教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第三章 ヴォークルール初訪問/ヌフシャトーとトゥールへ/ヴォークルール再訪
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アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』完訳プロジェクト。原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
現在、禁書制度は廃止されているが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明している。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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3.1 ヴォークルール初訪問:ロベール・ド・ボードリクールに接触
当時、王太子シャルル(シャルル七世)のためにヴォークルールの町を統治していたロベール・ド・ボードリクールは、かつてバル公ロベールの侍従でありポン=タ=ムッソンを統治していた故リエボー・ド・ボードリクールと、バシニー地方ブレーズの女領主マルグリット・ドーノワの息子だった。
14~15年前、ロベール卿は二人の叔父、ポワティエの庶子ギヨームとジャン・ドーノワの後を継いで、ショーモンの代官(Bailie)およびヴォークルールの司令官(Commander)に就任した。
彼の最初の妻は裕福な未亡人だったが、彼女の死後、1425年に最初の妻と同じくらい裕福な別の未亡人、アラールド・ド・シャンブレー夫人と再婚した。
なお、ウリュフとジボメの羊飼いたちが、婚礼の宴のために注文された菓子を運んでいた荷車を盗んだという話は事実である。
ロベール卿は、当時、その地域にいた大多数の戦士たちと同じように、貪欲で狡猾だった。
敵の中に多くの友がおり、友の中に多くの敵がいた。
ある時は味方のために、またある時は敵方で戦ったが、それは常に自分自身の利益のためであった。
その他の点では、彼は仲間たちと比べてとりわけ悪いわけではなく、最も愚かでない人間のひとりだった。[328]
ジャンヌは、粗末な赤いガウン[329]を身にまとっていたが、心の中は神秘的な愛に輝きながら、町と谷を見下ろす丘を登った。
城門は祭日(市場の日)のように自由に行き来できたため、ジャンヌは難なく城内に入り、ロベール卿が部下の兵士たちとともにいる広間(ホール)へと導かれた。
ジャンヌは、「あれが彼だ!」[330]という声を聞いた。
すぐさま、ロベール卿のところにまっすぐに進み出ると、恐れることなく話しかけ、おそらくジャンヌ自身が「最も急を要する」と信じることから話し始めた。
「わが主(Messire)から遣わされて、あなたのところに来ました。王太子に使者を送って、『準備を整えて待つように、ただし敵と戦わないように』と伝えてください」[331]
ジャンヌは確かに、自分の「声」による新たな啓示に促されて、このように語った。
注目すべきは、ジャンヌがここで語った言葉が、75年前にヴォークルールからほど近いシャンパーニュの自由農民《ヴァヴァソール》(Vavasour:農奴ではない自由農民)が語った言葉と一言一句同じだったという事実である。
⚠️自由農民(Vavasour):中世ヨーロッパの封建制度における階級の一つ。大領主(国王や公爵など)から直接領地を与えられた直臣(大バロン)ではなく、その直臣からさらに領地を与えられた「家臣の家臣(陪臣)」を指す。土地に縛られた農奴とは異なり、法的に自由な権利を持つ「下級貴族」でもある。
この農民の(啓示を受けた預言者としての)経歴は、ジャンヌと同じように始まったが、ジャンヌよりもはるかに短期間で終わりを迎えた。
戦争に関する啓示を受けたと語ったのは、ジャック・ダルクの娘(ジャンヌ)が最初ではなかった。大きな苦難の時代には、霊感を受けた人物がもっとも頻繁に現れる時期である。
百年戦争初期、黒死病とエドワード黒太子の時代に、シャンパーニュ地方の自由農民《ヴァヴァソール》は光の束の中から発せられる「声」を聞いた。
彼が畑で働いているとき、「声」が彼に語りかけた。
「フランス王ジャン(ジャン二世・シャルル七世の曽祖父)にのもとへ行け。いかなる敵とも戦ってはならぬと警告せよ」
それは、ポワティエの戦いの数日前のことだった。[332]
⚠️ポワティエの戦い(Bataille de Poitiers):百年戦争前半の主要な戦いの一つ。1356年9月19日、イングランドのエドワード黒太子が8月からアキテーヌ地方を拠点に行軍と略奪を繰り返しており、ジャン二世は討伐を試みたが奇襲を受けて敗北。王が捕虜となり、フランスは莫大な身代金を要求された。
1356年当時の忠告は賢明なものだったが、1428年5月時点の(ジャンヌの)忠告はあまり賢明とは思えず、当時の情勢とはほとんど関係ないように見える。
ヴェルヌイユの戦いで大敗して以来、フランス軍は敵に立ち向かう意欲を失っており、決戦を挑もうとは考えてもいなかった。
いくつもの町が奪われ、消滅し、小競り合いが起こり、対処が試みられたが、敵と陣を構えて戦うような激しい戦闘をしていなかった。
当時、生まれつきの性格と運命(境遇)ゆえに、王太子シャルルは冒険を好まなかったため、わざわざ「敵に戦いを挑むな」と警告して抑える必要はなかった。[333]
ジャンヌがロベール卿の前でこれらの話をしていた頃、フランス北部を占領しているイングランド軍は遠征の準備を進めており、アンジェに進軍するかオルレアンに進軍するかを決めかねて迷っていた。[334]
ジャンヌは大天使と聖女たちのささやきに従って言葉を発したが、戦争や王国の情勢について、彼ら(声)が知っていることはジャンヌより多くも少なくもなく、ほとんど何も知らなかった。
しかし、みずからを「神の遣い」だと信じる者が、自分が行くまで「待つように」と求めるのは不思議ではない。
また、フランスの騎士たちが、再び《《自分たちのやり方》》で戦いを挑むのではないかと、ジャンヌが恐れたのは、いかにも民衆らしい健全な常識が大いに関係していた。騎士の戦い方がどういうものかを、あまりにもよく知りすぎていたからだ。
3.2 ジャンヌの予言、ベルトラン・ド・プーランジとの出会い
ジャンヌは完全に落ち着いており、自信に満ちた様子で、「四旬節(レント)の半ばまでに、主は王太子に助けを与えるでしょう」と王太子に関する予言を口にした。そしてすぐに付け加えた。
「実際には、この王国は王太子のものではありません。しかし、わが主の意志によって、王太子は王となり、王国を『信託(アン・コンマン)』されて受け継ぎます。[335] 敵がいるにもかかわらず、王太子は王となるでしょう。そして、彼をその塗油式(戴冠式)へと導くのはこの私なのです」
おそらく、ジャンヌが用いた「わが主(Messire))」という尊称は、曖昧で奇妙な響きだったのだろう。
なぜなら、ロベール卿はそれが理解できず、「わが主とは誰のことか?」と問い返したからである。
ジャンヌは「天国の王です」と答えた。
このとき、ジャンヌはもうひとつ、奇妙な言葉を使っていた。
ロベール卿はそれについて何も言わなかったらしいが、示唆に富む言葉だ。[336]
王位継承に関して使用された「アン・コンマン(en command)」という言葉は、相続に関わる事柄で「信託されたもの」を意味する。もし、王が王国を「信託」として譲り受けるというならば、王国は王のものではなく、単に神の信頼によって王国を預かっているにすぎない。
ジャンヌのこの発言は、「王国の支配者は神である」という、極端に信心深い宗教家の見解と一致していた。
ジャンヌが独力でこの言葉や考えを思いついたはずがない。
彼女は明らかに、「ロレーヌの予言」ですでにその影響が認められる[338]、ある聖職者から教唆されていたのだろう。しかし、現在まで、その人物の痕跡は完全に消え去ってしまっている。
霊的な事柄について、ジャンヌは何人かの司祭に相談していた。ゴンドルクール・ル・シャトーのアルノラン師や、彼女の告解師(懺悔聴聞僧)だったムーティエ・シュル・ソーの司祭ドミニク・ジャコブ師などである。[339]
これらの聖職者たちが、イングランドの飽くなき残酷さ、ブルゴーニュ公の傲慢さ、王太子の不幸についてどう考えていたのか。そしていつの日か、主イエス・キリストが庶民の祈りを聞き入れて、シャルル六世の息子シャルルに王国を「信託(アン・コンマン)」として与えてくれることを願っていたのかどうか。それがわからないのは残念なことだ。
ジャンヌはおそらく、これら聖職者の誰かから神権主義的な思想を吹き込まれたのだろう。[340]
ジャンヌがロベール卿と話している間、ロレーヌの騎士であるベルトラン・ド・プーランジがそこにいた。彼は、ゴンドルクール近郊に土地を所有し、ヴォークルールの司教区の役職(provostship)に就いていた。[341]
当時36歳くらいだった。
彼は教会の聖職者と親しく付き合い、少なくとも信心深い人たちの話題に詳しかった。[342]
彼は、このときジャンヌを初めて見たかもしれないが、おそらく彼女の噂を聞いていた。そして、ジャンヌが善良で信心深い人だと知っていた。
12年前、ベルトラン・ド・プーランジはドンレミ村を頻繁に訪れており、この地域のことをよく知っていた。あの「女神の木」の下に座ったことがあり、ジャック・ダルクとロメ夫婦の家に何度か行ったことがあるので、彼らは善良で正直な農民だと知っていた。[343]
ベルトラン・ド・プーランジは、ジャンヌの言動に感銘を受けたのかもしれない。
だが、それよりも、この騎士は、現在知られていない「ジャンヌを導いた聖職者」と繋がっており、フランス王国と教会のために、農民の女預言者がもっとよく奉仕できるように指導していた可能性が高い。
いずれにせよ、ベルトランは将来、ジャンヌの強力な支えとなる友人になった。
しかし、情報が正しければ、ベルトラン・ド・プーランジはこの時点では何もせず、何も話さなかった。
おそらく、町の司令官であるロベール卿が、ジャンヌの話をもっと好意的に聞けるようになるまで待った方がいいと判断したのだろう。ロベール卿は、これらすべてをまったく理解していなかった。
ベルトラン・ド・プーランジにとって明らかだったのは、ジャンヌは立派な従軍者になり、兵士たちに愛されるだろうということだ。[344]
ロベール卿は、ジャンヌを連れてきた農民を追い返す際、当時よくありがちなしつけに従って「この娘を父親のところに連れて帰り、耳をしっかり叩くように」と忠告した。
ロベール卿は、子供を懲らしめる体罰は正しいと信じていたので、ラッソワ叔父さんに何度も「ジャンヌを家に連れて帰り、よく鞭打つように」と勧めた。[345]
3.3 夢見るジャンヌと両親の困惑
一週間後、ジャンヌは村に戻った。
司令官の無礼も守備隊の侮辱も、ジャンヌを諦めさせるどころか、落胆もさせなかった。ジャンヌは「声」がそれらを予言していたと想像し[346]、自分の使命が真実であると証明するものだと考えた。
夢を見ながら歩く夢遊病者のように、ジャンヌは障害にぶつかっても落ち着いていて、静かに粘り強く行動した。
家の中で、庭で、牧草地で、ジャンヌはすばらしい眠りを続け、夢の中で王太子やその騎士たち、そして天使たちが上空で舞いながら戦う光景を夢想していた。
また、ジャンヌは黙っていることができなかった。
あらゆる機会に、ジャンヌの秘密は彼女自身の口から漏れてしまった。
いつも予言していたが、誰にも信じてもらえなかった。
帰宅して約1カ月後、洗礼者ヨハネの祝日の前夜に、ジャンヌはビュレの農夫で、当時はまだ少年だったミシェル・ルブアンに次のように語った。
「クセとヴォークルールの間には、1年以内に王太子をフランス王に任命する少女がいる」[347]
ある日、ドンレミ村で王太子の党派に属していない唯一の人物、ジェラルダン・デピナルに出会った。
ジャンヌは彼の息子の名付け親だったにもかかわらず、ジャンヌ自身の告白によれば、喜んで彼の首を切り落としてやりたいと思っていたが、そんな相手にも黙っていられず、神との神秘的な関係を隠語で告げずにはいられなかった。
「うわさ話(ゴシップ)なんだけどね。もし、あなたがブルゴーニュ派じゃなかったら、教えてあげたいことがあるの」[348]
ジェラルダン・デピナルは善良な男だったので、ジャック・ダルクの娘は近いうちに婚約するのではないかと考えた。「妖精の木」の下でパンを分け合ったり、「グーズベリーの泉」の水を一緒に飲んでいた若者のひとりと結婚するのではないかと。
ああ! 父親のジャック・ダルクは「そのような秘密だったらどんなに良かったか」と望んでいただろう。
ジャック・ダルクは実直で非常に厳しかったため、子供たちの行動に気を配っていたが、ジャンヌの行動は父を不安にさせていた。
彼は、ジャンヌが「声」を聞いていることを知らなかった。
一日中、彼の庭に楽園が降りてきて、天国から彼の家にはしごが降ろされ、かつて「ヤコブの梯子」を踏んだ天使よりも大勢の天使や聖女たちが行き交っているとは考えもしなかった。
⚠️ヤコブの|梯子《はしご》:旧約聖書『創世記』28章で族長ヤコブが逃亡中に夢に見た天国へ届くはしご。天使たちが上り下りしている
また、誰にも気づかれずに、ジャネット(ジャンヌの幼名)だけのために、トゥールやナンシーなどの町で祝祭日に演じられる演目よりも何千倍も豊かで素晴らしい神秘劇が演じられていることを想像もしなかった。
彼は、そのような驚異的な奇跡を疑うどころか、全然考えていなかった。
父ジャックが見たものは、娘が正気を失い、気が狂い始めて、荒唐無稽な言葉を発していることだけだ。
ジャックは、娘が騎士と戦争のことしか考えていないことに気づいた。
ヴォークルールでの騒動について何か知っていたに違いない。
ジャックは、いつの日か、この不幸な子が放浪の旅に出てしまうのではないかと、ひどく恐れていた。
この苦しい不安は、寝ている間も彼を悩ませた。
ある夜、ジャックはジャンヌが武装した男たちと一緒に村から逃げる夢を見た。この夢は非常に鮮明で、目が覚めても覚えていた。
それから数日間、ジャックは息子のジャンとピエールに何度も何度も言った。
「もし、あの夢が正夢なら、現実になる前におまえたちの手でジャンヌを川に沈めて溺死させてほしい。おまえたちがやらないなら、俺自身の手でやる」[349]
母親のイザベルは、父のその言葉を繰り返しジャンヌに言い聞かせた。
娘が驚いて目を覚まし、言動を改めてくれるように願っていた。
ジャンヌの母親は敬虔な人だったが、父親と同じ不安を共有していた。
娘が道を外れて危険にさらされるのではないかという考えは、善良な人々にとってつらいことであった。
困難な時代には、武装した男たちが馬に乗せて連れている野蛮な(不品行な)女が大勢いた。そういう男たちはそれぞれが自分の女を確保していた。
若き日の聖人が、常人には理解できない奇妙な言動によって疑惑を招くことは珍しくない。ジャンヌはそういった聖人の兆候を示していた。
ジャンヌは村で話題になっていた。村人たちは指を差して嘲笑した。
「フランスと王家を復興する女が去っていくよ」[350]
近所の人たちは、ジャンヌに取り憑いている狂気の原因をすぐに突き止めた。
「美しい5月(Beau Mai)」と呼ばれる女神の木の下で、花冠を飾っているのが目撃されていたから、魔法の呪文のせいだと言われた。
近くの泉と同様に、この古いブナの木は幽霊が出ることで知られていた。
妖精たちが呪文をかけることもよく知られていた。
ジャンヌがそこで悪い妖精に出会ったのを見た人もいた。
村人たちは「ジャンヌは妖精(フェ)の木の下で『運命(フェイト)』に出会った」と言った。
その話を信じるのが、農民だけならよかったのに!
3.4 戦火を逃れてヌフシャトーの町へ
6月22日、シャンパーニュ地方の総督アントワーヌ・ド・ヴェルジーは、イングランドの幼君ヘンリー六世のフランス摂政であるベッドフォード公から「ヴォークルールの城をイングランドに服従させる目的で重装歩兵1000人を派遣するように」と命じられた。
3週間後、ヴェルジー家の2人、アントワーヌとジャンの指揮のもと、小規模な部隊が出発した。部隊は、上級(旗持ち)騎士4人、下級騎士14人、重装歩兵363人で構成されていた。ボーヴェの司令官ピエール・ド・トリエ、ヌーシャテル伯ジャン、フリブール伯が本隊に加わるように命じられた。[352]
行軍中、アントワーヌ・ド・ヴェルジーはいつものように、城の領地にあるすべての村を火と剣で蹂躙した。
ドンレミ村とグルー村の人々は、またしてもよく知っている災難におびやかされ、すでに家畜を奪われ、納屋が燃やされ、妻や娘が襲われるのを目の当たりにした。
少し前に、島の要塞が十分に安全ではないと思い知ったため、人々は村から逃げ出し、ドンレミからわずか5マイル(約8キロ)のところにある市場町ヌフシャトーに避難することを決めた。
こうして彼らは7月中旬に出発した。
家と畑を捨て、家畜を先導し、小麦とライ麦の畑を通り抜け、ブドウの木に覆われた丘を登って町にたどりつき、そこで可能な限りの宿を求めた。[353]
ダルク家は、ラ・ルースと呼ばれるジャン・ワルデアの妻に迎えられた。
彼女は、兵士、修道士、商人、巡礼者らが宿泊する宿屋を経営していた。
彼女がいかがわしい女をかくまっているのではないかと疑う者もいた。[354]
実際に、宿の女性客の中には評判の悪い者もいたと考えられる理由もある。
しかし、ラ・ルース自身は評判が良く、裕福な身分で、同胞に貸せるほどお金持ちだった。[355]
ヌフシャトーの町は、ブルゴーニュ派のロレーヌ公爵の所有だったが、この宿屋の女主人はアルマニャック派(シャルル七世の味方)に傾倒していたと考えられている。しかし、フランス王国の苦難に関するラ・ルースの感情を探ろうとしても無駄である。[356]
ヌフシャトーでは、ドンレミ村と同様に、ジャンヌは父の飼っている家畜を野原に放牧し、羊の世話をしていた。[357]
手先が器用でたくましいジャンヌは、ラ・ルースの家の仕事も手伝っていた。[358]
この状況から、ジャンヌが酔客やいかがわしい女たちがたむろする宿屋で女中をしていたという、ブルゴーニュ人による悪意ある噂が広まった。[359]
だが、実際のところ、ジャンヌは家畜の世話や女主人の手伝いをしていないときは、ずっと教会に入り浸っていた。[360]
町には立派な修道院が2つあり、1つは灰色修道会(ベネディクト派)、もう1つは聖クレア姉妹教会で、ともに聖フランシスコ派修道会の僧と尼僧がいた。[361]
灰色修道会の修道院は、200年前にロレーヌ公マチュー二世によって建てられた。現職の公爵は最近、修道院の財源として大金を寄進した。そこには、貴婦人や大公、そしてとりわけドンレミ村とグルー村のブルレモン領主が、真鍮の棺の中で眠っていた。[362]
かつて、これらの托鉢修道士たちは、歴史の最盛期に、大勢の市民や農民ばかりか、多数の王侯貴族たちを第三会に迎え入れていた。[363]
⚠️第三会(third order crowds):在俗にありながらキリスト教的な完徳を実践するグループ。第一会が男子修道院、第二会が女子修道院。
しかし、今や彼らは、フランスの修道士たちの間で堕落し、腐敗していた。
争いや分裂が頻繁に起こった。
コレット・ド・コルビーが権威を回復させようと試みたが、昔ながらの戒律は守られていなかった。[364] 托鉢修道士たちは、鉛のメダイを配布し、お守りとなる短い祈りを教え、イエスの聖なる名に特別な献身を誓った。[365]
⚠️コレット・ド・コルビー(Colette de Corbie):シャルル七世やブルゴーニュ公とも面識があり、宗教的・政治的な対立を超えて支持された著名な修道女。
ヌフシャトーの町で過ごした2週間の間に[366]、ジャンヌは灰色修道会の教会によく出入りし、2〜3回は同修道会の仲間に告解(懺悔)した。[367]
ジャンヌは聖フランシスコ第三修道会に所属していたとされており、それはヌフシャトーに滞在中にさかのぼると推測されている。[368]
だが、この推論は非常に疑わしい。
いずれにせよ、修道会との関係はそれほど厳粛なものではなかったはずだ。わずか2週間という短期間で、修道士たちは一体どのようにしてジャンヌに聖フランシスコ会の教義を指導できたのか、理解に苦しむ。
ジャンヌはすでに、霊的な力と世俗的な力に関する教会の思想に染まりすぎており、神秘と啓示に満たされすぎていた。修道会の精神を染み込ませることは不可能だ。
その上、ヌフシャトー滞在中のジャンヌは不安に悩まされ、不在によって中断されていた。
3.5 婚約者に訴えられトゥールへ出頭
ヌフシャトーの町に滞在中、ジャンヌはドンレミ・グルー村の出身であるため、両村の管轄権を持つトゥールの役人の前に「出頭するように」と召喚状を受け取った。
ドンレミ村のある若い独身男性が、「ジャック・ダルクの娘と結婚の約束をした」と主張していた。ジャンヌは否定したが、彼は主張を曲げず、ジャンヌを役人の前に召喚した。[369]
このような民事訴訟は教会が管轄する宗教法廷に属し、結婚の無効や婚約の有効性について判決を下した。
この訴訟の奇妙なところは、ジャンヌの両親が娘に反対し、若者の味方をしたことだ。両親の意向に反して、ジャンヌは自分の主張を弁護するために役人の前に出廷した。後にジャンヌは、この件で両親に背いたことを認め、両親に逆らった唯一の出来事だったと述べている。[370]
ヌフシャトーからトゥールまで往復する旅は、武装した集団がうろつく道を20リーグ(約80キロ)以上も歩いて旅することになり、ドンレミ村の農民たちが最近パニックに陥って逃げてきた、火と剣(焼き討ちと略奪)で荒廃した地域を通り抜けることを意味する。
しかし、ジャンヌは両親の意に反して、そのような旅に出る決意をした。
おそらくジャンヌは、トゥールの裁判官の前に一度ではなく2〜3回出頭した。
そして、昼夜を問わず、いわゆる婚約者と一緒に旅をしなければならない可能性が高かった。なぜなら、彼もまた同じ時間に同じ道を通っていたからだ。
ジャンヌの声は、「何も恐れることはない」と言った。
裁判官の前でジャンヌは「真実を語る」と誓い、結婚の約束をしたことはないと否定した。
ジャンヌは何もやましいことはなかった。
彼女の行動は、特異で英雄的な無邪気さから生じたものだが、のちに悪意ある解釈が下された。
ヌフシャトーで、ジャンヌは旅の途中で財産をすべて使い果たしたと言われていた。
しかし、彼女の財産とは何か?
ああ、彼女は何も持たずに旅に出たのだ!
ジャンヌは家々を回ってパンを物乞いしたのかもしれない。
聖人は、神への愛ゆえに、みずから施しを与え、他人からも施しを受ける。
婚約者は、裁判中にジャンヌがいかがわしい女たちと一緒に暮らしているのを見て、正義(婚約の履行)を求めることを諦め、評判の悪い花嫁を捨てたという話があった。[371] こういう誹謗中傷は、簡単に信じられやすかった。
ヌフシャトーに2週間滞在した後、ジャック・ダルクとその家族はドンレミ村に戻った。
果樹園、家屋、修道院、村、畑——、彼らはどれほど荒廃した状態を見たのだろうか!
兵士たちはすべてを略奪し、荒らし回り、焼き尽くした。逃亡した農民らから身代金を徴収できなかったため、兵士たちは村の財産をすべて破壊した。かつては城塞のように立派だった修道院は、見張り番の塔とともに、今や黒焦げの廃墟の山になっていた。
今後、ドンレミ村の人々が聖なる日にミサを開くには、グルー村の教会へ行かなければならない。[372]
非常に危険な時代だったため、村人たちは要塞化された家や城に留まり、出歩かないように命じられた。[373]
一方その頃、イングランド軍はオルレアンの町を包囲していたが、町の領主はイングランドの捕虜となったオルレアン公シャルルであった。
イングランドのやり方は悪どかった。なぜなら、彼らはシャルル公爵の身柄を拘束しているのだから、彼の財産を尊重すべきだったからだ。[374]
だが、イングランドはフランスの中心地にあるオルレアンの町の周りに要塞化された塔を建て、そこに非常に強力な拠点を築いた。[375]
さて、聖カタリナと聖マルガリータは、百合の国フランスを愛していた。
聖女たちは王太子シャルルの誓約された友であり、優しい身内だった。
聖女たちは羊飼いの娘ジャンヌに王国の不幸について語り、繰り返し言い続けた。
「村を出てフランスへ行きなさい」[376]
ジャンヌは、フランスに到着する時期をみずから宣言しており、その期限が迫っていたため、いよいよ旅に出るのだと焦りを感じていた。
ヴォークルールの司令官に、「四旬節の半ばまでに王太子を助けにいく」と伝えていたからである。ジャンヌは、自分の「声」を嘘つきにしたくなかった。[377]
1月の中旬ごろ、ジャンヌが待ち望んでいたビュレに戻るチャンスが訪れた。
このころ、デュラン・ラッソワの妻ジャンヌ・ル・ヴズールが出産した。[378]
この地方では、母親の若い親族や友人が付き添い、母子を見守り世話をするのが習慣だった。善良で親切な習慣は、楽しい井戸端会議や陽気なおしゃべりの機会を与えてくれるので、すすんで行われていた。[379]
ジャンヌは叔父に、出産の手伝いをするために自分を送るように父に頼んでほしいと頼み、ラッソワは了承した。
彼は姪の頼みをいつも喜んで引き受けてくれた。おそらく彼の従順さは、ある程度、重要人物である敬虔な人々によって奨励されていたのだろう。[380]
しかし、ジャンヌの父親は、少し前に「娘を武装した男たちと一緒に行かせるくらいならムーズ川に投げ込む」とまで言っていたにもかかわらず、弱点(ジャンヌに甘い)をよく知る親族に守られながら、また町の門まで行かせることを許可したのはなぜだろうか。理解に苦しむが、彼はそうした。[381]
こうしてジャンヌは、二度と見ることのない幼少期の家を離れ、叔父デュラン・ラッソワとともに、冬の荒涼とした故郷の谷を下っていった。
昔なじみの友人だったグルー村の農夫ジェラール・ギユメットの家の前を通り過ぎたとき、ジャンヌは涙ながらに叫んだ。
「さようなら! 私はヴォークルールに行くわ」[382]
さらに、数歩先に友人のメンジェットを見かけて、「さようならメンジェット、神のご加護を」と告げた。[383]
道中、家の玄関先で知っている顔を見かけるたびに、ジャンヌは別れを告げた。[384]
しかし、子供の頃から一緒に遊んだり寝泊まりして、心から愛していたオヴィエットを避けた。もし彼女に別れを告げたら、ジャンヌは心が折れてしまうのではないかと恐れた。
オヴィエットがジャンヌの旅立ちを知ったのは、ずっと後のことだった。その時、彼女は激しく泣いた。[385]
3.6 ヴォークルール再訪:ジャンヌの予言「息子を3人産む」
再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ついに王太子が住んでいる町に足を踏み入れた、つまり王の控えの間に入るのだと想像した。[386] だが、それは間違いだ。
1428年8月の初め、ヴォークルールの司令官(ロベール・ド・ボードリクール)は敵将アントワーヌ・ド・ヴェルジーに城塞を明け渡す約束をしていたが、まだ完全に引き渡していなかった。
これは、一定期間が経過したら降伏(開城)する約束のひとつだった。
当時、このような期限付きの約束は珍しいことではなく、降伏期限までに救援が来た場合、約束は無効になる。[387]
ジャンヌは9カ月前と同じように、ヴォークルールの司令官の城へ行き、ロベール卿にこう告げた。
「神は再び私に知恵を授けました。真のフランス王である優しい王太子のところへ行くようにと何度も命じました。彼は私に兵士を与え、私はその兵でオルレアンの包囲を解き、彼をランスでの塗油式へ連れて行きます」[388]
今回は、オルレアンを救うことが自分の使命だと宣言した。
そして、この任務の第一段階が達成されるまで、塗油式は行われないと告げた。
聖人たちの「声」が、その場の状況に応じて、以前に発した命令をいかに臨機応変に、いかに巧妙に変更したかを、私たちは認識せざるを得ない。
ロベール卿のジャンヌに対する態度は完全に変わっていた。
もはや、耳を叩いて両親の元へ送り返せとは言わなかった。
ジャンヌを邪険に扱うことはなく、ジャンヌの話を信じてなかったとしても、少なくとも前向きに耳を傾けた。
ロベール卿との会話の中で、ジャンヌは奇妙なことを語った。
「わが主(メシエ)から与えられた命令を達成したら、私は結婚して息子を3人産みます。長男は教皇に、 次男は皇帝に、三男は国王になるでしょう」
ロベール卿は陽気に答えた。
「おまえの息子たちがそんなに偉大な人物になるなら、私にも一人もらいたい。そうすれば私自身も名誉にあずかれるだろうから」
ジャンヌはこう答えた。
「いいえ、優しいロベール卿、違います。まだその時ではありません。聖霊がふさわしい時を定めるでしょう」[389]
⚠️補足:ジャンヌの息子の予言を聞いて、ボードリクールは「俺にも一人作らせろ」とセクハラまがいの冗談を言い、ジャンヌは神秘的な言葉を用いて「自分が懐妊するのは早すぎる」とあしらっている。
現在まで伝わっているジャンヌのいくつかの言葉から判断すると、使命に促されて活動を始めた初期の頃、この若い女預言者(ジャンヌ)は2つの異なる言語(文意)を交互に話していたようだ。
ジャンヌの言葉遣いは、二つの異なる「源泉(ソース)」から流れ出ているように見える。
ひとつは、素朴で率直、無邪気で簡潔、田舎風に飾り気がなく、小気味良い毒舌にあふれ、時には荒々しく、騎士道的で神聖なもので、主に「王太子の王位継承と塗油式について」と「イングランドとの戦いについて」を語っていた。これはジャンヌの「声」の言葉であり、ジャンヌ自身の魂の言葉だった。
もうひとつは、より巧妙で、寓話や修辞(レトリック)に富み、学者っぽい優美さで批判的であり、主に「教会について」語っている。これは、聖職者の影響を示唆しており、外部からの影響を裏付けている。
ジャンヌがロベール卿に告げた話は、後者のタイプである。
これは寓話だ。三人の息子の誕生とは、ジャンヌの働きかけによってキリスト教世界に平和が生まれること、つまり、ジャンヌが神聖な使命を果たした後、教皇、皇帝、国王——神の三人の息子たち——がイエス・キリストの教会に愛と調和をもたらすことを意味している。
この寓話は、非常に単純明快であるが、意味を理解するにはある程度の知性が必要だ。
ロベール卿はそれが寓話だと理解できず、言葉通りに解釈して答えた。なぜなら彼は素朴で陽気な男だったからである。[390]
3.7 ヴォークルール再訪:下宿先での暮らしぶり
この町でジャンヌは、いとこのラッソワの友人であるアンリ・ルロワイエとその妻カトリーヌという貧しい人のもとに滞在した。
善良な未婚女性らしく、ジャンヌは糸紡ぎをして時間を費やし、ささやかな財産を貧しい人に与えた。また、カトリーヌと一緒に教区教会に通っていた。[391]
朝、特に敬虔な気分のときには、斜面に町の屋根がひしめいている丘を回り込み、サン・マリー=ド=ヴォークルール礼拝堂へ登っていった。
フィリップ六世の時代に建てられたこの参事会教会は、ヴォークルールの司令官が住む城に隣接していた。由緒ある石造りの身廊は、東に向かって堂々とそびえ立ち、そこから広大な丘と牧草地、そしてジャンヌが生まれ育った谷を見下ろしていた。
ジャンヌはミサに出席して、長い間祈りを捧げていた。[392]
礼拝堂の下にある地下室には、古くから深く崇拝されてきた「ノートルダム・ド・ラ・ヴォート(丸天井の聖母、Notre-Dame-de-la-Voûte)」と呼ばれる聖母マリア像があった。[393] この像は奇跡を起こし、特に貧しい人や困っている人のためにあらわれると信じられていた。
ジャンヌはこの暗く寂れた地下室にとどまることを好んだ。聖女たちが喜んでよく訪れたからだ。
ある日、まだ子供といえるほど若い聖職者が、礼拝堂で聖女たちが現れるのを待ちながら、ジャンヌが動かずに手を握り、頭を後ろに反らし、涙でいっぱいの目を天に向けている姿を目撃した。
その恍惚とした光景は、彼の心に生涯刻み込まれた。[394]
ジャンヌは頻繁に告解(懺悔)をおこない、主にヴォークルール教区の司祭ジャン・フルニエに告白していた。[395]
下宿先の女主人であるカトリーヌは、ジャンヌの善良で優しい生き方に心を打たれていたが、ある日、ジャンヌが言ったこの話に、深く心を揺さぶられた。
「フランスは一人の女によって破滅し、ロレーヌ辺境の乙女によって救われると予言されているのを知らないの?」
この女主人(ルロワイエの妻)は、デュラン・ラッソワと同様に、ヘロディアと同じくらい邪悪な心を持ったイザボー王妃(シャルル七世の母)が、百合の王国フランスとカトリーヌ王女(シャルル七世の姉)をイングランド王に譲り渡したことをよく知っていた。
それ以来、彼女は、ジャンヌが予言で告げられた乙女(ラ・ピュセル)だと信じるようになった。[396]
この敬虔な乙女は、信心深い人々や高貴な身分の男性たちと会話を交わし、誰に対してもこう言った。
「私は優しい王太子の所へ行かなければなりません。これは天の王であるわが主(メシエ)の意志です。私は天の王に遣わされたのです。たとえ地を這ってでも行かなければなりません」[397]
ジャンヌはこのような性質の啓示を、ウルシュ領主のオベール卿に伝えた。
彼は善良なフランス人で、アルマニャック派(シャルル七世の味方)に属していたので、4年前からイングランドとブルゴーニュ人を相手に戦っていた。
ジャンヌは彼に、「自分は王太子のもとに行かなければならない」と言い、「王太子のところへ連れて行ってほしい」と頼み、そして「そうすることで彼には比類のない利益と名誉が与えられるだろう」と告げた。
ついに、ジャンヌの啓示と予言によって、彼女の名声は町中に広まり、彼女の言葉は良いものであると認められるようになった。[398]
3.8 ジャン・ド・メスとの出会い
守備隊には、ジャン・ド・ヌイヨンポンという28歳くらいの腕利きの男がいて、通称ジャン・ド・メスと呼ばれていた。
貴族階級ではなく自由民だったが、公爵領外のヴァロワ地方にあるヌイヨンポンとオヴクールの領地を取得または相続し、その名を名乗っていた。[399]
以前は、ステネイの隊長で主席司祭でもあるジャン・ド・ヴァルスに雇われていたが、1428年当時はヴォークルールの司令官(ロベール卿)に仕えていた。
この男の道徳観や生活ぶりについては、3年前に口汚い誓いをまくし立てて2ソルの罰金を科せられたこと以外、何もわかっていない。[400] どうやら彼がこの誓いを立てたときは、ひどく怒っていたようだ。[401]
彼は、ベルトラン・ド・プーランジと多かれ少なかれ親しくしており、ジャンヌについて聞いていたのだろう。
ある日、ジャン・ド・メスはジャンヌに出会ってこう尋ねた。
「やあ、お嬢さん、ここで何をしているんだ? 王様は王国から追放され、俺たちはみんなイングランド人にならなければならないのかね?」[402]
若きロレーヌ人戦士のこの言葉は注目に値する。
トロワ条約は、フランスをイングランドに従属させたのではなく、二つの王国を統合する取り決めだった。
条約締結後も、以前と同様に戦いが続いたとしても、それは単に二人の王位請求者、シャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)とヘンリー・オブ・ランカスター(ヘンリー六世)の間で決着をつけるためにすぎない。どちらが勝利しても、フランスの法律や慣習は何も変わらないはずだ。
しかし、このドイツ辺境に住む哀れな略奪者は、イングランド王の支配下では自分がイングランド人になると考えていた。
彼だけでなく、あらゆる階級の多数のフランス人が同じ考えを持っており、イングランド化されることに耐えられなかった。彼らは心の中で、自分たちの運命は王国と王太子シャルルの運命にかかっていると考えていた。
ジャンヌはジャン・ド・メスにこう答えた。
「私がここに来たのは、ロベール卿と話をするためです。私を王太子のところに連れて行くか、誰かに連れて行くよう命じてもらうために。ですが、彼は、私にも私の言葉にも耳を貸してくれません」
ジャンヌの心に、四旬節の半ばまでに自分の使命を始めなければならないという確固たる考えが湧き上がり、
「それでも、四旬節の半ばまでに、私は王太子の前にいなければなりません。たとえ足を膝まですり減らしてでも」[403]
その頃、ある知らせが、町や村を駆けめぐった。
フランス王シャルル七世の息子である王太子ルイは5歳になったばかりだが、スコットランド王の娘で3歳のマーガレット王女と最近婚約したという。庶民は、荒れ果てた国で可能な限りの歓喜をもって、王室の慶事を祝った。[404]
ジャンヌはこの知らせを聞くと、兵士に訴えた。
「私は王太子のところへ行かなければなりません。なぜなら、世界中の誰も、王様も公爵も、スコットランド王の娘でも、フランス王国を回復させることはできないのだから」
それからすぐに、ジャンヌはこう付け加えた。
「助けられるのは私だけです。本心をいうと、私はこの生活が好きじゃないから、哀れな母のそばで糸を紡いでいる方がずっといい。でも、私は行かなくてはならない。だからそうする。なぜなら、わが主(メシエ)が行くようにと命じているから」
ジャンヌは思っていることを言った。
しかし、ジャンヌは自分自身のことを知らなかった。
自分の「声」が自分自身の心の叫びであることを知らず、糸巻き棒を捨てて剣を手に取りたいと切望していることを知らなかった。
ジャン・ド・メスは、ロベール卿と同じく「メシエとは誰なのか?」と尋ねた。ジャンヌは「神です」と答えた。
するとすぐに、まるでジャンヌを信じているかのように、ジャン・ド・メスは突然の衝動に駆られて「約束するよ。神の助けがあれば、俺はあなたを王のところに連れて行く」と告げた。
約束を誓った印としてジャンヌに手を差し出し、「いつ出発するのか?」と尋ねた。
ジャンヌは「今すぐにでも。明日よりも今日がいいし、明後日よりも明日がいい」と答えた。
27年後、ジャン・ド・メス自身がこのときの会話を証言している。[405]
証言を信じるなら、彼は話の最後、ジャンヌに「女の格好で旅をするつもりか」と尋ねた。好色な男たちがうろつくフランスまでの旅路を、赤いコートを着た農民の娘をつれて旅することがどんなに大変か、そして少年に変装した方が賢明だと彼が考えたことは容易に想像できる。
ジャンヌはすぐに彼の考えを察して、「私は喜んで男の格好をします」と答えた。[406]
こういうやり取りが起こらなかった理由はない。
もしこれが事実なら、のちにジャンヌが「神から授かった」と証言した服装に関するアイデアを、ロレーヌの略奪者(ジャン・ド・メス)が聖人(ジャンヌ)のために提案したことになる。[407]
3.9 悪魔祓いの試練を受ける
ロベール卿はみずからの意志で、あるいは賢明な人物から助言を受けて、ジャンヌが悪霊に操られているかどうかを確かめようとした。
なぜなら、悪魔はずる賢いので、無邪気に装うことがあるからだ。
ロベール卿はこういう事柄について知識がなかったため、司祭に相談した。
ある日、下宿の女主人カトリーヌとジャンヌが家で糸を紡いでいると、司令官(ロベール卿)が司祭のジャン・フルニエ師を連れてやって来るのを見た。
二人は女主人に席を外すよう頼み、ジャンヌだけが残ると、ジャン・フルニエ師は聖帯を身につけて、ラテン語の言葉を唱えた。それは次のような意味だ。
「もし汝が悪ならば立ち去れ。もし汝が善ならば近寄れ」[408]
これは悪魔祓い、より正確には降霊術のありふれた形式だった。
ジャン・フルニエ師の考えでは、この言葉を唱えながら聖水を数滴振りかければ、もし不幸にもこの村娘の体内に悪魔が宿っていたとしても追い払うことができるはずだった。
ジャン・フルニエ師は、悪魔は人間の体、特に乙女の体に入り込みたいという抑えきれない欲望に取り憑かれていると確信していた。
乙女たちは時々、パンと一緒に悪魔を飲みこんでしまう。
悪魔は口の中、舌の下、鼻の穴に住み着き、あるいは喉から胃の中へ侵入する。
体内のさまざまな場所に取り憑いて激しく暴れるため、哀れな犠牲者たちが身をよじらせたり叫んだりする奇行によって、悪魔の存在を識別する。
ローマ教皇グレゴリウス一世は、その『対話篇』の中で、悪魔がいかに簡単に女性の中に忍び込むかについて、印象的な事例を挙げている。
ある修道女が庭で、柔らかそうなレタス(古代では催淫作用があるとされた)を見つけたときのことだ。彼女はそれを摘み、十字を切って祝福するのを忘れてすぐに食べたところ、たちまち悪魔に取り憑かれた。
聖職者が彼女に近づくと、悪魔は叫び始めた。
「それは俺だ! それは俺がやったんだ! 俺はあのレタスの上に座っていた。この女が来て俺を飲み込んだ」
しかし、聖職者の祈りによって悪魔は追い払われた。[409]
したがって、ジャン・フルニエ師がやったことは決して大袈裟ではない。
「悪魔は狡猾で、女性は堕落しやすい」という考えにとらわれていたため、彼は慎重に、定められた規則に従って難題の解決に取り組んだ。
悪魔に取り憑かれた人を見抜き、悪魔憑きと善良なキリスト教徒を区別することは、一般的に簡単なことではなかった。
非常に偉大な聖人たちも、ジャンヌが受けることになった試練(悪魔祓いを試される)を免れなかった。
ジャン・フルニエ師は、悪魔祓いの定型句を唱えて聖水を振りかけた後、もしジャンヌが悪魔に取り憑かれているなら、もがき苦しみ、身をよじり、逃げ出そうとするだろうと予想していた。
そうなった場合、彼はより強力な定型句を用いて、より多くの聖水を振りかけ、より多くの十字を切る必要がある。このような儀式によって、犠牲者の体から悪魔を追い払い、恐ろしい騒音と有害な悪臭を放ちながら、ドラゴン、ラクダ、または魚の姿を現した悪魔が消えるまで見届けなければならなかった。[410]
⚠️補足:中世の迷信で、悪魔が異形の動物として現れる際、ドラゴンやラクダや魚に変身するとされていた。
ジャンヌの態度に疑わしい兆候は何もなかった。
激しい動揺も狂乱もなかった。
ただ不安そうに懇願するような気持ちで、膝をつき、司祭の方へ身をよじった。
ジャンヌは神の聖なる名を前にして逃げ出さなかった。
ジャン・フルニエ師は、ジャンヌの中に悪魔はいないと結論づけた。
宿の女主人カトリーヌと二人きりになると、ようやくジャンヌは、儀式の意味を理解し、ジャン・フルニエ師に強い憤りを示した。自分が疑われたことを非難し、「彼は間違っている」と女主人に言った。
「あの人は、私の告解を聞いていたのだから、私のことを知っていたはずなのに」[411]
ヴォークルールの司祭が、悪魔祓いの試練を試したおかげで、ジャンヌの使命を果たす一助になったことを知っていたら、ジャンヌは司祭に感謝しただろう。
ロベール卿は、ジャンヌが悪魔に触発されたのではないと確信し、ならば神の霊感に触発された可能性があると結論づけた。どうやら彼は単純な推論をする人だったようだ。彼は、王太子シャルルにこの若い聖女について手紙を書き、ジャンヌの中に見られる無邪気さと善良さを証言したのは間違いない。[412]
3.10 シャルル七世からの返信
隊長(ロベール・ド・ボードリクール)はヴェルジー卿に指揮権を譲らざるを得ないように見えたが、ロベール卿はあらゆる勢力と関わりのある故郷を離れるつもりはなかった。
実際、彼は王太子シャルルのことなどほとんど気にかけておらず、預言者(ジャンヌ)を推薦することに個人的な利害があったとは考えにくい。
彼が何を考えていたかはわからないが、ジャンヌを好意的に評価していた人たち、おそらくベルトラン・ド・プーランジーやジャン・ド・メスから頼まれて、ジャンヌのために王太子に手紙を書いたと推測できる。
この二人の兵士は、ロレーヌ辺境で王太子の大義が失われた(敗色が濃厚)のを悟り、まだ有利な戦いが望めそうなロワール川流域をめざす理由が十分にあった。
出発の前夜、二人は「預言者を連れて行く」ことに乗り気で、ジャンヌの旅費をすべて負担しようと考えていた。シノンに着いたら王室の金庫から費用を立て替えてもらい、このような稀有な奇跡から名誉と利益を得られると見込んでいたからだ。それで、彼らは王太子の同意を得られるまで、(出発を)待っていた。[413]
しかし、ジャンヌは落ち着いて待っていられなかった。
ヴォークルールからビュレへ、ビュレからヴォークルールへと何度も行き来した。
ジャンヌは日々を指折り数えていた。まるで妊婦のように時間がゆっくりと流れていった。[414]
1月末、ジャンヌはもうこれ以上待てないと感じ、一人で王太子シャルルのもとへ行くと決意した。
叔父デュラン・ラッソワの衣服を身につけると、この親切ないとこと共にフランスへの旅路を歩みだした。[415] ヴォークルール出身のジャック・アランという男が同行した。[416]
おそらくこの2人の男は、ジャンヌ自身がこのような旅は不可能だと悟り、それほど遠くまで行かないと予想していた。実際にその通りになった。
ヴォークルールからわずか1リーグ(約4キロ)ほど旅をして、ソルシーの広大な森の中、セプトフォンの谷にそびえる聖ニコラ礼拝堂の近くまで来ると、ジャンヌは気が変わり、仲間たちに「この出発はふさわしくない」と言った。そして、3人は町に戻った。[417]
ついに、王室からの使者が、ヴォークルールの司令官のもとにシャルル王の返事を届けにきた。
使者の名は、コレ・ド・ヴィエンヌといった。[418]
その名前は、王太子(シャルル七世)が亡き父王が死去する前から統治していた地域の出身であり、不幸な王子に揺るぎない忠誠を誓っていることを示している。
返事は、ロベール卿が若い聖人をシノンに送るべきだという内容だった。[419]
ジャンヌが要求していたこと、不可能と思われていたことが認められた。
ジャンヌは望みどおりに、みずからが定めた期限内に王のもとへ連れて行かれることになった。
しかし、ジャンヌが待ち焦がれていたこの出発は、ある注目すべき出来事によって数日遅れた。
この出来事は、この若い女預言者の名声がロレーヌ地方に広まっていたことを示し、また、当時の有力者たちは困りごとがあると聖人に頼っていた事実を証明している。
ジャンヌは、ロレーヌ公爵からナンシーに呼び出された。
公爵から送られた安全通行証を携えて、ジャンヌは田舎者らしい短いコートと長靴下を身につけると、デュラン・ラッソワとジャック・アランから贈られた駄馬に乗って出発した。
このしたくに12フランの費用がかかったが、後にロベール卿が王室の収入から立て替えて彼らに返済した。[420]
ヴォークルールからナンシーまでの距離は24リーグ(約96キロ)ある。
ジャン・ド・メスはトゥールまで同行し、デュラン・ラッソワは全行程をジャンヌに付き添った。[421]
ロレーヌ公の宮殿に行く前に、ジャンヌはムルト川の谷を登り、聖ニコラの聖堂に礼拝に行った。聖ニコラの聖遺物は、サン・ニコラ・デュ・ポールのベネディクト会修道院の礼拝堂に保存されていた。
ジャンヌは良いことをした、なぜなら聖ニコラは旅人の守護聖人だったからだ。[422]
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