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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第五章 オルレアン包囲戦:1428年10月12日〜1429年3月6日

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。
原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されているが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明している。

▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

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5.1 イングランドの決議:攻撃目標はオルレアン

 ヴェルヌイユの勝利(1424年)とメーヌの征服以来、イングランド軍はフランスでほとんど進軍しておらず、フランスにおける実際の領有地はますます不安定になっていた。[467]

 イングランド軍が、オルレアン公(シャルル七世のいとこでイングランドの捕虜になっている)の領地を侵略しなかったのは、良心の呵責によるものではない。
 ロワール川流域では、高貴な身分の者が捕虜になっているときに、その領地と財産を奪うのは不名誉なことだと考えられていたが[468]、戦時下では手段を選ばない。

 イングランド摂政(ベッドフォード公)は、アランソン公が捕虜だったときにその公爵領を奪うことをためらわなかった。[469]

 実のところ、善良なシャルル公(オルレアン公)が賄賂と懇願によって、イングランド軍が彼の公爵領を攻撃するのを思いとどまらせていたのだ。

 1424年から1426年まで、オルレアン市民は金銭を支払うことで平和を買い続けた。[470]

 ゴドンたち(Godons:イングランドを指す蔑称。彼らの口癖「God damn」が由来)は戦場に出られる状況になかったため、そのような協定を結ぶ用意があった。

 イングランド王家とフランス王家の血筋を引く幼い王(ヘンリー六世)の時代に、摂政の弟で護国卿のグロスター公と、摂政の叔父で大法官のウィンチェスター司教(ヘンリー・ボーフォート大法官、のちに枢機卿)は、幼い王をめぐって互いに激しく争っており、ロンドンの路上で流血沙汰を引き起こした。[471]

 1425年の終わりごろ、摂政はイングランドに帰国すると、17カ月を費やして叔父と弟を仲裁し、公共の平和を回復させた。

 さらに、巧みな策略と精力的な行動によって、摂政は、イングランドの同胞たちがフランス征服を完了することを望み、期待するよう仕向けることに成功した。

 1428年、イングランド議会はフランス全土を侵略する目的で、補助金(軍資金)を可決した。[472]

オルレアンの眺め、1428-1429(VIEW OF ORLÉANS, 1428-1429)

 さて、イングランドの将軍と王侯の中で、もっとも狡猾で、もっとも熟練し、もっとも武運に恵まれていたのは、ソールズベリー伯とペルシュ伯の称号を保有しているトーマス・モンタキュートだった。[473]

 彼はこれまで長きにわたり、ノルマンディー、シャンパーニュ、メーヌの戦いで戦果を挙げていた。

 現在、彼はロワール川流域の侵攻に向けて、イングランドで軍を集めていた。
 弓兵は必要なだけ集めることができたが、騎兵と武装兵士の顔ぶれは期待外れだった。
 わざわざ飢饉で荒廃した土地(フランス)まで渡って戦う意志があるのは、卑しい人間だけだった。[474]

 ついに、高貴な伯爵にしてヘンリー王の美しいいとこである彼は、449人の武装兵士と2250人の弓兵を率いて海を渡った。[475]

 フランスでは、摂政が徴募した騎兵400騎のうち半分(200騎)はノルマン人で、イングランドの慣習に従い、騎兵1人につき弓兵3人がつけられた。[476]

 ソールズベリー伯は兵を率いてパリに向かい、そこで覆すことのできない決断を下した。[477] これまでの計画では、攻撃目標はアンジェだったが、土壇場になってオルレアンを包囲することに決定した。[478]

5.2 オルレアンの町(1)城壁と塔

 ラ・ボースとラ・ソローニュ地方の間、フランス王家に忠誠を誓うトゥーレーヌ、ブレゾワ、ベリーの各地方への入り口に、公爵領の都市オルレアンがあった。ロワール川の湾曲部に位置しており、あたかも張り詰めた弓に矢がつがえられているかのように、敵に対峙していた。[479]

 司教座、大学、広大な市場があり、その鐘楼、塔、尖塔の上に、「主の十字架」、「町の紋章(3つの心臓)」、「公爵家の3つの百合紋フルールドリス」を天に向かって誇らしげに掲げていた。

 曲がりくねった通りや薄暗い路地に沿って、石造りや木造の家屋が建ち並び、スレート屋根の下にはオルレアン市民1万5千人が暮らしていた。

 そこには、司法官や財務官、金細工師、薬剤師、食料雑貨店、皮革職人、肉屋、魚屋、琥珀のように繊細で、上質な衣服、立派な家、音楽とダンスを愛する富裕層、司祭、聖職者、神学者、学徒監視員(守衛)、大学のフェロー、写本屋、筆記者、彩色師、画家、庶民が住んでいた。学問はぱっとしないがフルートを美しく奏でる楽士、あらゆる宗派の修道士——黒修道士(ドミニコ会)、灰色修道士(フランシスコ会)、マチュラン会、カルメル会、アウグスティノ会——、そして鍛冶屋、樽職人、大工、船乗り、漁師といった職人や労働者がいた。[480]

 ローマ起源のこの町の形は、皇帝アウレリアヌスの時代(三世紀)から変わっていなかった。

 ロワール川に沿って南側と北側はおよそ3000フィート(約914メートル)におよぶ。東西の境界はわずか150フィート(約46メートル)だった。

 町は、厚さ6フィート(約1.8メートル)、堀の上から18フィート(約5.5メートル)から33フィート(約10メートル)の高さの城壁に囲まれていた。
 城壁の両側には34の塔があり、5つの門(表のゲート)と2つの裏門で貫かれていた。[481]

 以下に、これらの門、裏門、塔の位置と、包囲戦で有名になった設備について説明する。

 城壁の南東から南西にかけて、次のようなものがあった。

 ロワール川に浸かっている丸型の巨大なヌーヴ塔(新塔、La Tour Neuve)。
 その他、川岸に3つの塔があった。

 シュノーは水面に面している唯一の裏門だ。
 ラクロワ=ムフロワ塔は、塔の足元から川に突き出ているかぎ状の突起物からこう呼ばれる。
 跳ね橋に続く門扉ラ・ポルト・デュポン(La Port du Pont)は、2つの塔に囲まれている。
 ラブルヴォワール塔。
 ノートルダム塔は、城壁に面して建てられた礼拝堂に由来する。
 ラ・バール=フランベール塔は、城壁の南西の角に位置し、川を見下ろしている。こちら側の最後の塔だ。

 ロワール川沿いの城壁には、細長い胸壁(城壁や城の最上部に設けられた《《凸凹》》部分)と石造りの手すりがあり、そこから投石することができる。敵がはしごをかけて城壁を越えてこようとしたら、石を落として撃退する。塔と塔の間は弓の射程ほどで、門扉で守られていた。

 西側には、まず3つの塔があり、次にレニャールまたはルナールと呼ばれる2つの門塔があった。これは、かつて隣接する宮殿の所有者だった市民の名前にちなんだ名称で、1428年当時はオルレアン公の財務官ジャック・ブーシェがそこに住んでいた。

 その後、もうひとつの塔が続き、最後に城壁の北西の角にベルニエ橋(La Porte Bernier)がある。こちら側の城壁は、弓よりも射程距離の長いクロスボウの時代に築かれたため、塔と塔の間はクロスボウの射程距離の間隔で離れており、城壁は他よりも低かった。

 森に面した北側には、弓の射程距離の間隔で10の塔があった。
 2番目のサン・サムソン塔は、武器庫として使用されていた。
 6番目と7番目の塔は、パリ門を挟んでいた。

 東側にも、北側と同じ間隔で10の塔があった。
 5番目と6番目はブルゴーニュ門を囲む塔で、城壁のないサン・テニャン教会に近かったためサン・テニャン門とも呼ばれた。
 最後は、ヌーヴ塔(新塔、La Tour Neuve)と呼ばれる大きな角型の塔で、これでヌーヴ塔は2回数えられたことになる。

5.3 オルレアンの町(2)大橋と郊外

 町からロワール川の左岸へと続く、家々が立ち並ぶ石造りの橋は世界的に有名だ。この橋には、幅の異なる19のアーチがあった。

 町を出て、門扉ラ・ポルト・デュ・ポンにある最初のアーチは、ラ・アルーエ(l'Allouée)またはジャックマン=ルースレ橋(Pont Jacquemin-Rousselet)と呼ばれ、ここに跳ね橋があった。

 5番目のアーチは、細長くて船の形をした島(中洲)に接していた。
 橋の上に、聖アントワーヌに捧げられた礼拝堂があったことから、この中洲はモット=サン=アントワーヌ(Motte:土くれの丘)と呼ばれ、橋の下には、捕獲した魚を生かしておくために穴のあいた船を係留していたことからモット=デ=ポワソニエと呼ばれていた。

 1427年、この中洲が敵に占領されるのを防ぐために、オルレアン市民は、6番目のアーチの先に、橋の幅全体を占める要塞「サン=アントワーヌ塔」を建造した。

 11番目と12番目のアーチの間にある控え壁バットレス(buttress、橋のアーチを支える部分)には、石の台座に支えられた「ベル=クロワ(美しい十字架)」と呼ばれる金メッキされたブロンズ製の十字架があった。

 18番目のアーチの控え壁バットレスは延長され、その橋台には、2つの塔を丸天井の玄関ポーチで繋げた小ぶりの城「レ・トゥーレル」がそびえ立っていた。

 19番目のアーチと20番目のアーチの間には、最初のアーチと同様に跳ね橋があった。その外側にル・ポルトローがあり、そこからトゥールーズへの道が続き、ロワール川を越えたオリヴェ山地でブロワへの道に合流した。[482]

 当時、ロワール川の穏やかな水は、シダ植物の群生地と樫や白樺の茂みの中を流れていたが、今では航行のために取り除かれている。

 オルレアンから東へ2.5マイル(約4キロ)、シェシーの丘の上にあるブールドン島(l'Île aux Bourdons)は、川の細い支流と、ラ・ボース側のコンブルーに面した緑の草地と下草のあるシャルルマーニュ島(l'Île Charlemagne)とブフ島(l'Île-aux-Bœufs)からの狭い水路によって、ソローニュ川の河岸から隔てられていた。

 川を下るボートは、次にサン・ルーの2つの島に差し掛かり、ヌーヴ塔(新塔、La Tour Neuve)を迂回して、右側の2つのマルティネ島と左側のトワル島(l'Île-aux-Toiles)の間をすべるように進む。

 そこから橋の下をくぐる。この橋は、上流側のモット=サン=アントワーヌ、下流側のモット=デ=ポワソニエと呼ばれる中洲をまたいでいる。

 やがて、城壁の下、サン=ローラン=デ=オルジェリルの向かい側にある、ビシュ=ドルジュという小島と、もう1つの名前のない小島に到達する。[483]

 オルレアンの郊外は、フランス王国の中でもっとも素晴らしい場所だった。
 南側の郊外にはル・ポルトローという漁師町があり、川沿いにはアウグスティノ派の教会と修道院が広がり、その先には国内最高のワインを生産するサン=ジャン=ル=ブランのブドウ畑が広がっていた。[484]

 その上、ソローニュの荒涼とした台地へ上っていくなだらかな斜面には、激しい湧水、清らかな水流、木陰の多い土手、オリヴェの庭園と小川のあるロワレ川が、穏やかで雨の多い空の下で微笑んでいた。

 東側に伸びるブルゴーニュ門の郊外は、もっとも多くの建物が並び、もっとも人口が多い場所だった。そこには、サン=ミシェル教会とサン=テニャン教会があり、特に後者の回廊は素晴らしいと言われていた。[485]

 この郊外を離れて、ロワール川の河岸とブフ島(中洲)の間に広がる砂地の支流沿いのブドウ畑を通り過ぎ、4分の1リーグほど進むと、サン・ルーの急斜面にたどり着く。

 さらに東へ進むと、川とオータンからパリに向かうローマ街道の間に、サン=ジャン=ド=ブレイ、コンブルー、シェシーの鐘楼が次々とそびえ立っているのが見える。

 町の北側には、立派な修道院や美しい教会、墓地にはサン=ラドレ礼拝堂、ジャコバン教会、コルドリエ教会、サン=ピエール=アンサントレ教会などがあった。

 真北には、パリ街道沿いにラ・ポルト・ベルニエの郊外が広がり、そのすぐ近くには、オーク、シデ、ブナ、ヤナギの深い森に覆われた「オオカミが住む陰鬱な町」がある。そこには、薪割りや炭焼きのための小屋があるフルーリー村とサモイ村が隠れていた。[486]

 西側には、ラ・ポルト・レナールの郊外がシャトーダンへの道沿いの野原に広がり、ブロワへの道沿いにはサン・ローランの集落があった。[487]

 これらの郊外は、非常に人口が多い住宅地で広範囲に拡大していた。
 イングランド軍の接近にともない、郊外の住民が市内(城壁内)に避難したため、オルレアン市内の人口は倍増した。[488]


5.4 オルレアンの決意:開戦の準備

 オルレアンの住民は戦う決意を固めたが、それは名誉のためではなかった。
 当時、市民が自分の町を守ったからといって、名誉を得られることはなかった。唯一の見返りは、恐ろしい危険を冒すことだけだった。

 町が陥落すれば、富裕層や有力者は身代金を払うだけでよく、征服者は彼らを厚遇したが、下級貴族や貧しい貴族のほうがより大きな危険にさらされた。

 同じ1428年、ムランを守るために馬や犬まで食べ尽くして戦った末に、降伏した騎士たちはセーヌ川で溺死刑に処せられた。「貴族は何の価値もない」とブルゴーニュで歌われた。[489]

 しかし、一般的には、高貴な生まれであることは命を救った。
 自衛のために勇気を振るった市井の人は、死ぬ可能性が高かった。決まった規則はなく、何人かを一度に絞首刑に処すときもあれば、一人だけで済むことも、全員がやられることもあった。首を切り落としたり、袋に縫い込んで水に投げ込むことも合法だった。

 同じ1428年、ラ・イルとザントライユの両隊長はル・マンへの攻撃に失敗し、間一髪で退却した。
 彼らを助けた市民は、すでにオリヴェに到着していたサフォーク伯ウィリアム・ポールと、まもなく到着する予定だった《《最も礼儀正しい》》イングランド騎士ジョン・タルボットの命令により、クロワトル=サン=ジュリアン広場の石碑の上で斬首された。[490]

 この前例は見せしめとして、オルレアンの人々に警告を与えるのに十分だった。

 オルレアンの町は総督の支配下にあったが、総督の承認を得て、市民によって2年任期で選ばれた12人の行政官によって自治運営されていた。[491]

 これらの行政官は、他の市民よりも大きな危険にさらされていた。
 そのうちの1人は、処刑場であるサン=シュルピス修道院の前を通りかかったとき、領主の遺産を守った罪で、年内にそこで処刑される可能性を考えたかもしれない。
 それでも、12人はこの遺産を守る決意を固め、迅速かつ知恵を尽くして公共の利益のために行動した。

 オルレアンの人々は、不意を突かれたわけではなかった。
 彼らは、父親の代からイングランド軍を注意深く監視し、町の防御を固めていた。
 彼ら自身、1425年には包囲攻撃を強く予想していたため、サン=サムソン塔に武器を集め、富める者も貧しい者も同様に堤防を掘り、城壁を築くことを義務付けられていた。[492]

 戦争は常に費用がかかる。
 町の年間税収の4分の3を、城壁の維持とその他の戦争準備に費やした。

 ソールズベリー伯の接近の知らせを聞いて、彼らは驚異的なエネルギーで迎え撃つ準備をした。

 川沿いを除いて、城壁には胸壁(城壁や城の最上部に設けられた《《凸凹》》部分)がなかったが、町の商店には手すりを作るための杭と横木があった。
 砲撃から守備隊を防御するために、城壁の上にペントハウス型の砦(外堡)を築き[493]、出入り口には木製の防壁(バリケード)が設置され、開閉を担当する門番の控え小屋を作った。

 城壁の上部と塔には、大砲や臼砲を含む71門の火砲を設置したが、カルバリン砲はまだなかった。
 町から3リーグ(約15キロ)離れたモンマイヤールの採石場から石を運び、砲弾を作った。
 多額の費用をかけて鉛や硫黄を買い込み、女性たちが火薬を調合した。
 毎日何千本もの矢を作って備蓄した。鉄の両端には矢じりと、鳥の羽や羊皮紙で作った羽をボルトで留めた。[494]
 木片を互いに組み合わせて革で覆った大きな盾(パヴァ)も多数製造された。
 住民のために、また守備隊や王の家臣、そして傭兵のために、穀物、ワイン、家畜を大量に買い入れた。[495]

 オルレアンの人々は、町の中に軍人が駐屯することを拒否して自力で守る特権を持っていた。職業に応じて、塔の数と同じ数の守備隊に分けて運用していた。
 長い間、市民は自力でこの権利を守り抜き、そのおかげで、略奪や焼き討ちなどの被害から町を守っていた。

 しかし今、オルレアンの人々はこの権利を放棄したがっていた。
 なぜなら、町の人々で構成した中隊と、近隣の村の農民だけでは包囲攻撃に耐えられないと悟ったからである。敵に抵抗するには、槍の扱いに熟練した騎兵と、クロスボウを使いこなす歩兵が必要だった。

 町の総督であるゴークール卿と、王の中将(Lieutenant General)を務める「オルレアンの私生児」卿が、国王から兵士と資金を調達するためにシノンとポワティエに行き[496]、その間に、市民は2人1組の委員を結成して、ブルボネやラングドックまで足を運び、町々に救援を求めた。[497]

 行政官は、フランス王のために近隣の地域を守っている武運に恵まれた傭兵たちに呼びかけた。
 市の2人の伝令、オルレアンとクール・ド・リスの口を通して、「市の城壁内には金銀が豊富にあり、2000人の戦士を2年間養うのに十分な食料と武器を用意している」こと、そして「善良で誠実な騎士であれば誰でも市の防衛に参加し、死ぬまで戦うことができる」と宣言した。[498]

5.5 オルレアンの守護聖人:聖ユヴェルテと聖エニャンの伝説

 オルレアンの住民は神を畏れていた。当時、神は大いに畏怖されるべき存在であり、まるでペリシテ人の時代のように恐ろしかった。

 貧しい漁師たちは、苦難の中で神に直接訴えかけると拒絶されるのではないかと恐れ、聖母マリアや聖人たちの仲介を求めたほうがよいと考えていた。
 神(キリスト)は母を敬い、あらゆる機会に彼女を喜ばせようとした。同様に、神は天国で左右に座っている聖人たちの願いを尊重し、彼らが捧げる嘆願に耳を傾けた。
 したがって、危機が差し迫っていた場合は、聖人に祈りと供物を捧げて加護を求めるのが慣例だった。

 それで、オルレアンの住民は、町の守護聖人である聖ユヴェルテと聖エニャン(サンテニャン)を思い出した。

 非常に古い時代、聖ユヴェルテはオルレアンの司教座についていた。1428年現在、そこにはスコットランド出身のジャン・ド・ミシェルが座っているが、聖ユヴェルテは「使徒の徳」のすべての栄光に輝いていた。[499]

 もうひとりの守護聖人である聖エニャンは、彼(聖ユヴェルテ)の後継者だ。
 オルレアンが現在直面しているのと同じ危機に直面し、町を見守りながら神に祈りを捧げた。

 以下は、オルレアンの人々に知られている彼の物語である。

 聖エニャンは若い頃、オルレアン近郊で孤独に隠棲していた。
 そこで、当時、町の司教だった聖ユヴェルテが彼を見つけた。
 聖ユヴェルは彼を司祭に叙任して、サン=ローラン=デ=オルジェリルの修道院長に任命し、信徒たちの統治を引き継ぐ後継者に選んだ。

 聖ユヴェルテがこの世を去ると、祝福された聖エニャンは、オルレアンの人々の同意を得て、幼い子供の声によって司教に選ばれた。
 なぜなら、神は幼子の口を通して賛美されるお方であり、乳飲み子として祭壇に運ばれた子供の一人に「エニャン、エニャンはこの町の司教として神に選ばれた」と言わせたからである。

 司教に在職して60年目、フン族がガリアに侵攻した。
 彼らを率いるアッティラ王は、「我が行くところは、どこであろうと星が落ち、大地が震える。我は世界の槌(ハンマー)である」と豪語していた。
 行軍の道中にある町はすべて破壊され、今やオルレアンに向かって進軍していた。

 そこで、祝福されたエニャンは、ローマ軍を指揮する貴族(パトリキ)アエティウスがいるアルル市へ行き、この大いなる危機に際して救援を要請した。
 救援の約束を得て、聖エニャンは司教座に戻ったが、そこはすでに異民族の戦士たちに包囲されていた。
 フン族は城壁に穴を開け、攻撃の準備をしていた。
 祝福された聖人は城壁にのぼり、ひざまずいて祈りを捧げたあと、敵に向かって唾を吐いた。

 神の意志により、唾液の一滴に続いて天空のすべての雨粒が降り注いだ。
 嵐が起こり、激しい雨が異民族の野営地に降り注いだため、彼らの陣地は水浸しになった。テントは風の力でひっくり返され、多くの者が雷に打たれて命を落とした。

 雨は3日間降り続いたが、その後、アッティラ王は強力な兵器で城壁を攻撃した。
 住民は、城壁が崩れるのを見て恐怖におびえた。
 抵抗の望みが尽き、聖エニャンは司教服を身につけるとフン族の王のもとへ行き、オルレアンの人々を憐れむよう懇願し、もし人々に過酷な仕打ちをするなら神の怒りが降りかかると脅した。
 しかし、これらの祈りと脅しは、アッティラ王の心を和らげることはなかった。

 司教は信徒たちのところに戻ると、「あとは神を信じる以外に何もできないが、救いは必ずあるだろう(神は見捨てない)」と警告した。

 そしてまもなく、約束したとおりに、神はローマ人とフランク人によって町を救った。彼らは大いなる激戦でフン族に立ち向かった。
 愛する町が奇跡的に救われた後、聖エニャンは主のもとで眠りについた。[500]

 それゆえに、イングランド軍によるこの大いなる危機に際し、オルレアン市民は聖ユヴェルテと聖エニャンに援助と救済を求めた。聖エニャンが生前に成し遂げた奇跡に基づき、人々は彼が天国にいる今、奇跡を起こす力を期待した。

 この二人の懺悔者はそれぞれブルゴーニュ門側の郊外に教会を持ち、そこで聖遺物が厳重に守られていた。[501]

 当時、殉教者と懺悔者の遺体は熱心に崇拝されていた。
 時には、遺体から徳を示す癒しの香りが漂うと言われていた。
 宝石で飾られた金色の聖遺物箱に納められ、これらの聖なる遺物によって成し遂げられない奇跡はないと考えられていた。

 1428年8月6日、オルレアンの聖職者たちは聖ユヴェルテの聖遺物箱がある教会に行き、城壁の加護を得るために聖遺物を城壁の周りに運びこんだ。聖遺物箱は町中を練り歩き、その恩恵に預かろうと、すべての人々があとに続いた。

 9月8日には、重さ110リーブル[502]の「トルティス」が聖エニャンに捧げられた。
 困った時は、聖人たちの恩恵を得るためにあらゆる種類の贈り物、衣服、宝石、貨幣、家屋、土地、森林、池が捧げられたが、天然の蜜蝋は特に喜ばれると考えられていた。
 トルティスとは「蜜蝋の輪」のことで、その上にろうそくが置かれ、市の紋章を冠した2つの盾型紋章(エスカッション)が刻まれた[503]。

 こうしてオルレアンの人々は、自分たちの町を守るためにあらゆる策を講じ、尽力した。

5.6 フランスの援軍と敵軍イングランドの接近

 各地の傭兵たちが、オルレアンの行政官の呼びかけに応じた。
 最初に町に駆けつけたのは、以下の者たちだ。

 モンタルジ総督アルシャンボー・ド・ヴィラール。
 ギトリー領主ギヨーム・ド・ショーモン。
 ラ・ボース男爵ピエール・ド・ラ・シャペル。
 ベアルン騎士団長レイモン・アルノー・ド・コラーズ。
 アラゴン王国のドン・マティアス。
 ジャン・ポトン・ド・ザントライユ。

 さらに、かつてオルレアン大学の神学生だったシトー会セルカンソー修道院の院長が、追随者の軍団を率いて到着した。[504]

 オルレアンの町を救いに来た友軍は、予想される敵の数とほぼ同数になった。
 守備隊(防衛者)には報酬が支払われ、パン、肉、魚、豊富な飼料が与えられ、ワインの樽も用意された。

 当初、住民たちは彼らを自分の子供のように丁重に扱った。
 市民は皆、見知らぬよそ者をもてなすために協力し、持っているものを分け与えた。しかし、この協調は長くは続かなかった。

 一般市民と軍の客人との間に友好的な関係があったとする伝承がどのようなものであれ、[505] オルレアンの状況は、実際には他の包囲された町と何も変わらなかった。まもなく、住民は守備隊に不満を抱き始めた。

 9月5日、イングランド総司令官ソールズベリー伯がジャンヴィルに到着した。彼は、行軍の道中で40もの町、要塞化された教会や城をいとも簡単に占領した。

 しかし、これは彼の最大の功績ではなかった。
 なぜなら、行軍中の各所に置いていかれた兵士はわずかだったが、そうすることで、脱走しそうな不良兵士をあらかじめ軍から切り離すことができたからである。[506]

 ソールズベリー伯は、ジャンヴィルから2人の伝令をオルレアンに派遣し、住民に降伏を呼びかけた。

 行政官たちは、この伝令を丁重にもてなし、バニエ郊外のラ・ポム邸に宿泊させ、ソールズベリー伯爵へワインの贈り物を託した。彼らは偉大な君主に対する義務を心得ていた。

 しかし彼らは、イングランド軍の駐屯部隊に門をひらくことを拒否し、当時の市民の習慣通り、「自分たちよりも強い者が中にいるので門を開けることはできない」と主張した。[507]

 危険が迫ってきた10月6日、司祭、市民、名士、商人、職人、女性、子供たちが十字架と旗を掲げて厳粛に行進し、賛美歌を歌い、町の守護者である天の神に祈りを捧げた。[508]

 同月12日の火曜日、敵がソローニュを通過しているとの知らせを受けて、行政官たちは兵士を派遣し、ロワール川左岸の郊外にある漁師町ル・ポルトローの家屋、およびその先にあるアウグスティノ会教会と修道院、さらに、敵が宿営したり陣地を敷く可能性のあるその他のすべての建物を取り壊した。

 しかし兵士たちは不意を突かれた。
 まさにその日、イングランド軍はオリヴェを占領してル・ポルトローに現れた。[509]

 彼らの中には、ヴェルヌイユの戦勝に貢献し、イングランド軍の花形と呼ばれる騎士たちが何人もいた。

 イングランド王に「いとこ」と呼ばれるほど寵愛されたポントルソン総督でヌセル領主トマス・スケールズ。
 フォーコンバーグ男爵ウィリアム・ネヴィル。
 エヴルーの官吏でウェールズの騎士ウィリアム・ゲシン。
 ソールズベリー伯の甥リチャード・グレイ卿。

 ギルバート・ハルソール、リチャード・パニンゲル、トーマス・ゲラールなど多数の騎士、その他多くの名士たちだ。

 ノルマンディーから来た200の槍騎兵の上には、サフォーク伯ウィリアム・ポールとジョン・ポールの旗がはためいていた。彼らは兄弟で、ウィリアム公の戦友の子孫だった。

 また、摂政の侍従長である騎士旗手トマス・ランプストン。
 コンシュの総督でエヴルーの代官兼隊長だったリチャード・ウォルター。
 騎士ウィリアム・モリンズ。
 フランスではグラシダ(Glacidas)と呼ばれたウィリアム・グラスデール(従騎士でアランソンの代官。卑しい生まれの男)などの旗もあった。[510]

 弓兵は全員が馬に乗っていた。歩兵はほとんどいなかった。
 牛に引かれた荷車には、火薬の樽、クロスボウ、弓矢、砲弾、あらゆる種類の銃火器、マスケット銃、猟銃、そして大型の大砲が積まれていた。
 イングランド軍の砲手長フィリベール・ド・モランとウィリアム・アップルビーの2人が部隊に同行した。
 また、鉱夫38人と親方が2人いた。
 女性も少なからずいたが、中にはスパイとして活動していた者もいた。[511]

 軍隊がオルレアンに到着したとき、道中で勝利するたびに脱走者を出していたため、大幅に兵力が減っていた。イングランドに帰った者もいれば、フランス国内を放浪して強盗や略奪を働く者もいた。

 まさに開戦当日の10月12日、ルーアンからノルマンディーの代官と総督に、ソールズベリー伯の部隊から離脱したイングランド人を逮捕せよという命令が出された。[512]

 レ・トゥーレルの砦(本塁・本丸)とその外塁(外側に張り出している副次的な要塞施設)が、オルレアンへ渡る橋の入り口を塞いでいた。

 イングランド軍は、郊外のル・ポルトローに陣を構え、サン・ジャン・ル・ブランの丘の上に大砲と臼砲を設置し[513]、次の日曜日には砲弾の雨をオルレアンの市街地に降らせた。町の家々はひどく痛めつけられたが、死者は1人のみ——川岸のシュノー裏門近くに住んでいたベルという名の女性——だった。

 ひとりの女性(ジャンヌ)の勝利で終結するオルレアン包囲戦は、ひとりの女性の死から始まったのである。

5.7 1428年10月12日、開戦

 その週、イングランド軍の砲撃でヌーヴ塔(新塔、La Tour Neuve)付近にある水車12基が破壊された。オルレアンでは小麦粉が不足しないように馬力で動​​く水車(製粉所)を11基建設した。[514]

 橋上では小競り合いが何度かあった。

 10月21日木曜日、イングランド軍はレ・トゥーレル砦の外塁(外側に張り出している副次的な要塞施設)を攻撃しようとした。
 傭兵の小さな一団と町の守備隊が、勇敢に防衛した。女性たちも手伝った。攻撃が続いた4時間の間、「ゴドン(イングランド人への蔑称)を焼き殺す」という考えに狂喜したおしゃべりな女性たちが、燃える炭や煮えたぎる油脂で満たされた鍋や​​フライパンを抱えて橋へ駆けつけ、長い行列が見られた。[515]

 この日の攻撃は退けたが、2日後、フランス軍は外塁が破壊されたことに気づいた。イングランド軍は地下通路を掘り、その支柱に火を放ったのだ。

 兵士たちは、これ以上の攻撃に耐えられないと判断し、みずから破壊し放棄することにした。崩れたレ・トゥーレルの砦で、町を守ることは不可能と考えられた。昔なら1カ月間は軍隊の進軍を阻止できたであろう塔も、今では砲撃に対して役に立たなくなっている。

 オルレアン市民は、橋上の「美しい十字架(ラ・ベル・クロワ)」の前に、土と木で新たに土塁を築いた。この新たな外塁の先にある(橋の)アーチ2つ分を切り落とし、(跳ね橋がわりに)可動式の台座を設置した。

 これらの作業がすべて完了すると、レ・トゥーレルの砦を惜しむことなく放棄し、イングランド軍に明け渡した。

 一方でイングランド軍は、橋の上に束ねた薪(たきぎ)と土で土累を築き、土塁の前方と後方のアーチを破壊した。[516]

 日曜日の夕方、聖ジョージ(イングランドの守護聖人)の旗が砦に立てられてから数時間後、イングランド軍総司令官ソールズベリー伯爵はウィリアム・グラスデールと数人の隊長とともに塔に上り、町の状況を偵察した。

 窓から眺めると、大砲で武装した城壁、尖塔(pinnacles)に消えた塔(towers)あるいは平らな屋根の上にテラスがある塔が見え、城壁は灰色に乾いていた。街の郊外には、立派な石細工で彫刻された教会や修道院があり、ブドウ畑や森は秋らしい黄色に染まり、ロワール川と中洲の島々は夕暮れの静けさの中でまどろんでいた。

 ソールズベリー伯は、城壁の弱点を探した。突破口になるはしごを立てられそうな場所だ。彼の計画は、オルレアンを攻撃によって陥落させることだった。

 ウィリアム・グラスデールは「閣下、あなたの街をよくご覧ください。ここから鳥のように町を一望できます」と言った。

 その瞬間、窓のくぼみに砲弾が炸裂した。城壁から飛んできた石の弾丸は、ソールズベリー伯に命中して片目と顔の半分を吹き飛ばした。

 その砲弾は、ノートルダム塔から発射された。
 少なくとも、一般的にはそう信じられていた。
 誰が撃ったのかは不明だ。

 音に驚いた市民が現場に急行すると、塔から出ていく子供と放置された大砲を見つけた。

 ソールズベリー伯が、修道士とノートルダム・ド・クレリー教会を略奪したため、腹を立てた聖母マリアの許可を得て、罪のない子供の手で弾丸を発射したのではないかと考えられた。あるいは、ソールズベリー伯はオルレアン公に「領地と町を尊重する」と約束したのに、その誓いを破ったために罰せられたとも言われた。

 ソールズベリー伯はひそかにムン=シュル=ロワールに運ばれ、10月27日水曜日にそこで亡くなった。イングランド人は非常に悲しんだ。[517]

 多くのイングランド人は、精力的に包囲戦を指揮し、わずか12日で都市防衛の要であるレ・トゥーレル砦を占領した指揮官の死を、取り返しのつかない損失だと感じていた。

 しかし、また別の人たちは、ソールズベリー伯は城壁から石の弾丸が飛んでくることを想像できなかった愚か者だと考えた。または、包囲による飢餓(兵糧攻め)によってしか陥落させることができないこの大都市を、攻撃で占領できると考えた彼は、気が狂っているとささやいた。

 そして、イングランド人はこう考えた。

「彼は死んだ。神よ、彼の魂を受け止めたまえ! しかし、彼のせいで我々は哀れにも窮地に陥った」

 人々は、有名な占星術師であるジャン・ド・ブイヨンがソールズベリー伯の死を予言していたこと[518]、そして運命の日の前夜にソールズベリー伯自身がオオカミに引っかかれる夢を見たことを語った。

 ノルマンディーの聖職者が、この悲しい死について2つの歌を作った。
 1つはイングランド人に対する歌、もう1つはイングランド人のための歌である。
 前者の歌のほうがより優れており、ソロモン王の深い知恵に匹敵するふさわしい対句で締めくくられている。[519]

確かに、ベッドフォード公爵は
賢明であるならば、妻と共に
要塞に籠もるだろう
できる限りの暖を取り[520]
極上のイポクラで(杯/人生を)締めくくり
身を守り、戦は捨てるが良い(戦争から離れよう)
貧しい者も富める者も、土に朽ち果てるのだから。[521]

⚠️イポクラ(ypocras):中世時代に珍重された甘口の媚薬ワイン。

Certes le duc de Bedefort
Se sage est, il se tendra
Avec sa femme en ung fort,
Chaudement le mieulx que il porra,
De bon ypocras finera,
Garde son corps, lesse la guerre:
Povre et riche porrist en terre.

5.8 オルレアンの私生児

 レ・トゥーレルの砦を奪われた翌日、その喪失をできる限り回復した後、「国王の中将」が町に乗り込んできた。

 ジャン卿は、ポルシアンおよびモンタンの伯爵で、シャルル七世のもとで「フランスの大侍従長」を務めており、1407年に無怖公ジャン(シャルル七世の家臣に殺されたブルゴーニュ公)の命令で暗殺されたオルレアン公ルイの息子である。

⚠️王弟オルレアン公ルイについて:狂王シャルル六世の弟。シャルル七世の叔父。精神に異常をきたした王の代理をめぐってブルゴーニュ無怖公と争った末に殺害された。王がまともに裁かなかったため、王弟オルレアン公の遺族と家臣はブルゴーニュ無怖公に弾劾状を送りつけ、宮廷闘争は武力衝突に発展。当時百年戦争は休戦中だったが、イングランドは内乱に乗じて再びフランスに侵攻する。
なお、「オルレアンの私生児」ジャンとシャルル七世は幼なじみで当時4〜5歳。

 オルレアン公ルイの死をきっかけにフランス王国で内紛が勃発し、アルマニャック派はブルゴーニュ派に抵抗するために武装した。

 母親はカニー出身の女性だが、公爵が父親である以上、オルレアン公爵夫人の息子として扱われた。

 不倫関係で生まれた婚外子(私生児・庶子)であっても、不利益になるどころか「王子の私生児」と呼ばれることは大きな名誉だった。

 百年戦争中ほど多くの私生児がいた時代はなく、「子供は穀物のようなものだ。盗んだ小麦を蒔いても、同じように芽を出す」という慣用句があった。[522]

 当時、「オルレアンの私生児」は弱冠26歳ほどだった。
 包囲戦の前年、ウォリック伯爵に包囲されていたモンタルジの住民に食料を届けるために、彼は少数の部隊を率いて急行した。彼は町に食料を運んだだけでなく、ラ・イル隊長の助けを借りて包囲軍を追い払った。これはオルレアンにとって幸先のいい兆しだった。[523]

 オルレアンの私生児は、当時の王侯貴族の中でもっとも賢かった。
 文法と占星術をよく知っており、誰よりも正確に話した。[524]
 親しみやすさと聡明さは父親譲りだが、父親よりも慎重で節度があった。
 彼の愛想の良さ、礼儀正しさ、そして思慮深さは、王妃も含めてすべての女性から好かれていたと言われている。[525]

 戦争でも外交でもあらゆることに有能で、驚くほど機転が利き、如才なく、完璧な嘘つきでもあった。

 我が君「オルレアンの私生児」殿は、名声ある騎士、隊長、従騎士、つまり高貴な生まれか勇敢な武勇の持ち主をつれてきた。

 ブサック元帥。
 ブルボネーの執事長セネシャルでショーモン領主ジャック・ド・シャバンヌ。
 ロンバルディアの騎士テオドール・ド・ヴァルペルグ。
 戦争と略奪に長け、最近はモンタルジの救援で功績をあげたラ・イル隊長。
 足の不自由な馬に乗って王のもとにやって来た若者たちのひとりで、苦難と貧困という二人の賢女から教訓を得たジャン・ド・ブイユ卿。

 これらの騎士は、800人の兵士、弓兵、弩兵、そしてヴェネツィアやフィレンツェの教会にある「聖ゲオルギウスの盾」のような幅広の盾を持ったイタリア歩兵を率いてきた。
 彼らは、現時点で集まることができたすべての貴族と自由人(傭兵)を代表していた。[526]

5.9 フランス軍とイングランド軍の攻防:砲手の活躍

 ソールズベリー伯の死後、イングランド軍は内部分裂によって麻痺し、脱走兵が後を絶たず、勢力が弱まっていた。

 冬が近づいていた。当面何もできないと考えた指揮官たちは、陣営を解散し、残った兵士たちとともに、ムンとジャルジョーの城壁の背後まで後退した。[527]

 11月8日の夕方、オルレアンの前に残っていたのは、ウィリアム・モリンズとウィリアム・グラスデールが指揮するノルマン騎兵500騎からなるレ・トゥーレルの守​​備隊だけだった。

 フランス軍が包囲して捕らえることもできたかもしれないが、彼らは動こうとしなかった。
 オルレアン総督である老齢のゴークール卿は、オテルリー通りの石畳で倒れて腕を骨折したばかりで、身動きが取れなかった。[528]

 しかし、残りの守備兵は何をしていたのか?

 実のところ、誰も何をすべきか知らなかった。
 これらの戦士たちは、包囲された町を救うためにさまざまな戦い方を知っていたに違いないが、それらはすべて奇襲作戦だった。[529]

 作戦と呼べるような技能は、索敵、待ち伏せ、小競り合い……その他、勇敢さを誇る武勇だけだった。奇襲による包囲解除に失敗した場合、彼らは次に何をすべきかわからず、活動を停止して無作為に過ごし、アイデアも資源も尽きていくのが常であった。
 経験豊富な隊長たちでさえ、共通の努力、連携した行動、継続的な精神努力、全員の力をひとつにまとめて遂行するような事業を立案も実行もできなかった。
 誰もが、自分の手柄のためだけに動き、戦利品(略奪)のことしか考えていなかった。

 オルレアンの防衛は、彼らの知性をはるかに超えていた。

 イングランド軍のグラスデール隊長は、21日間、ノルマン騎兵500騎とともにレ・トゥーレルの崩れた城壁の下——ル・ポルトロー側の土塁(まだそれほど強固ではなかったはず)と、ちょっとした火花で簡単に燃えそうな橋上の木造の防塁バリケードの間——に陣取り、静かに待っていた。

 その間、オルレアンの市民たちは作業に取り掛かっていた。
 イングランド軍がいなくなると、彼らは大規模で困難な仕事を遂行した。

 敵は今度はソローニュからではなくボースから戻ってくるだろうと予想し(実際それは正しい判断だった)、ル・ポルトローと同様に、西、北、東のすべての郊外にある施設を破壊した。

 市民の手で、22の教会と修道院を焼き払い、取り壊した。その中には、サン・テニャン教会とその修道院、サン・ユヴェルテ教会、サン・ローラン・デ・オルジェリル教会などがあり、その美しさから破壊されるのを見るのは惜しまれるほどだった。

 彼らは「町をイングランド軍から解放してくれたら、もっと美しい教会を新しく建てる」と町の守護聖人たちに約束した。[530]

 11月30日、ジョン・タルボット卿が大砲、臼砲、その他の戦力を備えた兵士300人を連れてレ・トゥーレルの砦に到着し、グラスデール隊長に合流した。

 それ以来、以前よりも激しい砲撃が再開された。屋根は突き破られ、壁は打ち砕かれたが、効果よりも騒音のほうが大きかった。
 プティ・スーリエ通りでは、5人が食事をしていたテーブルに砲弾が落ちたが、けが人はいなかった。これは、町の守護聖人である聖エニャンのとりなしによる神の奇跡だと考えられた。[531]

 オルレアンの人々は、包囲軍に対抗する手段を持っていた。
 町の砲兵隊は、70門の大砲と臼砲で構成され、砲手の専門職12人と彼らに仕える従者を用意していた。

 ギヨーム・デュイジーという非常に有能な創設者が、臼砲を鋳造した。
 それをシェノーの裏門の曲がり角、または細い尾根にあたる位置に設置して、重さ120リーブル(60キロ)の石弾をレ・トゥーレルに撃ち込んだ。

 この臼砲の近くには大砲が2門あり、ひとつはモンタルジの町が貸し出していたため「モンタルジ砲」と呼ばれ、もうひとつは非常に人気のある悪魔にちなんで「リフラール砲」と名付けられた。[532]

 アンジュー在住のロレーヌ人ジャン・ド・モンテスクレールという男は、国王の肝いりでオルレアンに派遣されたカルバリン砲の名手で、そこで月給12リーブルの報酬をもらっていた。[533]
 彼は当時、砲手として最高水準の達人だとみなされていた。
 巨大なカルバリン砲を担当し、イングランド軍に大きな損害を与えた。[534]

 メートル・ジャンと呼ばれるこの男は、ゆかいな人物だ。
 たまたま近くに砲弾が落ちると、彼は地面に倒れて動かなくなり、町に運ばれたため、イングランド軍は「あいつは死んだ」と信じて大喜びした。
 しかし、喜んだのもつかのま、メートル・ジャンはすぐに持ち場に戻り、以前と同じように彼らを砲撃した。[535]

 彼のカルバリン砲は、鉄製の「込め矢(ラムロッド)」を使って、鉛の弾丸を装填した。小型の大砲、あるいは車輪付きの砲台に搭載した「大型の銃」といった代物で、簡単に移動させることができた。[536]

 そのため、メートル・ジャンのカルバリン砲は、必要な時にはどこにでも運ばれていった。

⚠️メートル・ジャン:日本人には馴染みがない言葉だが、フランス語のメートル(Maître)は英語のマスター、ドイツ語のマイスターと同じ意味。

5.10 クリスマス休戦と年末年始の戦況

 12月25日、主の降誕祭クリスマスを祝うために休戦が宣言された。
 フランスとイングランドは同じ宗教を信仰していたので、祭日になると敵対心はなくなり、暦の上でお互いがキリスト教徒であることを思い出すたびに、両軍の騎士たちは礼儀正しく和解した。

 ノエル(クリスマス)は明るい祝祭である。
 グラスデール隊長は、イングランドの習慣に従ってクリスマスキャロルを歌ってこの日を祝いたいと考えた。「オルレアンの私生児」ジャン卿とブサック元帥に、音楽隊を派遣してほしいと頼むと、二人は快く応じた。

 オルレアンの音楽家たちは、クラリオンとトランペットを持ってレ・トゥーレルの砦に向かい、イングランド人が喜ぶようなクリスマスキャロルを演奏した。オルレアンの人々も橋上まで音楽を聴きに来て、心地よい音色に浸った。

 しかし、休戦が終わるとすぐに我に返った。
 まどろんでいた大砲は目を覚まし、岸辺からもう一方の岸辺に向かって、石弾や銅の砲弾が激しく飛び交った。[537]

 12月30日、オルレアンの人々が予想していたことが起こった。
 イングランド軍が大挙してラ・ボースを通り、サン・ローラン・デ・オルジェリルに攻め寄せてきたのである。フランスの騎士たちは総出で迎え撃ったが、イングランド軍はサン・ローランを占領し、包囲戦が本格的に始まった。

 イングランド軍はロワール川の左岸、ル・ポルトローの西にある聖プリヴェの野原と、サン・ローラン・デ・オルジェリルの右川にある小島(中洲)にそれぞれ砦(堡塁)を築いた。

 右岸のサン・ローランには、塹壕で囲まれた陣地を構築した。
 ブロワへ通じる道沿い、弓矢で届く距離のラ・クロワ・ボワセと呼ばれる場所にも、別の砦(堡塁)を築いた。
 また、2発の弓矢2射程分の距離、ル・マンへ通じる道の北側にあるレ・ドゥーズ・ピエールと呼ばれる場所に、「ロンドン」という砦(堡塁)を築いた。[540]

 これらの工事によりオルレアンの半分が包囲されたが、実際はまったく包囲してないのも同然で、人々は自由に出入りできた。

 国王(シャルル七世)が派遣した小規模な救援部隊は、何の支障もなく町に到着した。

 1429年1月5日、キュラン提督は兵士500人を率いてサン・ルーの対岸でロワール川を渡り、ブルゴーニュ門からオルレアン市内に入った。

 2月8日には、スコットランドからきた大元帥の兄弟であるウィリアム・スチュアートが、十分な装備を整えた戦闘員1000人の先頭に立ち、数人の騎士と従騎士を従えて入城した。翌日には、兵士320人が続いた。

 食料と弾薬は絶え間なく補給され、1月3日には豚954頭と羊400頭、10日には火薬と備蓄食料が到着した。 12日には豚600頭、24日には肥えた牛600頭と豚200頭、31日には油と脂肪を積んだ馬8頭が運ばれてきた。[541]

 ソールズベリー伯の死後[542]、スケールズ卿、ウィリアム・ポール、ジョン・タルボット卿が包囲戦の任務を引き継いだが、誰が見ても、包囲が完成して「堀でつながれた環状の砦で街を囲む」には、まだ何カ月もかかることは明らかだった。

 その間、哀れなゴドン兵(イングランド人に対する蔑称)は、泥と雪に耳まで浸かり、木と土でできたみすぼらしい小屋で凍えていた。

 このままでは、包囲されたオルレアンよりもイングランド軍の方が悲惨な状況に陥り、さらに飢餓に苦しむ危険まで迫ってきた。
 そのため、亡きソールズベリー伯のやり方に倣い、彼らはときどき事態を打開しようと試みた。成功の見込みは薄いが、襲撃によって力づくで町を奪おうとしたのだ。[543]

 ルナール門側の城壁は他よりも低く、またイングランド軍の最強の兵力がこの方面に展開していたため、この城壁を攻撃することを好んだ。
 彼らはイングランドの守護聖人「聖ジョージ」の名を叫びながら城壁に突撃し、レナール門を襲撃したが、国王軍の兵士と町の民兵が追い返した。[544]

 このような計画性のない無駄な攻撃のたびに、イングランド軍は多くの兵士を犠牲にした。すでに兵士も馬も不足していた。

⚠️聖ジョージ:イングランドの守護聖人。ゲオルギウスとも。合戦や突撃など、士気を鼓舞するために多人数の者が同時に発するときの声。
なお、フランス人の場合は「聖ドニ」と叫ぶ。

 イングランド軍は、南と西から二重の砲撃をしていたが、オルレアンの人々を驚かせることさえできなかった。
 街では、ラ・ポルト・バニエールの近くにいた100人ほどの群衆の中に大きな砲弾が落ちてきたが誰にも当たらなかった。靴を飛ばされた人がいたが、「靴を履き直す以外に被害はなかった」というジョークが広まった。[545]

 フランス、イングランド、ブルゴーニュの騎士たちは、勇猛果敢な武勇を披露することに喜びを感じていた。

 彼らは気まぐれで、わずかな抵抗にも反応して飛び出していったが、常に戦利品を略奪することが目的で、それ以外のことはほとんど考えていなかった。

 例えば、1月末のある日、寒さが厳しくなってきたので、イングランド軍の略奪者の小集団が、たきぎ用の枝を集めるためにサン・ラドルとサンジャン・ド・ラ・リュエルのブドウ畑に侵入した。

 見張り番の知らせを受けるとすぐ、あらゆる旗が風にはためきながら飛んでいくのが見えた。ブサック元帥、ブルボネの執事長セネシャルジャック・ド・シャバンヌ卿、ドニ・ド・シャイイ卿、その他大勢の男爵、そして彼らと共に隊長や傭兵たちが野原に出て行った。
 彼らのうち、20人ほどの兵士を統率・指揮できた者は一人もいなかった。[546]

5.11 1429年2月、ニシンの戦い

 国王の評議会は、オルレアン救援のためにあらゆる努力をしていた。
 国王(シャルル七世)はオーヴェルニュの貴族たちを召集した。

 彼らは、ノートルダム・ダンシスの聖職者(Canon)でまだ子供と呼べる年齢の王太子が、反乱を起こした2〜3人の男爵を鎮圧するために険しい山々を越えて旅をした日からずっと、ユリの花(フランス王家の紋章)に忠誠を誓ってきた。[547]

⚠️Canon:聖職者の一種。司教座聖堂参事会員。私有財産を持たない司教や修道士と違って、世俗の仕事や財産を持っている。司祭、助祭、副助祭などの階位に応じてさまざまな聖務を執り行うことができる。シャルル七世は十代半ばにこの資格を取得している。

 国王の呼びかけに応じて、オーヴェルニュの貴族たちは山から出てきた。

 2月初旬、クレルモン伯の旗のもと、彼らはブロワに到着した。そこでスコットランドの司令官ジョン・ステュアート・オブ・ダーンリーが率いるスコットランド軍と、ラ・トゥール・ドーヴェルニュ男爵とトゥアール男爵の指揮下にあるブルボネ出身の部隊と合流した。[548]

 ちょうどその頃、オルレアンを包囲するイングランド軍のために、ジョン・ファストルフがパリから食料と弾薬などの補給物資を輸送しているという知らせが届いた。

 オルレアンの私生児は、クレルモン伯と対策を話し合うため、兵士200人を連れてオルレアンから出発した。
 すぐに攻撃することが決まった。クレルモン伯と私生児の指揮のもと、ブロワからの全軍は、ジョン・ファストルフを迎え撃つためエタンプに向かった。[549]

 2月11日、オルレアンから1500人の戦士が出撃した。指揮官はギヨーム・ダルブレ卿、スコットランド総司令官の弟であるウィリアム・スチュアート卿、ブサック元帥、グラヴェル卿、サントライユ隊長2名、ラ・イル隊長、ヴェルデュザン卿、その他大勢の騎士や従騎士だった。

 彼らは、オルレアンの私生児に呼び出され、エタンプへの道中にあるアンジェルヴィル近郊のルーヴレ・サン・ドニ村で、クレルモン伯の軍隊に合流するよう命じられた。[550]

 翌日の土曜日、四旬節(レント)の最初の日曜日の前夜、彼らはクレルモン伯の軍隊より先にルーヴレイに到着した。

 そこで、早朝、ザントライユとラ・イルのガスコーニュ人2人は、エタンプ街道に沿って平野を行軍しているイングランド補給部隊の先頭を発見した。

 そこには、補給物資を満載した荷馬車300台が長い列をなし、ノルマンディー、ピカルディ、パリから派遣されたイングランド兵に守られながら商人や農民が率いていた。多くても1500人ほどだったが、皆落ち着いていて警戒心が薄かった。

 ガスコーニュ人ふたりは、当然ながら、敵が油断している瞬間に不意打ちで襲いかかり、短時間で片付けようと考えた。

 彼らは大急ぎでクレルモン伯に攻撃の許可を求めた。

 トロイアのアブサロムやパリスのような美男子で、口数が多く虚栄心に満ちたクレルモン伯は、拍車を与えられた(騎士に叙任された)ばかりでこれが初陣だった。まだ若く、あまり賢明とはいえなかった。[552]

 彼は愚かにも、「自分が到着するまで攻撃しないように」と指示した。
 ガスコーニュ人は大いに失望しながらも指示に従ったが、待つことで何が失われるかを理解していた。

 やがてイングランドの補給部隊は、自分たちが虎口に入ったことに気づき、指揮官のジョン・ファストルフ、エヴルーの代官リチャード・ゲシン、パリの憲兵司令官シモン・モリエは、万全の戦闘態勢を整えた。

 平野に荷馬車を並べて細長い「囲み」を作り、そこに騎兵を駐屯させ、前方には弓兵を配置して、先端の尖った杭を地面に突き立てた。[553]

 このような備えを見て、スコットランドの司令官は我慢できなくなり、騎兵400人を率いて突撃させたが、杭に阻まれて馬の脚が折れてしまった。[554]

 イングランド軍は、自分たちを取り囲んでいる相手は少数の部隊に過ぎないと気づき、騎兵を出して猛烈な突撃を仕掛け、フランス軍を打倒して300人を殺害した。

 その頃、オーヴェルニュの兵士たちはルーヴレに到着し、村を捜索して地下室を空にしていた(略奪していた)。オルレアンの私生児は、彼らを置いて、兵士400人を連れてスコットランド軍の救援に向かった。しかし、彼は足を負傷し、捕らえられる寸前の危機に瀕していた。[555]

 この戦闘で、ウィリアム・スチュアート卿と彼の兄弟、ヴェルデュザン、シャトーブラン、ロシュシュアールの領主、ジャン・シャボーをはじめ、その他大勢の高貴で勇敢な者たちが命を落とした。[556]

 イングランド軍はこの殺戮では飽き足らず、逃亡者を追いかけて散り散りになった。

 ラ・イルとザントライユは、敵の軍旗が平原に散らばっているのを見て、できるだけ多くの兵士を60人から80人をほど集めてイングランド軍の一部に襲い掛かり、これを打ち負かした。

 もし、この時点でフランス軍の残りが集結していれば、その日の名誉と優位を挽回できたかもしれない。[557]

 しかし、クレルモン伯は、オルレアンの私生児とスコットランドの司令官を助けようとしなかったばかりか、最後まで臆病さを見せつけた。仲間が全員殺されたのを見届けると、軍隊を率いてオルレアンに向かい、2月12日の夜遅くに到着した。[558]

 その後、ラ・トゥール・ドーヴェルニュ男爵、トゥアール子爵、ブサック元帥、グラヴェル卿、そして辛うじて鞍にしがみついたオルレアンの私生児が、秩序なき部隊を率いて戻ってきた。

 ジャメ・デュ・ティレー、ラ・イル、ザントライユは最後に到着し、イングランド軍の援軍が砦から襲撃して完全な敗北を喫することのないよう、しんがりとなって見張っていた。[559]

 四旬節の断食が始まっていたため、オルレアンを包囲するイングランド軍のために、ジョン・ファストルフ卿がパリから運んできた食料は、主にニシンの燻製だった。

 この戦闘で樽が壊されて、中に詰まっていたニシンが損傷していた。
 イングランド人は、皮肉たっぷりに「ディエップ出身者(ニシンの産地)を多く打ち破ったフランス軍」を称えて、この戦いを陽気に「ニシンの戦い」と名付けた。[560]

5.12 オルレアンの絶望と新たな希望「ラ・ピュセル」

 クレルモン伯は国王の親戚であったにもかかわらず、オルレアンの人々は彼を冷遇した。彼は恥ずべき裏切り行為をしたと批判され、本人に直接伝える者もいた。

 翌日、クレルモン伯はオーヴェルニュとブルボネの部下たちを連れて、戦わない者を応援しない人々の歓喜に見送られながら街を出て行った。[561]

 同時に、フランス海軍のルイ・ド・キュラン提督とラ・イル隊長が兵士2000人を率いて町を去った。
 彼らが出発するときは市民から不満の声が上がり、落ち着かせるために「隊長たちは新たな援軍と食料を調達しに行くのだ」と説明しなければならなかったが、それは事実だった。

 オルレアンに到着した日付は不明だが、ルニョー・ド・シャルトル卿も彼らとともに出ていった。しかし、彼はもともとフランス大法官で、「国王の評議会」が本来の居場所だったため、特に疑問を持たれなかった。

 しかし、聖ユヴェルテと聖エニャンの後継者であるオルレアン大司教のミシェル卿が、苦しんでいる配偶者を見捨てて司教座を去ったことは、奇妙に思われたに違いない。[562]

 ネズミが逃げ出すとき、船は沈没寸前である。
 街に残ったのは、オルレアンの私生児とブサック元帥だけだった。
 そして、元帥でさえ長くはとどまらなかった。

 1カ月後、ブサック元帥は「国王が自分を必要としている」こと、そして「義理の兄弟であるシャトーブラン卿がニシンの戦いで亡くなったため、妻を通して彼に与えられた広大な領地を相続するために行かなければならない」と言って、オルレアンから出ていった。[563]

 町の人々は、その理由を正当なものとみなした。
 ブサック元帥はすぐに戻ってくると約束し、人々は満足した。

 ブサック元帥は王国の繁栄を心から願う貴族のひとりだった。[564]
 しかし、領地を持つ者は、自分の領地で義務を果たさなければならない。

 オルレアンの人々は、自分たちが裏切られ見捨てられたように感じて、自分たちの安全を確保しようと思いついた。

 国王はオルレアンを守れないと考え、イングランド人から逃れるために、国王よりも力のある者に身をゆだねようと決意した。

 そこで彼らは、ブルゴーニュ公フィリップのもとに、公爵と面識のあるザントライユ隊長と、市の行政官ジャン・ド・サンタヴィとギオン・デュ・フォッセを派遣した。ザントライユはかつてブルゴーニュの捕虜になった過去があった。

 彼らの使命は、公爵が街を好意的に扱ってくれるように交渉し、また「イングランドで捕虜となっているオルレアン公シャルルは自分の領地を守ることができないため、イングランド軍に王国の混乱が落ち着くまで包囲網を解くように」と仲裁してもらうことであった。[565]

 つまり、彼らはブルゴーニュ公の手に町を担保として差し出そうとしていた。

 このような申し出は、ブルゴーニュ公の密かな願望と一致していた。
 ブルゴーニュ公は、オルレアン包囲網にブルゴーニュの騎馬を数百騎も送り込んでイングランド軍を後方支援していた。この申し出を無駄にするつもりはなかった。[566]

 オルレアンの人々は、保護される日を待ち望みながら不安定な日々を送り、できる限り自分たちの身を守ろうとした。

 彼らは不安を抱えていたが、それには理由があった。
 敵が街に侵入するのを防ぐことはできても、敵を速やかに追い払う手段を思いつかなかったからだ。

 3月初旬、イングランド軍がラ・クロワ・ボワセからサン・ラドルまで、砦(堡塁)から砦へと移動するときに隠れ場所にする溝を掘っていることに気づき、心配しながら見守っていた。

 オルレアンの人々は、この工事を阻止しようとした。
 ゴドン人(イングランド人に対する蔑称)を猛攻撃して、何人かの捕虜を捕らえた。メートル・ジャンは2発の砲撃で、戦死したソールズベリー伯の甥であるグレイ卿を含む5人を討ち取った[567]

 しかし、イングランド軍が工事を完了するのを阻止できなかった。
 包囲網は凄まじい勢いで進んだ。疑心暗鬼に駆られ、不安に襲われ、眠ることも休むこともできず、何も成功しないまま、オルレアンの人々は絶望し始めた。

 突然、奇妙な噂が生まれ、たちまち広まり、人々はその話を信じた。

 伝えられるところによると、最近、ジアンの町を一人の「若い下女(ラ・ピュセル)」が通りすぎた。彼女は、優しい王太子がいるシノンへ向かっている途中で、オルレアンの包囲を解き、国王をランスでの塗油式に導くために神から遣わされたという。[568]

 ピュセル(pucelle)とは俗語で、手仕事で生計を立てる身分の低い生まれの少女のことで、一般的には召使いを指す。
 そのため、台所で使われる鉛製の水差しも、よくピュセル(pucelles)と呼ばれていた。この言葉は、確かに下品な意味も含まれていたが、悪い意味はなかった。

 オルレアン近郊の詩人クロピネルによる淫らな言葉「Je légue ma pucelle à mon curé(私の処女を神父様に捧げます)」が知られていたにもかかわらず、ラ・ピュセルは道徳心のある善良な少女を表すために使われた。[569]

 身分が低く、貧しい者のひとりである小さな聖女が、オルレアンに神の助けをもたらそうとしているという知らせは、包囲戦の熱気に興奮した人々に強い印象を与え、恐怖の反動からか信心深いものとなっていった。

 ラ・ピュセルの噂は、燃えるような好奇心を駆り立て、オルレアンの私生児は賢い人物らしく、この話を奨励するのが賢明だと考えた。

 彼は、シノンに騎士を二人派遣し、「ラ・ピュセル」について調べるよう命じた。

 一人はモンタルジ総督のアルシャンボー・ド・ヴィラールで、オルレアンの私生児卿はすでに彼を国王のもとに送っていた。1402年にモンタンドルでイングランド人7人と決闘したフランス人7人のうちのひとりで、亡きオルレアン公ルイ(オルレアンの私生児の実父)の親友であり、すでに老年の騎士だった。[570]
 初期からのオルレアン市民であった彼は、高齢にもかかわらず、10月21日にレ・トゥーレルを精力的に防衛した。

 もう一人は、ブルターニュの従騎士ジャメ・デュ・ティレーで、最近ルーヴレ(ニシンの戦い)での退却を部下とともに援護して大きな名誉を得たばかりだった。

 二人が出発すると、町中の人々が彼らの帰還を待ちわびた。[571]

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