教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・付録 医学的な所見/近世と近代のフランス王に謁見した預言者たち/ジャンヌの肖像および図像学
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アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』完訳プロジェクト。原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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付録(1)G・デュマ博士による医学的な所見
親愛なる先生——
あなたはジャンヌ・ダルクの症例について、私の医学的見解を求められました。
もし私が、ルーアンの法廷に召喚されたティフェーヌ医師やドラシャンブル医師と共に、充分な余裕を持って(精緻に)彼女を診察できていたとしても、明確な結論を下すことは難しかったかもしれません。
ましてや、神経疾患の存在を見出そうなどとは夢にも思わなかった人々による調査に基づき、必然的に遡及的な診断を行わなければならない現在においては、それはなおさら困難なことです。
しかしながら、彼らは今日私たちが病気と呼ぶものを悪魔のしわざと見なしていたのですから、彼らがした質問は私たちにとっても決して無意味ではありません。
それゆえ、多くの留保を伴うことにはなりますが、あなたの質問にお答えするよう努めたいと思います。
*
ジャンヌの遺伝的体質については何も分かっておらず、彼女の個人的な既往歴についても、私たちはほぼ完全に無知です。
こうした事柄に関する唯一の情報源は、ジャン・ドーロンによるもので、彼は複数の女性たちの証言に基づき、「ジャンヌの身体的な成熟が不十分(無月経)だった」と述べていますが[1152]、これは神経症患者にしばしば見られる状態です。
⚠️「身体的な成熟が不十分」について補足:この所見では遠回しな言い方をしているが、記録によるとジャンヌは初潮が来なかった、つまり無月経症(amenorrhée)だった。本書が書かれた20世紀初頭の医学では、神経症の指標の一つとされていた
しかしながら、もしジャンヌの裁判官たち、とりわけジャン・ボーペール師がおこなった数多くの尋問の中で、彼女の幻覚に関するある重要な詳細を聞き出していなかったならば、私たちはジャンヌの神経的な体質に関していかなる結論にも達することはできなかったでしょう。
ボーペール師は、ジャンヌが初めて「声」を聞いた前日に断食していたかどうかを、非常に思慮深く尋ねることから始めています。
このことから、この著名な神学教授は、飢餓状態と幻覚状態の相互関係を認識していたと推測できます。
彼はジャンヌを魔女と断罪する前に、単に衰弱しているだけではないかを確かめたかったのです。
後年、聖テレサもまた、ある修道女が見たという幻覚は、単に長期間の断食の結果に過ぎないのではないかと疑っています。聖テレサがその修道女に食事を取るよう強く勧めたところ、幻覚は止まりました。
ジャンヌは、朝から断食していたと答え、ボーペールは続けてこう尋ねます。
問 「その『声』はどの方向から聞こえたか?」
答 「右側に、教会の方から聞こえました」
問「その『声』には光が伴っていたか?」
答 「光なしに『声』を聞くことは滅多にありませんでした。この光は『声』が聞こえた方向から生じていました」[1153]
「右側に(à droite)」という表現について、ジャンヌは《《自分の右側》》を指していたのか、それとも自分から見た《《教会の位置》》を指していたのか、疑問に思うかもしれません。
もし後者であれば、この情報は臨床医学的な意味を持ちませんが、文脈から判断すれば、彼女の言葉の真意について疑いの余地はありません。
「もしそれがあなたの右側にあるのなら」とジャン・ボーペールは問い詰めます。
「あなたに現れるというその光を、どうやって見ることができるのか?」
もしそれが単に「教会の位置」の問題であって、「ジャンヌ自身の右側」のことではなかったなら、彼女は顔を向けるだけで「正面から光を見る」ことができたはずで、ボーペールの異議は的外れ(臨床的な観点からはむしろ確定)なものとなっていたでしょう。
⚠️「臨床的な観点からはむしろ確定」について補足:中世の異端審問官の「理屈」は、近代医学の「症例」を知る上で有効な証言となった。
したがって、ジャンヌは13歳頃、すなわち彼女にはついに訪れなかった思春期の時期に、右側に「視覚および聴覚の片側性幻覚」を発症していたと推測できます。
今日、シャルコー[1154]は、視覚の片側性幻覚はヒステリーの症例において一般的であると考えていました。[1155]
⚠️ジャン=マルタン・シャルコー(Jean-Martin Charcot):19世紀フランスの神経科医。シャルコー・マリー・トゥース病(CMT、遺伝性末梢神経疾患)、シャルコー関節(神経病性関節症)、パーキンソン病(彼が命名)など、シャルコーにちなんで名付けられた医学用語や病名が今も健在。
シャルコーはさらに、ヒステリー患者において、それらの幻覚は身体の同じ側に位置する片側知覚麻痺と結びついていると考えており、ジャンヌの場合、それが右側にあったことになります。
もし裁判官たちが拷問を行っていたか、あるいは悪魔の刻印と呼ばれる無感覚の斑点を見つけるために彼女の皮膚を検査していれば、ジャンヌの裁判は、ヒステリーの診断において極めて重要な症状であるこの片側知覚麻痺の存在を証明していたかもしれません。[1156]
しかし、行われたのは口頭尋問のみだったため、私たちはジャンヌの全身的な身体状態について推測することしかできません。
もっとも、このような推論を過度に重要視すべきではありませんので、付け加えておきますが、今日の神経科医たちはヒステリーの診断において、シャルコーほどには視覚の片側性幻覚に注目していません。
裁判中の尋問で明らかになったジャンヌの幻覚のその他の特徴も、これらに劣らず興味深いものですが、それらもまた、より確実な結論を導き出すものではありません。
患者の外部要因に帰するそれらの幻視や幻聴は、ヒステリー性幻覚の大きな特徴であり、潜在意識下の自己から突如として生じるものです。
ジャンヌの意識的な自己は、彼女の『声』を受け入れる準備が全くできていなかったため、初めてそれを聞いたとき、彼女は非常に恐ろしかったと明言しています。
「私が13歳の時、神から正しい生活を送るようにと告げる声が聞こえました。初めて聞いた時はひどく恐怖を感じました。この声は、夏の真昼に近い時間に、父の庭で聞こえました」[1157]
そして、その声はすぐに命令的なものになります。
それは拒絶することのできない服従を要求するのです。
「声は私に『フランスへ行け』と言いました。そして私はもはやそこに留まることはできませんでした」[1158]
彼女の幻視はどれも同じ様態で生じます。
それらは全く同じように感覚に訴えかけ、ラ・ピュセルはそれを信じ込んで受け入れます。
最終的に、これらの聴覚(耳)および視覚(目)の幻覚は、すぐに嗅覚(鼻)や触覚(皮膚)の幻覚と結びつき、ジャンヌはそれらが現実であるという信念を深めていきます。
問「聖カタリナのどの部分に触れたか?」
答「それ以上は何も答えません」
問「聖カタリナと聖マルガリータにキスしたり、抱擁したりしたことがあるか?」
答「私は二人を抱きしめました」
問「抱きしめたとき、ぬくもりなど何か感じたか?」
答「感じたり触れたりしないで抱きしめることはできません」[1159]
このように感覚に訴えかけ、ある種の物質的な現実性を帯びているかのように感じられるため、ヒステリー性の幻覚は、それを体験した者に深く消しがたい印象を与えます。
当事者(患者)たちはそれらを、現実の、そして非常に衝撃的な事実として語ります。
彼女たちが告発者となる場合、例えば架空の暴行の被害者であると主張する多くの女性たちのように、彼女たちは自らの主張を極めて精力的に裏付けようとするのです。
ジャンヌは聖人たちを見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、触れたりするだけでなく、彼らが引き連れてくる天使たちの行列に加わりさえします。
彼女は彼らと共に実際の行動をとりますが、それはあたかも、彼女の人生と幻覚が完全に一体となっているかのようです。
「私がシノン城の近くの、ある善良な女性の家に宿泊していた時、天使がやって来ました。それから彼と私は一緒に王のもとへ行きました」
問「その天使は一人だったか?」
答「その天使はその他大勢の天使たちと一緒でした。[1160] 彼らはその天使と一緒にいましたが、誰もが彼らを見たわけではありません……。よく似た天使もいれば、そうでない天使もいました。少なくとも私にはそう見えました。翼のある天使もいました。冠をかぶっている天使もいました。聖カタリナと聖マルガリータも彼らと一緒にいました。前述の天使や他の天使たちと共に、彼らは王の部屋へまっすぐに入っていきました」
問「天使がどのようにしてあなたのもとを去ったか話しなさい」
答「彼は私を小さな礼拝堂に残して去りました。彼が去った時、私はとても悲しく、泣いてしまいました。彼と一緒に行きたかったのです。私の魂が行きたかったという意味です」[1161]
これらすべての幻覚には、中毒性幻覚に見られるのと同じ「客観的な明晰さ」と「主観的な確信」が存在します。この明晰さと確信こそが、ジャンヌのケースではヒステリーを示唆しているのかもしれません。
しかし、ジャンヌはヒステリー患者とある部分で似ているとしても、他の部分で異なっています。彼女は早くから、自らの幻視から独立し、それらに対する支配力を獲得していたように見受けられます。
ジャンヌはそれらの現実性を疑うことは決してありませんでしたが、それらに抵抗し、時には背くことさえありました。例えば、聖カタリナの言葉に逆らって、ボールヴォワールの牢獄から飛び降りた時のことです。
「聖カタリナはほぼ毎日、私に飛び降りてはいけない、神は私を助け、コンピエーニュの人々も救ってくれると言っていました。そこで私は聖カタリナに言いました。『神がコンピエーニュの人々を助けるなら、私は彼らと共にいたいのです』」[1162]
また別の機会には、彼女は自分の幻視に対して非常に強い権限を行使し、2人の聖人が現れないときには、自分の命令で彼らを呼び寄せることができるほどでした。
問「あなたはこれらの聖人たちを呼び出すのか、それとも呼ばなくても来るのか?」
答「呼ばなくても来ることがよくありますが、来ない時には、速やかに遣わしてくださるよう神に祈りました」[1163]
これらはすべて、ヒステリー患者のよくある症状とは異なります。彼らは通常、神経発作や幻覚に対していくぶん受動的です。
しかし、ジャンヌが幻視に対して支配力を持っている点は、私が多くの高等神秘家や名声を得た人々に見出した特徴でもあります。
この種の患者は、最初はヒステリーに受動的に従いますが、後にはそれに従うというよりは、むしろそれを利用するようになり、最終的にはそれを通じて、みずからが追い求める神との合一を恍惚のうちに達成するのです。
もしジャンヌがヒステリー症だったとしたら、こうした特徴は、彼女の人格形成や人生において、彼女の神経症的な側面がどのような役割を果たしたかを判断する助けとなるでしょう。
もし彼女の性質に何らかのヒステリー症的な傾向があったとすれば、それ(ヒステリー症的な傾向)によって、彼女の心の最も奥底にある感情が幻視や天上の声という形をとって現れたに違いありません。
彼女のヒステリーは、神聖なもの――あるいはジャンヌが神聖なものとみなしたもの――が彼女の人生に入り込むための開かれた扉となったのです。
それは彼女の信仰を強め、彼女の使命を神聖化しましたが、知性と意志において、ジャンヌは健全かつ正常であり続けました。
したがって、神経病理学はジャンヌの性質にわずかな光を当てることしかできません。それは、あなたの著書がその全体像を蘇らせたあの精神(スピリット)の、ほんの一部分を明らかにし得るに過ぎないのです。
私の敬愛の念を表しつつ、親愛なる先生へ。
ドクター・G・デュマ
⚠️ヒステリー症(hysteria, hysterical):20世紀の精神医学用語。現在の診断基準としては「転換性障害・解離性障害」に分類される。
付録(2)近世フランスの預言者:ルイ14世に謁見したサロンの蹄鉄工フランソワ・ミシェル
17世紀末ごろ、エクス近郊のサロン=アン=クローに、フランソワ・ミシェルという蹄鉄工が住んでいた。彼は堅実な家柄の出身で、自身もかつてはグリニャン騎士団の騎兵連隊に所属していた。分別があり、実直で敬虔な人物として通っていた。
1697年2月、40歳を目前にした頃、彼はある幻を見た。
ある晩、家に帰る途中で、手に松明を掲げた亡霊(spectre)が現れた。その亡霊は彼に言った。
「何も恐れるな。パリへ行き、国王に告げよ。もしこの命令に従わなければ、汝(tu)は死ぬだろう。ヴェルサイユまで1リーグ(約4キロ)手前まで来たら、陛下になんと申し上げるべきかを必ずや汝に知らせよう。汝の属する州知事(Gouverneur)のもとへ行け。旅に必要なものをすべて手配してくれるだろう」
⚠️汝(英:thou/仏:tu):17世紀に衰退し始め、18世紀にほぼ廃れた二人称代名詞。あなた(you)の古めかしい言い方で、日本語では「汝/そなた」と訳すことが多い。
彼にこう語りかけたのは女性の姿をしていた。
彼女は王冠を戴き、金のフルール・ド・リスを刺繍したマントを羽織っていたが、それはまるで14年前に聖なる死を遂げた亡き王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュのようだった。
哀れな蹄鉄工はひどく怖れおののいた。
夢か現(うつつ)か分からないまま、木の根元に倒れ込んだ。
その後、家に戻ったが、見たことについて誰にも話さなかった。
二日後、彼は同じ場所を通った。
そこでまた同じ亡霊が現れ、同じ命令と脅迫を繰り返した。
蹄鉄工はもはや自分が見たものが現実であることを疑えなくなったが、それでもまだ、どうすべきか決めかねていた。
3度目の幻影は、最初よりもさらに威圧的かつ執拗で、彼は従わざるを得なくなった。彼はエクス地方の知事のもとを訪れて面会し、国王に告げる使命を授かった経緯を話した。
知事は当初、彼の言葉にほとんど耳を傾けなかった。だが、幻視者の辛抱強い粘り強さは、知事に感銘を与えずにはいられなかった。しかも、国王自身がこの件に関わっている以上、完全に無視するわけにはいかなかった。
こうした事情から、知事はサロンの行政官(役人)たちにこの蹄鉄工の家族や暮らしぶりについて問い合わせた。調査結果はきわめて良好だった。そこで知事は、直ちに行動を起こすのが適切だと判断した。
当時は、最もキリスト教的な王(フランス王の伝統的な称号)にとって非常に有益な助言が、平凡な職人を介して「勝利の教会(天上の教会)」の何者かによってもたらされる可能性がないとは、誰にも断言できなかった。
ましてや、幻影の出現を隠れ蓑にして、国家の安泰に関わる何らかの陰謀が企てられる可能性など、なおさら否定できなかった。
いずれにせよ、といっても後者の可能性のほうが高かったのだが、サロンの蹄鉄工フランソワ・ミシェルをヴェルサイユへ送るのが賢明だろう。知事はそう結論づけた。
フランソワ・ミシェルの移送にあたり、知事は確実かつ費用のかからない方法をとった。新兵を連れてその方面へ向かう将校に、彼を託したのである。
彼の敬虔な振る舞いに感銘を受けたフランシスコ会士たちの教会で聖体拝領を済ませると、この蹄鉄工は2月25日、国王陛下の若い兵士たちと共に出発し、ラ・フェルテ=スー=ジュアールまで彼らと旅を共にした。
ヴェルサイユに到着すると、彼は「国王か、少なくとも国務大臣の一人に面会したい」と申し出た。彼はバルブジュー氏を訪ねるよう指示された。
バルブジュー氏は、まだ若いうちに父ルーヴォワ氏の跡を継ぎ、その職務で才覚を発揮していた人物だ。しかし、この善良な蹄鉄工は、相手が国務大臣ではないという理由で、彼には何も語ろうとしなかった。
実際、バルブジュー氏は大臣ではあったものの、国務大臣ではなかった。
だが、プロヴァンス出身の蹄鉄工がそのような区別をしたことは、少なからぬ驚きを呼んだ。
バルブジュー氏は、かのノストラダムスの同郷人であるこの蹄鉄工に対し、より広い心の持ち主であれば示したであろう軽蔑を示さなかったに違いない。
というのも、彼は父親と同じく占星術に熱中しており、自分の死期を予言したあるフランシスコ会の修道士に、よく自分の星回りについて尋ねていたからである。
バルブジューが国王にこの蹄鉄工について好意的な報告をしたのか、あるいは当時プロヴァンスの行政を統括していたポンポンヌ氏に招かれたのかは定かではないが、ルイ14世がその男と会うことに同意したのは確かである。
王は彼を大理石の中庭へ続く階段から上がらせた後、私室にて長時間にわたる謁見を許した。
翌日、狩猟に出かけるために国王が専用の階段を降りてくると、その日の近衛隊長を務めていたデュラス元帥に出会った。元帥はいつものように遠慮のない物言いで、世俗のことわざを引き合いに出しつつ、王にその蹄鉄工について話しかけた。
「あの男が狂っているのか、それとも王が高貴ではないのか」
この言葉を聞いて、王はいつもの習慣に反して足を止め、デュラス元帥の方を向いた。
「ならば、余は高貴ではないな」と王は言った。
「彼と長時間話したが、極めて分別のある話しぶりだった。断言するが、彼は決して狂人ではない」
王が発した最後の言葉は、あまりにも厳粛な重々しさを帯びていたので、その場に居合わせた者たちは驚愕した。
⚠️デュラス元帥(Marshal de Duras):デュラス公爵ジャック・アンリ・ド・デュルフォールのこと。コンデ公とともに反乱を起こしたにもかかわらず、ルイ14世から気に入られており、多かれ少なかれ好きなことを言うことができた。
神の啓示を受けたと主張する者は、その使命の何らかのしるしを示すことが求められる。
二度目の謁見で、サロンの蹄鉄工フランソワ・ミシェルは以前の約束を果たすために、国王にそのしるしを示した。
彼は、アンヌ・ドートリッシュの息子(ルイ14世)が自分ひとりしか知らないと信じていたある特別な事情について、国王に思い出させた。ルイ14世自身もそれを認めたが、それ以外のことについては、この謁見に関して深い沈黙を守った。
つねに宮廷のあらゆる噂を収集することに熱心だったサンシモンは、それが20年以上も前にサンジェルマンの森でルイ14世の前に現れた、ある幻影に関することだと信じた。
国王はサロンの蹄鉄工をみたび迎え、これが最後となった。
廷臣たちがこの幻視者に対してあまりにも強い好奇心を示したため、彼はレコレ修道院に隔離しなければならなくなった。そこへ、もうすぐブルゴーニュ公爵と結婚する予定だったサヴォワ家の若いプリンセスが、宮廷の貴族や貴婦人たちを何人か伴って、彼に会いにやって来た。
彼は口が重く、善良で、純朴かつ謙虚な様子だった。
王は彼に立派な馬と衣服、そして金銭を与えるよう命じ、プロヴァンスへ送り返した。
*
蹄鉄工の前に現れた幻影と、彼が受けた使命については、世論が分かれた。大半の人は、彼が王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュの霊を見たと信じていたが、中にはノストラダムスだと主張する者もいた。[1164]
この占星術師(ノストラダムス)が絶対的な信頼を集めていたのは、彼の亡骸が眠るフランシスコ会の教会があるサロンにおいてのみではない。
彼の予言集『諸世紀(Centuries)』は100年の間にパリとリヨンで10版以上も版を重ね、王国中の迷信深い人々を魅了した。1693年には、「ノストラダムスの予言がいかにしてアンリ二世からルイ13世の治世に至るまでの歴史の中で成就してきたか」を示す本が出版されたばかりだった。
やがて、次の神秘的な四行詩の中で、この蹄鉄工の到来が予言されていたと信じられるようになった。
「預言者の姓の最後から二番目の者が、
ディアーヌをその日と安息のために取るだろう。
狂乱した頭によって遠くをさまよい、
課税から大いなる民を解放するために」[1165]
"Le penultiesme du surnom du Prophète,
Prendra Diane pour son iour et repos:
Loing vaguera par frénétique teste,
En délivrant un grand peuple d'impos."[1165]
この難解な詩句を、サロンの哀れな予言者に当てはめようとする試みがなされた。
一行目については、彼の名が十二小預言者の一人ミカ(Micah)として表されており、その名はミシェル(Michel)と密接に関連しているとされた。
二行目のディアーヌについては、蹄鉄工の母親が確かにその名前で呼ばれていたことから彼女を指しているとされた。しかし、もしこの行に何らかの意味があるとすれば、それは月の精の日、すなわち月曜日を指している可能性のほうが高い。
三行目の「狂乱した(frénétique)」という言葉は、狂気ではなく、啓示を受けた状態を意味するのだと、念入りに指摘された。
四行目の詩句は、唯一、誰でも理解できる。当時、都市や地方の善良な民衆に重くのしかかっていた税金(taxes)や貢租(dues)を軽減するよう、ミシェルが王に請願することを、亡霊が命じたのだということを示唆している。
「課税から大いなる民を解放するために」
この一行だけで蹄鉄工は人気を博し、不幸な受難者たちはより良い未来への希望を、この哀れな駄弁家に託すには十分だった。
彼の肖像画が銅版画に刻まれ、その下にはノストラダムスの四行詩が記された。警察部門の長官だったダルジャンソン氏[1166]は、これらの肖像画を押収させた。
アムステルダム・ガゼット紙によると、それらが発禁処分となったのは、肖像画の下に記された四行詩の最後の一行、すなわち「課税から大いなる民を解放するために」が原因だったという。このような表現が、宮廷に喜ばれることはまずなかった。
サロンの蹄鉄工が亡霊から授かった使命が何だったのか、正確に知る者は誰もいなかった。
抜け目がない人々は、マントノン夫人の陰謀のひとつではないかと疑っていた。彼女にはマルセイユにアルヌール夫人という友人がいた。この夫人は罪深いほど醜いと言われていたにもかかわらず、男たちを魅了する術に長けていた。
人々は、王に「詩人スカロンの未亡人(マントノン夫人のこと)」と貞淑に暮らすよう促すために、このアルヌール夫人がサロンの善人(蹄鉄工)に亡きマリー・テレーズ王妃の姿を見せたのだと考えた。
しかし、1697年の時点で、スカロン未亡人(マントノン夫人)はルイ14世の妻になってから少なくとも12年は経っており、老王を彼女につなぎ止めておくために、幽霊の助けが必要だったとは考えられない。
⚠️マントノン侯爵夫人(Madame de Maintenon):16歳の時に25歳年上の詩人スカロンと結婚。死別後にルイ14世の庶子たちの養育係となり、愛情深く献身的な働きぶりから王に寵愛されマントノン侯爵領を与えられる。王妃の死後、秘密とはいえ正式に結婚したため愛妾ではなく妻である。貴賤結婚のため王妃ではない。
故郷に戻ったフランソワ・ミシェルは、以前と同じように馬の蹄鉄打ちを続けた。そして、1726年12月10日、サロン近郊のランソンで亡くなった。[1167]
付録(3)近代フランスの預言者:ルイ18世に謁見したガラルドンの農夫イニャス・トマ・マルタン
イニャス・トマ・マルタンは、豪農(laboureur)と称していた。
ウール=エ=ロワール県のガラルドン生まれで、19世紀初頭、妻と4人の子供と共にそこに住んでいた。
⚠️豪農(laboureur):単なる小作農(manœuvre)ではなく、自前の農具や馬を持ち、一定の土地を耕作する裕福な自営農家。
彼を知る人々の話によると、平均的な身長で、髪は茶色のストレート、落ち着いた眼差し、痩せた顔立ち、物静かで自信に満ちた雰囲気を漂わせていた。
彼の息子であるマルタン博士が好意により送ってくれた鉛筆描きの肖像画を見ると、この幻視者の姿がより正確に浮かび上がってくる。
その肖像画は横顔で、奇妙に高くまっすぐな額、細長い頭部、丸い目、大きく張った広い小鼻、堅く結んだ口、突き出た顎、こけた頬、そして厳格な雰囲気が表れている。彼は襟のついた服に白いクラバットを締め、ブルジョワ風の身なりをしている。
心身ともに健全な人物である彼の兄弟の証言によれば、マルタンは極めて穏やかな気質の持ち主だった。人目を引こうとすることは決してなく、日頃の信心についても、何ら狂信的なところは見られなかった。
ガラルドンの村長と司祭も、この人物評を裏付けている。彼らは口を揃えて、「マルタンは善良で素朴な男であり、思考は鈍重(あるいは素朴)であったが、精神の均衡は取れていた」と述べている。
1816年、彼は33歳だった。この年の1月15日、彼が一人で畑に堆肥を撒いていた時のこと、足音の前触れもなく、ふと耳に声が聞こえた。
声のする方へ頭を向けると、彼をぎょっとさせる人影が目に入った。
人間の大きさに比べて、それは小さかった。顔立ちはひどく痩せており、不自然なほどの白さが目を眩ませた。高い帽子に淡い色のフロックコートを身につけ、紐つきの靴を履いていた。
それは優しげな口調で言った。
「国王のもとへ行け。そして、国王の身に危険が迫っていること、邪悪な者たちが政府を転覆させようと企んでいることを警告しなければならない」
それはさらに、ルイ18世に対し、有能な警察を置くこと、安息日を遵守すること、公的な祈りを実施すること、そして謝肉祭の乱痴気騒ぎを取り締まることの必要性について説いた。もしこれらの措置を怠れば、「フランスは更なる災難に見舞われるだろう」と警告した。
これらすべては間違いなく、ガラルドンの司祭ラ・ペルリュク氏が日曜ごとの説教壇から百回も繰り返してきた言葉と、何ら変わりない。
マルタンは答えた。
「それほど事情に詳しいなら、なぜ自分でそのお使いを果たされないのですか? なぜ、口のきき方も知らぬ私のようなしがない男に頼むのですか?」
すると、見知らぬものはマルタンに答えた。
「行くのは私ではなく、お前だ。私の命じるとおりにせよ」
そう言い終えるや、足は地面から離れ、体は曲がり、この二重の動きとともに彼は消え失せた。
この時以来、マルタンは不思議な存在につきまとわれるようになった。
ある日、地下室へ降りると、そこにその存在がいるのを見つけた。
またある時、夕べの礼拝の折に、教会の聖水盤の近くで、敬虔な態度をとっているその存在を見かけた。礼拝が終わると、その正体不明の存在はマルタンの帰路に付き添い、王に会いに行くよう再び命じた。農夫は同行していた親族にそのことを伝えたが、彼らは何も見ても聞いてもいなかった。
この幻影に悩まされたマルタンは、司祭のラ・ペリュック氏にそのことを打ち明けた。司祭は、この教区民の誠実さを確信し、またこの件は司教区当局に委ねるべきだと判断して、この幻視者をヴェルサイユ司教のもとに送った。
当時の司教はルイ・シャリエ・ド・ラ・ロッシュ氏で、革命時代に共和国に宣誓した司祭だった。司教はマルタンを徹底的に尋問すると決意し、まず初めに、その見知らぬ者に「名前は何というのか」、そして「誰が自分を遣わしたのか」を尋ねるように命じた。
しかし、明るい色のフロックコートを着た使者が再び現れたとき、彼は自分の名は伏せておかねばならないと告げた。
「私は、私をお遣わしになった方のもとから来た。私をお遣わしになった方は、私よりも高きところにおられる」と彼は言い添えた。
彼は名を伏せておきたかったのかもしれない。だが少なくとも、その思想信条は隠さなかった。ラヴァレット[1168]の逃亡に際して彼が見せた憤りは、彼が政治的には最も過激なタイプの超王党派であることを証明していた。
⚠️ラヴァレット(La Valette):ラヴァレット伯爵アントワーヌ・マリー・シャマンのこと。第一次王政復古期、郵便局長という立場を悪用して政治犯に旅券を発行し、ナポレオンのエルバ島脱出を支援した罪で死刑判決を受けたが、処刑前日に脱獄した。
一方、ウール=エ=ロワール県知事のブルトゥイユ伯爵も、司教と同時にこの幻視者(マルタン)のことを聞いていた。彼もまたマルタンに尋問した。相手が神経質で落ち着きのない人物だろうと予想していたが、実際には穏やかで、飾り気なく話すものの、理路整然として正確であるのを見て、非常に驚いた。
ラ・ペリュック神父と同様に、彼もまた、この件は上層部に報告する価値のある重大事であると判断し、憲兵隊中尉の護衛下で、マルタンを警察大臣のもとへ送った。
3月8日にパリに到着すると、マルタンはモンマルトル通りにあるオテル・ド・カレーに憲兵とともに宿泊した。二人はベッドがふたつある部屋を借りた。
ある朝、マルタンが床に就いている時に幻影が現れ、アンドレ中尉にそのことを告げたが、白昼にもかかわらず、アンドレ中尉には何も見えなかった。
実際、マルタンの幻影は頻繁に現れるようになり、彼はもはや驚きも不安も感じなくなっていた。ただ、その未知の存在が突然姿を消すことだけは、どうしても慣れなかった。
その声は同じ命令を繰り返した。ある日、その声は彼に、「もし従わなければ、フランスは1840年まで平和を迎えられないだろう」と告げた。
1816年当時の警察大臣は、後に公爵となるドゥカズ伯爵だった。彼は王の信任が厚かった。だが彼は、過激な王党派が国王に対して陰謀を企てていることを知っていた。ドゥカズは、このガラルドン出身の善良な男は過激派の手先に過ぎないと疑い、彼に会いたがっていた。
マルタンは大臣のもとに連れてこられ、大臣は尋問してすぐに、この哀れな男が全く危険ではないと見抜いた。ドゥカズは狂人に接するように話しかけ、マルタンの妄想の対象が実在する振りをして、こう言った。
「心配しないで。あなたを困らせていた男は逮捕されました。もう恐れる必要はありません」
しかし、この言葉は期待した効果を生まなかった。この面会の3〜4時間後、マルタンは再びあの見知らぬものに遭遇した。それはいつものようにマルタンに話しかけた後、こう言った。
「私が逮捕されたとおまえが聞かされたのは嘘だ。そう言った者は、私に対して何の力も持っていない」
3月10日の日曜日、正体不明のものが再び現れた。そしてその日、彼はヴェルサイユ司教が尋ねていた事柄について、当初は「決して明かさない」と言っていた事柄を明らかにした。
「私は大天使ラファエルである」と彼は宣言した。
「神の御前にて名高き天使であり、フランスにあらゆる苦難をもたらす力を授かっている」
3日後、マルタンは精神錯乱を伴う断続的な躁病(現代の双極性障害/躁うつ病)を患っているとされ、ピネル医師の診断でシャラントンの施設に収容された。
彼は極めて丁重に扱われ、ある程度の自由さえ許された。
フィリップ・ピネルは精神病患者に対する人道的処遇を創始した人物だ。
精神病院に収容されても、マルタンは聖ラファエルに見捨てられることはなかった。15日の金曜日、この農夫が靴紐を結んでいると、明るい色のフロックコートを着た大天使が彼にこう語りかけた。
「神を信じよ。もしフランスが神への不信仰を改めないならば、私が予言した災厄が現実に降りかかだろう。もし彼らがあなたの幻視の真実性を疑うなら、神学博士たちにあなたを審査させればよい」
マルタンはこれらの言葉をシャラントン王立施設の所長ルグロ氏に、「神学博士とは何か」と繰り返し尋ねた。彼はその言葉の意味を知らなかった。
同様に、ガラルドンにいた時も、彼は司祭のラ・ペリュック氏に、その声が用いたいくつかの言葉の意味を尋ねたことがあった。
例えば、マルタンは「フランスの狂乱(le délvie de la France)」や「彼女が陥るであろう災厄(elle serait en proie)」が何のことかも理解していなかった。
しかし、たとえ彼が本当に無知だったとしても、不可解に思う必要はない。マルタンは意味のわからない言葉を記憶し、後になって、依然として理解できないまま、単純に「大天使の言葉」と解釈していたのかもしれない。
幻視は短い間隔で繰り返し現れた。
3月31日の日曜日、大天使は庭にいるマルタンの前に現れて、彼の手を取ると愛情を込めて握り返した。すると、コートの裾が開いて白い胸元が露わになった。その白さはあまりにもまばゆくて、マルタンは直視することさえできなかった。それから、大天使は帽子を脱いだ。
「私の額を見よ。そして、堕天使たちに押された獣の刻印がそこにないことをよく見届けよ」
ルイ18世は「マルタンに面会して尋問したい」という意向を示した。
国王は、寵臣である大臣(ドゥカズ伯爵)と同様に、この幻視者を過激派の手先だと考えていた。
4月2日火曜日、マルタンはテュイルリー宮殿へ連れて行かれ、国王の私室に通された。そこにはドゥカズ氏も同席していた。
国王はこの農夫を見るなり、「マルタン、あなたに挨拶する」と言った。
それから王は大臣に退席するよう合図した。
マルタンは、彼自身の口述によれば、大天使が彼に啓示したすべてのことを国王に語り、ルイ18世が亡命生活を送っていた時期に関する様々な秘密を明かした。そして最後に、国王に対して企てられたいくつかの陰謀を王に伝えた。
すると国王はひどく動揺し、涙ながらに両手と目を天に向け、マルタンにこう言った。
「マルタン、これはあなたと私以外には決して知られてはならぬことだ」
幻視者は王に、絶対に秘密を守ると約束した。
マルタンの語るところによれば、4月2日の謁見は以上のようなものだった。当時の彼は、司祭ラ・ペリュック氏の説教に感化されて熱狂的な王党派だった。この物語の全編を通して、(マルタンへの)教唆が明白なこの司祭について、さらに詳しく知ることは興味深いだろう。
ルイ18世は、この男(マルタン)が全く無害であるという点でドゥカズ氏と意見が一致し、彼は元の耕作地に帰された。
*
その後、王政復古期に数多く現れた偽の王太子(ルイ17世)のひとりの手先がマルタンを取り込み、自分たちの利益のために利用した。
ルイ18世の死後、これらの詐欺師たちの影響を受けたこの哀れなマルタンは、亡き国王と会見したときの話を再構成し、自分が受けたと主張する別の啓示を織り交ぜて、一連のいきさつをすっかり変えてしまった。
この改変によって、1816年の熱烈な王党派は、「王自身の宮殿にやってきて、国王(ルイ18世)を簒奪者であり国王殺しであると告発し、神の名においてランスでの戴冠を禁じる」《《糾弾の預言者》》へと変貌を遂げた。
これらの妄言を長々と書き記すことはしない。この件についてはポール・マラン氏の著書に詳細が記されている。同書の著者は、これらの愚行が、タンプル塔から脱出したノルマンディー公(ルイ17世)を自称するノンドルフの支持者によって、この哀れな男(マルタン)に吹き込まれたことを指摘しておくべきだろう。
トマ・イニャス・マルタンは、1834年にシャルトルで亡くなった。毒殺されたといわれているが、証明するものはない。[1169]
付録(4)ジャンヌの肖像および図像学
ジャンヌの真正な肖像画は存在しない。彼女自身の証言によれば、アラスで、あるスコットランド人が持っていた絵を見たことがあり、そこには彼女が膝をついて国王に手紙を差し出している姿が描かれていたという。また、ジャンヌは自身の像や絵を作らせたことは一度もなく、そのようなものが存在することも知らなかった。
スコットランド人が持っていた肖像画は、恐らく非常に小さかったと思われるが、残念ながら失われており、写しも見つかっていない。[1170]
パリ高等法院の書記官が1429年5月10日の記録簿にペンとインクで描いた小さな人物画は、ジャンヌを一度も見たことがない人物が描いたもので、立派な頭文字ひとつでさえ上手く書けない筆記官による、単なる落書きとみなすべきだろう。[1171]
筆者はここで、乙女(ラ・ピュセル)の図像学を再構築しようと試みるつもりはない。[1172]
クリュニー美術館が所蔵するブロンズの騎馬像は、昔の彫刻家にそのような意図(ジャンヌを崇拝する目的で勝手に粉飾・改竄する意図)があったとすればの話だが、故意にそうしたと思いたくなるほどグロテスクな印象を与える。
これはシャルル八世(シャルル七世の孫)の時代に作られたものだ。もとは聖ゲオルギウスか聖マウリティウスの像であったものが、おそらくごく最近になって、ジャンヌの像と見なされるようになったのだろう。
その人物がまたがっている哀れな駄馬の脚の間には、「La pucelle dorlians(オルレアンの乙女)」という銘が刻まれているが、この呼称は15世紀には用いられなかったはずだ。[1173]
1875年頃、クリュニー美術館は、彩色された木製の、もう少し大きな別の小像を展示した。これも15世紀のものとされ、ジャンヌ・ダルク像だと信じられていたが、それがモンタルジの教会にあった17世紀の出来の悪い聖マウリティウス像であることが判明すると、倉庫に追いやられた。[1174]
甲冑をまとった聖人像は、しばしばジャンヌ・ダルクだと解釈される。オルレアンの地中から発見された、兜をかぶった15世紀の小さな頭部像もまさにそうだ。彫像から欠け落ちたその頭部は、彩色の痕跡がまだ残っており、美しい様式と魅力的な表情をたたえた作品である。[1175]
聖歌集の頭文字や、16世紀、17世紀、さらには18世紀のミニアチュール(細密画)が、どれほど多く加筆や修正を施され、ジャンヌの真正かつ古来の肖像として通用してきたかを逐一述べる気にはなれない。私はその多くを目にする機会があった。[1176]
一方、もしそれほど知られてないとしても、『女たちの擁護者(Le Champion des Dames)』や『シャルル七世の前夜(Les Vigiles de Charles VII)』のように、彩色画家の想像力によって描かれたジャンヌの細密画を含む、15世紀のいくつかの写本について触れるのは楽しいことだろう。
こうした絵画が興味深いのは、彼女がいた時代、あるいはその直後に生きた人々がジャンヌをどんな風にイメージしていたかを明らかにしてくれる。私たちの心を惹きつけるのはその芸術的価値ではない。それらに芸術的価値はなく、ジャン・フーケの筆致を思わせるような高潔さは皆無である。[1177]
*
ジャンヌが生きていた間、とりわけ彼女が捕らわれの身となってからは、フランスの人々は教会に彼女の絵を掲げた。[1178]
ヴェルサイユの美術館には、そうした奉納画のひとつと言われている板に描かれた小さな絵がある。聖母マリアと幼子イエスが描かれ、その右手に大天使・聖ミカエル、左手にジャンヌ・ダルクを配している。[1179]
それはイタリア製で、非常に粗雑な仕上がりである。ジャンヌの頭部は、何か硬く尖った道具で突かれて消えてしまっているが、このパネルに残っている他の部分から判断するに、さぞかし稚拙に描かれていたに違いない。四人の人物はすべて、渦巻きと真珠の装飾をちりばめた後光(nimbus)を伴って描かれているが、これはパリやルーアンの聖職者であれば間違いなく断罪しただろう。
⚠️後光(nimbus):聖人の頭部を囲む後光や光輪のこと。
実際、それほど厳格でない人であっても、地上の教会の単なる一信徒にすぎないジャンヌを、天軍の長である大天使ミカエルと同等の扱いで、聖母マリアの左に配置したこの画家を、偶像崇拝の罪で告発するかもしれない。
立っているジャンヌは、頭、首、肩を黒い縁飾りのついた毛皮のフードと肩掛け(tippet)のようなもので覆われ、鎖かたびらのガントレットと靴を身につけ、赤いチュニックの上から金のベルトを締めている。
⚠️肩掛け(tippet):現代では聖職者のストールを指すが、15世紀の服飾史ではフードから垂れ下がる装飾的な布や、肩を覆う短いケープを指す。
彼女がジャンヌであることは、頭上に刻まれた名前によって、また、彼女が右手に掲げているフルール・ド・リスの刺繍が施された白い旗によって、そしてドイツ様式の浮き彫りが施された銀の盾によって識別できる。盾(紋章)には、切っ先に王冠を戴いた剣が描かれている。
聖母マリアが座す玉座の階段には、フランス語で三行の銘文が記されている。大部分が消失してほとんど判読不能だが、ヴェルサイユ美術館館長である博識な友人ピエール・ド・ノラック氏の協力を得て、数語を解読することができた。
それらの単語からは、この銘文が、敵の手に落ちたジャンヌの救済を願う祈りと願いが込められていたことを示唆している。
したがって、これは、ジャンヌが捕らわれていた間にフランスの教会に掲げられた奉納画のひとつと考えられる。
そうだとすれば、生きている人物の頭の周りに後光が差していることや、ジャンヌが孤立した位置にいることも容易に説明がつく。
おそらく、悪気のない善良なフランス人の誰かが、もともと「勝利の教会(天国)」を象徴する二人と、その真ん中に聖母マリアが描かれていた絵を、自分たちの目的に合わせて加筆したのだろう。
彼らは少し筆を加えることで、人物のひとりを神の乙女(ジャンヌ)に変えた。
これほど小さなパネルの中では、通常、絵画の寄進者が聖母や聖人の足元に跪いて描かれるような、彼女の死すべき運命(人間のこと)にふさわしい場所を他に見つけることができなかった。
このことはまた、聖ミカエル、聖母マリア、そして乙女の名前がそれぞれの上部に記されている理由をも説明するかもしれない。
乙女の頭上には「ane darc」と読める。この「darc」という綴りは、1430年には使われていた可能性がある。[1180]
玉座の階段にある銘文には「Jehane dArc」と読めるが、「dArc」の頭文字「d」 が小文字で、「A」が大文字になっていることは非常に奇妙である。そのため、私はこの銘文の信憑性に疑問を抱いている。
⚠️補足:15世紀には「d'Arc」という綴り自体がまれ。特に「d」を小文字にして「A」を大文字にする表記法は、後世の人間が「高貴な家系(ド・アルク)」に見せかけようとした偽造の証拠といえる。
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オルレアン美術館が所蔵する、シノンで王の前に到着したジャンヌを描いたベスティオン・タペストリー[1181]は、15世紀のドイツで制作された。[1182] 粗雑な織り、野蛮な意匠、単調な色彩といった特徴から、豪華な装飾へのある種の嗜好がうかがえる一方で、文字通り「事実を完全に無視」している。
⚠️ベスティオン・タペストリー(une petite tapisserie à bestions):bestion は「小さな動物」を意味するが、美術用語としては「動物文様の(あるいは、小動物を描いた)タペストリー」を指す。
1429年にレーゲンスブルクで、別のドイツの作品が展示された。それはフランスで戦う乙女を描いたものだが、この絵画は失われている。[1183]
上下巻完訳、上巻でやり残した仕事
ついに、上下巻すべてを完訳しました……が、実は上巻でやり残した仕事があります。
上巻の冒頭、本編に入る前の「イントロダクション」が長尺かつ難解すぎるため、ずっと後回しにしていました。なにせ、イントロダクション(前置き・概論)というタイトルでありながら日本語訳文は3万9000文字超。これまでのどの章よりも長く、初読者にはハードルが高すぎる代物です。
本編の前にブラウザバックされる事態を防ぐために非公開にしてましたが、ここまで読了した猛者ならきっとついてこれるはず。
本書の基盤となる文献の紹介と考察がメインなので、むしろ『あとがき』にふさわしい内容かもしれません。
というわけで、もうちょっとだけ続きます。
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