘密にしなかった。[590] 多くの著名な教授たちは彼を認めたが、中には非難する者もいた。[591]

 「学校の天使」トマ・ド・クールセルは、ロワズルールが変装について話したとき、それをやめるよう忠告した。

 のちに、書記たちは、「このように巧妙に仕組まれた会話を隠れて盗み聞きするのは非常に不快だった」と《《装った》》(本心はわからないが表向きはそう証言した)。

 トマ・ド・クールセルのような模範的な学者が、その最も厳粛な形式の裁判を批判した時点で、異端審問の黄金時代はすでに終わっていたのかもしれない。教会の公証人2人が、最も一般的な手順を回避しようと考えている時点で、異端審問の手続きは確実に時代遅れになっていた。

 兵士に変装した聖職者たちも、哀れな囚人に変装した検事(promoter)も、インノケンティウス三世によって制定された司法制度のもっとも標準的な調査手順を実行していたにすぎない。

 仮に、靴職人と聖カタリナを演じることで、罪人(ジャンヌ)の破滅ではなく救済を求めていたのなら。世間の評判とは異なり、ジャンヌを教会に反抗するよう駆り立てるのではなく服従させようとしていたのなら。
 ようするに、ジャンヌの現世的・霊的な利益のために彼女を欺いていたのだとしたら、ニコラ・ロワズルールに悪意はなく、ただ決められた規則に従って行動していたことになる。

 実際、『異端に関する論文(Tractatus de Hæresi)』には次のように記されている。

「異端者には、時折、信仰と機転に富んだ人物2人が近づき、慎重に、そして相手を憐れむように『自分の過ちを認めて死から逃れるように』と警告し、『そうすれば火による死を免れる』と約束するべきだ。それ以外の者は、誰も近づいてはならない。なぜなら、死への恐怖と生への希望は、他の方法では動かすことのできない心を和らげる可能性があるからだ」[592]

 書記の義務については、次のように定められている。

「異端者の打ち明け話(秘密)を暴き、彼らの言葉を盗み聞くために、適切な場所に特定の人物を配置するように」[593]

 このような手続きを定め、許可したボーヴェ司教については、使徒聖パウロが『コリントの信徒への手紙』で語った言葉の中に、その正当性と承認を見出せる。

「わたしがあなたに重荷を負わせなかったとしても、人はわたしのことを、ずる賢く、だましてあなたを捕らえたのだと言う」
(新約聖書『コリントの信徒への手紙二』十二章16節)[594]

 その間、ジャンヌは検事(Promoter)ジャン・デスティヴェが聖職者の服を着ているのを見ても、彼だと分からなかった。

 ニコラ・ロワズルールもまた、しばしば修道士の服装で彼女のもとを訪れた。
 この姿でジャンヌに大きな信頼を抱かせ、彼女は彼に熱心に告白し、その他に告解師(懺悔聴聞司祭)はいなかった。[595]

 ジャンヌはロワズルールをある時は靴職人として、ある時は聖カタリナとして、さらにある時は聖職者として認識し、同一人物だとまったく気づかなかった。

 このことから、ジャンヌがいくつかの点で信じられないほど《《単純》》(simple)だったと確信せざるを得ない。そして、これらの偉大な神学者たちは、ジャンヌを欺くのは簡単だと気付いていたに違いない。

⚠️単純(simple):ジャンヌを表す言葉・証言として頻繁に登場するが、古い言い回しだとやや現代と意味が違うようで、「頭が弱い、人の言うことを何でも信じるお人好し、おめでたい愚か者」といったニュアンスが含まれる。文脈的にたぶんこっちが正しい。

⚠️さらに補足:現代風に考えると、知的障害までいかないが知能の凸凹が激しい発達障害のように思える。

10.15 情報収集(4)処女検査を覗き見した公爵

 科学と神学と人文学に通じたすべての人々にとって、「敵(悪魔)は乙女と取引する際、必ず処女を奪う」ことは周知の事実だった。[596]

 以前、ポワティエの審理でフランスの聖職者たちはこのことを念頭に置き、(シャルル七世の義母)ヨランド・ダラゴンがジャンヌは処女であると保証したため、彼女が悪魔に遣わされたのではないかと恐れるのをやめた。[597]

 ボーヴェ司教ピエール・コーションは、異なる期待を抱きながら同様の検査を待っていた。

 ベッドフォード公爵夫人がみずからジャンヌがいる牢獄を訪れた。彼女はアンナ・バヴォン夫人ともう一人の女性の助けを受けて、ジャンヌを検査した。

 その間、イングランド摂政ベッドフォード公は隣の部屋に隠れて、壁の穴から処女検査の様子を覗き見していたと言われている。[598]

 この話は確実ではないが、あり得ないことではない。ジャンヌがルーアンに連れてこられてから2週間後、摂政は確かにそこにいたのだから。[599]

 覗き趣味の告発に根拠があるのか、あるいは正当な行為といえるかはともかく、ベッドフォード公はこの好奇心について厳しく非難された。もし同じ立場なら同様の好奇心を抱く男が多数だとしても、それは各自が判断することであり、覗き見したことを擁護する言い訳にならない。

 しかし、ベッドフォード公がジャンヌを魔女だと信じていたことを心に留めておく必要がある。当時は魔女に対して、貴婦人にふさわしい態度で接する習慣がなかった。

 また、これ(ジャンヌの件)は古き良きイングランドにとって非常に重要な問題であり、ベッドフォード公は心身ともに祖国を愛していたことも忘れてはならない。

 シチリア女王(ヨランド・ダラゴン)のときと同様に、ベッドフォード公夫人の検査の結果、ジャンヌは処女であると判明した。女性たちは処女性を示すさまざまな兆候を知っていたが、私たちにとってより確かな証拠はジャンヌ自身の言葉である。

 なぜ、みずからを「乙女(ラ・ピュセル)」と呼ぶのか、本当に処女なのかと問われたとき、ジャンヌは「私はそういう人間だと言えます」と答えた。[600]

 私たちが知る限り、裁判官たちはこの好ましい検査結果をまったく重視しなかった。

 彼らは賢王ソロモンのように「このような問題ではあらゆる調査が無駄である」と信じ、女性たちの診断を次の格言に基づいて拒否したのだろうか?

「処女性を証明することは、それを守ることと同じくらい難しい」

 いや、彼らはジャンヌが確実に処女であることをよく知っていたはずだ。
 なぜなら、彼らは異端審問で反対(ジャンヌは非処女)の主張をしなかった。その事実が、ジャンヌが処女であることを暗黙のうちに認めているのだ。[601]

 それにもかかわらず、彼らがジャンヌを魔女だと信じ続けたのは、「彼女が悪魔に身を捧げたとき、悪魔が彼女を処女のまま放ったらかしたせいだ」とでも想像したに違いない。

 悪魔の道徳は、もっとも博識な学者が絶望するほど矛盾だらけで、日々新たな矛盾が発見されていた。

10.16 新たな問題、もうひとりの裁判長の不在

 1月13日土曜日、フェカン修道院長、博士と教授たち、ニコラ・ド・ヴァンデレス、ギヨーム・エイトン、ニコラ・コペッケヌ、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ、ニコラ・ロワズルールが司教の家に集まった。

 そこで、ロレーヌ地方やその他の場所で収集された乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)に関する情報が読み上げられた。これらの情報に基づき、しかるべき形式でいくつかの条項を作成することが決まり、実際に作成された。[602]

 1月23日火曜日、上記の博士と教授たちは、これらの条項の内容を検討し、十分であると判断されたため、尋問に使用することが決定した。ボーヴェ司教はジャンヌの言動について予備調査をするよう命じるべきだと決議した。[603]

 2月13日火曜日、下記の役人たちはそれぞれの職務を忠実に遂行する宣誓を行った。

検事(Promoter)ジャン・デスティヴェ(通称ベネディシテ)
判事(Commissioner)ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ
書記(Registrars)ギヨーム・コレス(ボワギヨーム)とギヨーム・マンション
執行吏(usher)ジャン・マシュー

 その後すぐ、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌは、書記2人の助けを借りて予備調査に着手した。[604]

 2月19日月曜日の午前8時、博士と教授たち11人がボーヴェ司教の家に集まり、そこで条項の朗読と予備情報の報告を聞いた。

 彼らはそれについて意見を述べ、司教はこの意見に従って、「乙女(ラ・ピュセル)と呼ばれる女を召喚し、信仰の問題に関する罪で告発するのに十分な根拠がある」と決定した。[605]

 しかし、ここで新たな問題が生じた。

 このような裁判では、被告人はすみやかに管轄教区の司教と異端検察官の前に出廷しなければならない。裁判の有効性のためには、この裁判長2人が同席している必要がある。

 ところが、このとき、フランス王国の異端検察官の長である修道士ジャン・グラヴランはサンルーにいて、同市の住民ジャン・ル・クーヴルールという人物を宗教上の罪で起訴していた。[606]

 修道士ジャン・グラヴランが不在のため、ボーヴェ司教はルーアン教区の異端検察官の副官に、自分と共同でジャンヌを起訴するよう要請した。

 しかし、副官は状況を理解していないようで何の返答も寄越さず、司教は訴訟を抱えたまま困惑していた。

 この異端検察官副官は、ルーアンのドミニコ会修道院長で神学士のジャン・ル・メートルのことで、非常に慎重で良心的な修道士だった。[607]

 1413年2月19日の午後4時、彼はようやく執行吏の召喚に応じ、ボーヴェ司教の家に現れた。

 彼は、自分にその権利があるならば介入する用意があると宣言したが、その権利があるかどうかを疑っていた。介入をためらう理由として、彼は自分がルーアンの異端検察官だからだと主張した。

 現在、ボーヴェ司教は「ボーヴェ教区の司教」として管轄権を行使しているが、それは「借り物の領土(borrowed territory)」においてである。

⚠️借り物の領土(borrowed territory):領土譲歩(concession of territory)の件を指している。ある権力者が、管轄外の地域で力を行使するために、その地域の管轄権を持つ機関から権限を譲り受けること。
今回、ボーヴェ司教がルーアンで異端審問できるよう仕向けたいきさつは『10.9 ボーヴェ司教の準備(1)裁判権を獲得するための根回し』参照。

 したがって、司教と並んで裁判長の席に座るのは、ルーアンの異端検察官ではなく、ボーヴェの異端検察官であるべきではないのか?[608]

 彼は、フランスの異端検察官の長に、ボーヴェ教区で有効となる許可を求めることを宣言した。その間、彼は自身の良心を満足させ、手続きの失効を防ぐために行動することに同意した。聖なる異端審問所の同意なしに裁判が開始された場合、すべてが失効すると誰もが考えていたからだ。[609]

 これですべての予備的な問題は解消された。
 ジャンヌは1431年2月21日の水曜日[610]に出廷するよう召喚された。

⚠️ジャン・ル・メートルについて補足:のちの復権裁判で、法廷執行吏ジャン・マシューがルメートルについて証言している。
「ジャンヌの裁判でボーヴェ司教と並ぶ責任者に指名されたとき、彼は何度か辞退しようと試み、またできるだけ出廷しないように努めたが、知人たちから参加しないと彼自身が死の危険に瀕すると言われた。彼はイングランドの圧力で勤めを果たすことになったが、何度か『この仕事でイングランド人の意志に従って行動しなかったら、死の危険がある』と言ったのを私は聞いている」
この証言から推測すると、文中の「副官は状況を理解していないようで何の返答も寄越さず」は、むしろ状況を理解した上で開廷できないよう抵抗していたのでは?と考えられる。

10.17 異端審問、開廷(1)魔女に与える鉄槌

 その日(1431年2月21日の水曜日)午前8時、ボーヴェ司教、異端審問官(判事)代理、そして41人の評議員と陪審員が城の礼拝堂に集まった。そのうち15人は神学博士、5人は民法と教会法の博士、6人は神学学士、11人は教会法学士、4人は民法学士を取得していた。

 司教は裁判長として席に着いた。

 その傍らには評議員と陪審員が並んでおり、一方は聖職者の厳粛さをあらわす立派な司祭のキャムレット(camlet、ラクダまたはヤギの毛から作った織物)を、もう一方は福音の柔和さをあらわす托鉢修道士の粗末な布の服を身につけていた。ある者は鋭く睨みつけ、またある者は目を伏せていた。

 (もうひとりの裁判長)信仰の異端検察官副官であるジャン・ル・メートル修道士は、清貧と従順をあらわす白と黒の制服に身を包み、沈黙してその中にいた。[611]

 被告人を連れてくる前に、法廷執行吏は司教に、召喚状を渡されたジャンヌが「出廷する意思はあるが、イングランド方の聖職者と同数のフランス方の聖職者を加えるよう要求している」と伝えた。

 彼女はまた、ミサを聞く許可も求めた。[612]
 司教は両方の要求を拒否した。[613]

 ジャンヌは男装し、足かせをはめられた状態で連れてこられ、書記のテーブルに座らされた。

 そして今、異端審問の最初から、これらの神学者とこの乙女は、互いに恐怖と憎悪の念を抱いて睨み合った。

 ジャンヌは、自由奔放な女性でさえ敢えて破ろうとしない「女性の慣習」に反して、茶髪を耳の上で短く切りそろえて露出していた。年配の聖職者たちの後ろに座っていた若い修道士たちの中には、初めて女性の髪を見た者もいただろう。
 また、ジャンヌは若者のようにショース(脚部全体を股まで覆うぴったりしたズボン)を履いていた。

 彼らにとって、ジャンヌの服装は不謹慎で忌まわしいものに見えた。[614]

 ジャンヌは彼らを苛立たせ、怒らせた。
 ボーヴェ司教が、フードとガウンを着るよう強く求めて出廷させていたら、ジャンヌに対する怒りはこれほど激しくなかっただろう。

 この男装は、彼らの心に、自らを王と称する王太子シャルルの陣営でジャンヌがやったとされる数々の行為を思い出させた。

 彼女は魔法の杖の一振りで、イングランド軍の兵士たちの力をすべて奪い、それによって、これから彼女を裁く聖職者たちの大多数にも深い傷を与えた。ジャンヌに奪われた聖職禄のことを考えている者もいれば、パリ大学の博士や教授たちの中には、彼女が火と剣でパリを破壊しようとしたことを思い出した者もいた。[615]

 また、司祭や修道院長の中には、遠く離れたノルマンディーでさえ、彼女が自分たちの心に恐怖心を抱かせたことを許せない者もいただろう。

 彼女が魔術、占い、悪魔の召喚によってフランス教会の大部分におよぼした大混乱を、彼らは許すことができるだろうか?

 神学者ヤーコプ・シュプレンガーは「魔法の実在を否定する者は、非常に無知に違いない」と言った。

⚠️ヤーコプ・シュプレンガー(Jacob Sprenger):15世紀に書かれた魔女に関する論文『魔女に与える鉄槌』の共著者……と長年思われてきたが、序文で名前が登場するだけで無関係。論文の箔付けのために勝手に名前が使われるほど、シュプレンガーには名声があった。
なお、本物の著者ハインリヒ・クラーマーは教会の異端審問部から弾劾され、ケルン大学神学部から承認を取り消されるなど著者自身が異端(詐欺師)なのだが、それにもかかわらず同書は魔女狩りのハンドブックとして広く読まれ、ヨーロッパ各地で悲劇をもたらした。

 彼らは非常に《《博学》》だったので、他の人々が絶対に疑わないようなところに魔術師や魔法使いを見出した。悪魔が人間や物事におよぼす力を疑うことは、異端で不敬虔なだけでなく、自然と社会の秩序全体を覆すことになる、と彼らは考えていた。

 城の礼拝堂に座っているこれらの博士たちは、それぞれ10人、20人、50人の魔女を火刑に処した経歴があり、全員が罪を告白していた。そんな彼らが、いまさら魔女の存在を疑うことは狂気の沙汰ではないだろうか?(今さら魔女の存在を疑うことはあり得ない)

 ひょうを降らせ嵐を引き起こし、人間や動物に呪いをかけることができる存在が、何の抵抗もせずに捕らえられ、裁かれ、拷問され、火刑に処されるのを甘んじて受け入れるというのは奇妙に思える。しかし、それは常に起こっていたことで、教会の裁判官たちは全員、それを観察していたはずだ。

 非常に学識のある人々は、その理由について「魔法使いや魔女は、聖職者の手に落ちるとすぐに力を失う」と説明した。当時はこの程度の説明で十分だった。

 不運な乙女(ラ・ピュセル)も、他の者たちと同じように力を失ってしまったのだ。

 彼らはもはやジャンヌを恐れていなかった。

10.18 異端審問、開廷(2)恐れを知らない乙女の怒り

 少なくともジャンヌは、彼らが彼女を憎むのと同じくらい激しく彼らを憎んでいた。

 無学な聖人、ようするに「霊感インスピレーションが豊かで、率直で気まぐれで情熱的な人」が、知識で膨れ上がり、スコラ哲学で凝り固まった神学者たちに反感を抱くのは自然なことだった。

 少し前、フランスに従うポワティエの聖職者たちが、ジャンヌに悪意を持たず、それほど彼女を困らせなかった時でさえ反感を抱いていた。

 ならば今、ルーアンの聖職者たちが、ジャンヌにどれほど強烈な嫌悪感を抱かせているかは容易に想像できる。

 ジャンヌは、彼らが自分の死を企んでいることを知っていた。
 しかし、彼らを恐れていなかった。聖人や天使たちが約束を果たし、ジャンヌを救いに来てくれると確信してその日を待っていた。

 いつ、どのように救いが訪れるのか知らなかったが、それが必ず来ることを一度も疑わなかった。それを疑うことは、聖ミカエル、聖カタリナ、さらには神をも疑うことになり、彼女の「声」が悪意であると信じることになってしまう。

 彼らはジャンヌに「何も恐れるな」と言い、それゆえに彼女は何も恐れていなかった。[616]

 恐れを知らない単純さ。

 もしジャンヌ自身の心からでなければ、ジャンヌの「声」に対する自信はどこから来たのだろうか?

 ボーヴェ司教はジャンヌに、「定められた様式に従い、両手を聖なる福音書(聖書)に置いて、聞かれることすべてに誠実に答えると宣誓するように」と要求した。

 ジャンヌにはできなかった。彼女の「声」が、これまで豊かに与えられた啓示について誰かに話すことを禁じていたのだ。

「あなたが私に何を聞きたいのか分かりません。もしかしたら、私が話したくないことを聞かれるかもしれません」

 司教が「真実をすべて語ると誓うように」と強く求めたとき、

「父と母のこと、私がフランスに来てからしたことについては、喜んで誓います」と彼女は言った。

「ですが、神が私に与えた啓示については、シャルル王を除いて、誰にも話したり伝えたことはありません。たとえそのために首を失うことになっても、私は啓示については何も明かしません」

 それから、時間を稼ぎたかったのか、あるいはジャンヌの《《評議会》》から新たな指示が出ることを期待していたのか、「それらのことを明かしてよいかどうか、一週間後にわかるでしょう」と付け加えた。

 最終的に、ジャンヌは定められた様式に従って両手を聖書に置き、ひざまずいて宣誓した。[617]

 それから、自分の名前、出身地、両親、洗礼、代父と代母(名付け親)について答えた。そして、「自分の知る限りでは19歳くらい」だと言った。[618]

 教育について質問されると、こう答えた。

「母から、主の祈りパテルノステル(Paternoster)と、アヴェ・マリアと、使徒信条クレド(Credo)を学びました」

 しかし、『主の祈り』を唱えるよう求められると、「告解(懺悔)の時しか唱えません」と言って拒否した。これは、司教だけに自分の告解を聞いてほしかったからだ。[619]

 会議は激しく動揺し、全員が一斉に発言した。
 ジャンヌはその柔らかな声で、博士たちを驚かせた(scandalised)。

⚠️驚かせた(scandalised):異端審問のシーンでよく「驚かせた」と訳される。ジャンヌの信心深い発言について「好意的な驚き、感心させた」と解釈しそうになるが、原文の言葉のニュアンスは「不道徳な人に驚く、呆れる、嫌悪感を起こす、ショックを受ける」なので、好意的な意味はまったく含まれていない。

 ボーヴェ司教は、「異端の罪で有罪となる恐れがある」と警告して、ジャンヌに牢獄から出ることを禁じた。

 だが、ジャンヌはこの禁止命令に従うことを拒否した。

「もし私が逃げたとしても、誰も私に約束を破ったと責めることはできないでしょう。なぜなら、私は誰にも約束したことがないからです」

 次に、ジャンヌは自分の鎖について不満を述べた。
 司教が「逃亡を企てたせいだ」と告げると、彼女は同意した。

「逃げたかったのは事実です。他のすべての囚人と同じように、今も逃げ出したいと思っています」[620]

 裁判官が「牢獄から逃亡すれば異端者として処罰されるだろう」と言ったことをジャンヌが正しく理解していたなら、この告白は非常に大胆だった。

 教会の牢獄からの逃亡は、教会に対する罪を犯すことであり、それは犯罪であると同時に愚行でもある。教会の牢獄は矯正施設であり、「有益な償いを拒否する囚人」は罪深いだけでなく「治癒を拒否する病人」のように愚かである。

 しかし、厳密に言えば、ジャンヌは教会の牢獄にいたのではなく、ルーアン城にいるイングランド軍に捕らわれた捕虜だった。

 もし逃亡した場合、ジャンヌは破門されて、宗教の敵に科せられるような霊的・世俗的な罰を受けることになるのか? そこに難しい問題があった。

 ボーヴェ司教は、手の込んだ法的な虚構によってすぐにこの難題を取り除いた。

 ジョン・グレイ、ジョン・バーウォイスト、ウィリアム・タルボットというイングランドの重騎兵3人が、国王の命令でジャンヌの看守に任命された。

 司教は、教会裁判官として彼らに直接任務をゆだね、「乙女(ラ・ピュセル)を拘束し、監禁する」ことを命じて聖書に誓わせた。[621]

 こうしてジャンヌは、我らが聖母教会の囚人となった。もしこの束縛を断ち切れば、異端に陥ることは避けられない。

 第2回公判は翌日、2月22日に予定された。[622]


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